哲学もどき


そうはいっても大した話はありません。ちょっと真面目な独り言、といった感じでしょうか。
私は良く「変わってる」と言われるので、もしかしたらここに書く内容も他の人からみれば?なのかもしれません。……ちょっと不安。でも、世の中には色々な考え方をする人がいる、ということで、許してやってください。



その1:「死刑制度」について
しょっぱなからえらいテーマですが、『デッドマン・ウォーキング』という映画を見て考えてみました。
もともと学生時代は法学部だったので、このテーマで友達と議論したこともありました。
大半の人は「死刑」に反対でしょう。でも私は「『死刑制度廃止』に反対というややこしい考え方です。
廃止を唱える人の主な理由は二つあると思います。一つは冤罪、もう一つは人道的理由とやらです。
まず冤罪ですが、もちろんこれはあってはならないことだとです。ただ、死刑とは関係ないと思うのです。「無罪の人を死刑にしたら取り返しがつかない」と言いますが、無期懲役だろうが執行猶予が付こうが、無罪の人を有罪にしたら、結局その人の人生は取り返しがつかないのです。死刑だけが取り返しのつかない刑ではありません。第一、無罪の人が死刑になる可能性がある、ということ自体、間違っているのです。「冤罪だったらやばいから死刑はやめようよー。」って姿勢はやめてくれ〜!ちゃんと捜査して、審議を尽くして、偏見やら既成概念にはとらわれないでほしい。無罪の人は、どんな軽い罪であっても有罪になってはならないと思うのです。
そして人道的理由。これはね、分かるんですよ。いくら国家が法律に基づいて執行するとはいっても、やはり「人を殺す」という行為には賛成できないのが普通の人だと思います。だから私も、普通の人が「死刑制度廃止!」って叫ぶのは仕方ないかな、と思います。ただ、死刑囚が「人権」を盾にして、死刑反対!と唱えるのはだめだと思うのです。(無罪を主張して再審請求をしている人はもちろん除きます。ここで言うのは、罪を犯しているのに死刑に反対している人のことです。)人の命を否定しておいて、自分の命は否定しないでくれ!というのは虫が良すぎます。『目には目を、歯には歯を』という言葉がありますが、人を殺すのなら自分も殺される覚悟でいてくれ!と思うのです。ただし、殺人にも色々あります。我慢に我慢を重ねて、それでも相手が憎くて思い余って殺した場合、殺された側も殺した側の『人権』を踏みにじっていたのだから情状酌量の余地はあると思います。でも身勝手な理由で縁もゆかりもない人間を殺した人には『死刑反対』と叫ぶ資格はないと思うのです。人道は人道を守っている人のためのものではないでしょうか。
ところで、死刑擁護派には、『犯罪抑止論』とか『被害者及び家族の心情』というのもあるでしょうね。映画でも、被害者の両親が切々と語るシーンがありました。
『犯罪抑止論』については半信半疑といったところです。犯罪を犯す人間が捕まることを想定して犯罪を犯すとは思えないので。でもアメリカでは、最高刑を無期懲役にしたところ、何をしてもこれ以上悪くなることはないからと、囚人が看守を殺して脱獄するケースがあるそうです。一概に全員がそうだとは言いきれないので難しいですね。
被害者及び家族の心情。これは私なんかが語るものではないでしょう。どんなに死刑制度に反対している人でも、被害者の家族に対して「死刑は人道的に良くないから廃止にしよう。」とは言えないと思うのですが、どうでしょう。映画の中でも、死刑囚と交流を続ける尼僧は、被害者の両親の心情を知り、迷います。
それから、どんなにひどい犯罪を犯した人間でも社会復帰のチャンスを与えるべきでは?という考え方もあります。これも人それぞれなので一概には言えないと思うんですけどね^^; でも皮肉なことに、本気で罪を悔いた人なら粛々として刑を受けるのではないでしょうか。そういう人なら無事社会復帰できるかもしれないんですよね。逆に死刑に不服を申し立てる死刑囚って、本気で自分のやったことを悔いてないんじゃないか、と思うのです。だから、『死刑制度廃止に反対』となるのです。
最後に、学生時代の友達のちょっと変わった意見を一つ。彼女は「死刑に反対」と言いました。「死んだら楽になるでしょ?それより出所してきて世間の冷たい風に一生晒された方がよっぽど罰になる。」からだそうです。これも皮肉ですね。本当に反省してる人ならどんな偏見を受けても我慢して細々と生きていくから「罰」になるかもしれないけど、大抵の人は追い詰められてまた犯罪を繰り返しそう。本気で反省していない人には「罰」にならないのです。
映画では、最初は「俺は運が悪かった。」「あんな所にいたアベックが悪い」「死ぬのは嫌だ」と言っていた死刑囚でしたが、最後は被害者の父親に「僕が死ぬことで少しでもあなたの気が晴れますように。」と言い残しました。本当は量刑が問題じゃないんですよね。死刑だろうが無期懲役だろうが罰金だろうが書類送検だろうが「罰」ではなくて「自分は何をしたのか」が大事なはず。ただ、「罰」という脅威がないと分からないんですね。脅威があっても分からない人もいるし。ちなみに私は死刑を、「人が法律の名のもとに人の命を奪う行為」だとは思いません。「人が人を殺すことによって自分の命まで否定した結末」だと思っています。



その2:「善良な人々」について
今回は私の体験談から、ちょっと非常識(?)なお話をしてみます。
私の両親は離婚していて、私と弟は父親に引き取られました。といってもまだ3歳位の頃の話なので、母親のことはよく覚えていないし、家事は祖母がやってくれていたので特に不自由を感じることもなく暮らしていました。
でも、近所のおばちゃんたちが私を見ると言うんですよ。
「お母さんがいなくてかわいそうねぇ。」
「お母さんに会いたいでしょう?」
アホな私は母親のこともよく知らないので特に会いたくないと答えました。すると、おばちゃん達はさも悲しげに
「いいのよ、そんな無理しなくて」
な〜んてことを言うのです。
・・・無理してないんですけど・・・なんて言っても聞いちゃあいない。あんまりしつこいから仕方なく頷くと、
「やっぱりねぇ。そうよねぇ。お母さんに会いたいわよねぇ。かわいそうに。」
と、とても満足そうに溜息を吐くのです。
少し成長して小学校に入ったりするとさらに状況は進行します。スーパーでおばちゃん達に会うと、
「あら、お買い物?お母さんがいないのにお手伝いして偉いわねぇ。」
学校の帰りに会うと、
「お母さんがいないのに真面目に学校行ってて偉いわねぇ。」
・・・母親おらんかったらスーパー行ったらあかんのかい!?学校行ったらあかんのかい!?まるで何か悪いことをしたかのように言わんでもええのに・・・
そうは思っても口には出せず、とりあえず私はおばちゃん達をさけるようになりました。
するとおばちゃん達は、
「あの子ったら道で会ってもろくに挨拶もしないのよ。やっぱり母親がいないからねぇ・・・。」
と、とても満足してくれました。

お前らのせいなんじゃあ〜

それはおいといて、最近未成年の犯罪が多いですが、新聞やらTVやらのコメントに「普通の家庭の子なのに何故?」っちゅーのが多いのはどうしてなんでしょう?
普通じゃない家庭って何?普通じゃない家庭の子なら犯罪犯しても当たり前なんかいっ!
私にとって、「母親がいない」ことより、周囲の「母親がいない子はかわいそう」とか「問題を起こすんじゃないか」という、一見優しく見守ってるように見える無言の圧力の方がよっぽど辛かったのです。
だから、母親や父親や両親がいなくてぐれちゃう子供の中にも、こういう圧力に流されちゃってる人は結構いるんじゃないかなーと思ったりします。
善良な人達っていうのは自分が『善良』でありたいために、自分の中の常識(そしてそれは社会の常識とも結構重なってる^^;)になにもかも当てはめて「普通はこうなんだから…。」って感じで人を追い詰めてるんじゃないのでしょうか。
何よりも始末が悪いのは、追い詰められてる側にも追い詰めてる側にも自覚がないことです。特に追い詰めてる側は「親のいない可哀相な子供を心配する善良な自分」を守りたいがために、もっともいや〜な方法で人を傷つけていて、一生それには気付かないんじゃなかろうか、と思います。
私のことはおいといても、よく結婚して子供のいない夫婦に「お子さんはまだ」っていうのも同じものじゃないでしょうか。欲しくてもできないのか、考えがあって作っていないのかは分からないけど、そんなこと放っておいてやれよ…と思うのです。現に何年か前に子供の出来ない夫婦が追い詰められて産婦人科から赤ちゃんを誘拐する事件がありましたね。
あの事件以降も「そろそろ赤ちゃんを…。」なんて声を聞くと、「お前ら懲りひん奴らやなー。^^;」と呆れてしまうのです。
最近では少なくなったかもしれませんが障害をもって生まれてきた人への同情も同じじゃないでしょうか。かなり前になりますが、とある小学校の運動会で「障害物競走」の「障害」という名称が障害者への差別になるから変更したという記事を読みました。
・・・んなアホな・・・
余計なお世話じゃなかろうかと思うんですけどね^^;
「親がいないからかわいそう」「子供が居なくてさびしくてかわいそう」「障害があるからかわいそう」etc.
ではなくて、「可哀相と思われることがかわいそう」なんじゃないかなーと思うんですが・・・。
散々なことを書きましたが、別に人間不信とか世間に喧嘩腰で生きてるわけじゃないですよ。犯罪を犯したのは世間が追いこんだからだっていうほど極端にも考えてないです。ただ、自分の中の常識や社会での常識とは違うものを見つけたときに、それをそのまま受け止められるのが本当の優しさじゃないかと思うんです。ただし、そのままに受け止めてると「無関心なのか」「冷淡だ」なんて批判されることもあるでしょうけど。目に見えやすい優しさや同情ほど簡単で残酷なんじゃないかなーと思うのです。
そうはいっても絶対に誰も傷つけないでいることは不可能なわけです。ただし、自分が人を傷つけたことを知らないだけならまだしも、自分は良いことをしてるのだと信じて疑わない『善良な人々』
そういう人に、私はなりたくないなぁ・・・。



その3:「楽」について
学生の頃、運転免許を取ろうと思い大学近くの教習所へ通うことにしました。それをある友達に話すと、こう言われました。
「やめとき、あそこは厳しいって評判よ。M教習所の方が簡単なんだって。目をつぶってても卒業できる(おおげさ^^;)くらい甘いらしいから、そっちにしたら?」
別に彼女はM教習所の回し者でもなんでもなくて、学生達の間でM教習所は楽に免許が取れると評判でした。だから遠い場所にあるにもかかわらず学生達の間では一番人気のある教習所でした。
誰だって、出来るだけ早く簡単に免許を取りたいです。補習になれば時間もお金もかかるから避けられるものなら避けたいです。
でも、もしもいい加減な指導でいい加減な運転のまま免許を取って事故を起こしたら?そう思うと恐くてM教習所へは行けませんでした。補習1回約5000円と1時間。もしそれで事故を起こす可能性が少しでも減ってくれるなら却って安い買い物なのかもしれない、とも思ったのです。
運転免許に限らず、色々な場面で似たようなことが起きてると思います。
たとえば就職。できるだけ高収入で楽な仕事が良い。
たとえば資格。よく広告でみかけますね。「わずか3ヶ月で○○の資格取得!」
勉強だって「もっと簡単に単語を覚えられないだろうか?」「試験にもっと簡単な問題がでてくれればいいのに」なんて思ったことはないですか?
そういった具体的な行動に限らず、やっぱり毎日が楽であればいいなぁと大部分の人が思うのではないでしょうか。
でも、それは本当に「楽」な道なのでしょうか?
教習所を例に取りますと、一見M教習所は楽に思えます。あまり補習もつかずそんなに注意も受けずに免許を取って、いざ一人で運転した時、ちゃんと他の車の流れについていけるでしょうか?
※ここでは歩行者や他の車など「他者」にとっての「迷惑」は、テーマから外れてしまうので考えないことにします。
もし事故を起こした時の修理代や相手への補償、あるいは自分自身が怪我をする可能性だって、甘い指導であればあるほど高いといえるでしょう。もちろん、どんなに厳しい指導を受けていても事故る時は事故るけれど・・・。
仕事も同じですね。高収入で楽!なんて都合のいい仕事はないし、「手軽に資格が!」とはいいながら、結局一生懸命勉強しなければ取れないでしょう。途中でやめてしまって結局お金のむだ、なんてことは多々あると思います。
つまりこれらは表面だけ「楽」に見える、にせものの「楽」と言えるのではないでしょうか。
小学生の頃、夏休みの宿題を全然していなくて、8月末になってから慌ててやった思い出ってないですか?
毎日毎日楽しい日々で、遊びまわって(現代だとみんな塾かも・・・)一見楽なはずなのに、最後に今まで避けていた「宿題」が押し寄せてきます。
反対に「せっかくの夏休みなんだから勉強なんて嫌なのにー」と思いながらでも毎日少しずつ宿題を済ませていれば、終わりの方で焦ることもなく、「楽」に過ごせます。一見面倒に思えたことが、最終的には「楽」に繋がっているのです。
例ばかり挙げていますが、冬の朝、起きるの大変ですね。毎朝毎朝いやだな〜と思いながらだらだら起きてると、いつまで経っても嫌なままです。でも「頑張って起きよう!」と発起してやってみてください。最初の何日かは本当に辛いですが、そのうちなんとも思わず起きられるようになります。その後はずっと楽です。
こんな風に、日常の細かいことの一つ一つに、「にせものの楽」と「楽」で溢れています。「しんどいから明日にしよう」「面倒だから後にしよう」と思っている行動は、今すぐやった方がお得なのです。

ところで「苦労は買ってでもした方がいい」という言葉があります。面倒なことが本当の楽なら、苦労だってしてた方が良いのでしょうか?
冗談じゃない、苦労なんて放っといてもやってくるのになんでわざわざ買ってまで!お前はマゾかー!!・・・と私は思います。
あちらからやってくる分には仕方ないです。前向きに対処するほかありません。苦労なんて皆無だっていいくらいなんだから。
苦労と努力は、どちらもしんどい思いをする点では同じですが、根本的な部分で違っていると私は思います。努力は本物の「楽」へ繋がる道。苦労はあんまりしすぎるとちょっぴりひねくれた人間になるかもしれない危険な道。
というわけで「楽」になるためには二つのことを踏まえなければならないのです。
1.苦労と努力を履き違えて、努力までしないように努めてはいけない
2.一見楽に見せる「にせものの楽」に惑わされて、努力が必要なので一見しんどそうな「本物の楽」を捨ててはいけない。
この二つを踏まえて楽しく暮らして行きましょう!
・・・と言ってる本人が一番できてないんですけどね・・・。
第一出来てたらこんなこと書かないって・・・



その4:「国際化」について

哲学ちゃうやんっ!政治やんっ!という突っ込みはおいといて・・・
いいんだよ〜だって所詮、もどきだもん。

英語を第二公用語にしよう、という動きがあるようですね。
なんでそれを私が子供の頃にやってくれなかったんだろう・・・。そしたら楽ができたのに・・・
でも、果たして英語を話せる=国際的なのか?といえば、疑問を感じるのは私だけではないと思います。
本当に英語が第二公用語になったとして、日本はどう変わるでしょう?
まず、町の看板その他表示は英語を併記するようです。
公文書も英語版を作るようです。で、道行く日本人は日本語も英語も話せる、と・・・。
当然世界の様々な会議に出席する日本の代表も英語はぺらぺら。TVで中継を見ながら「なんで日本人だけ英語がたどたどしいねん〜っ!」と恥ずかしい思いもしなくて済みます。
確かに町で外国人に英語で話し掛けられても物怖じせずに堂々と答えられるかもしれません。でも、英語が話せない外国人はどうすればいいんでしょう?
外国へ出かけても物怖じせずお友達が作れるかもしれません。でも、英語圏へ行くとは限りません。ついでに言えば、英語圏だからって通じるとは限りません。なまりがひどければ同じく英語を母国語とする人にだって通じないですから。
でも、もっと根本的なことを言えば、100年かかっても誰もが完璧に2カ国語を話せるまでにはならないと思います。それならドラえもんじゃあないですが、一瞬にして通訳してくれる翻訳機が誕生する方が早いかもしれません。
では、もし完璧な翻訳機ができて、日本語で会話するのと同じくらい自然に外国語を使えるようになれれば、国際化といえるでしょうか?少なくとも言葉の壁が取り払われますが、それがイコール国際化なのでしょうか?
それは違うと思います。何を言っているかは分かっても、なぜそう言ったかは分かりません。結局相手の国の文化や政治的背景や習慣を理解しなければ、上辺の言葉は分かってもそこで終わりです。
だからといって、言葉を覚えるのが無益だとは思いません。どうしても意志疎通がしたければ、やっぱり言葉は大切です。でも、言葉を覚えた上で、さらに理解し合おうと努力を重ねなければならないはずなのに、言葉=国際化。しかもその言葉が英語に限定されている、というのは逆に国際化を抑制するような気がするのです。

では、国際化とは何か?

ここでちょっと、中国の小話をしてみましょう。
ある国に、とても聡明な王様がいました。彼のおかげで国民はとても幸せに過ごしていました。王様は国民が本当に自分に不満を抱いていないのか確かめたくて、お忍びで村を旅して回りました。
「あなたは幸せですか」
王様は出会った村の人に尋ねます。村人の答えはみんな同じでした。
「ええ、もちろん!」
そこで王様はさらに尋ねます。
「誰のお蔭で、あなたは幸せに過ごせるのですか?」
やっぱりみんな異口同音に答えます。
「誰のおかげ?誰のおかげでもありません。真面目に働いてさえいれば、誰だって幸せになれるのです」
王様はその答えにとても満足しました。なぜなら、王様万歳!って叫ばなきゃ幸せになれない国より、当たり前の事さえしてれば幸せになれると信じる国の方が健全だからです。

てことは、国際化!国際化!って言ってるうちは国際的じゃないってことです。
外国人がいるから英語で話しかけなきゃ!とか、外国人と交流したいから英語を勉強しなきゃ!なんて思って、たとえば道で外国人に英語で道を聞かれたとして、うまく答えられた時に「交流できた!私って国際人!」なんて悦に入ってる人は恐らく国際的じゃないでしょう。第一道を教えるのは交流じゃないし・・・。

イギリスへ旅行したとき、ユースホステルへ泊まりました。当然大部屋で、色んな国の人が集まっていました。
英語圏の人はいません。しかも、英語圏に旅行に来たと言うのに、みんな満足に英語を話せません。
でも、その方が話がとてもよく通じるのです。自分は英語が下手だから、少しでもうまく伝わるようにと丁寧に話す話し手。対する聞き手も英語に自信がないから、少しでも相手の言うことを理解しようと一生懸命聞きます。
お互いがそうやって相手ときちんと意志疎通をしたい!と願っているから、たとえ言葉が充分に通じなくても、気合でなんとかなります。
話を公用語に戻しましょう。
言葉が分かって当たり前、という風潮があると、逆にそれ以外のものが違っていることを見落としそうな気がするのです。

だったらそれ以外のものを同じにすれば良いのでしょうか?
よく、「欧米では○○なんだから、日本でも・・・」という言葉を聞きます。
でもそれは、「隣の家はこうなんだから、うちもこうしてよ」と母親に訴えて、「よそはよそ!うちはうち!」とたしなめられる子供に似ているような気がします。
国境を超えて人も物も情報も飛び交っているから、何かを「同じ」にすることは必要であっても、それは国際化ではなく便宜上統一しているだけです。
他の国には他の国の歴史的背景があってそういう制度になっている。同じように、日本には日本の背景があって、違った制度になっている。それが間違ってるんじゃないか?と感じたらより良い方法を探せばいいけれど、よそと違うから間違ってるのかも?っていうのは根拠がないです。
そういえば小学生の頃、隣の人と答え合わせをして、「あ、違ってる!もしかして私、間違ってるのかな?」って思ったことがあります。本当に私が間違っていることもあったし、相手が間違っていることもありました。
とりあえず違ってるから間違えてる、ってことはないです。自分以外の全員が勘違いしてる可能性だってあるのだし。

結局、「国際化」って、まず自分の考えを誰にも流されずに持てるところから始まるのだと思います。個人単位でもそうだし、国単位でも。
その上で、自分(人、国)に考え方や歴史や文化があるように、相手の人(人、国)にだって違うものがあるんだ、と理解できることが必要なのだと思います。
でも、それを受け入れる必要はないとも思います。
別に賛成できなくたって、「ああ、違うんだな」というところで止まって、「違うからこの人は間違ってる/私は間違ってるかもしれない」という発想へは行かないこと。
ついでに「違うんだな」って発想が「国が違うから」ではなく「人は違ってるものだから」と何の抵抗もなく思える事が出来れば今日からあなたもコスモポリタン!

・・・そんな人おれへんて・・・
長々と書いてきて、結局言いたかったのは、何かを同じにすること(たとえば英語を第二公用語にして言語を同じにすること)が国際化なのではなく、まずは違っているからって焦って同じにしないところから始めましょうよ!ってことです。
英語も、喋れないよりは喋れた方がいいでしょうけど^^;


その5:「国旗・国歌」について
ああっ!タブーに挑戦かっ!?って感じなんですけどね。
でも、正直言うと、私は日の丸も君が代もどっちでもいい人間です。式で歌えといわれれば何の抵抗もなく歌えるし、逆に歌わないなら歌わないでOKだし。
積極的に賛成するでもなく、積極的に反対するでもなく、どっちでもいい・・・一番あかんやんっ!
そんな一番あかん人ではありますが、一応気になることもあるのです。だからちょこっとそれを語ってみたいな、と思います。


まず、私は個人的に「多元的」とか「多様性」という言葉が好きです。その観点から思うことがあります。

小学校の頃から、この二つになにかいわくがあることは知っていましたが、私は「たかが1分程度の歌と、どの国にもある国旗で、何をそんなに争う必要があるんだろう?」と思っていました。
そんな私に衝撃を与えたのは中学の頃に見た1枚の写真です。
女子高生が破れた日の丸を握り締めて泣いていました。説明には「卒業式の途中、突然壇上に上り、日の丸を引き裂いて泣き出した」と書いてありました。
そこまでしなきゃいけないくらいにこの旗が嫌だったんだ・・・と、かなりショックでした。
世の中には日の丸と君が代を見れば厳粛な気持ちになれてとてもいい!という人がいます。
私のように、どちいでもいいや、と思っている人もいます。
そして彼女のように、大勢の人間の目の前でそこまでしなければいけないくらい、日の丸や君が代を嫌いな人もいます。
その3者の間には、さらに様々なレベルで好きだ、嫌いだ、という人がいます。
私はそれでいいと思うのです。それが社会の自然な姿だと思うからです。
たくさんの人間が生きていれば、たくさんの考え方があります。それじゃあ混乱するからと無理矢理人の気持ちをある一つの考え方に持っていこうとすること、それは「洗脳」ではないでしょうか。
「だからって好き勝手を許したら秩序が保てない」「国民意識が育たない」なんて声が聞こえてきそうですが、考え方の違いが存在すること=秩序の混乱ではないと思います。どちらかというと、違いを無視して無理矢理一元化しようとすることから秩序は混乱するのではないでしょうか。
「嫌な人もいるんだな、でも、私は好きだから歌う」「私はこの歌大嫌い。でも、この人は好きみたいだから歌うのはしょうがないか。」
どちらの側もそういう風に考えることができれば秩序は乱れません。もちろん、単なる「好き嫌い」で片付く問題ではないのでしょうが、どんな問題であっても、根底に「自分の意見をもつこと」と「相手にも意見があることを理解すること」が必要だと思います。そうでなければ、勝つのはその時強かった側です。そして勝つこと=正しいことのように思われがちです。
きちんと日の丸が掲げられ、君が代が斉唱されれば「式は正しく行われた」と言い、反対する人達はそれを阻止すれば「正しい意見が通った」と言う。その方が秩序は乱れています。
第一、秩序を大切にしたいならどうしてわざわざ争いのある旗や歌を国旗。国歌として選んだんだろう?という疑問があります。旗は新しくデザインしてもいいはずです。歌だって「さくらさくら」でも良かったはずです。
国の中どころか一部の外国の人からも嫌われているものを国歌や国旗に選んでおいて、「従わなければ秩序が乱れる」と言うのは矛盾すると思うのです。
それから、「国民意識が育たない」ということについて。
確かに旗や歌は日本の象徴かもしれません。でも、象徴だけで育つ国民意識なんてあるのでしょうか?
よっぽど嫌なことがない限り、自分が住んでいる国を嫌うこと自体ほとんどないと思うし、「自分の使っている言葉を大事にしたい」「自分の住む国が良い国であって欲しい」と成長しながら思っていれば、それで充分「愛国心」は育っていると思うのですが。
以前、町内運動会で旗を揚げるのを嫌がった男の子が「非国民」と呼ばれてショックを受けた、という記事を読んだことがあります。
でも彼は、非国民でしょうか?というより、何を以って国民と呼び、何を以って国民ではないというのでしょう?
物理的には、日本国籍を持っていれば日本国民です。でも、何代も前に外国へ移住して現地の国籍を取得していても、日本文化を守りつづけ「心は日本人」と言う人もいます。
戦時中なら、「日本が勝つために命もいとわず戦地へ赴く」人が立派な日本人でした。送り出す家族も立派な日本人でした。でも、「勝てないんじゃないか?やめた方がいい」と冷静に戦況を判断した人は「非国民」でした。自分の大切な人を戦争で失いたくない、と思ってもそれを口に出してしまえば「非国民」でした。そして現在、理由はきっと様々でしょうが「旗を揚げるのを手伝いたくない」「君が代は歌いたくない」と言えば非国民と呼ばれる可能性があるのです。
「非国民」って、そんなに単純なものなんでしょうか?
結局、当時優勢だった価値観に逆らった人が「非国民」と言われているだけのような気がします。でも価値観は代わりやすいものです。これは「国民」についてだけじゃありません。日常でも、私達は自分とは意見の合わない人を嫌いがちだし、ともすれば「性格悪い」なんて思ってしまいます。本当は合わない人を苦手だとは思っても嫌いになる理由なんてないし、考え方が違うだけで、悪い人かどうかは別問題なのですが。
それから、「国民意識」という言葉を聞くと、私は時折ぞっとすることがあります。
何かの戦争映画で、兵隊を送り出す場面がありました。みんな旗を振りながら「お国のために!お国のために!」と連呼していました。それが、ものすごく恐かったのです。今でも同じです。オリンピックで代表選手に「日本のために勝ってください」なんてコメントを見ると恐くなります。「日本のため!日本のため!」と連呼していますが、たとえば金メダルを取ったとして、何がどう日本のためなのかよく分からないのです。「日本の権威が上がる」とは言うものの、それは一個人、一チーム、それにそれを支える周りの人が努力して勝ち取ったものを横取りしているような気がしてなりません。卑近な例で言うと、「私のお兄さん東大に受かったのよ!」とそれで自分まで偉くなったように思っている子供と大差ない気がします。

もう一つ、気になること。
法制化についてです。
きっかけは、昨年広島の中学校で、日の丸・君が代反対派と賛成派の板ばさみになった校長が自殺してしまったことでした。
「こういう悲劇が起きないように、日の丸・君が代を正式に法律で国旗・国歌として義務付けたらどうだろう。もう式でどうするか悩む必要はない。」
とりあえずそんな考え方で法制化されました。本当のところは、法律を作りたかった人達にいい言い訳を与えてくれた、って感じですが。
・・・なんかこんなこと書いてるとめっちゃ国旗・国歌に反対してるみたいやん・・・あれ?変だなぁ^^;
でも、「法律で決めれば悩まなくていいだろう」って考え方は、やはりおかしいと思うのです。裏を返せば「国旗・国歌は法律で決まっているから掲げなければならないし、歌わなければならない」ってことですね。
ややこしくなるので「式で歌えとは書いてない」ってところは無視しましょう!問題にしたいのは「法律だから〜なければならない」ってことなのです。
なんだか、責任転嫁をした上でそれ以上考えるのをシャットアウトしているような気がします。
だったら「人を殺してはいけない。なぜなら法律で決まっているから。」なのでしょうか?
私は違うと思います。もしこの法律をなくせば殺人事件は増えるかもしれません。でも法律がないからといって誰もが簡単に殺人事件を起こすとは思えません。それに、法律がなくなれば殺された側の家族も自由に報復しますよね。決して「法律では禁止されてないから仕方ない。」とは思わないはずです。家族でなくても、人を殺した人が大手を振って歩いていればなんだか嫌だし、「誰か退治してくれー(しかし自分で何とかしようとは思わない^^;)」って思うだろうし。
だから法律がなくても殺人はいけないはずです。なのになぜ法律で決まっているかといえば、いけないことをしてしまう人がいて、そのまま放置しておくとそれこそ社会が混乱するからです。でも法律だって完全ではありません。「量刑が相当かどうか」なんて議論はしょっちゅうあります。
もう少し軽い法律はどうでしょう。「車は道路の左側を走らなければならない。」
これは別に、右側を走るのがいけないこと、ってわけではありません。現によその国では右側を走っている場合もあります。けれど、車がそこでも自由に走っていい、なんてことになれば危険きわまりありません。交通も混乱します。だから、ルールとして「左ってことにしときましょうよ」ということなのだと思います。
では、これがなくなればどうなのか?もう左側を走るのが習慣ですから、やっぱり左側を走るとは思いますけど、少しずつ好きな場所を走る人が出てきて、やっぱり混乱して・・・だから法律では決まっていなくても、「暗黙のルール」としてどちらを走るかは決まると思います。
「車は道路の左側を走らなければならない。なぜなら法律で決まっているから。」というのもおかしいことになります。右でも左でもいい。でも、社会生活を円滑に進めるために一定のルールは必要だから、左側を走ることにして、みんなが違反しないように法律にした、といった感じでしょうか。
さて、「国旗・国歌法」です。もしこれが廃案になったとして、上の二つのような困った事態が起きるでしょうか?
たとえばまた自殺者が出る?でもそれは法律がなかったからではなく、板ばさみになった人がどこへも相談できず、一人で悩んだ結果ではないでしょうか。相談できる環境がなかったからであって、法律が制定されたからといってこの問題について争いがなくなったわけではありません。現に今年も、新聞やテレビで数多くの報道がなされています。
だったら争いを完全になくすために式での掲揚・斉唱を義務付ければいいのか?ということになりますが、人の心を法律だからと言う理由で変えることはできません。そんなことをすれば、それは圧政です。
だったら争いのあるままじゃないか!と思う人もいるでしょうが、私はそれでいいと思います。
とても大切な問題だし、賛成する人も反対している人も、どちらも間違っているとは思えないのです。「法律だから」の名のもとに議論をシャットアウトしてタブーだからと目をそらすのではなく、常に考えつづけていてもいいと思うのです。
それに、「だって決まってるから」と何の疑問も抱かず盲従することの方がよほど日本のあり方を考えない、どうでもいいと考えている「非国民」のように思います。そして「法律だから守りなさい」というのは、自分で考えることを放棄して、誰かの命令には素直に従い、もしそれが間違っていても「私は言われた通りにやっただけだから悪くない」と責任転嫁をする「良き国民」を育てるスローガンのような気がします。

長々と国旗・国歌についての考え方を述べてきましたが、私はこれが、「多様性を無視する社会」「少数派を否定する社会」「上辺だけ見て判断して、本質までは考えようとしない社会」「自分では何も決められない社会」「責任転嫁する社会」の象徴的なものだと思うのです。
旗や歌だけじゃありません。投票率の高低だとか、キャリアの不祥事だとか、犯罪の低年齢化だとか・・・誰に投票すればいいか決められないから選挙に行かないし、行かないことを「良い候補者がいない」せいにする。学歴を重宝して、いい大学やいい家庭に生まれ育った人間を何故だか尊敬するくせに、そういう人達を甘やかしつづけた環境は無視して「キャリアは良くない」と言う。子供が犯罪を犯しても「未来があるから」と甘く処分したり「親が悪い」「教育制度が悪い」と批判する。
総じていえば「社会が悪い」わけだけど、その「社会」に自分が生きていることはあまり分かっていないようです。
しょうがないですね、「社会」って抽象的過ぎて何のことだかさっぱり分からないし。広すぎるからいくらでも責任を転嫁する先は見つかるし。

な、なげやりな状態で終わっちゃった・・・。
要は、何も考えない人をさらに増やしそうな点が気になってるんだなーははは・・・
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