やまびこ隊 自然学校『ヤッホウアン八峰庵』
『植え』『育て』『使い』『作る』『遊ぶ』『食べる』
御礼・お詫び・感謝
 やまびこ隊が産声をあげてから早5年の歳月が流れようとしています。
 その間、沢山の方々にお世話になり活動援助・御指導等を賜りました事、深く感謝申し上げます。
また「良いことをしている!」と、驕り高ぶった思いから恥じらいもなく「支援金のおねがい」を行
いました事、この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
 今後は新たな気持ちで活動を続けて参りますので何卒変わらぬご指導を賜ります様お願い申し上げ
ます。
 隊員の住職・副住職は檀務の傍ら活動に参加しておりますが、つくづく感じることは寺に残された
家族のバックアップがあればこそ行動出来るということです。家族と自分の健康なくして何事も出来
ません。
 現在登録隊員僧侶が50名。一般のこだま隊員が10名。こだま隊は
徐々に輪が広がり、様々な世界の人達がヤッホウ庵に集い一つの夢に向かって汗を流しています。

 
『八峯庵』・浄円寺様の森林(里山)提供
 昨年には6教区浄円寺様の格別なお取計らいにより境内隣接の森に活動拠点となる「ヤッホウ庵」
(八峰庵)が完成いたしました。現在この庵を中心に毎月青少年「体験楽習」・木工クラフト(間伐
材利用)・植樹後の育樹・毎週木曜日作業日・フィールドの除間伐等を実施。今年春には落葉樹の植
林を行い、以後3年計画で近隣の里山造成を行う予定。
 やまびこ隊が安定した活動を行える様になったのも、「八峰庵」の完成をみたからであります。 
浄円寺様の青少年健全育成に賭ける熱意と所有する森をお借りできた事で、地域の「森林愛護少年団」
「スポーツ少年団」「子供会」が継続的に楽習を得ることが出来た。
『体験楽習』やまびこ隊自然学校・子供は遊びの達人
 合成化学物質に囲まれた室内、コンクリートで固められた街。自然とかけ離れた日々の暮らしから
眼を少し森へ向けて出発してみよう!
 平成15年度から総合学習の一環で体験楽習がはじまりました。
 完全週休2日制のお陰で子供達は自由な時間を多く保てるようになった。しかし、子供達が時間を
有効に使っているようではない。実際に天気の良い休日を室内でテレビやゲームで過ごしている子供
達の多いこと!父兄はおとなしくて手がかからないから都合がよいのかもしれない。
 森や外で遊んでる子がめっきり少なくなった原因は、父兄にも有るようだ。
 自然は気持ちがいいけど「ウルシにかぶれる」「虫が嫌い」「危ない」。
 大きなリスクで有ることは免れないが、一寸した注意でクリヤー出来るものばかりである。
 このような父兄は小さいときに自らが野山で遊んだことがないのではないか?
 子供達は決して合成化学物質の快適な室内で何時間もテレビやゲームを望んではいない。それは、
嫌々でも「森の学校」に来ればもう森のとりこになってしまうのを目の当たりに見ているからだ。
 子供達は昔から「遊びの達人」と呼ばれた。
 しかし、巷の子供達をみていると達人には物足りない。
 時間を気にしながら遊ぶようでは本当の遊びにはならない。
 遊ぶとは寒さも、時間も、空腹も忘れて夢中になることだ。
 少しだけでは試食と同じで、こころの栄養にはならない。
 遊びは心身の栄養源、勉強とゲーム機だけでは偏食と同じだ。
 子供の時の遊び不足でこころの栄養バランスが崩れた大人が増えたのかも知れない。

  『街から森へ』ヤッホウ庵つれづれ
  『ゆでガエル』欲望を肯定してはいけない
  「自然が好きですか」と質問すると九割の人が「好きだ」とこたえるそうだ。このときの自然のイ
メージは各人各様であるようだが、「毎週自然に接してますか?」と聞くとほとんどは「いいえ」と
答える。森についても同様なことが言える。
 「森は好きだが森に入ってゆっくり過ごしたことがない。」と言う人が圧倒的に多い。
 それでは森が好きなのにどうして森へ入らないのだろう。森が好きなのに森で遊ぶことも、森で学
ぶことも、どうして止めてしまったのだろう。それは、日本人が森をはじめとした自然から眼を背け
「人工的な文明に焦点を合わせることが価値有ることだ」と思いこんでしまった時期があったからだ。
 「自然から離れ、都市文明に向かうことこそ価値がある」と言う考え方が、世の中を支配していた。
 總持寺の前猊下板橋禅師様は「過去に沢山の文明が滅亡した。その原因の一つに『都会に住みたがる
人間の増加。』がある。」「文明の前に森があり文明の後に砂漠がある」云々。
 また、明治の眼蔵家西有禅師様は「人と木を育てることが一番の功徳じゃ!」と言われた。
 森での快適な文化的(文明的?)生活はしてはいけないのではないか?
 アイヌの言葉に「森の香りを一寸頂く」がある。
 何と謙虚な姿勢でしょう。自然は人間の為だけにあるのではない。
 我々は最低限「欲望を肯定」してはいけないのではないか?。
 良く環境問題の例えに「ゆでガエル」がある。水から徐々に時間をかけてお湯にしていくとカエルは
ゆで上がるまで気がつかない。この譬えは我々の耳にも一寸痛く聞こえる。
「何でもあり」のこの世の中で、何か不都合な事を自ら生活の中に
取り入れる努力をしなければならないのではないか?
 驚いたことに子供達はヤッホウ庵で沢山の不都合を楽しみに変えています。
 環境問題は先ず自分の足下から・・・。
 今こうして山野を駆けめぐる子供達が必ずや未来を担う逞しい人格に育つことを期待して止まない。