上 林 温 泉
上林温泉の開拓者 小林民作
志賀高原の原点、上林温泉には昔から多くの文人墨客が来ていた。
夏目漱石、志賀直哉、林芙美子、寺崎廣業(画家)菊池契月(画家町田曲江(画家)
与謝野寛、晶子夫婦、斎藤茂吉、川端康成、井上靖、井伏鱒、壺井栄、などの文化人東郷平八郎、伊藤祐亭(軍人)中国最後の皇帝・溥儀、昭和天皇(皇太子時代)高松宮殿下らもお越しになっている。


皇太子殿下御来訪記念写真

なぜこんなに多くの文化人、著名人来るようになったのか。

特に、今もこの地にある旅館「塵表閣」へ当時、集中していた様子があった。
田舎のひなびた温泉に、文化人が結果的に集まった、というのとは少し訳が違っていた。
招き寄せる理由があった。その理由を知るには「塵表閣」の創業者小林民作という一人の男に光を当ててみなければならない。

小林民作とはいったいどんな男だったのだろうか。
小林家は、更科の佐助さんと呼ばれ、筆頭株の資産家であった。農家の長男であったが、自分の夢を実現させる為に家督を弟芳造にゆずり、中野から平穏村に転籍した。

開発という事業は、地元に根を張るというのがその理由であった。
明治34年(1901年)民作がいよいよ上林の開発に乗り出した。その前途は苦難の連続であった。最も苦心したのは引湯問題である。

いろいろとクレームをつけて湯を通さないという人がいてとうとう裁判になったが、結局クレームをつけた側が敗訴となり、上林に引湯を見る事が出来た。

上林の一角に毎日鎚音が高々と響く日が続いた。
温泉旅館小林館が誕生したのは、時に明治35年(1902年)であった。



民作は、今後の経営について日夜思考をこらしていた。これからの温泉経営は、田舎の爺さん、婆さん相手にしては成り立っていかない。これからは都会の名の知れた客を招く事が最も良策だと思い、手近から始めた。町田曲江、菊池契月、寺崎廣業画伯の天藾塾の塾頭をしていた戸谷幡山、と多くの地名人を招いた。

明治36年(1903年)末松謙澄博士が上林を訪れ、東に山を背負い、西には遠く北信五岳や日本アルプス、眼下には平穏の温泉街が一望に望め、静かな仙境とも思われる所から「俗塵を離れ、身を仙境に置く」とし塵表閣と名づけ、小林館はそれから塵表閣と呼ぶようになった。現在もその扁額が、塵表閣の閣宝の一つとして残されている。
旅館 山の湯



菊池契月 作  名画 「月とほととぎす図」  間口6メートル、高さ1.2メートル



土佐光起 作

知名度が高まるにつれ、塵表閣には著名の士が訪れるようになった。大正4年(1915年)になると上杉憲章や鈴木喜三郎も見えた。、蔦谷龍岬の来たのもこの年であった。

彼は、明治絵画館の壁画を描くためであった。これを聞いた民作は、龍岬の望む画室が塵表閣には無かったので、偉大なる作品を残すようにと、極楽庵を買い取って、蔦谷龍岬のために画室「山の湯」を建築することになった。

それを聞いた龍岬は非常に喜び、その完成を心待ちに待っていた。
工事も完了し、諸事整ったので民作は竜峰に知らせた。その知らせが届き、蔦谷龍岬は、
「山の湯」に来る準備中に脳溢血で倒れてしまい、とうとう「山の湯」に来る事が出来なくなってしまった。折角、建築したものであるし、民作は自分の隠居所として使用するようになった。これが現在の「山の湯」である。



山の湯は、塵表閣より奥まった広業寺の高台にあるところから、塵表閣の長期滞在客は、喜んで山の湯に二、三泊している。特に壺井栄との関係は深いものがある。光文社から発行され、大臣賞を受賞した「母のない子と子のない母」もここで三ヶ月もかけて書き上げている。

彼女の有名作「二十四の瞳」のあとがきにも、信州の山の宿にの同じ部屋で書きました、と記されている。

彼女と山の湯はその後も続き、労作はほとんど山の湯で書かれたと言ってもよいだろう。