カレーって、なぁ~に?

                                                           河野 善福
 カレーライスは日本食?
   私たちが今、日本でご飯にかけて食べている、『カレーライス』は純日本食です。インドカレーとか、ジャワカレーとか言われるために、インドに行けば日本と同じような『カレーライス』が食べられる、と思われる方も多いのでしょうが、もしその国にあったらそれはきっと、日本人のために日本人が経営しているお店だと思います。インドに行った人はきっと失望されたはずです。
 私たちが「カレー」って言う時は、一料理名の「カレーライス」のことですよね。「カレー」という料理と、日本食になった「カレーライス」の違いについてお話しましょう。

 インドでは、ほとんどの家庭の台所にいくつかの香辛料を用意しておいて、料理のたびごとに肉・魚・野菜などの素材に合わせて、石臼や石板を使って、この香辛料をすりつぶし、自己の処方にあわせたカレー料理を作っています。(このスパイスの粉を「マサラ」といいます)、ですから、日本の味噌や醤油のように、料理の味付けにマサラはなくてはならないものであり、魚の煮物も野菜のスープも、マサラが使われている東南アジアの料理はすべて、「カレー料理」と言って良いと思います。

 「カレーライス」を作るには「マサラ」と同じ香辛料の粉が必要です。スパイス100%のこの粉を日本では「カレー粉」と言います。現代の「カレー粉」は20~30種類のスパイスの粉を混ぜ合わせて造ったものです。この「カレー粉」に焙煎した小麦粉や調味料を混ぜて作ったものが「カレールゥ」です。このカレールゥを肉や野菜を炒めたスープの中にいれたものが「カレーソース」です。私たちは、このカレーソースをご飯にかけて食べる日本の料理を「カレーライス」と呼んでいるのです。

 インドでは、インド式のパン(ナンといいます)が主食です。ナンにもカレーソースを付けて食べます。東南アジアでカレーソースをライスにかけて食べる料理がないわけではありません。この地方のカレーソースは玉ねぎやトマト、果物などを煮込んでとろ味をだすのでサラッとしていて、ご飯の下に沈んでしまうものが多いのです。(最近流行のスープカレーのようなもの)。
 日本にカレーが渡来した頃のカレーはインド地方のカレーソースに近かったと考えられます。ですが、ご飯の国日本の「カレーソース」はソースがご飯の上に残らないとだめだったのだと思います。「さらさらのカレースープ」で、わずかに具材が上に残っただけでは売り物にならなかったのでしょう。
 日本人は「ご飯の上に残るカレーソース」を研究し、世界に類のない日本食の「カレーライス」を作り上げたのです。ご飯にかけてもソースがたっぷり残っていて、ボリューム感があるように、とろみをつけたものが日本のカレーソースなのです。
 『カレーソース』のとろみの正体は小麦粉です。増量剤の意味合いもあったかも知れません。が、小麦粉がたくさん入っていて、これでとろ味を得ているのでご飯の上に残るのです。と言うことで、私たちが今食べている「カレーライス」は日本人が開発した日本料理なのです。
 
インドの人口の80%以上を占めるヒンドゥ教の人は牛肉を食べませんし、イスラム教徒は豚を食べません。したがって、「カレー料理」は、香り、色、辛味、また料理も味も国による違いがいっぱいあるのです。ですが「カレー料理」の中の一料理名の「カレーライス」は日本食です。

 カレーライス?、ライスカレー?
   
日本人が明治の初め頃から食べるようになった「カレーライス」は、昭和35年頃までは「ライスカレー」と呼ばれることが多かったようです。今でも平皿にご飯を盛って、その上にカレーソースをかけた料理をライスカレーと呼び、ご飯とカレーソースが別々の器で出されるものや、深い器にご飯とカレースースが分かれて出されるものをカレーライスと呼ぶ人も居るようです。
しかし、最近はこの料理を殆どの日本人が「カレーライス」と呼ぶようになっています。
 呼び方はどちらでも間違いではなく、お好みでどうぞと言ったところでしょうか。

カレーライスの語源は?
  
 『カレ-』の語源には色々の説がありますが、インドのタミ-ル語のソースという意味のカリ(Kari)から転じたとする説や、「香り高いもの」、「美味しいもの」という意味で使われるヒンズー後の「ターカリー」(Turcarri)から転じて英名になったという説などがあります。
 英語では数種の香辛料(spice)を混ぜ合わせた粉を「curry-powder」といいます。 「カリーパウダー」は料理をする際に味付けを目的として用いる調味料の一分野の名称です。

 インドを中心とした熱帯、亜熱帯地方は酷暑地ですので、発汗作用をうながし食欲を増進させるために、各種の香辛料を混ぜ合わせた料理を食べることが多く、これらのスパイシーな料理を総称して英語で「カリー」と呼ぶようになったのです。したがって、スパイスで味付けされた料理をすべて「カレー料理」というのです。これらの語が日本語の「カレー」の語源だろうと言われています。

  味噌や醤油を知らなかったヨ-ロッパの人たちは、塩やバタ-で料理の味付けをしていました。シルクロ-ドを通ってヨ-ロッパに搬ばれた、胡椒やシナモン、ナツメッグなどは、冷蔵庫のなかった時代の肉食の人たちにとって、殺菌力があるので防腐剤となり、腐りかけた肉の臭い消しとなり、料理の調味料となって貴重で高価なものとして扱われたのです。
スパイスは12世紀には金銀を計る小型のハカリで量り売りされ、金銀と同価値であったとも言われています。
              

カレーライスが日本に伝来した経緯は?
  
 日本の「カレーライス」には、後で説明するようにインド人から直接教わったものや、日本人が日本食として後に改良・開発したものが有りますが、明治初期に最初に日本にカレーが伝来したのは英国人からだったようです。

 マルコ・ポ-ロの著した『東方見聞録』に刺激され絹、スパイスを産する東洋の国の話は、海の冒険者達の夢をかきたてました。地球が丸いとまだ信じられていなかった1492年に、イタリヤのコロンブスが、スペインの女王イザベル1世の賛同を得て、西回りの航海をすれば金銀、スパイスの宝庫東洋に着けると確信して、サンタマリア号でパロスを出航した話は皆様ご承知のとおりです。彼がインドに着いたと思ったところが今のバハマ諸島だったのです。 彼は計4回の航海で中央アメリカ、南アメリカを発見しましたが、スパイスを手にする事は出来ませんでした。

 アフリカ南端の喜望峰を廻る航路は1484年に発見されており、バスコ・ダ・ガマによりインド航路が開拓されると、ポルトガル国王は東方諸国の制圧に艦隊を派遣し、各要所の支配権を手にしました。 やがて香辛料生産地はスペイン、オランダ、ポルトガル、イギリスなどにより植民地争奪戦の舞台とされ、英国の植民地となったインドには多数の英国人が滞在したのです。 ここに滞在した英国人が東洋のエキゾチックな料理として、自国に紹介したものが、香辛料を調味料とした「カレー料理」なのです。

 最初に香辛料の料理を英国に紹介したのは、初代インド総督のヘスティングで、ヴィクトリア女王に帰朝土産として献上され、以来王室自慢のメニューとなり、これを供応された上流社会の人々から一般家庭にも広がったという話があります。

 英国には、古くから小麦粉を油脂で炒めたルゥを入れた煮込み料理が有り、香辛料が入手できるようになってからは、これに調味料として「香辛料の粉」を加えたものを、『Curry』と呼んで食べていました。 ただし、英国ではおいしい米がなかったこと、お米を野菜の一種と考えていたことなどから、英国人は、「Curry」をライスにかけて食べることはしないで、シチューにしていたのです。

 この香辛料を調味料とした「Curry」という煮込み料理を、西洋料理として英国人から教わった日本人が、ご飯にかけて食べるようにアレンジしたものが、今日の日本の「カレーライス」なのです。「香辛料の粉」は調合のむずかしいスパイスなのですが、イギリスには18世紀末に、クロス・アンド・ブラックウェルという会社が出来て「C&Bカレー粉」という「調合された香辛料の粉」の販売を始めました。したがって、日本に「Curry]が伝来した初期に、「ライスカレー」に使ったスパイスは、東南アジアから個別に入手した香辛料を調合したのではなく、イギリスから持ち込まれた配合済みの「カレー粉」だったと考えられるのです。

 この『カレー粉』さえあればレストランのコックさんは、小麦粉を焙煎し調味料を加えて、カレールウを簡単に作ることができましたので、『ライスカレー』を食べさせてくれる『西洋料理店』が、明治の末頃には出来ていたのです。 ですから、日本の『カレーライス』はインド式ではなく、日本人が英国人に教わって、それにとろみを付けて日本食として定着させた純和食なのです。

 最近の国産の「カレー粉」は20~30種類のスパイスを組み合わせて作られていますが、「C&B社」の当時の「カレー粉」はわずかに8~10種類の香辛料を組合わせた粉だったと言います。インドの家庭料理に使うマサラの香辛料が10種類前後、C&B社の「カレー粉」が8~10種類なのに、日本の「カレー粉」が沢山の香辛料を使う理由は、一つの香が強くなると”薬臭いイメージ”になるので、少しずつ多種類にして、調和を取っているのです。

 この頃には「ライスカレー」をお店で食べることが出来ても、まだ一般家庭で『カレー粉』を手に入れてルウを作り『ライスカレー』を作る程の人は、殆んど居ませんでした。

 カレーライスは何時ごろ日本に来たの?、
   
日本の書物に、最初に『カレー』の言葉が使われたのは、福沢諭吉が書いた『華英通語』と言う本で、『Curry』が『咖哩』と言う中国語に訳されています。 
 ライスカレ-が、初めて本に紹介されたのは、明治5年( 1872年)で、西洋の高級料理の作り方として紹介された『西洋料理通』(仮名垣魯文編)と『西洋料理指南』(啓学堂主人著)という本です。
 この本には、『ネギ1本、生姜半分、ニンニク少々をミジン切りにして、バター大さじ一杯で炒め、水約一合半を加えて、鶏、エビ、鯛、カキ、蛙などを入れて、よく煮た後、「カレー粉」を小さじ一杯入れて一時間位煮る。 煮上がったら食塩と、大さじ二杯分の水で溶いた小麦粉を入れる』とあります。 今日のカレーの定番である牛肉、豚肉、じゃがいも、人参、玉ねぎが使われず、溶いた小麦粉を最後に入れるというところなど、今日のものとは随分違い庶民には縁の無い料理でした。
 ちなみに、ジャガイモの普及は、男爵いもの名前の由来ともなっている川田龍吉男爵が、アメリカから輸入した品種を、北海道で栽培した明治40年以降であり、牛肉や豚肉など獣肉が加えられるようになるのは、牛の屠殺が10万頭を越えた明治20年以降ということになります。
 カレーの薬味の王様となっている福神漬けは、東京・上野池之端の酒悦の15代野田清右衛門が、明治10年頃発明したものです。当時の漬物は塩漬けしかなかったのですが、福神漬けは大根、なす、かぶ、うり、しそ、レンコン、なたまめの7種の野菜を、醤油漬けにしたもので、上野池之端の七福神にちなんで、当時の流行作家、梅亭金鶯が名付けたものです。

 当初の「ライスカレー」作りは、すでにヨーロッパで販売されていた「C&Bカレー粉」を用いて料理されたと考えられます。「カレー粉」の調合は難しく、西洋料理店が、英国船や日本人貿易商などから、香辛料を買いつけて 『数種類の香辛料でカレー粉』を作り、これで『ライスカレー』を出すところまでは、まだ出来なかったと考えられます。

 ほとんどの『西洋料理』は明治の初期に、インドなどを植民地としたヨーロッパ人から、広東、上海を経て横浜に伝わり、オムレツ、コロッケ、 ビフテキ、カレーライス、チキンライス等『洋食』という言葉と共に広まっていったのです。 明治も30年から40年頃になるとバター、ビール、ビスケット、ソース、パン等を日本人が国内で作る試みが始まり、これらの国産品が国内に出回るようになったのです。 「ライスカレー」が一般の洋食屋で食べられるようになったのは、明治も20年代のことのようです。

 「カレー粉」も、先にも書きましたように、C&B社のものが輸入され、明治30年頃には国内需要の大半をしめていましたが、これを何とか自分たちの手で造れないかと、漢方薬用に香辛料を扱っていた「薬種商」の人たちが研究し、明治の末頃には、これら香辛料の知識を得た人たちによって、国産のカレー粉が発売されるようになったのです。

 本格的な「カレー粉」としては大正12年に日賀志屋(現在のエスビー食品)が『ヒドリカレー』を出しています。
 昭和にかけて浦上商店(現ハウス食品)の『ホームカレー』、大崎屋商店の『リスカレー』、キンケイ食品の『ギンザカレー』など、日本人の舌に合う「カレー粉」が研究され、「国産カレー粉」が出回りました。 この頃から『ライスカレー』は一般大衆の日常の食事として普及しています。

 普及したのは軍隊のおかげという説があります。日清(明治27年)、日露(明治37年)の戦争時に軍隊で『ライスカレー』が献立に加わり、そこで味と作り方を覚えて復員した軍人によって、一皿でおかずとご飯、スープが盛れて、大人数分作るのも簡単で、栄養バランスが良く、おいしいと、一般家庭にひろめられたのです。
 各カレーメーカーも5人位のキャラバン隊を組み、肉屋とか食料品店の軒先を借りて。試作試食を行いながら全国を廻って作り方を普及させていったのです。 「ライスカレー」が普及したと言っても、第二次大戦(昭和14年)の始まる頃までは『ライスカレー』は、ご馳走の部類に入る料理だったのです。
 明治の終わり頃の値段は、もりそばの5~6倍はしたと言われています。新宿中村屋がカレーを発売したのは、昭和2年6月だそうで、巷のライスカレーが10銭~12銭、ビールが39銭、映画の封切入場料が40銭のころに80銭で売られたのだそうです。

 中村屋のカレーは他とどう違うの?
   新宿中村屋のカリーだけは、日本人が作った日本食と違うのです。中村屋のカレーの話をするには、相馬家の長女俊子さんと結婚したインド独立運動の革命家ラシュ・ビハリ・ボース氏のことを話さなければなりません。
 インドはカースト制度の厳しい国でした。ボース氏は1886年(明治19年)、カースト制度の上から二番目の武士貴族階級の家に生まれました。当時のインドはイギリスの統治下におかれ、名ばかりの議会がありましたが全員が親英派であり、度重なる民族独立運動も押さえ込まれていました。
 氏が子供のときに日露戦争があり、日本が劇的な大勝利を収めました。東洋の小国日本の戦勝は民族自覚活動に火をつけたのです。氏は15歳で突然学校を辞めて、革命家の道を歩み始めました。26歳のときデリーがインドの新首都に決まり、総督ハーディング卿がデリーに入城する事になりました。氏はこの日を選び、象に乗った総督に爆弾を投げつけたのです。卿は負傷しただけでしたが、犯人のボース氏には12.000ルピーの賞金がかけられました。

 インドに駐留する英軍に企てた反乱が失敗し、身に危険が迫ったので彼は、アジアで始めてノーベル賞を受賞したベンガルのタゴール氏(文学賞、詩人・小説家でガンジーと並ぶインド独立運動の精神的指導者)が日本に行くことを聞いて、その親族に成りすまし、偽名で神戸行きの船に乗ったのです。 大正4年、29才の時です。 東京に出て政治結社「玄洋社」の右翼の巨頭といわれた頭山満氏(とうやまみつる)を訪ねました。頭山氏は「アジアから欧米列強を駆逐し、独立を獲得しよう」と唱えていた人です。 訪ねた目的はインド独立の援助と武器の調達でした。日本で中国革命の父・孫文や朝鮮革命の指導者、金玉均(きんぎょくきん)らとも会いました。

 やがて身分がばれて官憲に尾行されたのですが、逃げて相馬愛蔵氏と妻、黒光(こっこう)氏の経営する新宿中村屋にかくまわれたのです。当時の日本には日英同盟が有り、英国政府の身柄引き渡し要求は拒めない時代でしたが、中村屋の創業者相馬氏が、自宅の使っていなかったアトリエに彼をかくまったのです。愛蔵氏は従業員を集めて「日本に命運を託した亡命者を政府は見殺しにしようとしている。我々はこれを保護する。・・・たとえ父母であっても他言するな、もしも大切な預かり人を死なせることがあったら、中村屋の恥はもとより日本人の面目が立たない」と言ったそうです。
 おまきという中村屋の女中は伯父が死んだとき「私はしゃべる気はないけど、もしうっかり感ずかれることがあっては大変」と葬儀にさえ参列しなかったと言われています。

 潜行中のボース氏の、目となり、耳となったのが英語が堪能であった相馬家の長女俊子さんで、二人はやがて結婚しました。これは俊子さんが自ら望んだ結婚で。有名な中村屋の娘ですから華やかに嫁ぐこともできたのに、結婚式の式場には父親一人だけが付き添い。嫁入り道具もうわさが広まることを恐れてこっそりと支援者が運んだという結婚でした。

 この隠れ家でボース氏がカレー粉を用いて手料理として教えたインド式カレーが「中村屋のカリー」なのです。大正11年、日英同盟は解消されボース氏は日本国籍を取得しています。二人の間には哲子さんと、正秀さん(昭和20年沖縄戦死)という子供がいます。

 当時の中村屋のカリーは、牛肉よりも鶏肉の方が高かった時代に、最高級のシャモを使うため養鶏場をわざわざ開設し、江戸時代に珍重された幻の米「白目米」(しろめまい)を契約農家で栽培し、バター、ヨーグルト、牛乳も自家製の高級品を使っていたと言われています。当時のインテリの間では「武蔵野館で映画を見て、紀伊国屋で本を買い、中村屋でカリーライスを食べる」これが最高のおしゃれといわれたそうです。

 その後のカレーライスは?
 
昭和7年頃になって、小麦粉を焙煎したり、砂糖等を加えたりする手間を省き、これを用いれば家庭で簡単に『ライスカレー』が作れますとのうたい文句で『固形カレールゥ』が商品化されました。初期のものは、スープの中に削って入れなければならないほど硬く、またダマになりやすくて不評でしたので、粉末の即席カレーとして売られた頃もありましたが、戦後は製造技術が向上して、現在市販されているような固形のルゥが開発され、これを今でも『即席カレールゥ』と呼んで販売しています。この商品の開発により、ルゥを作る手間が省け、作り方も簡単になったので、一般家庭への普及に拍車がかかりました。

 その「即席」と言われたカレールゥも、昭和44年に大塚食品が、温めるだけで食べられるレトルトカレー『ボンカレー』を売り出してからは、家庭にいた婦人の就業化が進んだことや、レトルトカレーの味が向上したこと等から、家庭でのレトルトカレーの使用量が大幅に増えて、今では暖めるだけで食べられるレトルトカレーを『即席(インスタント)カレー』と呼んだ方が良いような状況にあります。

 最近の「カレーライス」は、唐辛子やパプリカを多く使った赤いカレーや、ほうれん草を裏ごしした緑色カレー、ヨーグルトやココナツミルクを使った白いカレー、とろみの少ないスープカレーなどがあり、カレーライスは黄色いとは言えなくなりました。

 カレーの主原料であるところの香辛料には、香りと味付けという効能の他に、薬理効果も大きく、消化機能を亢進させる作用や、強力な酸化防止効果も大きく腐敗防止、保存、老化防止に貢献しています。
 ウコンには肝臓の機能高揚があり、辛さの元になっているカプサイシンには肥満防止効果があるなど、ほとんどの香辛料が漢方薬でも使われております。夏場など食欲のないときでも食欲を亢進させてくれる、又、胃腸の働きをよくしてくれる胃腸薬が『カレーライス』です。健康維持のためにもおおいに食べてください。


   参考文献 : カレーライス      柴 田 書 店   儲かるメニューシリーズ  4
          カレー料理       同  朋  社    繁盛店 メニュー戦略
           カレーノート      雄  鶏  社    森枝卓士
           カレー料理       中 央 公論社   暮らしの設計 NO.139
           カレー大研究      グ  ラ  フ    マイライフシリーズ NO.187
           カレーブック      生活クラブ連合会  本格的カレーライス
           カレー自慢       中 公 文 庫   暮らしの設計
           アジアカレー紀行    東 京 書 籍   高野たけし
           カレーなんでも大百科 エンターブレイン・ムック
           おいしいカレー料理  講  談 社     婦人クラブ クッキングシリーズ NO.10
           この国に生きて    産 経  新聞    異邦人物語
           全日本カレー工業協同組合  ”ホームページ”


戻る