カレー産業の歴史




「カレーライスの美味しいお店の紹介」とか、「美味しいカレー料理の作り方」という文献は沢山ありますが、


カレー産業の変遷や、「カレーライス」創りに携わった人々の記録が少ないので、調べて書いてみました





                                文中 : 敬称略

                                                                           河野 善福  

 「カレーという料理」
 カレー料理は、味噌や醤油を知らなかったインド地方の人たちが、肉・魚・野菜などを料理する時に、数種類のスパイスの粉を調合して調味料(インドではマサラと呼ばれます)としていた料理です。

 英国がインドを植民地としていた時代の1772年、初代インド総督ウォレン・ヘスティングが帰朝の土産としてスパイスの粉を調合したマサラを持ち帰り、時のヴィクトリア女王に献上して以来、イギリス王室料理の自慢メニューとして、このマサラを使った料理が外交使節団等に供せられ、東洋の神秘的な味と芳醇な香りに、供応された人々は魅せられたと言われています。やがて英国では上流社会でもこのスパイスの粉を調味料とした料理が賞味されるようになりました。

 同じ頃、殖民地インドに滞在した多くの英国人が、エキゾチックな食べ物としてスパイスの粉を調味料とする料理を自国に紹介し、これが一般家庭にも浸透していったのです。

 英国には古くから小麦粉を油脂で炒めたルゥを入れた肉や野菜の煮込み料理が有り、香辛料が入手できるようになってからは、これに調味料として「スパイスの粉」を加えて食べるようになり、この料理を、『Curry』と呼んで食べていました。この「Curry」はシチューにスパイスを入れたようなものであり、野菜として米を入れることはありましたが、米飯を食べる習慣のない英国で、米飯にかけて食べることはなかったようです。

 この数種類のスパイスの粉を調合する「Curry料理用の粉」はスパイスの入手が難しいし、入手しても調合がむずかしいのですが、英国では「スパイスの粉」を求める人が多くなったので、クロス&ブラックウエル社という会社が、18世紀末に「C&Bカレーパウダー」と称する「スパイスの粉の調合品」の販売を始めているのです。最初は「Curry料理用のPowder」として売り出されたものではないかと思います。

 この「カレーパウダー」は現在の「カレー粉」のように20〜30種類の香辛料を配合したものではなくて、わずか8〜10種類の香辛料の組み合わせ品だったようです。しかし、この便利な香辛料の配合品「Curry−Powder」が販売されたお陰で、これを調味料とし肉・魚・野菜等を料理した「カレー料理」がヨーロッパに広まったのです。 
 したがってカレー料理にはスパイスの粉が必要であり、「カレーパウダー」を使った料理はすべて「カレー料理」と言うのです。幕末の薩長連合軍を支援して対日外交をリードしたのは英国人で、彼らが自国で広まっていた自慢の「カレー料理」を日本人に教えたのです。


 私たちが「カレー」と言うときに頭に描くのは「カレーライス」ですよね。ですが「カレーライス」は「カレー料理」のなかの一分野にすぎないのです。日本では、明治の始め頃、オムレツ、コロッケ、ビフテキなどと共に洋食として広まったのですが、お米を主食としている日本では、カレースープをご飯に架けるようになり、「カレーライス」として定着したのです。

 日本の「カレーライス」は、ソースの粘度を増して、ご飯の上に具材だけでなくソースが残るようにとろ味を強くしたものです。少量の具材が残ってスープが沈んでしまう料理では「汁架けご飯」であり、西洋料理店がお金を取れる料理ではなかったのかも知れません。日本人がカレーにとろみをつけて、ボリュームのあるソースにしたことで、日本人好みに手直しされ、日本人のための日本料理となったのです。

 外国に行けば同じような「カレーライス」が食べられると思っている人も多いし、インド地方の料理そのものと思っている人も多いのですが、外国の「カレーライス」との一番の違いはソースのとろ味が違うところです。日本でも最初の頃のカレーライスは野菜や果物から出るとろ味のスープでしたので、東南アジアのものとほぼ同じでしたし、最近流行の「スープカレー」状のものでしたが、私たちが「カレーライス」と呼んでいるものは、小麦粉によって粘度が増されているものなのです。「カレーライス」は日本人が日本人のために造ったものなのです。だから純日本食です。


 「カレーライスの日本上陸」
   日本でも鎖国が解けて、外国から色々な食品が入ってきた明治の初期には、東南アジアから直接スパイスを入手して、カレー料理を作った日本人もいたようです。文献としては明治の初期に「かれえらいすの作り方」と題する冊子が出ているので、一部の人はこの頃から「かれー料理」を食べはじめたのでしょう。

 明治9年に札幌農学校に赴任したジェームス・クラーク博士が、「学生の体格が貧弱なのは、おかずを食べなくても済む米飯に原因がある」として寮食の米食を禁じた時に、「ただし、らいすかれいはこの限りにあらず」とした話は有名です。またこのことが、「ライスカレーという名前を初めて使ったのはクラーク博士である」とされる所以なのです。

 明治5年に東京で創業の三河屋久兵衛が西洋料理店の元祖とされており、明治9年には東京・上野に精養軒が開業していますが、レストランのメニューに「ライスカレー」が登場したのは、明治10年、東京の食堂
「風月堂」が始めてです。

 明治20年頃からは、日本にもこのC&B社の「カレー粉」がイギリスから輸入されるようになったので、「カレー粉」さえ手に入れば、レストランのコックさんは、小麦粉を焙煎し調味料を加えただけで、カレールゥを簡単に作ることが出来るようになりました。ですから、このC&B社の「カレー粉」が入手できたお陰で、明治の末頃には日本式の「ライスカレー」を食べさせてくれる「洋食レストラン」が出来たのです。
 こうしてお店では、食べられるようになっても、この頃は一般家庭で「カレー粉」を手に入れて、ルゥを作り、「ライスカレー」を作るほどの人は、まだ僅かなものでした。


 「カレー粉の国産化」
  
初期の「洋食レストラン」では、カレーを作る基になる「カレー粉」の作り方がわかりませんでした。したがって、英国製の「C&Bカレー粉」が国内の市場を占有していましたが、輸入品は価格が高かったので、増量剤として唐辛子やミカンの皮(陳皮)を混ぜた製品が出回り始めたのです。
 舶来崇拝の風潮が高まる中で、明治の中期頃から、ソースなどの洋風調味料を自分たちで造りたい、と考える研究熱心な人達が現れました。ソース産業とカレー産業は兄弟のようなもので、国内で最初に製造に取り組まれた洋風調味料です。

 「ライスカレー」に必要な、芳醇な味でふくいくたる香りを放つ「カレー粉」も、これの製造に取り組んだ日本人がいたのです。熱心に研究に取り組んだのは、香辛料を漢方薬として取り扱っていた薬種商の人達に多かったようです。こうして「カレー粉」は、香辛料の知識を得た人達によって国産化されていったのです。

 明治38年には、大阪・道修町の薬種商であった
大和屋今村商店(現・ハチ食品梶jの今村弥兵衛がカレー粉の製造を開始し「蜂カレー」を発売しています。今村はたまたま飛んできた蜂がカレー粉にとまった縁起から「蜂カレー」と名付けたようです。昭和18年に法人とし、商号を今村弥香辛調味料鰍ノ改めています。

 大正3年には、東京・日本橋の
岡本商店が練状で丸缶の「ロンドン土産カレー」を発売しています。この商品は、15人前30銭で、月桂樹の葉(ローレル)が一枚付いた商品だったようです。

 大正4年、大阪市北区鳴尾町で薮内光治が缶詰問屋・広木屋商店(メタルカレーの前身)を開業し、カレー粉の製造を始めています。

 山崎峯次郎は、明治36年、埼玉県北葛飾郡金杉村(現・松伏町)の生まれで、ソース屋に勤めていましたが独立し、東京・浅草蔵前橋に生家の屋号「東屋」にちなんで
合名会社日賀志屋(現・ヱスビー食品梶jを創業しました。当初はソースを製造しましたが、やがてカレー粉の製造方法の研究に没頭しました。氏はカレー粉の原料として、香りと味の第一義的原料としてクミンシード、フェネグリーク、コリアンダー。辛味を主眼とする原料はチリ。色調を中心とする原料はターメリック・・・・が最小限必要な香辛料であるとして研究しました。 倉庫が試作品でいっぱいになり、置き場に困って、処分すべき試作品を点検している時、ふくいくとした香りのするカレー粉が有るのを見つけたのです。
 再度配合比率、熟成・保存方法を確かめ製品つくりに挑戦し、研究した結果「カレー粉には熟成が必要である」ということを確信し、香の良い本格的なカレー粉に仕上げた商品「ヒドリカレー」を大正12年に発売したのです。 
この商品は、当時は「C&Bカレー粉」がポンド缶で1円50銭だったので、1円10銭で販売したのだそうです。

 浦上靖介は明治25年・徳島市佐古町の生まれで、かんざし等の彫刻業者の息子として生まれましたが、大阪・道修町の薬種商河村伊助商店で修行を積み、大正2年・21歳のとき大阪・松屋町筋に開いた5坪の薬種原料問屋浦上商店(現・ハウス食品梶jで独立しています。大正15年に、稲田市松の稲田商店を吸収し、工場を布施市(現・東大阪市)御厨に移し、稲田商店の「ホームカレー」「ヒツジソース」の事業を引き継いでいます。しかし、商品名の「ホームカレー」は商標権問題が起こり「ホーム」が使えなくなりました。社長が商品名の付け替えで悩んでいた時に社長夫人が”ホームというのは日本人にはなじみが薄い、ハウスのほうが良い”と提案し、浦上社長はそれを採用して、昭和3年に「ホームカレー」の商品名を「ハウスカレー」に改めたのです。
 浦上商店は、昭和9年に法人となり社名を
合名会社浦上靖介商店に改称しました。後に(昭和35年)社名をハウス食品と改称したのは、この商品名から摂ったのです。

 「即席カレールゥの登場と製法特許」
  
大正12年9月、関東で大震災がありました。この年に東京・高田馬場のノーブル商会の横澤清造が「ライスカレーを家庭で作る場合に、純カレー粉からルゥを作って料理するのは手数がかかる」ので、手軽に調理が出来るように、調味料を加えて特殊な方法で固めた即席カレールゥを開発し、実用新案として登録しました。 この固形カレールゥの商品名は「文化カレー」というものでした。 彼はその後さらに研究を続け、使いやすくするために粉末状にした商品「スヰートカレー」を発売し、製法特許を得ています。
 この商品は使用量や水加減を分かり易くするために、2皿分ずつを小袋に分けて販売したのです。横澤は昭和7年には、即席カレールゥを最中に詰めた「カレーモナーカ」も発売して、これも実用新案を得ました。業界からは大発明とされ、消費者からも非常に喜ばれたのです。しかし、理由は明かしていませんが自ら市場から撤退し、今日では、一部のメーカーでのみ「モナカカレー」が造られています。
 横澤は戦後に小泉忠三郎、松山虎之助らと「即席カレー組合」を作った人です。

 この昭和7年には、東京・田端にあった
山田商会の山田欣司も、即席カレールゥの「OBカレー」を発売して、製法特許を得ております。


 「第一次カレー産業隆盛期」
  大正末期から昭和初期にかけて、カレー粉製造を目指す人達がぞくぞくと名乗りを上げています。
甘利辰男は明治38年に長野県に生まれ、京都で修行を積んだ男です。大正14年に、京都・伏見に甘利商店(現・甘利香辛食品梶j創業し、「花印カレー粉」を発売しています。

 昭和2年に稲葉新一が、名古屋で
双葉屋商店(現・潟香[クス本舗)を創業し、即席カレールゥ「双葉屋ロークス」を発売しています。
ロークス本舗は現在も三河屋物産の下で潟香[クス本舗として創業しています。

 新宿・
中村屋が亡命中のインド人、ラス・ビハリ・ボースの指導でインドカリーを売り出したのはこの年です。(中村屋のカリーについては、このページの下にあるリンクから「カレーの話」に戻って、「かれーって、な〜に?」を参照してください)

 昭和4年に設立された
美津和ソース原料合資会社は、明治35年京都・北御所町の生まれの橋本清三が、義兄の安藤圭太郎を社長として、神田・左衛門橋に設立したソース工場で、昭和8年、吉岡源四郎を迎えてカレー粉の製造を開始しています。商標は美津和カンパニーの頭文字をとって「M&Cナイト純カレー粉」としました。ナイトはカレー粉の発祥地イギリスに因んで、英国王から授けられる爵位「ナイト」の称号からとったものです。

 吉岡源四郎は東京・小金井の、唐辛子で全国的に名を知られていた
高橋商店(テーオー食品鰍フ高橋隆一(大正6年生まれ)の祖父にあたる高橋元吉が明治20年に創業した)で修業していて、三津和ソースの橋本清三に迎えられましたが、唐辛子の魅力を断ち切れず、2年後に職を辞して栃木県太田原に吉岡食品製造所を創設、唐辛子栽培を始めています。

 
合名会社日賀志屋の山崎は、カレー粉の研究をさらに進め、輸入品の「C&Bカレー粉」に勝るとも劣らないカレー粉を、昭和5年に誕生させ、普通品の商標は「ヒドリ(太陽と鳥)カレー」、高級品は「サン・バード」として発売しました。 昭和8年には商品名を太陽(Sun)と鳥(Bird)の頭文字「S&Bカレー」に改称しました。社名は昭和15年に日賀志に改組して、本社を板橋区志村清水町に移しています。 昭和24年にヱスビー食品に改称したのは、商品名「S&Bカレー」から取ったのです。社名については一説に「C&B社」を意識したものだとも言われております。

 この頃の加工食品は、少し売れ出すとすぐに類似品が店頭にあふれる、といった状況でしたが、カレー製品はその原料である香辛料の特性を熟知していないと、これの製造には手も足も出せませんでした。それだけに、カレーの先達者たちは開発・研究に大変な努力をされたのです。

 昭和5年には、明治39年産まれで新潟県見附市出身の佐藤孝一郎が、24歳の若さで東京・大田区に
佐藤食品興行所を起こしソースの製造を始めています。昭和10年に、昭和食品工業所(現・水牛食品梶jと改称してから「昭和カレー」を発売しています。
 佐藤は水牛糧食工業所としていた会社を、昭和25年に法人とし
水牛食品に改めました。水牛のネーミングは、香辛調味料が肉料理になくてはならないものであるので、牛をおもいついたが、ただの牛では語呂が悪いので、水牛をブランドに採用したものです。

 明治42年生まれで群馬県佐波郡上武士出身の森村武次郎が、京都で修行の後、同じく、昭和5年に東京・荏原区小山町(現・品川区武蔵小山)に
森村鈴河商店を開業し「銀座ソース」を発売しました。森村は、昭和15年物価統制令によりエビス屋、三ツ和ソースを企業合同として、日本食品合名会社を東京府目黒区清水町に設立し、「鈴玉」印を「金鶏」印に改め香辛料の製造を手がけるようになりました。昭和22年には品川区平塚に荏原食品を設立し、25年に、ミルク、バター、化学調味料などを配合した「キンケイミルクカレー」を発売しています。この会社は昭和28年にキンケイ食品工業に改称され、その後西武系列の朝日食品工業坂戸工場となった後、現在は平和食品工業が経営をしています。

 大阪の笹原長七が、大正12年の震災直後にソースの製造拠点を東京に移して
笹原商店を開設「地球星印ソース」を製造していましたが、それに協力していた従兄弟で、広島県豊田郡中野村出身の幸家猪太郎が、昭和5年に「リス印C&Sカレー粉」の製造を始めています。商標はカレーのCとリス(スクウィレル)のSを組み合わせたものです。幸家猪太郎は家業の造船所が東京・品川に開設されたので、その責任者として上京していたもので、笹原の事業を引き継ぎ、笹原の出身地、広島県大崎上島から大崎の名を取り、大崎屋商店(現・大崎屋商会)としたのです。「寶印カレー粉」を販売しています。

 昭和6年には、往年貿易商社に勤務し、南洋方面で香辛料の知識を得た加藤栄吉が、東京・小石川原町の自宅の階下を工場に改築して
金鶏商会を起こし、固形即席カレーを製造しています。加藤はこれを翌年粉末即席カレーに改良し商品価値が認められます。
 これを昭和9年から森永製菓に納入して、同社から「森永カレー」として発売しました。翌昭和10年には、森永製菓の出資協力を得て、東京・下落合に
落合食品研究所を設立「森永カレー」「キンケイカレー」を全国販売しています。昭和12年には金鶏商会を東京・渋谷区代々木富ヶ谷に移し、森永食品工業鰍フ専属工場として「粉末即席カレー」を製造しています。

 三澤屋商店から分離独立したブルドックソース食品鰍ェ、同じく昭和6年に、東京府南葛飾郡砂町(現・江東区南砂町)に工場を新設し丸缶入りの「ブルドック印純良カレー粉」の製造販売を開始しています。

 昭和7年には、新潟県出身で明治40年産まれの、飯野吉太郎が
飯野商会(現・潟Pー・アイ・エス)を設立して、カレー・ソース業界に香辛料の原料販売を始めて居ます。

 昭和8年には、明治20年に高橋源吉が創業した東京・小金井の唐辛子商、
高橋商店(現・テーオー食品(株))の直系者である大澤高蔵(明治29年生まれ)が東京・尾久に東洋薬味商会を設立しました。当初は唐辛子を主体として営業していましたが、後にカレー粉の製造を始めています。

 昭和10年には、東京・日本橋の香辛料原料問屋、
昭和ソース原料の専務をしていた岐阜県出身の松山虎之助(明治21年生まれ)が独立して、昭和香辛料(現・ムアー食品梶jを創設し、「ムアーカレー」を製造販売しました。昭和15年には、「ムアー即席カレー粉」を発売しています。商標は松山が「10世紀にコルトバを首都として、世界最大の都市を建設して繁栄していたが、15世紀に滅亡したグラナダ王国のムアー人に魅せられて」登録したものです。

 この昭和10年には、26歳の小泉忠三郎が、東京・大塚仲町に
旭食品商会(現・潟iイル商会)を開業して、「エビスカレー粉」を製造しています。小泉は明治42年東京の生まれで、「インデラカレー」の創業者です。

 昭和12年には、大正6年生まれ20歳の豊田興完が、東京・足立区梅田に
多務良商店(現・椛ス務良屋)を開業し、「太陽鷲印(サンイーグル)純カレー粉」を発売しています。豊田は東京・深川大工町にあった渋谷商店でカレー造りを修行しました。

 高橋隆一、豊田興完、と同じ大正6年産まれの篠原進が後に
交易食品を設立してカレー業界に参入しています。

 当時の東京は、「きそば屋」「うどん屋」が多かった時代ですから、洋食屋向けの「純カレー粉」や「即席カレー粉」よりも「きそば屋」向けの「南蛮カレー粉」のほうがはるかに需要が多かったのです。
 「南蛮カレー粉」は「生カレー」とも言い、「調味料の入っていない即席カレー粉」といえるようなものです。とろみは片栗粉を用います。きそば、うどんのつゆに入れて「南蛮カレー」に使用されています。この「南蛮カレー粉」を手がけた会社は、東京では「地球印軽便カレー杉本舗」(現・杉本カレー粉本舗)(四ツ谷)、双葉屋(本郷)、三津和商店(中野)。大阪では蜂カレー、末広勝風堂。京都では甘利商店などが有名店です。


 「輸入銘柄品密造団摘発事件」

                     
昭和6年に東京で輸入洋酒の密造団摘発事件がありました。 一味の60名近くが摘発されて、警察の調べが進むうちに缶詰、瓶詰製品にも国産の偽造品があることが判ったのです。当時国内で使われていたカレー粉は、英国製の「C&Bカレー粉」(缶詰)が圧倒的な強みを見せていて、西洋料理店のコックたちは国産品には目もくれなかったのですが、このカレー粉にも疑惑があるとイギリス大使館から日本政府に申し立てがあり、業界人も40余名が取り調べられました。
 警察は真偽を調査するために国内の食料品問屋、小売店が手持ちであった「C&Bカレー粉」の荷動きをすべて止めさせたのです。調査の結果は業界人には偽造に関係したものはいなかったので、全員釈放でこの事件は解決したのです。
 ですが、この「C&Bカレー粉」偽造疑惑事件は、思わぬ展開となりました。 全国の「C&Bカレー粉」の販売店で製品の出荷が止められ、飲食店ではストックがなくなったので、代替品を使わざるを得ませんでした。国内の「カレー粉」を馬鹿にして使わなかった舶来崇拝の人達が、国産の「カレー粉」を使ってみて、輸入品と遜色ない品質であることをこの時知ったのです。
 その後カレー粉の注文が国産カレー粉に集中し、品質の信頼を得た国内のカレー粉メーカーがこの注文に答え、さらに品質の向上に勤めて今日の隆盛を招いたのです。
 


 「戦時中・統制期のカレー業界」
  昭和11年3月には、ソース・カレー粉の原料確保が難しくなったことで、情報交換の必要もあり、「東京都ソース・カレー製造業協会」が結成されて、会長に山崎峯次郎が就任しました。
 13年になるとスパイスの輸入が制限され出したので、組合の力での原料獲得を図るため、また大蔵省に原料スパイスの輸入許可運動を行うために、「関東ソース・カレー原料統制連合会」が結成され、ブルドックソースの小島仲三郎が理事長に、専務理事に山崎峯次郎、カレー業界から幸家猪太郎が理事として入っています。

 翌14年1月には「関西ソース・カレー原料統制連合会」が結成され理事長に木村幸次郎(イカリソース)、今村弥兵衛(ハチカレー)、浦上靖介(ハウスカレー)、薮内光治(メタルカレー)が理事となっています。

 同14年5月には「関東カレー工業組合」が認可され、理事長には山崎峯次郎が就任し、翌15年8月には「関西カレー工業組合」も結成されて、理事長に木村幸次郎(イカリソース)が就任しております。

 
昭和16年5月には、両工業組合の上部組織として「全国カレー工業組合連合会」が組織され、理事長に小島仲三郎(ブルドックソース)、常務理事に山崎峯次郎(ヱスビー)、黒川与兵衛(黒川与兵衛商店)、理事に木村幸次郎(イカリソース)、横澤清造(ノーブル商会)、監事に橋本清三(美津和ソース)、浦上靖介(ハウス)が就任しました。

 昭和18年には、「統制会社令」が公布され、国の監督権が強められました。昭和18年7月に農商省から関東・関西カレー工業組合を統制組合に改編するよう指示が出され、これを受けて19年4月に「日本カレー工業統制組合」が設立されました。役員は農商省食品局からも入選があり、理事長山崎峯次郎のもと発足しました。小麦粉は主食とするために配給を辞退し、「即席カレー」の製造は断念せざるを得なくなりました。以降業界では「純カレー粉」のみの生産となり、国民食と言うより、軍隊への納入が主力となっていったのです。英語の使用も敵国語だとして改められ、ヱスビーカレーは「ひどりカレー」、ナイトカレーは「楠公カレー」、になりました。


 「太平洋戦争後のカレー産業」
  
戦時中は空襲によって生産拠点を失った企業も多く、焼け残った原料や手持ちの原料をかきあつめ、野草を粉末化した代用原料を混ぜて製品を作った会社もあると言います。
 このような状況の中で、昭和20年の終戦直後、尾久工場を失った大澤高蔵は、高橋商店を継いだ甥の高橋隆一と協力し、多摩郡小金井町関野新田(現・小金井市)に
東京調味合名会社を設立し、カレー粉の生産を開始しています。

 この年には工場を焼失していた橋本清三が「ナイト印」の
三津和食品工業を再建し、「主婦の友カレー」の朝日食品が、千葉県香取郡に工場を建設してカレー生産を再開しています。

 同年には、
合名会社浦上靖介商店が本拠を大阪・布施市御厨に移し業況を拡大していますし、星野益一郎が名古屋市中区椿町に潟Iリエンタルを設立して、炒めた小麦粉に純カレー粉を加えて粉末状にした「オリエンタル即席カレー」の製造を始めています。
 アンパン1個が5円の時に、5皿分の即席カレーを35円で発売しています。

 昭和21年には、GHQから小麦粉(当時は米軍から貰ったのでメリケン粉と言った)が供出され、東京の89校で試験的に学校給食が行われたことがきっかけで、カレー業界も積極的に学校給食に協力し、戦後の業界発展のステップとしました。

 この年、福岡では小谷政一・小谷幸一が共同で
大盛香辛料研究所を設立しています。また、内田龍雄が横浜交易食品を設立して「コーエキ印純カレー」の製造を開始しています。この会社は終戦後にパン・麺類も手がけていましたが、昭和27年に篠原進をトップにして、社名を交易食品鰍ノ改称しカレー粉の製造に戻っています。

 昭和22年には、キンケイブランドの森村武次郎が、
荏原食品工業を有限会社から株式会社に改組しており、小泉忠三郎が個人経営だった旭食品商会を東京都練馬区豊玉北に移し、法人に改めて旭食品に改称しています。

 
金鶏商会を渋谷区富ヶ谷に移し、戦時中は横須賀海軍へ納入するカレー粉の専属工場を経営していた高橋栄吉は、戦災で焼失した工場を同じ場所に再建しました。高橋は昭和22年に同社を法人とし、葛煬{商会に改称して再興を図りましたが昭和28年に病没し、工場は閉鎖されました。しかし、同年、山崎雅司が葛煬{を設立し、この工場を借り受けてカレー工場を再開しています。
 昭和31年から
キンケイ食品工業を経営していた森村武次郎が、キンケイ食品とは別に葛煬{商会と葛煬{の二社を経営することになり、後にこの二社を統合して社名を平和食品工業に改称しています。

 原料を輸入する香辛料業界では、山梨県東八代郡(現・勝沼町)出身で、明治34年生まれの安間美寿(現・ヤスマ鰍フ創業者)が、昭和22年に東京都品川区五反田で
安間香辛料商店を開業しています。

 戦後のカレー業界は、香辛料(原料)の確保に苦心し、共同購入などの必要性から連携が強化され、戦時中に設立した「日本カレー工業統制組合」を解散して、昭和22年2月には「日本カレー工業協同組合」を設立(理事長山崎峯次郎)したのですが、同年8月には解散し、同日「カレー工業会」が設立(代表山崎峯次郎)されています。そのブロック組織として、22年10月に「関西カレー協会」が12月に「東京都カレー協会」が結成されました。、さらに翌23年10月には東西にあった「カレー協会」を「関東カレー工業協同組合」(理事長・山崎峯次郎:ヱスビー食品梶jと、「関西カレー工業協同組合」(理事長・粕谷博久:ハチカレー)に改組し発足させています。「中部カレー工業協同組合」は昭和24年2月に設立(理事長松山虎之助:ムアーカレー)されています。
 この年のカレー粉の年間需要量は500トンと言われていましたが、国内の年産はわずかに96トンほどだったのです。
当時の組合で、A,ウコンの代用品の研究 B,たくあん用ウコンの入手 C,コリアンダーの国内栽培 D,クミン代用のくろもじの葉の採集 などが審議されたと記録にあるところを見ても、いかに香辛料原料の確保に苦心していたかが伺えます。

 昭和23年4月には、業界の手持ち原料で、東京都内の学童給食にカレーが出され、これが好評だったので農林省が澱粉を供出し、連合軍も香辛料(オールスパイス、マスタード、ブラックペパー)5トンを放出してくれましたので、業界は活況を取り戻しました。

 この年には、京都・伏見の甘利辰男の甘利商店が
甘利香辛食品に改組して、C&A、CBC,花ベル、を商標登録しています。また大正7年生まれで、日本橋の薬種商社・金井藤吉商店に入社し生薬の研究をしていた、静岡県河津出身の三橋秀雄が、東京都世田谷区三宿に東京香辛料(原料商)を設立しています。

 戦災で焼失した
黒川与兵衛商店の神埼工場も同年に再建され、「月美人印のカレー粉」の製造を再開しています。
 前川善一郎が
且R城屋(現・潟oリ)を設立して、「山城屋のカレー粉」を発売するなど、カレー業界は戦後の混乱期から安定への道を辿り始めました。

 昭和24年には浦上靖介の、
浦上糧食工業所が社名を「潟nウスカレー浦上商店」に改称し、同年に日賀志が社名をヱスビー食品に改称しています。

 昭和25年には、洋菓子の製造を目的に森田清一が設立していたベル製菓を、
ベル食品に改称して、固形即席カレー「ベルカレールゥ」を発売しています。ベル食品は27年に東京銀座6丁目から新宿区三栄町に移転して、社名もベル食品に改称しています。

 東京調味も25年に、高橋隆一と大澤高蔵の姓の頭文字のTとOをとって、帝王にも通ずるとして、
テーオー食品合名会社に改称しています。さらに同社は昭和38年3月に法人となり、テーオー食品(株)に改称されました。
 この年、轄O木屋商店は、藪内光治から近藤卯吉に社長が代わり、商品名のメタルカレーからとって、
メタル食品に改称しています。

 この昭和24年に関東、関西に続いて「中部カレー工業協同組合が」結成され、理事長に松山虎之助(ムアー食品)が理事長に就任しました。虎之助を助けて組合結成に尽力したのは、松山省三でした。

 こうして、カレー業界は、戦後の復興をとげ、ようやく戦前の姿に復帰したかに見えましたが、主要原料である香辛料の大半が東南アジアからの輸入に依存しなければならないのに、敗戦国日本は対外貿易に拘束を受けており、香辛原料の輸入はいかんともしがたいものでした。
 そのような時に、日本からの要請に応えて香辛料を供給してくれたのが、インドミッション(外交使節団)だったのです。この時に影の力となって働いてくれたのが、後に小泉忠三郎と協力して「インデラカレー」を作ったA・M・ナイルです。ナイルはインドの名門の生まれで京都帝大に留学。在学中からインド独立運動の闘士であったビバリ・ボースに私淑し、ともにインド独立連盟を創設。以降終戦まで独立運動に携わっていました。日本人とも深い付き合いがあり、インド使節団の考慮から使節団の顧問を務めており、日印友好の架け橋となって日本のために努力してくれました。
 

 「カレー業界の安売り競争」
  
スパイス原料がGHQから放出され、中国からの50トン輸入、さらにインドミッションからの70トンの輸入と朗報が続き、香辛料業界では製品価格の維持を申し合わせていたにも拘わらず、純カレー粉の安売り競争は熾烈を極めました。即席カレーの業界も農林省から、小麦粉、砂糖の割り当てを得たので生産は完全に復調し、流通界からも批判の声が出るような特売合戦が始まりました。温泉・劇場招待や当時はまだ所有者の少なかった自動車を景品にした特売も現れたのです。昭和26年ブランド競争の落伍者がでるなどして「関西カレー工業協同組合」「中部カレー工業協同組合」は相次いで解散しました。

 このような状態を収束するため、昭和27年に山崎峯次郎と粕谷博久の東西を代表するトップ会談の結果、特売自粛の方向で意見の一致をみ、4月新全国団体として、「全国カレー協会」が設立されたのです。事務局を「関東カレー工業協同組合」のある東京・豊島区高田本町に置き、常任委員には、会長の山崎峯次郎(ヱスビー)、粕谷博久(蜂カレー)、加藤栄吉(金鶏商会)、松山虎之助(昭和香辛料)、浦上靖介(ハウスカレー)の5人が互選され、協議の結果、「条件特売一切を中止する」との申し合わせがなされました。

 「関東カレー工業協同組合」は、激化する販売競争による製品の品質低下を憂いて理事長の加藤栄吉、常務理事の大澤高蔵、加藤三郎(加藤食品工業所)らが中心になって、品質検査合格証紙の添付制度を決定していますが、この制度は大手の参加が得られず1年あまりで終わっています。 

 その後も、特売について、業界全社の協力を得ることが出きず、翌28年に公正取引委員会から特売禁止の勧告を受けました。
 公聴会が開かれ、独占禁止法による特売禁止指定、告示第16号「カレー粉業における特定な不公正な取引方法の禁止」が告示されました。不公正取引の防止のための告示がなされたのです。この特売禁止の履行のために「カレーこしょう業全国公正取引協議会」が組織され、委員長に森村武次郎を選任し、新しく不当競争防止のためのルールを定めました。

 
昭和28年には、旭食品鰍フ小泉忠三郎が在日インド人会長のA・M・ナイルと技術提携をして、潟iイル商会を設立しました。商品名のインデラはインドの神話にある月から降りてきたお姫様です。
 この年の開業は、大阪・堺市で中野音吉が「羽車カレー」の製造を開始、広島市天満町で墨田耕三が「スミダ」を開業し固形即席カレールゥを製造しています。

 昭和28年、関東カレー工業協同組合の理事長・加藤栄吉(金鶏商会社長)が脳溢血で急逝。後任理事長に大澤高蔵(テーオーカレー)、専務理事に加藤三郎(金船カレー)、常務理事に坂巻寛一(金鶏カレー)、理事に小島忠三郎(ブルドックカレー)、橋本清三(ナイトカレー)、監事に幸家伊助(リスカレー)、松山省三(ムアーカレー)、が就任。山崎峯次郎を顧問に推戴しました。
 この年28年7月にはカレー業界の全国組織として、「全国カレー工業協同組合連合会」が設立(会長山崎峯次郎)されています。

 昭和28年度の生産量は純カレー粉1260トン、即席カレールゥ1530トン、で、前年比30%の増加でありました。

 「第二次カレー産業隆盛期」
 
 昭和30年代に入って、カレー業界は「即席カレールゥ」の時代を迎え、カレーの消費は急速に伸びていきました。
 昭和35年の生産量は純カレー粉4,000トン、即席カレールゥ2万トンとなりました。これは昭和29年にくらべると、純カレー粉で3倍、即席カレールゥは7.5倍の伸びとなっています。

 このブームのさなかの昭和36年に菓子業界の大手、
江崎グリコが「グリコワンタッチカレー」を発売し、カレー業界に参入しました。江崎利一は明治15年佐賀県神埼郡蓮池村の薬種業者の長男として生まれ、大正11年に合名会社江崎を設立。「グリコ」を発売して「1粒300メートル」の広告で菓子業界の大手になりました。

 さらに、戦時中に輸入を断たれていたC&B社をネッスル社が吸収し、国内でカレー粉の販売を開始しています。
 この頃に、調理済みカレーを缶詰にした製品が登場したのですが、缶詰業界が製造する調理済みカレーが、公正取引委員会の「カレー粉業の不公正取引方法の禁止品目」に含まれて居なかったために、規制外製品として出回り、缶詰業界との話し合いが持たれました。この頃には、外資系企業の香辛調味料業界への進出もあり、業界は激動の時期であったのです。

 昭和30年頃から、大手カレーメーカー各社は、営業部員を乗せた宣伝カーを全国に走らせカレーの作り方を教えたり、まだスーパーやコンビニのない時代でしたので、肉屋の店頭で試食販売を行うなどカレーの普及に努めました。
 またラジオ番組を提供し、やがてテレビコマーシャルを浸透させて業界を盛り上げていったのです。
 江崎グリコの「ワンタッチカレー」発売に刺激されて、37年1月には
キンケイ食品工業明治製菓の共同ブランド「明治キンケイクイックカレー」が、6月にはヱスビー食品の「ダブルカレー」と、テーオー食品の「トマトカレー」が発売されました。さらに続いて、「ベルカレールゥF」、「メタル即席カレー」、「ヱスビーハイカレー」、「明治キンケイお子さまカレー」、「ハウスバーモントカレー」、「ベルインドカレー」、など肉や果実を添加していることを強調した製品が発売されて、第二次カレーブームを巻き起こしました。

 「カレー業界のCM合戦」
 
  昭和26年からラジオの民間放送が開始され、スポンサーつきの番組提供、コマーシャルと高視聴率の獲得競争が始まり、各社は自社商品の良さをラジオを通して訴え、その普及に努力していきました。

 第二次カレーブームは、カレー業界大手が、ラジオに続いてテレビによるCM合戦を行ったことで、「ライスカレー」の家庭への進出が高まりカレーブームが到来しました。過当競争的なCM合戦がカレー業界の隆盛を支えたのです。

 この頃のCMは
、潟Iリエンタルが、「オリエンタル即席カレー」のCM。 ♪ 「なつかし〜い、なつかし〜い、あの〜リ〜ズ〜ム、エキゾチイ〜ックな、あの〜し〜ら〜べ。 君〜知るや〜。君〜知〜るや、オ〜リエンタルカレー〜。♪ を流し。「マースカレー」には夢路いとし・喜味こいしを起用。さらに、「スナックカレー」には有名なあの南利明のCM。 ♪ 「肉や野菜がいぃっぺえ〜入ってるでよ。みんなウハウハ・ウハウハ喜ぶよ!・・ハヤシもあるでよ。 ♪ を放映しています。 35年頃のキャッチコピーは ”ファイト・スタミナ・健康を作るカレー料理はオリエンタル即席カレー”というものでした。

 
ヱスビー食品のCMは、 昭和34年の「モナカカレー」に立川談志を起用し、39年の「特製ヱスビーカレー」で登場した芦屋雁之助の”インド人もびっくり”のCMがこの頃大変な話題になりました。 

 
潟nウスカレー浦上商店は昭和35年に社名を「ハウス食品工業」に改め、固形即席カレー「印度カレー」を発売し、38年には「バーモントカレー」を発売、 ♪ ハウスバーモントカレーだよ、リンゴと蜂蜜、とろ〜り溶けてる・・・・ハウス・バ〜モント・カ・レ〜ェヱ〜 秀樹・感激! ♪ が42年頃に話題となりました。 

 江崎グリコのCMは、昭和36年の「ワンタッチカレー」発売に合わせて、榊原郁恵やジェリー藤尾一家を使って話題のCMを提供しました。

 
明治製菓のCMは ♪ 明治キンケイ、明治キンケ〜イ、 ミル〜ク・カ・レ〜ェ〜 ♪ が話題となり、キンケイ食品工業はキッチンカーを全国に走らせたほかに、キングレコードとの共催で公開テレビ番組「キング歌の祭典」をコロンビア・トップ、ライトの司会で提供したり、「日劇秋のおどり」を貸切公演とし、消費者を招待するなどしました。

 このように、カレー業界各社がテレビ番組を提供し、各社のコマーシャル活動が、それまで学校給食が中心だった「ライスカレー」を、一般家庭に普及させる一役を担ったのです。

 「全日本カレー工業協同組合の結成」
  貿易自由化によりスパイス原料の輸入は拡大し、製菓会社の業界進出、大手食品会社の多角化、などにより企業間競争は激しいものとなっていたのです。

 公正取引委員会が不公正取引防止の告示をしましたが、依然として不公正取引が横行し、「穏当を欠く過度のリベートはカレー業界全体に影響を与える」との認識の下に、これらの解決のためにはカレー組合の農林省承認が必要との声が高まり、28年7月に設立した全国組織「全国カレー工業協同組合連合会」を発展させて、昭和36年5月に「全日本カレー工業協同組合」が農林大臣より認可され新たに結成されたのです。
 初代の理事長には山崎峯次郎が就任しました。同時に、「全国カレー不公正取引防止協議会」を設置したのです。
 協同組合設立時に参集した組合員は関東側から、ヱスビー食品、ベル食品、キンケイ食品、テーオー食品、朝日食品、川上商会、サンエム食品、三光商会、昭和香辛料、水牛食品、東京エムジー、ナイト食品、ナイル商会、交易食品、ほていや、スミダ商店、多務良屋。 関西・中部側からはハウス食品工業、オリエンタル、黒川与兵衛商店、甘利香辛料、末広食品工業、蜂カレー、光食品、メタル食品が出席しました。委任状での参加社は、甲味食品工業、チキンソース、松栄食品、日印貿易、羽車カレー、ロークス本舗、金田芳商店、金船カレー等が加盟しました。
 組合の事業は、@香辛料の協同購入、A協同保管・検査、B最低賃金の協定、C事業資金の貸付、D経営・技術の改善、知識の普及・教育等を定款に謳いました。当初の事業として、@香辛料購入外貨の割り当て、A自由化に伴う外国品の輸入防御、B不公正取引の防止、C荷造包装の標準化、等を決議しました。

 「販売競争の沈静とレトルトカレーの登場」
 
 この頃になると、CM競争と販売競争はさらに激化し、カレー業界の企業格差は広がるばかりとなりました。原料、資材、人件費など諸経費が高騰し、各社の収益は悪化していましたが、お互いに値上げが出来ず、五皿分(120g)のカレールゥ価格は永年50円で留まっていました。しかし、昭和38年に「ハウスバーモントカレー」が60円で発売されたことをきっかけに、ようやく他社も商品価格の改定に進んだのです。

 公正取引委員会は昭和42年に、それまでの「カレー胡椒業の不公正取引の禁止告示」を、独占禁止法第3条による「景品表示法の公正競争規約の公示」に改めて、新たに発足させた「カレーこしょう業全国公正取引協議会」が不当競争の禁止を定めた「公正競争規約」を告知しました。その際に、カレー工業協同組合の主催によって、「消費拡大のためのイベントを開催する」ことを公正取引協議会が決議し、各社の協調姿勢が明示されたことは、業界の一歩前進でありました。

 そんな状況の中で、新製法と銘打って登場したのが、昭和43年
大塚食品工業(平成元年大塚食品に改称)が発売したレトルトカレー「ボンカレー」です。ボンカレーは、フランス語の”bon”(優れた、おいしい)からとった商標で、「3分間温めるだけで、すぐ食べられる」として、女優の松山容子を起用し大変な話題となりました。昭和48年には当時流行した時代劇「子連れ狼」をパロディとして、落語家の笑福亭仁鶴をが出演した「3分間待つのだぞ」「じっと我慢の子であった」というナレーションがボンカレーの売り上げを伸ばしました。
 レトルトカレーは、発売当初は合成樹脂2層のみのパウチだったのですが、間にアルミ箔を挟んだことで、空気・光の遮断にも成功し、簡単にすぐ食べられるということで好評を博しました。

 レトルト食品は、アメリカ軍が缶詰に代わる軍用携帯食として開発したもので、重さや空缶処理の問題を改善するのがねらいだったのです。その後アポロ計画で宇宙食に採用されて、食品メーカーが注目し、大塚食品が世界で最初に一般消費者向けに開発したものなのです。
 昭和40年代の後半には、大型量販店の時代を迎え、この完全調理済みカレーにカレー業界や缶詰業界の各社が参入し、あらたな勢力の登場が注目を集めると同時に、カレーの市場規模を順調に拡大させていきました。
 

 「近年の各社の主力商品」

 
昭和50年代から平成の今日まで、国民食といわれるカレーの消費は安定成長路線で推移し、「カレー粉(純カレー)」「即席カレールゥ」「レトルトカレー」「缶詰カレー」が定着、それぞれの分野で各社が企業の特色を出して、「カレー産業の発展」にしのぎを削っており、第三次カレーブームといえると思います。

 各社の近年の販売品を辿ってみますと。
 
ヱスビー食品の即席カレールゥは、「ゴールデンカレールゥ」「インド風カレーソース」や、昭和50年に発売した欧風高級カレー「ヱスビー・フォン・ド・ボーディナーカレー」が主力商品で、平成13年には「とろけるカレールゥ」を発売しています。レトルトカレーを発売したのは昭和45年の「サンバードチキンカレー」からですが、販売不振であったので一度撤退し、昭和57年「フォン・ド・ボーディナーカレーレトルト」で再参入をしています。その後のレトルトカレー発売は「なっとくのカレー」や、昭和58年発売の幼児向けカレー「カレーの王子さま」、最近は「カレー曜日」「ディナーカレー」が話題の商品です。

 
ハウス食品工業は、平成5年に社名を、「ハウス食品」に改称しました。即席カレールゥは「ジャワカレー」を昭和43年に発売。「バーモントカレー」「印度カレー」「ザ・カリー」や平成8年発売の「こくまろカレー」が話題の商品です。レトルトカレーは昭和46年には「ククレカレー」を発売しています。キャンデーズの出演で「♪おせちもいぃ〜けど、カレ〜もねッ!♪」のセリフが話題のCMでした。その後「カレーマルシェ」「海の幸カレー」「カ(左に口、右に加と書く字)哩屋カレー」などを発売しています。

 
江崎グリコの即席カレールゥは、「ワンタッチカレー」の終売後、「2段熟カレー」「極カレー」が発売され、レトルトカレーは「LEE」「カレー職人」を発売しています。最近は朝食に添える一口サイズの「ちょい食べカレー」が話題の商品です。
 潟Iリエンタルの即席カレールゥは「即席カレー」「マースカレー」が販売されており、レトルトカレーは「農家のカレー」「激カレー」などが販売されております。

 
平和食品工業は業務用カレー分野に特化しており、即席カレールゥは、「インドカレー」「フォンブランカレー」「うま伽哩」「すご伽哩」を発売し、レトルトカレーは「No1,Chefビーフカレー」「レストランカレー」「カレー具連隊」などを販売しております。

 
テーオー食品の即席カレールゥは「インドカレーフレーク」「スペシャルカレーフレーク」「ハッピーカレーフレーク」「グランドカレー」を主力にし、レトルトカレーは「ハイグレード21カレーソース」「香辛館ビーフカレー」が主力の商品です。

 
明治製菓は、即席カレールゥでは「インドカレー固形」「銀座料理長カリーフレーク」を主力にし、レトルトカレーは、「銀座カリーシリーズ」を販売しています。

 
交易食品は「キッズカレールゥ」「キングカレールゥ」のほかに、レトルトカレー「横濱レトロカリー」などを発売し、甘利香辛食品は「エクストラカレールゥ」「カレールゥA」などを発売、ハチ食品は「レッドカレー」を発売しています。

 カレー工業協同組合の非加盟業者では、
エバラ食品工業が「マドラスカレーシリーズ」を、エム・シーシー食品は「インドカレーソース」を発売しており、他に永谷園、創健社、資生堂パーラー、麻布タカノなどがレトルトカレーを発売しております。なお、近年は「ご当地物のレトルトカレー」が豊富に出回っており、「スープカレー」や「カレーうどん」も町おこしの一翼を担っています。
 

 「近年の業界の指導者」
  昭和60年8月12日、業界の大きな指導者であった浦上郁夫・全日本カレー工業協同組合理事長(ハウス食品工業且ミ長)を御巣鷹山での日航ジャンボ機墜落事故で失ってしまいました。前述のとおり昭和36年にカレー業界の大同団結があり、山崎峯次郎、森村武次郎、小泉忠三郎など、明治生まれの指導者によって団結した業界が、昭和生まれの浦上郁夫の指導によって、さらに強固なものとなっていた時だけに、その不慮の死は深い悲しみに包まれました。

 平成に入ってからの全日本カレー工業協同組合は、新たな指導者として、理事長には山崎達光(ヱスビー食品)、江崎勝久(江崎グリコ)、小瀬 ム(ハウス食品)、江戸龍太郎(ヱスビー食品)が就任し、カレー業全国公正取引協議会委員長の森村憲二と共に、業界上げて協調し、食品産業界における地位向上に切磋琢磨をしています。


     参考文献 : 総合食品連載  服部 博 著 「日本のカレー産業」 1989/4〜1990/7
             全日本カレー工業協同組合   ホームページ・資料
             そ の 他    カレー産業各社のホームページ



                                    お 願 い


             トップページに「掲示板」があります。
           文章上の誤り、時代、固有名詞等の間違い、その他お気
           づきの点がございましたら、「掲示板」にご記入願います。
           尚、参考資料に記載の会社について、どんなことでも結構
           です。知っていることがある方は、情報を同じく「掲示板」
に、ご記入をお願い致します。   


カレーの話に戻る 
トップページに戻る
掲示板」に進む.