映画「男はつらいよ・寅さんシリーズ」や「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次監督が構想10年。 監督生活41年目、
77作目ではじめて手がけた時代劇。 原作、藤沢周平の小説の映画化。 時代の波を見つめ、貧しさの中で冷静に 自分を貫く男のヒューマン時代劇。 真田広之の剣・殺陣がいい。 宮沢りえは舞台挨拶で「素直にこの映画の中で 呼吸が出来た。汗が流れて、涙も流れた。監督にすべてを剥ぎ取られてさらけだし演技できたことは貴重な体験だっ た」と述べたという。 大人の役者になった宮沢りえの出過ぎない演技がいい。
【キャスト】
井口清兵衛 (真田広之) 主人公の庄内藩・御蔵役の平侍。永病の妻を亡くしたばかりだが、痴呆の母と二人の娘がいる
井口 萱野 (伊藤萱野) 清兵衛の長女 井口 以登 (橋口恵梨奈) 清兵衛の次女 飯沼 朋江 (宮沢りえ) 飯沼倫之丞の妹。清兵衛の幼友達 余五善右衛門(田中 泯 ) 藩の切腹の命に従わず清兵衛と対決する 井口藤左衛門(丹波哲郎) 井口家本家の主人 久坂長兵衛 (小林稔侍) 御蔵役奉行。御蔵役勉強塾の先生 甲田豊太郎 (大杉 漣) 朋江が嫁いだ 藩の武士 飯沼倫之丞 (吹越 満) 清兵衛の幼友達。朋江の兄 晩年の以登 (岸 恵子) ナレーション
【ストーリー】
幕末の山形県庄内藩、御蔵役井口清兵衛の家、妻が亡くなり、ボケの出ている母と二人の娘をかかえ、途方に呉れ ている男のうなだれた姿があった。 まもなく親戚縁者が桶を担ぎ、のぼりを立てて野辺送りをする葬列が出た。
”長患いの果てに母が亡くなったのは、私が5歳のときでした。母の病は労咳でしたので物心ついた頃からそばに行くことは禁じられていました。だから、母の想い出はあまり有りません。私の郷里は現在の山形県庄内郡海坂町。当時はまだ明治維新の前で、海坂藩7万石の城下町でした。”
藩の御蔵役が城内の塾で勉強をしている。下城の合図の太鼓が鳴った「各々方ご苦労さんでがんした。だは本日はこれで・・・」 塾の奉行の久坂長兵衛の言葉で座は気が緩む。「面白い店があるそうだな・・・おめえ知ってるか?」 「ひさごのことか?」 「今夜あたり・・・川上!おまえゆくか?」 「お供いたします」 「井口!お主もたまには・・・どだや」 「いやあ・・私は・・」 「誘うだけ無駄か・・・」 「でわ・・」と席を立つ清兵衛。 「つまらぬ男だのう・・たそがれは」同僚が遠慮のない言葉を投げるが、清兵衛は後ろも見ないで部屋を出る。
”母の看病と私たち姉妹や祖母の世話をするために、父はお酒のお付き合いなどは一切断って、たそがれ時になると急いで家にかえらねばなりませんでした。そんな父のことを心無い同僚達は「たそがれ清兵衛」というあだ名で呼んでいたそうです。”
清兵衛が家に帰る。「以登!・・」 「お父はん・・・おかえりなさい」 「萱野・・・今夜はとんがら汁か?・・」 「はい」 母のそばに行って「ただいま帰りました。・・お母はん・・ご気分どうでがんす?」 ボケた母が言う「あんたはん何処のお身内で・・・・」 「海坂藩、御蔵方の井口清兵衛でがんす。・・・ボケ方がまたひどくなってきたか・・・自分の息子も忘れたか?・・・」
居酒屋「ひさご」 清兵衛の同僚達が飲んでいる「それにしても矢崎、何とかならんかの、たそがれは・・・着物はあちこち破れているし、脇さ言ったら異様な匂いがする。ああ、ほんとに醜い」 「おいかた仲間も見ていられねえさけえ、何とか後添いをとあちこち当たってはみましたどもどーもだめどすの、条件悪すぎるもの」 「幼ねえ二人の娘、モウロクしたバサマ。50石と言ってもお借り米を引かれると手取りは30石。これじゃまるで内職しに嫁に行くようなものでの」 「借金もしてるんでねえのか・・」 「この間の葬式どうやって出したもんだか・・刀でも売らねばとてもあれほどの葬式は出せねえの・・」
清兵衛の家。 以登が「ババ寝る?」と言うと母が「清兵衛・・」といって二人が立ち上がる。 以登が「おやすみなさい」と言い、菅野が「おやすみ」と返す。 「思い出してくれたようだの、おとはんのこと・・・」清兵衛が菅野に声をかけながら囲炉裏のそばに座る。 菅野が「子のたまわくせんじょうの・・」と暗唱するのをきいて清兵衛が「今読んでいるのは論語ではねえか・・いつからそれを始めたよ。」 「先月の終わりから・・お師匠はんがこれからはおなごも学問しねばだめだっておっしゃったの」 「それはええことだ。おれも子供の頃何度も何度も読んだでなつかしの」 「はん・・針仕事習って上手になれば、いつさは着物や浴衣が縫えるようになるだろ。・・・だば、学問したら何の役にたつんだろう」 「学問は針仕事のようには役にたたねえかもよ。 学問しれば自分の頭でものを考えれるようになる。この先世の中どう変わっても、考える力持ってればなんとかして生きて行くこともできる。これは男もおなっこも同じことだ」 菅野はうなずいて続ける「老子いわく我日々にみたり、わが身を省みず人にために・・・」父清兵衛も途中から唱和していた。 "母の長患いでたくさんの借金が出来た上に、祖母がモウロクしてからは炊事、洗濯、畑仕事、盆正月の仕度や近所とのお付き合いなどで忙しく、父は自分の身の回りに気を配るゆとりがなく、次第に薄汚れた姿になりました。娘の私はそれがとても悲しかったものです”
城中の穀物蔵。 「お上の御成りである」 久坂長兵衛が説明する「申し上げるまでもなく、出陣、ろう城などで藩が戦さをするときのために、食料を貯めておく重要な蔵でがす」 「こちらはインゲン、大豆、小豆これらは特に乾燥に注意しております。 乾しでこ、乾しぜんまい、味噌。そちらはボウダラでがんす。戦の時には大変重要な食料でござります。」 「ボウダラは今どれほどあるのか?」 「井口と言うのか・・・じきじきにお答えしてよろしい」 そばに控えていた清兵衛が呼ばれた。 台帳をめくりながら清兵衛が「申し上げます。 数にすれば760本、目方にすれば約120貫でござんす。」 「ボウダラは何年ほど持つのか?」 「はい、・・・5年から10年・・今ここさありますものでは、もっとも古いもので6年前に買い付けた物でがすども、神崎のボウダラはいいものだすたけ、10年たっても味は変わりますめえ」 上様は鼻をくんくん鳴らして匂いを嗅ぎ、その正体が清兵衛であることに気付く「最前から妙な匂いがするがそちか?・・・よいか家中の者は庶民のお手本とならなければならない。むさくるしいのはいかんぞ。・・・ご苦労であった」 上様の姿が見えなくなると久坂は「この、バカ!バカバカッ」と清兵衛を両手でたたく。
”この噂はたちまち城中に広がり、父はさんざん笑い者にされたそうです。 ある日、本家の大伯父様が大変な剣幕でやってきました。”
玄関に立つなり大伯父が「たのもう・・頼もう。・・おい清兵衛!」と叫ぶ。 萱野が迎えに立って走りながら「ああ、伯父様がお見えだ・・・ああ、叱られるのか・・」と言う。 「誰もいねえだか、この家は・・」さっさと上り込んで「実に情けねえ、おめえが風呂にも入らねえで、ボウダラのような臭せえ身体でお上にお目にかかり、たいそうご不快な思いをおかけした事は、井口家一門の恥だぞ」と怒る。 清兵衛は「とても申し訳なく思っております」と平謝りをする。 「話を聞いてわしは早速、物頭の寺内さまにお目にかかってお詫びを申し上げた。 幸いお上が肝要なお方でおとがめなしで済んだが、切腹ものゾ・・」 「そげなご迷惑までおかけしたとは、考えておりませんでした。ひらにお許しを・・・」 大伯父は萱野の向かって「萱野!・・手代が習い事でもやっておるか?」と聞く。 「はい、針仕事のお稽古と論語の素読を・・」 「論語!おなごに学問などいらんよ。ひらがなさえ覚えてればそれでええ。あまり学問などすると嫁に行きそびれるぞ・・萱野」 清兵衛が「萱野・・寝ろ」と言って娘を寝に行かせる。 本家の伯父が続けて言う
「さて、本日わざわざ出向いたのはその儀にあらず、お前に縁談を持ってきた。一刻も早く働き者の嫁を貰って、このようなみっともない暮らしから抜け出さねばならん。わしの古い付き合いの庄屋に、行かず後家の娘がいて、おめえの話をしたら是非にといっている。もちろん貧乏暮らしで、二人の娘にモウロクしたババアまでいることは伝えてある。ただし色白であるとか別嬪であるとか、そのような贅沢は言えねえことはおめえも解かってんな・・身体が丈夫で尻がでっかく、子供をたくさん産む女が一番。・・・顔なんざあればいい。・・この話すすめるぞ」 「おん様、お言葉を返しますけども・・・わっしはこの暮らしをおん様が考えておられるほどみじめっては思ってもいません。たしかに風呂さも入らねえで、お上にご不快な思いをさせ申したことはよくねえ、二度とこういうことがねえように心がけまする。しかし、二人の娘が育って行く様子を見るのは・・・たとえば、畑の作物や草花の成長を眺めるのにも似て、実に楽しいものでやす。 おんさまが世話してくださるって仰ってる方が、この気持ちわかって下さるかどうか」 「解かってたまるか。・・おめえは子供の頃から何時もそうだ。ときどき訳の分からねえ屁理屈を言って親を困らせていたな、いったい畑の作物とお前の縁談とどう言う関係があるんだ」 「ほでは、解かりやすく申しあげますと、私の後添いのことはどうかご放念頂きたいと・・・」 「お前は本家の伯父に逆らおうと・・・」 母が障子を開けて顔を出す。「やあ、これは・・・」 「キヌか?。達者か?・・・」 「ありがとがんす。・・ところであんたさまはどこのお身内でがんしたかの?」 「おめえの義兄貴だ。帰る!。隣近所の手前もある、柱にでも縛り付けておけ!」
”もう、おめ方一家の面倒は見ねえと、大声で言い捨てて伯父様はお帰りになりました”
以登が起きてきて聞く「お父はん、なんでおんさまに叱られてと?」 「おめがたは、あのおんさまが好きか?・・」 二人が首を横に振る。 「おれもでえ嫌れえだ・・・」 「今日あのおんさまは、お父はんさ縁談持ってきたがども、おれは断ったぞ。あのおんさまの世話で後添いなどもらいたかねえんだ。牛や馬の売り買いじゃ有るめえし、身体さえ丈夫ならいいなんて言い方しては、向こうの人様にも失礼千番だ。それともおめえ方はお母あんがいねえと寂しいか?」 「お父はんが居てはるさけえ寂しくねえ」 川の土手で清兵衛親子がふきを取っている。 近くで村人が騒いでいる「子供の仏が・・・どこから流れて来たんだろのう・・・成仏してや」 ”春浅い河原での若菜摘みは、子供達には大きな楽しみでしたが、あの当時は凶作続きで、雪解けの冷たい川を、飢え死にしたお百姓の死体が良く流れていたものでした。” 城山で火縄銃による射撃の訓練を射撃隊が行っている。 清兵衛は友人との待ち合わせをしており、それを眺めている。 「清兵衛・・待たしたの・・」やってきたのは幼な友達の飯沼倫之丞であった。 「京さ、旅してたそうだの・・」 「元締めのお供で京、大阪の商人達へ頭下げて廻ってきた」 「京はいいとこか?。」 「俺も期待して行ったんだどもとんじもねえ・・日本中から集まったごろつきと、汚たねえやつがゴロゴロしてて、加茂の流れさ、首のねえ死体がぷかぷか浮いてるありさまでの」 その時”ドカーン”と銃が暴発する。 「今時、火縄銃だとよ・・・蛤ご門の戦いで敗れはしたものの、いずれ長州が薩摩と手を組んで京さ登ってくる。そうなれば徳川300年天下泰平の夢は風前のともし火だぞ。いったい我が方はどうなってるんだ。・・・お主、京都に行ってみないか?。・・御所警護の役人が足らんのだ。俺が推薦してもいい。 京都さ行けば天下のことがわかる。お主ほどの人間がこげな田舎にうろうろしてる時ではない。」 「買いかぶりだ。・・俺はそれほどの人間ではない」 「しかし、天下は変わるんだぞ」 「その時はおらあ、侍やめて百姓になる。・・・かたぎ仕事がおれさ合ってる。」 「変わったやつだの・・おめは。・・昔からだものな・・まるで欲というものがねえ。 あッ・・肝心の用を忘れてた。・・・このたびは新造がお気の毒なことじゃった。 線香でもあげてくれ」と言って懐から包みを取り出し手渡す。 「わざわざすまねえの・・・」 「葬儀には俺の代りに妹をやればよかったんだろうが、あいにくあいつが、ここんとこ色々あってのう・・・」 「朋江さん・・どうかしたのか?」 「知ってのとおり甲田家さ嫁がせたんだども、婿の豊太郎というのが大変な酒乱でのう、解かってれば嫁になどやらなかったんだども、・・・殴る、蹴る、このままでは命さもかかわると思ったさけ、お上さまでお願いして無理やりに離縁させた。 まあ、そう言うわけで朋江は今、オレの家さいるんだ。」 「俺はまた、朋江さんは1200石の大家さ嫁いで、立派なお方様さなっておられるとばかり思ってた」 「可愛そうな事した、俺が間違ってた・・・」
城内の藩の御蔵役の塾。 久坂が「各々方ご苦労さんでがんした。・・・しば、本日はこれまで・・・」何時ものように久坂の言葉で勉強はお開きとなった。「坂口!・・・ひさごさ寄らねか?・・。川波!おめえも付き合え・・」 同僚の会話に目も呉れず清兵衛は「お先に、失礼致します・・・」といって立ち上がる。 「たまには、おなごと遊んで気晴らししねか?」 「いや、私は・・・・」と断ると、同僚が「むだむだ・・・」とオーバーの手を振る。
清兵衛が自宅に帰る。 「萱野、以登!けえったぞ・・・・誰もいねえのか?」 「お帰りなさりませ・・・」 「あッ!・・」 「しばらくでござります」 「これは・・・」 「お留守中にお邪魔しまして、・・・お忘れでがんしょか、飯沼の妹の朋江でがんす。」 「ああ・・・朋江さんでしたか・・・まったく解かりませんでした。・・・ああ、・・今日兄上にお会いして、あんたのこと聞いたばかりでがんす」 「では、ご存知でがんしょ、なもかも・・そう言うわけで兄の家さいますとも、おめえはヒマだからと、はた織りばっかりさせられているので、今日は逃げ出してここさおさまってます」 「よく、こざらした。・・ま、とにかく上がってくだんしぇ」 二人の子供が迎えてくれる。「お帰りなさいませ」 「お父う、お帰り・・」 「以登、この人はのう朋江さんって言って、お父はんの・・・」 「幼ななじみ・・。いっつもいじめられてたの」朋江が言う。 「お土産頂きました」 「私も・・・」。 清兵衛は母親に向かって「お母ん、ただいま帰りました。・・お母んはこの方ご存知でやすか?」 「飯沼の朋江さんでがんしょ」 「ちゃんと覚えててくだはったんですよ」 「それは有り難い・・もちろん私のことは、お分かりでがんしょのう・・」 「どちらのお身内でがんしたかの?」 「息子でがんす」 ”朋江さんがおいでになったとたん家の中がぱあっと明るくなったような気がしたものでした”
朋江が言う「忘れもしましね、五つの時よ、わたしはよく男っ子のまねして遊んでいたども、あるとき松の木さ登ったら、ポキンて枝が折れて怪我したことがあってのう、お父はんがちょうど遊びに来ていて、私をおんぶして走って医者につれて行ってくれてのう、お父はんが12か3だったと思うんだども、背中こんなに広くてのう、まるで大人の背中みたいで頼もしくてのう・・・覚えてなはる?・・」 「そえば、そげなこともあったよな・・・」 「あたしが9つのとき母親に、今年からもう男の子と遊んではいけませんと言われたの、あたし悲しくて、かなしくて・・・おなごはんはつまんねえの、萱野はん」
清兵衛が夜道を朋江さんの家まで送っている。 朋江が言う「あんたはんは昔とちっとも変わりましねのう。 私のほうはすっかり変わってしまいもした。」 「そげなことありもしねえ。あなたが笑い顔は昔と同じでがす」 「慰めてくれなくても、ようがす。私は変わりました」 「あんたが甲田家にお起し入れされた時の華やかな様子は、人づてに聞きましたども・・・」 「思い出すのもいやでがんす」 飯沼家の門前に着いた清兵衛は「失礼します。・・兄上にもよろしくお伝えください」と挨拶した。 朋江は「おひげ伸ばして・・・柔らけえ・・」と両手で清兵衛の顔に触った。 その時、屋敷内から男の声がした。朋江が「あの男が来てる!・・・」と言い「別れた夫の酔った時の声でがんす」と言った。 玄関先で豊太郎は「酔ってねえ・・履物だせ・・飯沼!・・朋江は何処行った、朋江は・・」。 「さっきから申すように、今夜はババの屋敷さ行っ・」 「うそを言うな、ウソを・・・」 女房も「お願いでござります・・大きなお声は・・・年よりも居りますけん」と言うが「よく聞け飯沼、朋江に未練はない!・・俺がいやだから出て行くがいい、だども、いいかい飯沼・・貴様に対しては言いたいことが有るぞ。 お上にまで頼み込んで力ずくで朋江を離縁させたのう」。 「そのことについては、さっきから何度も申し上げているではないか・・・」 「やかましい・・・俺は女房に逃げられた男と、城中の笑い者にされた。 貴様のせいだぞ・・・表さ出ろ!。勝負する!」 皆で止めようとするが、豊太郎は暴れる。 そこに朋江が飛び込む「あんたやめてください・・」 「朋江か?・・お前こげな夜更けに何処さ行ってきた。」 「何処さ行こうと私の勝手でござります。 そいからついでに申し上げますが、私はもうあんたの妻ではありましねえ、呼び捨ては止めてください」 豊太郎は力の限り朋江の頬をたたいた。 なおも襲う豊太郎のとの間に清兵衛が飛び込んで腰に抱きついた。 「な、何だ・・貴様!・・」 「私は飯沼の友人、井口清兵衛って申します。・・お望みなら飯沼と変わってお相手いたしましょう。・・だども、ここは街中だすさけえ、別な日に、酒の酔いが覚めたとこで勝負しましょう」 「貴様、代人買って出たとこをみると腕さ覚えはあるのだろうな?」 「そげなものはありませんが・・・」 「ようし、その勝負明日だ!。場所は般若寺の裏の河原。時刻は八つと言うことでどおだ・・・」 「・・・ようがす」 飯沼が言う「とんでもねえことに成っちまって・・・、あいつかなり出来るぞ。」 「成り行きじょうああ言うしかねかった。なんとかなるでば、今夜はこれでごめんする。朋江さんにはだまってけれ、心配するさけえの」
朝、清兵衛の家。 「お父はん、 行ってまいります」二人の娘が藩の塾に出かける。 塾では子供達が論語の書を読んでいる。
清兵衛が母に「行ってきます・・」と挨拶して木刀を持って家を出る。 途中の寺の境内で木刀を振り練習をする。「いかん、・・・なまっとるのお」と独り言をいっている。 約束の河原に降りて行く。 豊太郎と立会いの家来が二人来ている。 「相手だ!・・」 「ようし、覚悟せえ」 そこに飯沼が走ってくる。「待て、まて・・・」 「俺が替わってやるって夕べ言ったでねえか・・」 「やっぱり、俺がやるのが本当だ」 「勝てる相手ではねえ」 清兵衛は豊太郎の前に行き「甲田殿・・遅れて失礼しました。・・私がお相手する」と言う。 豊太郎は清兵衛のもつ木刀を見て「何だ、その棒っ木くは?・・・」 「我が流派の棒でがす。・・・これでお相手する」 「俺をバカにするのか・・刀を抜け!・・・」 「刀を使えば命さかかわりますども、この棒だば当たっても骨を折るくれえですむ」 「平侍の分際で生意気な・・・・切るぞ!」 両者は向き合った。 飯沼が言う「気をつけろ甲田は居合の使い手だぞ」 甲田が言う「今、謝れば許してやる」 「謝るのはあんたのほうでがんしょ」 甲田が激しく切り込み、清兵衛が体をかわす。互いに刀と木刀を交わし切り込み、清兵衛の木刀が甲田の刀をたたき落し、甲田は尻餅を着いた。清兵衛が聞く「手をついて謝りますか?・・・。それとも続けますか?」 一瞬の隙を見て甲田が刀を拾い切り付けてきた。 一瞬早く清兵衛の木刀が甲田をたたき、甲田は意識なく崩れ落ちた。 清兵衛は立会いに来た家来に「川の水で冷やせ!。せば、息を吹き返す」といって立ち去る。 飯沼が心配して「怪我はしねかったか?」と聞く。 「朋江さんにはくれぐれも内緒にせよ。 それから、他の者にもいっせい言わない方がいい」 「だども、向こうの口から漏れねどか?」 「いやあ、負けた自分からはしゃべらねだろ」 清兵衛が城中の穀物蔵の中で、商品の検査をしている。 「仕事中を邪魔してすまんが、わしは馬廻り役、余五善右衛門と申す」 「存じております」 「先日、甲田豊太郎と戦って、あいつはしたたか叩きのめされ大きなこぶを造ったそうだが、そのたそがれ清兵衛とはお主のことか?」 「叩きのめしたとは、とんでもございません。手合わせしてけろとか言われたさきに立ち会った所、まぐれで当たっただけでがんす」 「甲田はわしの飲み仲間でごく親しくしているが、昨夜わしのところに来て悔しくてたまらんから、わしにアダを討ってくれと、泣きながらほざいた。あいつはその程度の奴だが、それにしてもお主なかなかやるな。いったい何流を学んだんだ」 「戸田先生から手ほどき受けましたが?・・・」 「ほう、戸田仁斎先生の門弟か?・・・」 「いや、末席を汚しただけのことで・・」 「どうだ、その内おれと手合わせしてみんか?」 「いや、とっても私などの及ぶ所ではございません」 城内の御蔵役の塾で何時ものように勉強会が終了した。 久坂が言う「せば、各々方今日はこれで・・・」 清兵衛が「しば、お先に・・・」と帰った後、同僚の男が言う「このめえ、たそがれ殿が物頭、甲田殿の息子はんと果し合いされたそうです・・・」 「果し合い?・・どうなったよ?」 「向こうは真剣、こっちは棒剣、その棒剣で叩きのめしたそうでがす」 「本当か?。変わり者だとは思っていたども、あいつ使い手か?・・」 「たそがれ殿などと呼んで、まずかったでねえでがんしょか?」 塾内の話題となった。 雨の中を清兵衛が家に帰る。 菅野が迎えに出て「お帰りなさいませ・・・お父はん、朋江はん来たの・・お手紙」と言って手紙を差し出す。「朋江はんの字、お塾のお師匠はんより上手だの・・」
”この度のこと、言い渋る兄の口からようやく聞き出しました。私のことであなたさまに、大変なご迷惑をおかけしたことを、お詫びしなくてはなりません。・・でも、私は嬉しゅうございました。お会いしてお礼を申し上げたい気持ちは山々でございますが、今日はお留守中にお邪魔して、お嬢ちゃん達とお掃除をしたり、お洗濯をしたり致しました。差し出がましいことかと存じますが、どうぞお叱りなさいませぬよう、いずれ又折をみてお手伝いに伺いたく存じます。 取り急ぎ かしこ 井口清兵衛さま 朋江 ”
"朋江さんは一日か二日おきに、うちに来て下さいました。私たち姉妹は塾から帰るのがとても楽しみでした。 一緒に掃除をしたり、洗濯をしたり、お料理を教えてくださったりしました。 雨の日はお習字の稽古や縫い物。そして、それまで聞いたこともない面白いお話をたくさんしてくださいました。 縫って下さった着物を着て出かけたお祭りの何と楽しかったことでしょう。 あの頃侍の家族が町人やお百姓の祭りを見物することは固く禁じられていたのですが、朋江さんはそんなことを一向に気にされませんでした。 「私たち武家の暮らしはお百姓のお陰で成り立っているのですよ」と話してくださいました。”
清兵衛と飯沼倫之丞が川で釣りをしている。同じ餌で清兵衛ばかり釣れるので「どうしておめえばかり釣れるんだ?・・」と聞く。 「おめえは釣ろう、釣ろうと思いが強すぎるさけえ、魚に見破られてしまうんだ。肩の力抜けえ・・ま、剣の道もおんなじだが・・」 「こんな所で、おめえの説教など聴きたくねえ・・・清兵衛!。実はお前と話がある。・・他でもねえ朋江のことだども、近頃あいつに2・3縁談があっての、」 「あたりめえだ、才色兼備であれほどの人は我が藩にはいねえはずだ」 「なかなか、ウンと言わねえさけえおれも手を焼いての、冗談半分で ”清兵衛の嫁にでもなるか?” こう言ったらの」 「バカなことを・・幼ななじみだって、そらあ冗談は許さないぞ」 「ところが朋江にとっては冗談ではなかったんだ。 あいつ清兵衛さまのとこだば行ってもいい、こういってポット赤くなったのさ・・・」 「もういいでば・・・さして、俺をバカにすんだか・・・」 「わからねえ男だな・・あれは真面目に答えたんだぞ」 「やめれ!」 「のう清兵衛、兄貴の俺にはあいつを甲田の嫁にやって辛い思いをさせた負い目がある。おめえさえよければ何とかしてやりていと思うんだども、どうだや」 「そんなこと急に言われても困る」 「即答しろとは言わねども2・3日中に返事して貰らわねえと困るんだ。近々俺は江戸さ行くことになりそうだし。 おめえはまだ聞いてねえだろな”お上がお亡くなりになったぞ、それももう、ひと月もめえのことだ。”」 「なして、そげな重大のことをおれがたさ隠してるのだ?」 「後継ぎをどなたにするかで、意見の一致をみねえわけだ。 城代家老の堀正玄派の一派はまだ幼い三男の忠篤さんを養子手続きし、いっきに権力を握ろうとしている。 そうなれば我海坂藩は二つさ別れて、血で血を洗う事態となる。ことの成り行き次第ではおれも無事ではすまねえだろ、・・・ま、そう言う訳で俺が江戸に出かける前に返事してくれねえかのお」 「判った、今返事する。・・朋江さんがおれの娘がた、めんこがって下さって、料理作ったり、縫い物したり、おれさとっては夢のようなことだ、だども、妻として向かえるてことはまったく別だ。朋江さんは何と言っても飯沼家400石のお嬢さんだ、50石の平侍の暮らしが、どれくらい辛いかってことが判ってはいねえ」 「まて、お前は朋江のことを見損なってはいねえか?、朋江は意外にしっかりしたおなごだぞ」 「始めの内はいい、だども、3年か4年たって、この50石の暮らしが何時まで続くのかと判った時、必ず後悔する。 死んだ妻が平田家150石の娘だったども、結局最後まで身分の差には馴染めなかったのだ。 "骨折って出世なさりましぇえ、でねえと、一家の者が悲しみますさけえ” 病を得てからも口癖のようにそれを言っていただっけ、あげなような哀れな思いを朋江さんにはさせたくねえ」 「朋江は15や16のぼこ娘じゃねえんだぞ、ちゃんと考えた上でおめえと一緒になってもええ、そう言ったはずだ」 「もうええでば、この話は忘れてくれ」
”その日以来朋江さんはぷっつり私達の家にお出でにならなくなりました。”
「どけえ・・どけっ!」「エッサ・・エッサ」城の中に早駕籠が着いて、転げ落ちるように男が部屋に入った。 全員登城の触れ太鼓が打たれ、皆が集まった。 「仕事の手え休めて話聞け!」 「今朝早く江戸よりにわかにお戻りになられたご家老堀正玄さまから極めて重大な発表ががんす」 堀正玄が立って話す「海坂藩十代藩主忠智公におかれては今月始めハシカにてお亡くなりあそばした。当年32歳であった。
気質を備えられた名君であらせられた。」 控えていた上役が伝える「本日は御列以上はご城内さ留まるが、お前達小役人はそうそうに引き取って、忠智公のご冥福をお祈りするように」
小役人たちが引き上げながら話す「先公を擁立していた改革派への、堀派の巻き返しは当然あるのだろうのう。」 「処分でがすか?」 「んだ・・・」 「そこまではいかねえだろと思う」 「うちの奉行はどっちの派だがねがんしょ。・・・改革派?」 "お城では戦の仕度をしていると言う恐ろしい噂がたちはじめましたが、平侍の父には関係のないことのようでした。 私たちはなぜ朋江さんがお見えにならないのか、父に尋ねたかったんですが、それがどうしても出来ませんでした。父と朋江さんの間に何かが有ったのではないかと、子供心にも感じていたからでした。” 清兵衛が飯沼家を訪ねる。倫之丞の女房が出迎える。 「あいや、井口さま・・・せっかく来ていただいたども、うちはまだ江戸から帰ってまいりません」 「江戸表で飯沼に何か変わりはなかったでがんしょか?」 「いいえ、昨日便りが来ましたども別段そげなことは・・帰ったら何が食べてえなどと・・」 「それはえがった。ご存知でしょうども、城代家老がお代わりになって大勢の方々がご処分を受け、切腹、斬首などと言う血なまぐせえことも度々ありましたども、私にとっては飯沼がどうなるかだけが気がかりだったもんでがんす。これでほっとしました、帰りましたらどうかよろしくお伝えください。」 「そのことでわざわざお出でくださいましたので・・・」 清兵衛が帰るとすぐ、声を聞きつけた朋江が玄関に出てくる。どうして帰したのかとせまる朋江に「留守だと申し上げましたら、お帰りになりました」と女房が答える。 「朋江はん、何処さ行くの?・・」 「何処さって井口さまはまだその辺に居りましたけん」 「何か特別の御用でもあるのでがんすか?」 「いいえ、そう言うわけではありましねども、随分もうお会いしてねえだけ、ご挨拶でもと思って・・・」 「お待ちなせ!。ようがんすか朋江はん。若いおなごが道端でひとかどの侍と立ち話をするなんて、とってもみっともねえことでがんす、ましてやあなたは一人身の出戻りで、縁談も進んでいるんでがんす」 「おなごが侍と立ち話することが、なんでみっともねえことでがんすか?」 「あんたは姉の私に質問するんでがんすか」 「してはいけませんか?」 「なりません、おなごは目上の者に質問などするものでありまっせん」 清兵衛の家。内職の元受の男が虫かごの材料を持ち込み、完成品を引き取って行く。「先月の分60個とあわせて550文」と内職手間賃を差し出す。 清兵衛が「先月から湯銭が7文値上がった。・・・ひとカゴの手間賃を湯銭並に値上げしてもらえねだろか?。おれは本職並みの仕事をしているつもりだけ」男がそれには答えず、仕上がった虫かごをたくさん抱えて清兵衛の家を出ようとしたときすれ違う侍が声をかけた。 男が「内職の材料を置き、虫カゴを貰って手間賃を払って帰るところだ」と説明した。 侍は「井口はそれだような内職をしているのか?」とあきれた顔で聞いた。 「はあ!」
彼等は改めて清兵衛の家の玄関にやってきて「頼もう!。 たのもうっ」と叫んだ。 「御蔵奉行、久坂長兵衛である。 夜分まことに気の毒だども、今すぐわしと同道して、さるお武家様のお座敷に来てもらいたい。」 清兵衛が「承知しました」と答えて着替えに立とうとすると、「ああ、夜分ですけ身支度はいらねえとのお言葉だ。袴つければそれでよい」 「めんこい子だのう、年は何ぼだ?」と以登に声をかけた。 「いつつ」 清兵衛が支度を終えて出てくる「お待たせいたしました」と久坂に伝えて、萱野に「萱野・・先に寝ていな」と言う。
清兵衛は家老、堀の屋敷に連れて行かれる。 久坂が「御蔵役、井口清兵衛でござる」 「肩苦しい挨拶はいい。 貴公、近こう・・近こう」 「そちを呼び出したのはほかでもねえ、よおいならざる事態が失態した。そちは江戸表の話を聞いているだろ、幸い幕府大目付の耳には達せず、関係者の処分もすでにご上意によって済ませたが、ここにタダ一人、切腹を仰せ付けられた馬廻り役、余五善右衛門・・このがきが、上司であった長谷川殿に藩士として忠誠をつくしたのに、なぜお咎めなど、切腹などはせえへん・・どうしても俺を殺したいのなら、撃ッてもよこし、切り結んで死んでるじゃろ。 こういう無礼を申して屋敷に閉じこもってしまった。 先日夕刻徒歩目付けの服部玄蕃を手むかけたが、入り口でやられた。 余五は一刀流の剣客、藩中に敵なしと言われている男だ。 これを誰に切らせるか、その相談の中でそちの名めえが出た。 よし、表をあげえ、そちは戸田流の小太刀を使うそうだの」 「戸田先生から教えていただいたのは昔のこと、それも末席を汚していただけでやんす」 「謙遜なんかしてるときではねえ、そちが戸田仁斉道場の師範代を努めておったことは調べがついておる」 「余五との戦いは家の中になる。その場合小太刀は有利である。明日たそがれ時までに余五善右衛門を討ち取れ、これはご家老さまのご命令である」 「久坂、この男の禄高は?・・」 「50石でがんす。お借り上げが20石でがんすじゃけ、手取りは30」 「それでは幼い娘や年取った母親を養うのは無理であろうのう。 余五善右衛門を首尾よく仕留めれば加増を命ずる。どうだ・・引き受けるな」 「怖れながら申し上げます。 幼い娘がたと病に伏す妻と年取った母親抱えて、日々の暮らしに追われている中で、はずかしども私は剣への志をなくしてしまいました。 真剣の勝負は人の命を奪うって言うことは、けもののような猛々しさと、命を平然として売る冷酷さがなくてはなんねえ、それが今の私にはまったく有りましねえ。せめてひと月ご猶予を貰えれば、山中にこもって獣を相手に自分を鍛えて、それを取り戻すことが出来るかも知れません。だども、今日明日では・・・とても無理だ、何とかこのお役目はどなたか他の人に・・・お譲り下さいますように」 「平侍の愚痴を聞くために、この夜更けにそちを呼んだのではない。余五を討てと言うのは藩命である。 判っておるのか!。藩主の命令だ。思い上がりも甚だしい。 もういい!。藩外追放である」 「まあ、まあご家老。 井口!・・お引き受けするな」 「せめて、そのご返事をするのに一晩か二晩のご猶予を貰えましないでがんしょか。」 「ならん!。今すぐに返事をせえ」
「・・・・承知しました。・・・余五善右衛門を討ち取るお役目つつしんで、お受けいたします」 「明朝巳の刻、役人を差し向ける。それまでに充分な仕度をしておけ・・・そちなら必ず勝てる。」 「私もそう心に決めている身やんす。んだども万が一ってこともあります、そのときゃ、お奉行・・これでお別れでがんすの、永い間お世話になりました。御蔵役ご同業の皆様にもどうか、よろしく伝えてくだしゃい」
清兵衛の家。子供達の寝顔をみて、清兵衛は小太刀を取り出し、刀の根占を取り土間に降りて刀を砥石で砥ぐ。 ”異常な音がして、(刀を砥ぐ音)その音で私は目を覚ましました。音のする方を見ると父が土間で刀を砥いでいました。 その姿は何時もの父とは到底思えないほど不気味でした。あの夜の光景は今でもまざまざと覚えております。” 清兵衛は小太刀を腰に裸足で庭に出て、刀を抜く。 突く、降ろす、払う、練習をする。
朝。 母がお経を上げている。 「行ってきます・・」子供達二人が塾に駈けて行く。 清兵衛は使用人の直太に使いを頼む「直太。 錦町の朋江さんのうち知ってるな。何度かおめえと一緒に行ったことがある。あのお宅さ行って、朋江さんにお目にかかって、えか、ここからが大事だぞ。じきじきに朋江さんにお目にかからねばダメだぞ。そして、このように伝え。 ”まことに恐縮でがすども、すぐお出でいただきたい、わけはお会いしてお話しますさけ” 判ったか?。」
使用人が朋江の家に行く。 朋江さんが出てくる「何事でがんすか、朝早くから・・」 直太が言う「まことに・・恐縮・で・がんすども・・直ぐにお出で・・頂きたい。 わけは・・おあいして・・」 朋江さんが後を引き取る「お話します?。清兵衛さまがそう言われたのでがんすか?。・・・判りました、支度して直ぐ行きますさけ」
清兵衛の家。 清兵衛が朋江さんに話す「藩命でこれから、さる藩士と果し合いすることになりました。 お上の命を受けて出かけるなる段に、身なりを整へなくてはならねえのに、一人では髪直すのも心もとねえありさまで、せっぱ詰まってあなたに使い出しました。」 「お出かけは、なんどきですか?。」 「巳の刻言われてます。」 「あまり時間が有りません。・・・お着物は?。」 「直太はん。お湯沸かしてくだしぇ」 朋江は清兵衛の髪を直し、着物を着付けてやる。 「どなたさまか、お迎えは?・・・」 「役人が来ると思います・・」 「直太はん門の前でお迎えくんせえ」 「へえ」直太が外に出て行く。 「こちらでお待ちしてもええでがんしょか?。 ・・なぜ、清兵衛さまが果し合いに?・・」 「藩命に逆らうわけにはいきません。私も侍の端くれでがんす・・・」清兵衛が続ける「兄上からあなたを私の嫁にって言う申し出があったのを、私はお断りしました。・・・・お聞きでやんしょうか?」 「存じております」 「だども、・・だどもあの日から、兄上の申し出を断ったあの日から、わたしは、あなたを思うようになりました。 土人形を作って差し上げた頃から、あなたを嫁に迎えることが私の夢でがんした。
甲田家に嫁いでからも、いささかも弱せることもありますめえ。 だが、私は果し合いに参ります。・・必ず討ち克ってこの家に戻って参ります。 その時私があなたに、嫁に来てくれるようお頼みしたら、受けていただけるでやんしょうか?」
「数日前、縁談がありました。 あえておこまっちぇれば・・わたし・・お受けしました。・・・呼んで頂いて嬉しゅうございました」 「私がバカでがんした。 今、申し上げたことは、よか・・忘れてやんなへえ。・・会津のご家中、さぞご良縁でしょうのう」 そこに迎えの役人が来る。 「しば行きましぇ。・・今日はありがとうござした。」と朋江さんに礼を言う。 朋江さんも「あのう・・私はここでお帰りをお待ち出来ましねども、どうか・・どうかご無事で・・」と答える。 清兵衛は「直太、朋江さんお帰りのときはお送りしえよ」と直太に言う。 「へえ」
清兵衛は役人に伴われて家を出る。 朋江さんは家の中で食器を片付ける。 「おばばさま、今日はご機嫌如何でがんすか、?」 「あんたさんはどちらのおかたさまでがんしたかの?」 「私は、清兵衛さまの幼な馴染み・・・朋江でがんす」
余五善右衛門の屋敷。 屋敷を囲んでいた男が役人に伝える「余五善右衛門はこん中に雨戸を締め切って立て篭もっておりますが・・・」 庭に死体が転がったままになっている。「あれが目付け役、服部玄蕃殿でがんす」 「死体を引き取りに行かねばならねども、おっかなくて、誰も手が出せぬありさま。・・油断しねえように・・・」 「余五善右衛門は今では人間ではねえ。獣でがんす」 清兵衛が庭に入る。 警戒しながら戸を開け土間に入る。 「たそがれ清兵衛・・」奥の座敷から声がする。 「やっぱりお主が来たか・・余五善右衛門だ。」 善右衛門は酒を飲んでいる。 清兵衛が「藩命により、お命頂戴いたします」と言う。 善右衛門は酒徳利を持ったまま清兵衛に近づき「お待ちください。・・・一杯やらんか?。・・・せっかく意気込んできた所を悪いがわしは逃げる。 見逃してもらいたい」と言う。 清兵衛は「当藩きっての一刀流の使い手と言われるお方のお言葉とは思いましねえ。 私の役目はあんたを切ることでがす、見逃すわけにはいきましねえ」と伝える。 「そうしゃっちょこばるな、切るのは何時でも切れる。・・・お主と少し話がしたい。・・ 掛けてくれ」 外では役人達が心配している 「何してるんだ」 「話ってるようでがんす」 善右衛門が言う「あの山を越えればもう藩外、追っ手はやってこん。京に上るのもよし、江戸で暮らすのもよし、そうやって、何年か暮らすうちに世の中は変わる。 侍の時代などお終いだ。」 清兵衛が答える「そげな話聞いてるときではありましねえ。・・・すあ、刀をおとり下さい。藩命をうけて」 「何が藩命だ。・・要するにお前はだんなに言われて駆け込んで来た使い走りだろ。・・・そう言う俺も使かいっ走りだ。・・かってのわしの主君土岐政重公は家臣騒乱のお咎めを受けて、身代を没収され、切腹してお果てに成られたのは10年前。それからは永い浪々の暮らし、妻と娘をつれて、仕官を求めてのあわれな旅を7年」 「7年・・その間何の収入もなく・・・」 「当たり前だ!。・・人夫仕事、百姓の仕事も手伝って、米を分けてもらったり、寺に泊まりこんで施しを受けたことも一度や二度ではない。 ようやく人を頼って海坂藩に仕官した。 3年前だったが妻は心労のあと旅先で息を引き取った。 善右衛門が続ける「俺は剣には自信があるが、性格の上での欠点は、酒癖の悪いのも知っている、しかし、この海坂藩に仕官できたときは、今度こそ態度を改め海坂藩の家中として、一生をあいずという、そう覚悟して賢明に働いた。 たまたま上役が長谷川殿で、わしを気にいられ何かと仕掛けてくれた。わしにとって長谷川殿に仕えることは、海坂藩主に使えること。 長谷川殿の命は藩主の命と信じて忠勤を励んだつもりである。それのどこが悪いのだ。 たそがれ・・・わしは何で腹を切らねばならぬのだ。」 清兵衛が答える「わしはそげなことのお答えをするために参ったがやあらんすめい」 善右衛門が言う「わしの娘は母親に労該を写されて死んでしまった。お主の苦労はとても人事とは思えん、」 「お嬢はんは何ぼのときで・・・」 「16歳!・・、花にたとえれば大きく膨らむつぼみの時に痩せ細って死んでしまった。 骨と皮ばかりになってな、じつに哀れだった。」 「それはお気の毒なことを・・・」 「色の白い美しい子だった」 善右衛門が問う「お主、・・・禄高は?・・」 「50石でがす・・」 「病人、子供がいて50石では難儀だろうのう」 清兵衛が答える「医者と薬代で月々1両2分かかりました。・・・内職だけでは追いつかねえで、親戚友人から借りられるだけの金借りても、なお足りねえで、明日の米がなくなることがありました」 「お主も苦労したんだのう」 「こうなったのは妻の葬儀でがんす、本家からは井口家として恥ずかしくねえだけのことはせよと、厳しく言うて来る。そげな金はねえ。私はなかばヤケクソになって、とうとう武士の魂の刀を売ってしまいました。親父から譲り受けたいい刀で惜しくは有りましたども、もう剣の時代ではねえって思いもあったのでがすに、恥ずかしながらこれは竹光でがす」 清兵衛が腰に差した竹光の刀を抜いて見せると、善右衛門は顔色を変えて「お主、・・・わしを竹光で切るつもりか?・・」と問う。 清兵衛が「そんだばありなっしねえ・・私が戸田先生から教えてもらったのは、小太刀でがんす。あんたとは小太刀で戦うつもりでがんした。」と答える。 「そのような小手先の剣法でこのわしを殺すつもりだったのか?・・お主・・わしを甘く見たな・・・」 「ま、まってください。・・あんたはさっきまで逃がしてくれって言ってたではないか・・私はそのつもりで・・」 清兵衛が正直に答えてしまったので、形成有利と知った善右衛門が急に態度を変えた。 善右衛門が刀を抜いた。 「抜け!・・」 善右衛門が切りかかってきた。 驚いて後ずさりしながら、清兵衛が「余五殿!・・」と叫んだ。 太刀をかわす清兵衛に「お主、なかなかだな。・・」と善右衛門が言った。 「逃げるのは今でっせ」 「お前を切ってからだ・・・小太刀を抜け!」 余五は何度も切りかかり、清兵衛は身を翻す「余五殿っ!。・・これ以上続ければあんたを切るぞ。・・・それでいいのだか?。」 「結構だ・・早く抜け」 清兵衛が小太刀を抜き、切り込む余五と受ける善右衛門が部屋の中で激しく永い戦いを続けた。 追い詰めた善右衛門が「観念しろ・・・わしを甘く見た報いだ」と不適に笑って刀を上段に構え、清兵衛に打ち下ろしたかに見えたとき、一瞬遅れて清兵衛の小太刀が横に払われた。 善右衛門が振り下ろした刀は鴨居に深く食い込み、彼は腹を切られその場に倒れた。 「わしを逃がしてくれるか?。・・・・見事だ!。」 善右衛門は立ち上がろうとしたが、その場に崩れ落ちて息絶えた。 清兵衛はやっと立ち上がり、傷だらけの身体で血を流し、ふらつきながら庭に出て来た。 「終わりましたか?・・・」同行した役人が恐るおそる近づいて聞く。 「大変だ・・たいへんだ。だんな様がけえったぞ・・・」使用人の直太がふらつきながら帰ってくる、清兵衛を見つけて家の中に駆け込む。 以登を見つけて「以登・・おとはんけえったぞ」と教えてやる。 声を聴きつけ走り出た萱野も奥に向かって「朋江はん!・・・おとはんが・・・。えかった・・・」萱野が泣き崩れる。 朋江さんが清兵衛を観ながら玄関に立ち尽くす。 清兵衛が近づいて両手を握り「あんた、居てくれましたか?・・・」と頭をさげる。 朋江さんも清兵衛の胸に泣き崩れ、 二人は泣きながら清兵衛の無事を喜ぶ。
”やがて朋江さんは、私達の母親になって下さいました。 父は幸せでした。 でも、我が家の平和な暮らしが続いたのは3年足らずでした。 明治維新とともに戊辰戦争がおこり、旧幕府派であった海坂藩は賊軍として、圧倒的な戦力の官軍と戦うことになったのです。父はその戦いの中で官軍の鉄砲に打たれて死にました。 維新の後、朋江さんはわたしたち義理の娘を連れて東京に出て、働きながら私たち二人を嫁がせてくれました。 うまく、この墓の下で父と一緒に眠っております。明治の御代になって、かって父の同僚や上司であった人たちの中には、出世してうらいお役人になった方々がたくさんいて、そんな人たちが父のことを ”たそがれ清兵衛は不運な男だった” 、と仰るのをよく聞きましたが、私はそんな風には思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運だなどとは思っていなかったはずです。 私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたに違い有りません。 そんな父のことを私は誇りに思っております。”
成人となった菅野が一人、人力車に乗り郷里の父の墓参りにやってくる。 遠くの山は雪を冠り、田畑の続く田舎の丘の上の墓で手を合わせる。 再び菅野が乗った人力車が遠のいて行く。 = 終わり = H・14・11・03鑑賞
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