面白かったので、紹介します。女優 柴田理恵ファンはぜひ読んでネ。(^_^;)
『読売新聞』2015年6月11日より
いつもの丸写しで〜す。(^_^;)
スクールデイズ
ものまね大受け 友達倍増
『女優
柴田理恵
は
いい女
・・・かも知んない
』
伝統行事「おわら風の盆」で知られる山あいの町、富山県八尾
(やつお)
町(現・
富山市)の出身です。富山では、学校行事で立山に登る小中学校が多く、私も
八尾中学2年生の時に、1泊での登山を体験しました。
夜、なかなか眠れない中、同級生たちで、ものまね歌合戦が始まりました。当
時は歌謡曲の全盛期。天地真理さん、郷ひろみさん、西城秀樹さん・・・。盛り上
がってくるうちに、「理恵ちゃんもやって」と。テレビでよく見ていた、山本リンダさ
んの「どうにもとまらない」をしました。
それまで家でも、ものまねなんてしたことがなかったのですが、自分でもびっく
りするほど、歌や踊りを思いっきりできました。すると、「いつもまじめな理恵ちゃ
んがあんなことするの?」と、大受け。クラス委員で、優等生でしたから。友達が
2倍にも3倍にも広がりました。
自分が先頭に立って、ワーッとはじけて面白いことをすると、こんなに皆、喜ん
でくれるんだ、とわかり、人前に立つ快感を覚えました。自分の中の革命でした
ね。
それからは、学芸会に率先して参加したり、中学生活最後の謝恩会で先生の
ものまねをしたり。演劇をしてみたいと、演劇部が盛んな県立八尾高校に入りま
した。
高校に入ると、いろいろな演劇を見たくて見たくて。でも、富山にはほとんど劇
団が来ない。よし、東京の大学に行こう、と決心しました。当初渋っていた親は
「大学を卒業するなら」と許してくれ、明治大学で演劇を学びました。
振り返ると、演劇への気持ちだけで突っ走ってきたんですね。無謀ですが、猪
突猛進も悪くない。逆に今の子は、情報がありすぎて行動に移せないのかもし
れません。親の言うことも大事にしながら、思い切って飛び込んでもらいたいと
思います。 (聞き手・泉田友紀)
女優
柴田理恵
さん
1959年、富山県生まれ。「劇団東京ヴォードヴィルショー」を経て、84年、女優
の久本雅美さんらと劇団「ワハハ本舗」を設立した。舞台や映画などで活躍。
日本テレビ系「秘密のケンミンSHOW」ほか、テレビ出演も多数。
2015.06.11.丸写ししました。
(馬鹿だねぇ。)
『
女優
柴田理恵
は
いい女
・・・かも知んない』
新聞コラムを読んで、うっかりそう思ってしまった、オロカなアタシ。(^_^;)
昔々、まだ可愛かった久本雅美や柴田理恵の『ワハハ本舗』公演を開催した
頃を懐かしんじゃいましたね。 (ゲゲッ 自慢話かよ)
久本雅美は、本番前、男優たちとず〜っと止め処なく矢継ぎ早なギャグ合戦
してたにゃぁ。
本番のネタでは、『マッチ売りの少女シリーズ』と『オカルト二人羽織』を演じた
久本雅美の少女キャラが、可愛いかったにゃぁ。
柴田理恵は、田舎もんのボクらからご当地名物やご当地あるあるをホットに
丁重にかいがいしく聞き回って、本番でのご当地ヨイショ的アドリブネタを仕入
れていたにゃぁ。 本番では、すべりましたねぇ、残念。(^_^;)
打ち上げは、伊香保温泉でお泊りの宴会だったにゃぁ。
酒が進むと、柴田理恵は、昼間のやさしいおばちゃんとは別人格に豹変、夫
の佐々木健介をいじりまくる北斗晶みたいな雄叫びを上げ、大迫力だったにゃ
ぁ、『コストコ行って来い!』とは言わなかったけど。(^_^;)
メンバーの漫画家「なんきん」のイラストTシャツ(当日用オリジナル)を3種類
(20着ずつ)も作って販売、わくわくだったにゃぁ。
@続々と起こる怪奇現象「セ、セリフが出てこない」(白地に青)
A目もくらむ特殊効果の数々「うはははははは」(白地に緑)
Bゴーインなストーリー展開「すべて悪霊のしわざです」(白地に赤)
の文字付イラスト、楽しかったにゃぁ、赤字だったけど。(^_^;)
3種類の「なんきん」のイラストTシャツ、少し黄ばんでるけど、捨てられぬまま
タンスの奥で眠っています。 (馬鹿だねぇ。part2)
あの頃、ボクらも若かったにゃぁ。
っつーことで、更にヒマな人は
トップページ
の『WAHAHA本舗』公演も見てくださいませ。(^_^;)
↑
クリックしてネ。 (またCMかよ。)
同居拒んだ富山の母「あんたはあんたの人生生きなさい」、
東京から見守った7年間…柴田理恵さん「これでよかった」
2026. 4/26(日) 9:00読売新聞オンライン配信
俳優の柴田理恵さん(67)は昨年1月、故郷の富山県で暮らす母親、須美子さんを
95歳で亡くした。
周囲の助けを得ながら、離れた東京で母を見守った7年間を、「介護に正解はない。
私にとってはこれしかなかったし、これでよかった」と振り返る。
「理恵さん大変! おばちゃん(母)が入院した」。
2017年10月、実家の近くに住んでいる親戚から一報が届きました。
88歳だった母とは、その3日前に電話で話したばかりで、変わった様子は感じませ
んでした。
外せない仕事があり、病院に行ったのは3日後。腎臓の炎症から敗血症を起こして
いました。
「お母さん、理恵だよ。わかる?」。問いかけても、もうろうとした状態でした。
その後、熱は下がり、私のことも認識できるようになりましたが、寝たきりの状態が
続きました。
介護なしでは日常生活を送れない「要介護4」となりました。
「仕事を辞めて介護に専念しようか」とも考えましたが、すぐに「ないな」と思いま
した。
前年に父が亡くなって、「一緒に東京で暮らさないか」と尋ねた時、「絶対に嫌」と
拒絶されたのです。
「自分の人生は自分のもの。あんたはあんたの人生を生きなさい」と言われました。
母にとって大切な友人や生きがいはすべて富山にありました。
私は2、3週間に1度、富山と東京を行き来するようになりました。
母は自宅とお酒が大好きでした。
「お正月は家でおいしいお酒を飲みたいね」と「ニンジン」をぶら下げて、リハビリに
励んでもらうと、正月に一時帰宅を果たし、春には再び一人暮らしができるようにな
りました。
家に戻ってからは、ヘルパーさんらプロの介助はもちろん、親戚やご近所さんに様
子を見守ってもらうなど、多くの人に助けられました。
「親の面倒もみずに、仕事をしていていいのか」という葛藤は常にありました。
自分にできることは何かをよくよく考えて、心の支えになることだと思いました。
気丈な母も、たまには気弱になります。そんな時、子どもが笑顔でいれば、うれし
いでしょう。
「あの人覚えている?」などと昔話をして、明るい雰囲気をつくるように努めました。
母も楽しそうでしたよ。
母が90歳を過ぎた頃、転んだり、体調を崩したりすることが増えました。
「そろそろ施設に」と切り出しても「嫌だ」とかたくな。
「夜中に一人で転んで死んでも誰もうらまんか? 絶対化けて出てくるな」と念押し
して、「化けて出てこん」と約束してもらったくらいです。
その頃は新型コロナウイルス禍で帰省が難しくなっていました。
母が実家にいる時は毎日電話をかけて、病院や施設にいる時はビデオ電話をつ
ないでもらっていました。
25年1月、母の食欲が落ち、病院で寝ている時間が増えました。
駆けつけたい気持ちはありましたが、間近に迫っていた舞台で責任のある立場
にいたこともあり、かないませんでした。
その代わり、病室では「お母さん、頑張られ(頑張れ)。
すぐ行くよ」という私の声を流してもらいました。
間もなく、母は亡くなりました。眠るようだったと聞きました。
介護は百人百通りと言われます。
母は認知症がなかったから一人暮らしを続けられたのでしょうし、助けてくれる
近所や親戚の存在も大きかった。
「それは介護ではない」と思う人もいるかもしれませんが、こんな私の経験を講
演などで語る機会も頂きます。
実情を包み隠さずに伝えることで、「もっと頼ってもいいんだ」と、誰かの気持ち
が軽くなればいいと思います。
(聞き手・山田朋代)
しばた・りえ 俳優。1959年、富山県生まれ。明治大で演劇を学び、84年に
久本雅美さんらと劇団「WAHAHA本舗」を旗揚げ。
舞台のほか、テレビドラマやバラエティー番組などで活躍する。
著書に、母の介護についてつづった「遠距離介護の幸せなカタチ」(祥伝社)。
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