『津波に耐えた「死者ゼロの街」』 読んでネ。(^_^;)  




  『二度引きの大津波』 も読んでください。(^_^;)  
 面白かったので、紹介します。 防災ファンはぜひ読んでネ。(^_^;)


『文藝春秋』2011年九月特別号200pより
 いつもの丸写しで〜す。(^_^;)




  『消防団が先に逃げる』 も読んでください。(^_^;)  


津波に耐えた
「死者ゼロの街」


消防団が先に逃げる

  『岩手県普代村と洋野町で
   住民の命が守られた理由』  

   を読まずに防災マニアを名乗っては  

   いけないことになってるんです。(^_^;)  




  『コンクリートが人を守る』 も読んでください。(^_^;)  
 


  岩手県普代村と洋野町で  

  住民の命が守られた理由  
        命
          命
            命
              命
                命
                  命


                  葉上 太郎(地方自治ジャーナリスト)

    岩手県普代村と洋野町で
    住民の命が守られた理由


 「これは津波が来る」
 地面がグラグラとし始めると、すぐに直感した。
 三月十一日午後二時四十六分、岩手県洋野(ひろの)町の八木北港。カレイ漁
に出ようとしていた蔵徳平さん(七十四歳)は、準備していた網を惜しげもなく放
り出すと、まだ揺れの収まらないうちに逃げ支度を始めた。
 すぐ近くのプレハブ事務所からは、種市(たねいち)南漁協の職員が八人ほど出
て来て、きょろきょろ見回しては、不安げに沖を見つめる。
 「何をやってるんだ。早く逃げねば津波が来るぞ」。漁協の理事を務める徳平さ
んは、語気鋭く叫んだ。
 同漁協は役員会で、「現金は事務所に置かない。重要な書類はすぐに持ち出
せるようにしておく」などの津波対策を決めていて、必要な書類は常に段ボール
箱などに入れてある。この日も、徳平さんの声で我に返った職員達は、あたふた
と事務所へ戻り、パソコンのコンセントを引き抜くと、書類の入った段ボール箱と
共に車へ積み込み、手際よく避難して行った。後に手持ち金庫を忘れたことに
気づくのだが、現金はほとんど入っていなかった。
 高台にある徳平さん宅の向かいでは、従兄弟の蔵義浩さん(六十八歳)が、近
所の集落倉庫からテントを引っ張り出して、避難場所になっている自宅に設営し
ようとしていた。
 「八木北」集落の九十八世帯で作る「八木北地区自主防災組織」で、徳平さん
は会長、義浩さんは幹事を務める。義浩さんは地震が起きると、いつもは海が
見通せる場所に行ってみるのだが、今回はそれもしないで倉庫へ走った。やは
り揺れている最中から「津波」を直感し、「集落の人が続々と避難して来る。テン
トを設営しなければ」と考えたからだ。
 人々は五分もしないうちに、車や徒歩で集まって来た。そして訓練してきた通
りに手分けしてテントを二棟設営し、「八木北地区自主防災組織本部」と書いた
大きな看板を立てた。これも日頃から準備していたものだ。
 洋野町は、三陸海岸でも深刻な津波被害にさらされてきた自治体の一つであ
る。なかでも八木北、八木南の二つの漁港を抱える八木地区の被害は大きく、
一八九六年の明治三陸津波では住民の半数に当たる百二十六人が死亡、一
九三三年の昭和三陸津波でも七十九人が亡くなった。
 ここには防波堤がない。
 そのため二つの漁港の後背地となる八木北、八木南の二集落は、家々が海
にむき出しになって密集している。
 これまでに防波堤を建てようという話がなかったわけではない。海岸整備は県
の仕事なので、「整備してほしい」と要望をしたこともある。だが、私有地の点在
する用地交渉が難航し、二集落の間にある砂浜の景観を心配する声や、海が
見えない生活を送ることへの不安が持ち上がると、いつしか立ち消えになった。
 港や川沿いにあった家々は、明治・昭和の津波の後で逐次高台へ移転した。
建て直しや分家の機会ごとに、畑を潰して上がったのだ。徳平さんや義浩さん
は、そうして移転した家族で、海抜約二十七メートルの地点に住む。
 ただ、全てを高台に移せたわけではない。漁協や加工会社は港に面して置か
ざるを得ず、住宅もまだ多くが海ぎわにある。集会施設の漁村センターは砂浜
の眼前だ。海沿いを走るJR八戸線の陸中八木駅も、波をかぶりそうな場所に
ある。
 「だからここは『地震が起きたら即逃げる集落』なんです」と、義浩さんは言う。
 東日本大地震で極めて大きな津波被害を受けた岩手・宮城・福島の三県で、
死者・行方不明者が実質的にゼロだった自治体が二つある。
 洋野町はそのうちの一つで、八木北集落に及ばずとも全町で「即逃げる」を
実践した。もう一つは岩手県普代(ふだい)村で、船を見に行った一人が行方不
明になったものの、巨大な防潮堤と水門が住家を守り抜いた。
 とにかく逃げる。
 巨大な防潮堤を作る。
 津波対策としては両極だ。
 しかし、それを徹底した自治体がともに ”死者ゼロ” だったのは示唆的である。
ただ、やり遂げるには並大抵でない努力が必要だった。なぜ可能だったのか。
理由を知るために歩いた。

 
 


  二度引きの大津波  
         津波
        津波
       津波
      津波
     津波
    津波
   津波
  津波
 津波
津波
波


    二度引きの大津波

 八木北集落では「逃げるが勝ち」という意識が、よほど徹底されているのだろ
う。七十五歳の女性が「とにかくここは『逃げる集落』ですから」と、義浩さんと同
じ言葉を口にする。この女性は、近隣の女性と手に手を取って高台の避難場所
へ逃げた。
 洋野町の集落には至る所に海抜を記した看板が立ててある。逃げる時の目安
にしてもらうための工夫だ。
 「ここは海抜約五・六メートル」
 女性の自宅の近くの交差点にはそう立ててあった。今回、八木地区の津波は
十メートル以上あったといい、のんびりしていては呑まれてしまう高さだった。女
性は息を切らせて急坂を上り、十二・七メートルの看板を横目に避難場所を目
指した。すると、もう大勢の人が集まっていた。
 八木北集落には三つの避難場所がある。女性が逃げたのは漁師の中家喜久
治さん(六十二歳)宅の庭で、「明治三陸津波の後、先祖が川沿いから移転させ
た家」なのだという。「八木北の人はちょっとした地震でも逃げてきますが、今回
は早かったですね。十分ほどでほとんど集まりましたから」と中家さんは振り返
る。
 ここに避難した六十三歳の男性は、「津波が来るまでに、だいぶん待ちました」
と話す。それほど住民の避難は早かった。
 徳平さんは自宅に戻った後、この避難場所を訪れた。近くから港が見下ろせる
からだ。
 「しばらくして湾内が半分ぐらい干上がり、さあ津波が来るぞと身構えていたら、
また海水が引いて行きました。二度引くなんてこれまでなかったことです。四百
〜五百メートル先まで海水がなくなったでしょうか、すると八木南港の方から煙
が上がりました。火事かと思ったら、それが津波でした。グォーっという音を立て
て海水が陸に上がり、まず線路の上をフルスピードの自動車のような早さで駆
けて来ました。漁協の事務所や倉庫、船、漁具一式が入った私の倉庫……。
それらが流されたのは、ほんの一瞬でした」
 津波は三度、四度と襲った。
 二度目だったろうか、駅に止めてあったラッセル車が転んだ。「あの鉄の固ま
りが」と住民はどよめいた。三度目には線路が流され、漁協の冷蔵庫棟が骨だ
けになった。海水が引いた後の港には、コンクリートがバラバラに破戒されて散
らばっていた。
 高台では義浩さんが炊き出しの準備を始めていた。停電・断水するなかで夕
暮れが迫ってきたからである。
 雪が降ってきた。テントにブルーシートなどで壁を作り、薪ストーブで暖をとっ
た。その日はテントで毛布を被って夜を明かした人もいたが、他の沿岸では凍
えながら夜を明かした被災者が多かったのに比べると、万端すぎるほどの準備
だった。強いてなかった物を挙げれば、漁村センターに置いてあった大鍋が流
されてしまい、住民から借りたことぐらいだった。
 八木北集落では夜までに、全員が避難しているとわかった。
 「町内ではこれまで最も被害が大きかった集落で、今も防潮堤がないのです。
私自身、信じられませんでした」と、義浩さんは語る。
 だが、「逃げる」とは簡単なことではなかった。

 
 


  消防団が先に逃げる  

         逃げる

       逃げる

     逃げる

   逃げる

 逃げる

げる


    消防団が先に逃げる

 「津波がもし十年前だったら、被害者はゼロでは済まなかった」
 久慈広域連合の久慈消防署、庭野和義・種市分署長(六十歳)は胸をなで下
ろす。その頃はまだ「逃げる」対策が十分ではなかったからだ。
 約十年前に分署でアンケートを取ったのが取り組みの始まりだった。
 八木地区には「想へ惨禍の三月三日」と大書した碑がある。昭和三陸津波が
襲った三月三日には、この前で慰霊祭を催し、あわせて町の避難訓練を行って
いた。ところが、参加者は年々減少し、関係者を悩ませた。「理由は分かってい
た」と庭野分署長は話す。昭和津波が襲ったのは午前三時ごろで、避難訓練も
早朝に行っていたからだ。「訓練にリアリティはあっても、若い人が仕事に間に
合わない。高齢者も出ようという気があっても寒すぎる」。そこで、うまく回答が出
るようにして住民アンケートを行い、訓練は慰霊祭と切り離して、九月の第三日
曜日の日中に変更した。すると参加者は、町内の避難対象者の五百四十人を
上回るようになった。
 消防団の体質も変えた。
 「地震があったら、まず消防団から逃げよう、血相を変えて逃げよう、というこ
とにしたのです」
 最初は「消防団が先に逃げるなんて」と反発もあったが、庭野分署長の発想
は逆だった。
 「今回の津波では、防潮堤の門を閉めた後、堤の上で煙草をふかしながら津
波が来るのを待っていた消防団があったと報じられています。そのような姿を見
た住民が逃げるでしょうか。門を閉めたら消防団が泡を食って逃げて行く。それ
を目の当たりにした住民が『やばい』と感じるのです。洋野町の消防団は、ポン
プなどの取り扱いを競う操法大会で全国一になったこともある町の誇りです。そ
の団員が血相を変えて逃げるからこそ効果がある」
 ただ、そうした境地に至るには時間がかかった。庭野分署長も「私自身が逃げ
るのを恥ずかしく思っていた」と告白する。「でも、消防が被災してしまったら、誰
が助けに行くのか。退職する年齢になって、ようやく分かってきた」と話す。
 庭野分署長はもう一つの仕掛けをした。各集落で自主防災組織を結成しても
らったのだ。これは阪神・淡路大震災後に注目された地域ごとの自主的な集ま
りだ。大きな災害では行政の手が届かないので、住民に自ら助け合ってもらお
うという発想で、全国で設立された。ただ、行政主導で設立されたため「ペーパ
ー組織」が多いのが実態で、八木北集落のように本番で機能するかどうかは疑
問視されている。
 その組織の自主的な結成を、二OO八年から全沿岸で働きかけた。
 意外に思えるが、洋野町の自主防災組織の最大の活動は挨拶だ。そして避
難路の除草や除雪という。
 「防災は声かけから始まります。近所に誰が住んでいて、どんな体調か、手助
けが必要かどうか、頭に入れるのです。弱者にどう避難してもらうかについては、
近年はプライバシーの問題があって名簿が作れません。でも、書面にするより
日頃から考えたり話し合ったりする方が実効的です。そうして挨拶が増えた証拠
だと思いますが、近年は熱中症の一一九番通報が格段に増えました」。避難路
の掃除は、日頃から頭に入れておくためである。
 八木北集落には避難に手助けが必要な高齢者がいた。今回は避難する住民
が次々に声をかけて車で連れて逃げた。八木南集落では車椅子の住民がいた
が、日頃からどう手助けするか防災組織で話し合われていた。
 そんな八木地区には、今後も防潮堤はなくていいのだろうか。
 徳平さんは複雑だ。仲間のタコ漁師が防潮堤への過信で亡くなったからだ。
 岩手県宮古市の旧田老町には、高さ十メートルの二重防潮堤が二千四百三
十三メートルも建設され、「万里の長城」と呼ばれていた。
 「そのすぐ内側に仲間の家があって、地震の後も逃げなかったそうです。ふと
気づいたら、防潮堤の上に自分の船が見えた。逃げる間もなく呑まれました。
その隣も仲間の家で、やはり逃げませんでした。こちらは家ごと吹き飛ばされる
ようにして山際に押し付けられました。浮かんだ瓦礫を渡って、タコのように木に
すがりつき、九死に一生を得ました。『何で逃げなかったのか』と聞いたら、『誰
も防潮堤を越えるとは思わなかったのだ』と。防潮堤のない八木地区では逃げ
るのが原則なんですが……」
 義浩さんは「整備は今すぐには必要ない」と考えている。「何十年もかかるし、
どれくらいの高さだったら安心かの保証はない。それよりここが危険だと思って
いて今みたいに高台に早く上がる方がいい」と話す。町内では二OO九年、高
さ十二メートルの防潮堤が完成した地区があるが、千三百九十メートルの整備
に二十三年間、約五十七億八千万円もかかった。

 
 


  コンクリートが人を守る  
           守る
          守る
         守る
        守る
       守る
      守る
     守る
    守る
   守る
  守る
 守る
守る
る


    コンクリートが人を守る

 ならば、防潮堤は役に立たないかというとそうではない。普代村では堤内の住
宅被害がゼロだった。
 村では明治三陸津波で三百二人、昭和三陸津波で百三十七人が亡くなってい
る。その昭和津波の経験者に一九四七年から四十年間村長を務めた和村幸得
氏(一九O九−九七年)がいた。
 村役場でアルバイトをしていた和村氏は、下宿先の叔父宅から裏山に駈け登
って助かったが、村の中心部から山を隔てて隣接する太田名部(おおたなべ)地区
では「密集地帯の家屋は一軒も残っておらず、山の中腹にある墓の前に死体が
累々と並べられていた。更に、堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている」
(回顧録『貧乏との戦い四十年』)という状態だった。
 村政は津波を機に混乱に陥り、和村氏は四七年、県職員から村長に当選した。
この年、二歳年下で同じ三陸の山田町出身の鈴木善幸元首相が、漁民代表と
して衆院議員に初当選した。二人は政治的な盟友で、村の運命を大きく変えて
ゆく。
 「二度あったことは、三度あってはならんのだ」。和村氏がそう言っていたのを
多くの人が記憶している。三度目の被害を避ける策は防潮堤だった。
 津波はまず川沿いに駆け上がることが知られており、海岸から一キロメートル
ほど離れた村の中心部を流れる普代川に、海抜十五・五メートルの堤を県事業
で設けることにした。街はその内側に収める。なぜこの高さかというと、普代に
押し寄せた波高は、明治が十五・二メートル、昭和は十一・五メートルとされて
いたからである。
 一九六三年と六六年に、計千五百メートルの堤を整備した。
 今、この堤を見ると、何の変哲もない河川護岸でしかない。だが、右岸と左岸
では高さが違い、海側が一・五メートルほど低くなっている。川沿いに上がって
来る津波を、「護岸」で受け流して住宅に入らせないようにし、海側の田んぼに
流し込む作戦なのだ。
 陸の孤島と言われた普代村に、鈴木元首相らの尽力で鉄道が敷かれ、七五
年に旧国鉄久慈線の久慈−普代間が開通した。ただし、駅ができたのは、水
を流し込むはずの田んぼ側だった。久慈線はその後、全線開通前に赤字路線
として廃止対象になり、第三セクターの三陸鉄道がやっとの思いで完成させる。
普代村にとっては悲願の鉄道だった。しかし、「浸水させるエリア」に住宅が建
つようになった。
 そこで、海岸から三百メートルの地点に、海抜十五・五メートルの「普代水門」
を、県事業で造ろうと計画した。河口から上がって来る津波を食い止めるダム
のような水門である。
 「そんなに巨大な構造物が必要なのか」「莫大な費用がかかる」。村内では疑
問視する声があった。和村氏は頑として引かなかった。
 普代水門は八四年、事業費三十五億六千万円で完成した。三陸鉄道の全線
開通も同時だったため、村では船村徹さんに作曲を依頼して、「普代村の歌」と
「普代音頭」を作った。
 そして、今回の津波である。
 水門部分の波高は、地元消防の調べで二十一・五メートルだったといい、六メ
ートルも越えた。だが、減衰効果は大きく、越流は住宅街に及ばなかった。ただ、
際どい防備ではあった。
 水門の下を走る県道と村道にはそれぞれ門があり、遠隔操作で閉められるよ
うになっている。ところが、幅十メートルほどの県道側の門が、余震で動かなくな
り、消防職員と消防団員が現場に駆けつけて手動で閉めた。しかしその時には
津波が迫っており、一人が水門上の操作室に取り残された。この職員は、海水
の吹き込む室内で震えながら収まるのを待つのだが、乗って来た消防車輌は
防潮林の中で鉄の固まりになって見つかった。
 水門が耐えられる設計水位は二十一・六一メートルだったので、実際の波高
とほぼ同じだった。余裕を持たせて建設されていたはずなので、すぐに倒壊に
は結びつかないものの、もう少し波が高ければ破損していたかもしれない。そう
なれば村の中心部が無事だったかどうかは分からない。
 一方、普代水門とは隣り合わせの太田名部の集落にも、海抜十五・五メートル
の防潮堤が整備されていたが、ここへ到達した津波は十メートルに満たず、集
落は完全に無傷だった。なぜこれほどの差が出たのか。
 太田名部の漁港は、村の中心的な港で、和村元村長が一期目から鈴木元首
相と歩調を合わせて県に整備を働きかけた。時化(しけ)の激しい海域だけに、
六十年以上経った今も整備中である。だが、その時化から守るために設けられ
た三重の防波堤などが津波を弱めたと見られ、「政府は『コンクリートから人へ』
と言うが、コンクリートが守る人命もある」(三船雄三・住民課長)と村では語れて
いる。

 
 


  「安心」の二律背反  
     安心
       安心
         安心
           安心
             安心
               安


    「安心」の二律背反

 今後の津波対策はどうするのか。
 政府の中央防災会議の専門調査会が六月、基本的考え方についての提言を
まとめた。それによると、防潮堤などの整備は「比較的頻度の高い一定程度の
津波高に対して」引き続き進めるものの、施設を大幅に高くするのは費用や環
境面から現実的ではないので、住民の避難を軸にした総合的な対策の確立が
急務としている。要するに、防潮堤の整備は進めるけれど、もっと逃げるように
しなければならない、ということなのだろう。普代村と洋野町を合わせたような対
策である。
 理想的にはその通りなのだが、実際には難しい。普代村の普代水門は津波を
食い止めたともてはやされているが、現実には越流があり、ぎりぎりで守り切った
のが実情だ。太田名部防潮堤は六十年以上かけて整備してきた漁港の多重防
波堤あっての防備である。
 洋野町でも、八木北集落では住民の逃げ足が早かったが、蔵義浩さんの言葉
を借りれば「防潮堤がないという危機感」を背景にした避難だ。町内の他地区で
は、自宅の二階にいて一階が浸水した人、消防団が「逃げろ」と叫んでいるのに
海岸から離れなかった人、港に船を見に行って車をさらわれ身一つで帰って来
た人がいた。
 こうして見ると、両町村とも幸運あっての ”死者ゼロ” だったと言える。今回の
結果に慢心すれば、次は恐ろしい結果が待っているかもしれない。
 人間は矛盾した動物だ。「安心」を求めるからこそ施設整備を進め、しかし「安
心」と思った瞬間から逃げ遅れが始まる。「安心」を巡る二律背反こそ津波の敵
なのだろう。二つの ”死者ゼロ” は、そう教えてくれる。

                            2011.08.21〜8.23丸写ししました。
                                      (馬鹿だねぇ。)

 



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