ユーミン・ファンは、ぜひ読んでネ。(^_^;)  





  
  「はっぴいえんど」ファンも、読んでネ。(^_^;)  
 面白かったので、紹介します。 ユーミン・ファンはぜひ読んでネ。(^_^;)


『文藝春秋』2011年三月特大号より
 いつもの丸写しで〜す。(^_^;)





  『松任谷由実/ユーミンと自立する女性の世紀』  

                 を読んでください。(^_^;)  





新連載 『時代を創った女@』


松任谷由実


  『松任谷由実/ユーミンと自立する女性の世紀』  

   を読まずにユーミン・マニアを名乗っては  

   いけないことになってるんです。(^_^;)  







  松田聖子ファンも、読んでネ。(^_^;)  

ユーミンと自立する女性の世紀

 







  呉田軽穂と松田聖子  


  「守ってあげたい」「中央フリーウェイ」「DESTINY」…。
  彼女の曲が時代を超えて愛される理由
                             柳澤 健(ノンフィクション・ライター)

 細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆の四人が結成した「はっぴいえんど」は、
歌謡曲とフォーク全盛の七O年代初頭に「日本語のロック」というまったく新しい
ジャンルを創始した伝説のグループである。
 一九七二年の暮れ「はっぴいえんど」が解散すると、職を失った松本隆は歌謡
曲の作詞家に転向した。作詞家デビュー直後の松本が書いたアグネス・チャン
の「ポケットいっぱいの秘密」には以下のような一節がある。

  あなた 草のうえ
  ぐっすり眠ってた
  寝顔 やさしくて
  「好きよ」ってささやいたの

 一見普通の歌詞に見えるが、各行の一番最初の文字を取ると、あ・ぐ・ね・す、
つまりアグネスとなる。
 一九八一年春、CBSソニーの若松宗雄ディレクターから松田聖子の作詞を依
頼された時、言葉の魔術師である松本隆は、長い間温めていた計画をついに
実行に移す時がきたと感じた。
 計画とは、消耗品であることを宿命づけられている歌謡曲をスタンダードナン
バーに変えるというものだった。
 八O年四月に「裸足の季節」でデビューした松田聖子は、以後「青い珊瑚礁」
「風は秋色」「チェリーブラッサム」「夏の扉」が立て続けに大ヒット。すでに飛ぶ
鳥を落とす勢いのスーパーアイドルだった。
 「松田聖子の作詞を引き受けた時、僕には『売れて残したい』という野心があ
った。一過性のアイドル向けの曲ではなく、ちゃんとした音楽、普遍的な曲を作
りたかった。先進的な部分と保守的な部分の両方があって初めて『売れて残る
もの』ができる」(松本隆)
 松本隆が初めて作詞を担当した「白いパラソル」(財津和夫作曲)、「風立ちぬ」
(大瀧詠一作曲)はいずれも大ヒットとなった。
 実質的なプロデューサーとして作曲者を決めるようになった松本隆が、満を持
して起用したのが松任谷由実、ユーミンだった。

  呉田軽穂と松田聖子

 ユーミンが松田聖子のために初めて書いた曲が「赤いスイートピー」だ。
 「ぼくの詩につりあう音楽性の高さを維持できる人は何人もいない。作曲家とし
てのユーミンは細野晴臣、筒美京平と並ぶ僕のベストスリー。細野さんや京平さ
んには頭で曲を作るところがあって、時には転調が強引すぎると感じる時もある
けど、ユーミンはごく自然に転調するから、僕が『ここで話を展開させたい』と思
っているところに、凄くいいコード(和音)が入ってくる。たとえば「赤いスイートピ
ー」の ”あなたって、手も握らない” と ”I WILL FOLLOW YOU” の間。ここがとて
もいい感じでつながっているからこそ『手を握りたいけど、握れない』という躊躇
とか、ものすごくたくさんんのことが一行で言える。作詞家は一行で百行くらいの
内容を、しかも平易に言いたい。だから、それなりの曲がどうしても必要になる」
(松本隆)
 当時のユーミンはシングル「守ってあげたい」に引き続いてアルバム「昨晩お
会いしましょう」も大ヒット。第二次ブームの渦中にいた。歌謡曲とは一定の距
離を置きたいユーミンは、”呉田軽穂”(くれたかるほ)というペンネームを使うこと
を条件に松本からの依頼を受けた。
 「松本さんからは『ライバルに曲を書かない? 女性ファンが欲しいんだよ』っ
て言われました。私の曲がフェミニンかどうかはともかく、歌謡曲の作曲家が作
るものとは違う匂いを発するだろう、と」(松任谷由実)
 名曲「赤いスイートピー」は松田聖子の客層をガラリと変えてしまった。
 ハイトーン・ヴォイスの快感を求める若い男性ファンは去った。代わりにやって
きたのは、かつて松田聖子を「(可愛いこ)ぶりっ子」と嫌っていた女性ファンだ。
 甘く、少しだけハスキーな素晴らしい声の持ち主が歌うピュアな恋物語。微妙
な色彩感を持つメロディの魅力を活かす絶妙のアレンジ。松田聖子、松本隆、
松任谷由実、編曲の松任谷正隆という四人の「松」が作り出す世界は、女性フ
ァンたちを魅了した。
 名曲「赤いスイートピー」以後、松田聖子はアイドルから大歌手への道を進ん
で行く。
 そして「渚のバルコニー」や「小麦色のマーメイド」「秘密の花園」「瞳はダイヤ
モンド」「Rock'n Rouge」「時間の国のアリス」といったシングルA面ばかりでなく、
「制服」「青いフォトグラフ」等のシングルB面やアルバム収録曲に至るまで、呉
田軽穂作品のすべてが松田聖子の最も重要なレパートリーとなった。
 松任谷由実=ユーミンは、何よりもまず、類い希なる作曲家なのだ。

 
 


  洋楽に囲まれた少女時代  


  洋楽に囲まれた少女時代

 荒井由実、のちの松任谷由実は一九五四年一月十九日、東京都八王子市で
四人兄弟の次女として生まれた。
 由実には二人の母親がいた。
 実母の荒井芳枝、そして家政婦の宮林秀子である。
 荒井呉服店の跡取り娘である芳枝は、近所の織物の仲買商の番頭を婿に取
り、家業とPTA活動に熱心だった。趣味は芝居見物。家事と子供たちの世話は
すべて家政婦に任せた。
 宮林秀子は山形県出身。穏やかで優しい人格者だった。
 「母親は大正時代のぶっ飛んだモガ。赤い自転車がトレードマークで、近所で
も評判だったと聞きました。小柄なひでちゃんはコロボックルみたいな人(笑)。
近所や少し遠くの川原に散歩に行く時には、童謡を歌ってくれました。実家の左
(あてらざわ)に里帰りする時には、実の子供同然の私を一緒に連れて行ってく
れた。森羅万象に何かが宿っている、というアニミズムのような感覚は、ひでち
ゃんから無言のうちに教わったような気がする」(松任谷由実)
 モダンガールの生みの親と、「いつも妖精を見ているような」育ての親。ふたり
の母親の影響は、二重螺旋のように荒井由実の人格を形成していく。
 終戦直後の荒井呉服店を支えたのは、アメリカ軍だった。
 立川基地にやってきたアメリカ軍の将校夫人は洋服の生地と「ヴォーグ」等の
ファッション雑誌を店に持ち込み、このような服を作って欲しいとオーダーした。
 器用な日本人は将校夫人の注文によく応え、気がつけば荒井呉服店は八十
人もの従業員を抱える大店となっていた。
 若い従業員たちはラジオから流れるポップスを聞きながら針を動かし、ミシン
を踏んだ。幼い由実は坂本九や森山加代子等の洋楽カバーや「太陽がいっぱ
い」「避暑地の出来事」などの映画音楽のメロディを自然に覚えていく。小さい
由実がマンボに合わせて踊ると、従業員たちは笑顔で喝采を送った。
 姉と同じカトリック系の幼稚園に通い、小学校一年からピアノを習い始めた由
実はやがて「昼下がりの情事」のメロディをピアノで拾うようになった。

 
 


  「青い影」の衝撃  


  「青い影」の衝撃

 一九六六年四月、由実は、姉と同じ立教女学院に進学した。
 米国聖公会のプロテスタント宣教師が創立した立教女学院は東京郊外の三
鷹台にある中高一貫のミッションスクール、毎日礼拝の時間があり、日曜日の
礼拝も義務づけている。
 司祭の説教は由実を退屈させたが、聖マーガレット礼拝堂で聞いたバッハの
「トッカータとフーガ ニ短調 BWV五六五」には異常な衝撃を受けた。
 「パイプオルガンは教会全体が楽器。床の下にはパイプが通っているんです。
バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これは本当の話なんだけ
ど、声までオルガンみたいになっちゃった。瞬間的に内耳の構造が変わったの
かもしれない」(松任谷由実)
 以後、由実の音楽体験は急速に広がっていく。まもなく始まった「ビートポップ
ス」(フジテレビ)に夢中になった。ビートルズ来日の興奮も覚めやらぬ一九六七
年にスタートした日本初の洋楽紹介番組である。
 司会は大橋巨泉。「ミュージック・ライフ」編集長の星加ルミ子や音楽評論家の
木崎義二、さらに藤村俊二も振付師として出演していた。
 「ビートルズやローリング・ストーンズはもちろん、カンツォーネやミリアム・マケ
バの『パタパタ』みたいな民族音楽もあった。ゴー・ゴー・ガールが出てきて踊る
んだけど、その中の何人かが後に(『黄色いサクランボ』の)ゴールデン・ハーフ
になったの」(松任谷由実)
 ビートポップスが紹介した数多くの曲のひとつにプロコル・ハルムの「青い影」
がある。バッハの「G線上のアリア」のような下降するベースラインとハモンドオ
ルガンの音色が美しい名曲だ。
 クラシックとロックが融合した「青い影」を聞いたことは、十三歳の早熟な少女
にとって人生の転機となった。
 自分には六年間習ったクラシック・ピアノの技術があり、幼少期からあらゆる
種類の音楽を聴いた膨大な記憶があり、日常的に教会音楽に触れる環境が
ある。
 「これなら、私にもできるかもしれない」
 そう考えた荒井由実は、耳に残っている印象的なフレーズを片っ端からコピー
することから始めた。ピアノという鋭利なメスを使って曲の構造を解剖し、ヒット曲
の秘密を解こうとしたのである。
 まもなく由実はグレゴリオ聖歌とボサノヴァの「ワンノート・サンバ」の間に共通
点があることに気がついた。
 主旋律が同じ高さの音を続けているにもかかわらず、伴奏がコードを変えれば、
まったく単調に聞こえないのである。
 「これだ!」
 由実は西洋音楽の根源の一端に触れた思いがした。
 当時の荒井家には、家族ぐるみのつきあいをしていた一家があった。母親は
日本人、父親は米軍兵士。由実のひとつ年下の娘はマーガレット、通称マギー
と呼ばれていた。
 日曜日になると、荒井家の人々はマギーの家族と一緒に立川基地に行く。
 洗濯工場の近くにあるランドリー・ゲートを通って入場し、PX(基地内の売店)で
ペプシやアイスクリームを大量に買った。
 その間、由実はレコード売り場に放し飼いにしてもらった。
 「基地の中でLPを買うと、ノータックスだから八百円くらい、銀座や渋谷で輸入
盤を買えば二千五百円だから三分の一の値段。お小遣いの範囲で買える」
(松任谷由実)
 八王子の荒井由実は、間違いなく日本一のロック少女であっただろう。

 
 


  不良少女  


  不良少女

 だが、聡明な商家の娘が「私はロック・ミュージシャンとして生きていく!」という
無茶な決意をするはずもなかった。六O年代末、日本人の女性ロッカーはひとり
も存在しなかったからだ。
 高校を卒業したら東京芸大の日本画専攻に進もう。由実はそう考えた。
 娘が着物デザイナーになれば家業にも役立つ。両親は両手を挙げて賛成し、
由実は中学三年から御茶の水美術学院に通い始めた。
 自宅のある八王子、学校のある三鷹台、美術学校のあるお茶の水。
 三角形を往復する毎日が始まれば、必然的に帰宅時間は遅くなる。その上さ
らに、家に帰りたくない理由ができた。
 母親の芳枝が、夫と宮林秀子の不倫を疑い、荒井呉服店は大騒ぎになってい
たのだ。
 生みの母と育ての母の板挟みになった由実は「家を出て、ひでちゃんと一緒に
暮らそう」とさえ思った。
 家にいたくない由実はディスコに通い、グループサウンズの追っかけをするよう
になった。情報の少ない時代であり、由実が立川基地で仕入れたレコードを差し
入れると、メンバーたちは狂喜乱舞して、すぐに由実を仲間に迎え入れた。
 荒井由実が最後に辿り着いたグループサウンズがフィンガーズだ。早弾きで有
名なギタリストの成毛滋や高橋幸宏の兄・高橋信之、そして中国人のC・U・チェン
らがいた。
 チェンとは特に親しくなった。後にロサンジェルスでレストラン「チャイナクラブ」を
大成功させ、空間プロデュースや企業のブランド開発でも有名になるC・U・チェン
は、由実を「ユーミン」と呼んで可愛がった。
 すでに作曲を始めていたユーミンが自作曲をチェンに聞いてもらったところ、気
に入ったチェンは川添象郎(しょうろう)に紹介してくれた。
 川添象郎は板倉の伝説的なイタリア料理店「キャンティ」のオーナー川添浩史
の長男である。
 作家の三島由紀夫や映画監督の黒澤明、加賀まり子や大原麗子、石坂浩二
や田辺昭知等の芸能人が集まる「キャンティ」には、ザ・タイガースを辞めたばか
りの”トッポ”こと加橋かつみも出入りしていた。
 ユーミンのテープは川添象郎から加橋かつみに渡り、気に入った加橋は、ユー
ミンの曲に自ら歌詞をつけて録音した。
 シングル「愛は突然に…」が発売されたのは一九七一年四月のことだ。
 ユーミンが作曲家デビューを果たしたこの曲を聴いて驚愕した人物がいた。
 作曲家の村井邦彦である。
 慶應義塾大学ライトミュージックソサエティ出身の村井は、ザ・タイガースの「廃
墟の鳩」、ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」、トワ・エ・モアの「或る日突然」
や「虹と雪のバラード」、赤い鳥の「翼をください」等、多くのヒット曲を手がけた。
 加橋の仲介でユーミンに会った村井は、「あなたには才能がある。ウチの作家
になりませんか」と申し出た。
 ”ウチ”とは、村井と作詞家の山上路夫が設立した音楽出版社アルファミュー
ジックのことだ。十七歳のユーミンは、すでに将来を嘱望される作曲家だったの
である。
 翌七二年四月、ユーミンは多摩美術大学美術学部絵画学科に入学したが、
絵を描く時間は極めて少なかった。
 卒業するまでに、ユーミンは音楽の世界で大スターになっていたからだ。

 
 


  ひこうき雲  


  ひこうき雲

 アルファミュージックと出版契約を結んだユーミンに、村井邦彦は意外な提案を
した。
 「自分で歌ってみないか?」
 アメリカではキャロル・キングの「つづれおり」が大ベストセラーとなり、シンガー
・ソングライターの時代が始まっていた。
 村井はユーミンを日本のキャロル・キングにしようとしていたのだ。
 ユーミンはとまどった。自分で歌うなど考えたこともない。曲には自信があった
が、自分は表に出るタイプではないと思っていた。
 しかし、村井の申し出を断れば、自分の曲を発表するチャンスは二度とこない
かもしれない。ついにユーミンは自分で歌うことを決意する。
 一九七二年七月にリリースされた新井由実のデビューシングル「返事はいら
ない」は、旧知のかまやつひろしのプロデュースで制作された。ドラムスは高橋
幸宏、ユーミンは自ら編曲、ピアノ、ハモンド・オルガンを担当した。売れ行きは
数百枚に過ぎなかったが、ミュージシャンたちの間での評判は上々だった。
 意を強くした村井邦彦は、ユーミンのアルバム制作を正式決定し、キャラメル・
ママ(七四年にティン・パン・アレイに改称)にサウンド・プロデュースを依頼する。
 キャラメル・ママは、はっぴいえんどの解散後、ベースの細野晴臣とギターの
鈴木茂が、ドラムスの林立夫、キーボードの松任谷正隆と共に結成したグルー
プである。
 レコーディングの間に、ユーミンは松任谷正隆と交際するようになった。
 当時の松任谷正隆は慶應大学文学部の四年生。祖父はゴルフ場の設計者で
あり。父は横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の取締役。杉並区上高井戸に
あるテニスコートつきの三百坪の家に育った生粋のお坊ちゃまだ。
 四歳からクラシック・ピアノを始め、幼稚舎から慶應に入った正隆は、耳で聞い
たメロディーを即座にピアノで弾けるという特殊技能を持っていた。
 十四歳でバンド活動を始めると「レコードを聴かせればすぐに譜面に起こせる
男」としてひっぱりダコになり、大学に進んで出場したコンテストにはダントツで優
勝。審査員の加藤和彦(ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バン
ド)に認められ、吉田拓郎の「結婚しようよ」の録音やツアーにも参加した。
 一八Oセンチに近いハンサムな慶應ボーイのミュージシャンを女性が放ってお
くはずもなく、同時進行で二人、三人とつきあう正隆に友人たちがつけたあだ名
は”マンタ”。艶福家という意味だ。
 だが、正隆は小学校の頃から現在でいうパニック障害と登校拒否症に苦しみ、
電車に乗ることも団体行動も大の苦手だった。
 バンド活動を始めた動機は「不安だからこそ誰かと何かを一緒にやっていた
い」という一種の逃避であり、好きでもない女生徒つきあうからこそ二股、三股に
なってしまう。音楽で食べていけると感じたことは一度もない。
 ユーミンに会った頃の松任谷正隆は、「大学卒業後の自分は、社会に適応で
きないままドロップアウトしてしまうのではないか」という恐怖心に苛まれていたの
だ。
 「ギリギリのところで由実さんに出会った。簡単に言えば、僕は由実さんと由実
さんの音楽に救ってもらった。ようやく自分のやりたい音楽が見つかって、砂漠
の中でオアシスを見つけたような思いがした」(松任谷正隆)
 以後、ユーミンと正隆は公私ともに必要不可欠のパートナーとなっていく。

 
 


   魔女か! スーパー・レディか!  


  魔女か! スーパー・レディか!

 荒井由実のデビューアルバム「ひこうき雲」は、クラシックの作曲家からも賞賛
された。オペラ「夕鶴」、童謡「ぞうさん」の作曲者であり、エッセイ集「パイプのけ
むり」でも著名な團伊玖磨は「ひこうき雲」を次のように評している。
 「はじめにきいたのは『紙ヒコーキ』『ひこうき雲』など。それからはいろいろ。そ
れらを耳にして、非常に驚き、感激もしたのです。なぜならば、そこには、過去の
日本の作曲家がやろうとしてできなかった、べたべたしたものからの飛躍があっ
たからです」(「朝日新聞」七七年一月十一日夕刊)
 曲を書くことは絵を描くことに近い、メロディーは形、詞は構図、そしてコード(和
音)は色彩なのだ、と美大出身のユーミンは言う。
 「ドミソ(C)という和音がはっきりとしたオレンジ色だとしたら、そのうえにシとい
うメジャーセブンの音を加えると、もっと白っぽい、桃色みたいな音になる。マイナ
ー(短調)のラドミ(Am)が紫色だとしたら、ドミソの下にラをつけたラドミソ(Am7)
というコードは、オレンジと紫が混ざりあって、微妙なバイオレットみたいな色にな
っていく。曲というのは、色彩が流れて行く経過がすべてと言ってもいいくらい。
自分の特徴は中間色にあると思います」(松任谷由実)
 フォークソングの歌手たちがギターを使い、限られたコードフォームを行き来し
て曲を作るのに対して、ピアノで作曲するユーミンは、コードにしばられることなく、
ひとつひとつの音を自在に組み合わせた。
 日本語は抑揚に乏しく、だからこそ歌手はこぶしを利かせ、メロディーを崩して
歌う。しかしユーミンはテンション(コード外の音)を有効に使い、コード進行に意
外性を与えると共に、平板単調になりがちな日本語のメロディーラインにスピード
感や浮遊感を出すことに成功した。
 團伊玖磨の言う「べたべたしたものからの飛躍」、そしてデビューアルバムの帯
につけられた「魔女か! スーパー・レディか! 新感覚派・荒井由実登場」とい
うキャッチコピーは、ユーミンが作った曲の新しさをうまく言い表している。

 
 
 


  学芸会  


  学芸会

 しかし、音楽業界に衝撃を与えたデビューアルバム「ひこうき雲」も、荒井由実
の最高傑作との呼び声も高いセカンドアルバム「MISSLIM」も、売れ行きはい
たって低調だった。
 ユーミンの曲が持つ本質的な新しさを理解したのは少数の音楽ファンだけに過
ぎず、大多数の人々にとって、ユーミンはよくあるシンガー・ソングライターのひと
りに過ぎなかった。
 「デビュー当時の由実さんは、五輪真弓さんと比べられてました。同じテレビ番
組に出て、同じようにピアノを弾いていたから。五輪さんは線が太くて歌がうまい。
由実さんは線が細くて歌がヘタだったから、いつもコテンパンにやられて、思い
切りヘコンで帰ってくる。コンサートもだんだんやりたくなくなってきて、ある時”学
芸会みたいにしたい”と言い出した。確か(七四年十二月の)日本青年館でした」
(松任谷正隆)
 「舞台で歌うこと自体が恥ずかしくてしょうがなかったから、もう見世物にしちゃえ
と思って。ヴォーカルもごまかせるし(笑)。青年館のコンサートでは自転車に乗っ
てステージに出て来たんだけど、色気を出して客席に愛想を振りまいたものだか
ら走るルートを間違えてギタリストが並べているエフェクター(音色を変える装置)
を全部踏んじゃって、つなぎ直している間の三曲くらいはギターの音が全然出な
かった(笑)」(松任谷由実)
 当時の女性シンガー・ソングライターのファッションは、黒のロングスカートに長
いストレートヘア、というのが定番だった。
 そんな時代に、ユーミンは、天井からペーパー・ムーンに乗って網タイツ姿で下
り、赤いマントを羽織り、白いジャンプスーツで飛び跳ねていたのだ。
 「コスプレですよね。ピンク・レディーの三年先を行ってた」(松任谷由実)
 「由実さんの大衆性、派手好きは母親の芳枝さんの影響でしょう。いろいろな演
劇を見るのが好きな人だから」(松任谷正隆)
 七五年二月にリリースされたシングル「ルージュの伝言」のスマッシュ・ヒットによ
って、ユーミンの派手なコンサートに若者たちが集まり始めた。
 バンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」が十月にヒットチャートの一位を
獲得すると、勢いはもう止まらなかった。
 まもなくTBS系ドラマ『家庭の秘密』の主題歌となったシングル「あの日にかえり
たい」もヒットチャートの一位に輝き、余勢を駆ってサードアルバム「COBALT HO
UR」も大ヒット。過去の二枚のアルバムもようやく正当な評価を得た。ついにユー
ミンの時代がやってきたのだ。
 しかし、すでにその時ユーミンは疲れ果てていた。
 自分は作品を発表したいだけなのに、いつのまにか馬車馬のように働かされて
いる。半年に一度のアルバム作りとツアーがあり、さらにアルファレコード所属の
ハイ・ファイ・セットや石川セリのために曲を書かなくてはならない。
 たまにテレビに出れば、芸能関係者が敵意を込めてにらみつけてくる。
 一九七一年に日本テレビがスタートさせたスター発掘番組「スター誕生!」は、
テレビ局、芸能プロダクション、音楽出版社、阿久悠のような作詞者、都倉俊一
のような作曲者が一種のカルテルを形成し、山口百恵、森昌子、桜田淳子の「花
の中三トリオ」ら多くのアイドル歌手を生み出し、莫大な利益を分配していた。
 作詞家も作曲家もテレビ局も番組所属のバンドも芸能プロダクションも必要とし
ないユーミンの存在は、このような芸能界のあり方の根底を脅かすものであり、
関係者がユーミンに敵愾心を燃やすのも当然だった。
 七五年四月から始まったツアーは果てしなく続き、八月十七日にはついに過労
のために早朝の羽田空港で倒れた。
 ユーミンはこの日の延岡のコンサートを強行、翌日から久留米、福岡、鹿児島、
大牟田、徳山と続くハードスケジュールを必死にこなしたが、九月にはついにコン
サートをキャンセルせざるをえなくなった。
 レコード会社や事務所が、自分が稼いだ金を他のアーティストの育成に使って
いることも不満だったし、自分の意志とは別のところでベストアルバム(「YUMING
BRAND」)を出すことにも抵抗があった。
 女子大生のユーミンには音楽がビジネスであることが理解できず、「自分は消
費され、搾取されている」という思いばかりが心の中を支配するようになっていた
のだ。

 
 


  結 婚  


  結婚

 一九七六年三月に多摩美術大学を卒業した頃、ユーミンは引退を決意してい
た。
 もう人前で歌うのは辞めよう。依頼があれば曲を書こう。もともと自分は作曲家
になるつもりだったのだから。
 そう考えたユーミンは十一月二十日に「THE 14th MOON」をリリースし、九日後
には横浜山手教会で松任谷正隆と挙式を行うと、八王子の実家を出て、杉並区
善福寺のマンションに移った。しばらく音楽から離れてゆっくりしたかった。
 ところが一年ほど経つと憂鬱の雲に覆われるようになった。単調な主婦業に耐
えられず、松任谷家の嫁に求められるモラルだけに縛られるのもイヤだった。曲
を作っていない自分、アルバムを作っていない自分には、何の価値もないと思え
てきた。
 「これはやっぱり、逃げられないんだな、と」(松任谷由実)
 ユーミンは再びピアノに向かい、曲を作り始める。
 二十四歳の若妻が、レコード会社を東芝EMIに変えて一年半ぶりに出した「紅
雀」(七八年三月)の売り上げは、しかしユーミンの予想を大きく下回った。できる
だけカタカナを使わず、美しい日本語の歌を作ろう、というアーティストのこだわり
は、市場に受け入れられなかったのである。
 続く「流線形'80」(七八年十一月)ではポップな方向へと大きく舵を切り、「OLI
VE」(七九年七月)では五O年代のイタリアン・ヴォーグのハイセンスな匂いを漂
わせ、「悲しいほどお天気」(七九年十二月)では私小説の雰囲気を出し、「時の
ないホテル」(八O年六月)ではイギリスの重厚で陰鬱な空気感を演出した。
 この時期の松任谷由実は、素晴らしい曲を数多く生み出している。「埠頭を渡
る風」「青いエアメイル」「DESTINY」はコンサートの大定番であり、ユーミンの長
いキャリアの中でも屈指の人気曲でもある。
 だが、アルバムのセールスは一向に伸びない。危機的状況を打開すべく、ユー
ミンは思い切った手を打った。
 リゾート・アルバムを作ることにしたのだ。

 
 


  消費の時代  


  消費の時代

 一九六八年にパリで起こった「五月革命」に端を発する世界的な学生反乱運動
は、日本においては安保闘争と結びつき、やがて全共闘へと発展した。七O年代
半ばまで、日本には全共闘の名残が長く残った。「四畳半フォーク」(吉田拓郎や
かぐや姫の楽曲を指す。ユーミンの命名)には資本家を憎み、消費を悪徳とする
共産主義の匂いが濃厚に漂っている。
 七五年にベトナム戦争が終わると、兵役を解かれた若いアメリカ軍兵士は一斉
に帰国した。戦争に疲れ果て、心を病んだ若者たちの多くは、街で暮らすことを
好まず、サーフィンやスケートボード、マウンテンバイクやバックカントリースキー
など、フィジカルで精神性を持つスポーツに熱中した。
 ベトナム帰りの若者たちが始めた新しいスポーツを、一切の文脈を無視した上
で日本に紹介したのが、一九七六年に創刊されたマガジンハウスの『POPEYE』
だった。
 共産主義を夢想した全共闘世代の人間はアメリカ文化を礼賛する『POPEYE』
を蛇蝎の如く忌み嫌ったが、下の世代の若者は「かっこいいアメリカ」をあっさりと
受け入れ、消費を美徳とする時代が始まった。
 三畳一間の小さな下宿で同棲する男女を描いたかぐや姫の「神田川」からわず
か五年後の一九七八年、東京の若者たちは、フィラやタッキーニのテニスウェア
を着て、テニスラケットを持ち、男子学生は『POPEYE』、女子大生は『JJ』をバイ
ブルにしていた。彼らは西麻布のビストロで食事をして、アンナミラーズで生クリ
ームたっぷりの甘いケーキを食べ、深夜のイタリアン・トマトでおしゃべりを楽しむ
ようになった。
 七八年八月、すでにユーミンは葉山マリーナで「サマーリゾート」コンサートをス
タートさせている。十一月に発売された「流線形'80」には、「ロッヂで待つクリスマ
ス」「真冬のサーファー」という、スキーとサーフィンを題材にした曲が含まれてい
た。
 若者たちの指向が消費に向かっていることを敏感に察したユーミンは、ついに
本格的なリゾート・アルバム「SURF&SNOW」(八O年十二月)をリリースする。
 クリスマスのスタンダードナンバーとなった「恋人がサンタクロース」を含むこの
「SURF&SNOW」は、四十万枚を売り上げる久々のヒット作となった。
 手応えを感じたユーミンは、翌八一年三月に苗場で「SURF&SNOW in 苗場」
をスタートさせ、以後、夏の葉山マリーナ(八三年に逗子マリーナに変更)と冬の
苗場スキー場で行われるリゾート・コンサートは恒例化し、松任谷由実=リゾー
ト・ライフというイメージが定着していく。

 
 


  OLたちの孤独  


  OLたちの孤独

 八O年代に入ると、石油ショックを完全に乗り越えた日本経済は絶好調。戦後
民主主義に基づく男女平等思想も完全に行き渡った。現在まで続く少子化はす
でに始まっており、親たちは少ない子供の教育に大金を投資する経済的な余裕
を持っていた。
 かくして女子大生の数は一気に増大し、卒業後は男子と同様に企業に就職し
た。
 しかし、四大卒の女性たちは、会社社会の中で大きな疎外感を味わった。上
司たちは彼女たちを「仕事仲間」として見ず、「女の子」として扱ったからだ。
 同期入社の男性社員は瞬く間に会社組織に同化していった。短大卒の女性
たちからは「同じ仕事をしているのに、なぜ私たちの給料はあなたたちより安い
の?」と不満をぶつけられた。ようやく会社に慣れた頃には母親から「早く結婚
しなさい」と急き立てられた。
 八一年六月に発売されたユーミンの「守ってあげたい」は、新しい時代の中心
にいながらも、大きな孤独を抱えていたOLたちの心に強く響いた。
 彼女たちの望みは、男性に「守ってあげたい」と言える力を持つ女性になるこ
とであり、男性から「守ってあげたい」と言ってもらえるような魅力ある女性になる
ことだったからだ。

 So, you don't have to worry, worry,
 守ってあげたい
 あなたを苦しめる全てのことから
 'Cause I love you
 'Cause I love you
            (「守ってあげたい」)

 OLや女子大生の心を完全につかんだ名作「守ってあげたい」は七十万枚の
大ヒットになり、アルバム「昨晩お会いしましょう」も五十万枚の大ヒットとなった。
 「歌詞を書くことは、作曲よりも多くのエネルギーを必要とします。消耗するん
です。日本のポピュラー音楽の歴史に、ちゃんとした作詞家は両手で数えられ
るほどしかいない。日本語がリズムのあまりない言語だからでしょうね。特にロッ
ク、ポップスになってくると、日本語の持つ美しさを損なわずに、リズムを持たせ
て歌に乗せていくことはすごく難しい。俳句のように推敲を重ね、ダブル・ミーニ
ング、トリプル・ミーニングを持たせることも必要。ポップスの一曲はあまりにも
短いから」(松任谷由実)

 
 


  タイアップ  


  タイアップ

 男女雇用機会均等法が制定された八五年にユーミンが発表された「DA・DI・
DA」収録の「メトロポリスの片隅で」にはこんな一節がある。

  コピーマシンのように
  流れて落ちる日々もいつしか
  クリップではさんだ青春になる
  私だけのファイル
  私は夢見るSingle Girl
                (「メトロポリスの片隅で」)

 八O年代後半、日本経済は凄まじい勢いで膨張を続けた。欧米とは異なり、日
本のサラリーマンに長い休みなどない。好景気で仕事が増えれば残業も増える。
 サラリーマンの娯楽は、爆発的に金を使うこと以外なかった。
 わずか数日間の短い旅行ならば最高級ホテルに宿泊することが可能だし、ク
リスマスや誕生日という特別な日には、三つ星のレストランで食事をして、女性に
高価なプレゼントを贈ることもできた。
 いまや消費の中心にいるのはOLであり、OLの心を最も理解するアーティスト
は、他ならぬユーミンだった。
 企業がユーミンにタイアップを依頼するのは当然の成り行きだった。
 八七年にJR東海のCFで使用された「シンデレラ・エクスプレス」はその代表的
な例であり、三菱自動車やキリンビールのために書き下ろした曲も多い。
 ユーミンがリゾート・コンサートを行った葉山マリーナ、逗子マリーナ、苗場プリ
ンスホテルは、すべて西武系列の企業が所有していた。堤兄弟は歴史ある葉山
マリーナを買収し、逗子の海を埋め立ててヨットハーバーとプール、地中海風の
リゾート・マンションを建設した。
 ユーミンがそれらの企業に、消費文化の旗振り役として使われたことは確かだ。
 「そんなに贅沢なことをした訳ではないですよ。外国にスタジオを持ったり、自
家用飛行機を買ったわけでもないし(笑)。自分の範囲での妥当な贅沢、楽しみ
でやってきたとは思ってるんだけど、でも『自分はバブリーな存在なのかな? 
ひょっとして』って思った時期も一瞬あった。『LOVE WARS』(八九年)の頃は、
物質的なものを求めたピーク。いやいやそうじゃないぞ、とブレーキをかけ出した
のが『天国のドア』(九O年)の頃。だからすごく抽象的なタイトルになったんです」
(松任谷由実)

 
 


  頂点のステージ  


  頂点のステージ

 八O年代後半から九O年代初頭の、いわゆるバブル期は、ユーミンの長いキ
ャリアの中でも、最も多くのアルバムを売った時期だが、音楽ファンの間では「サ
ウンドが人工的過ぎる」と少々評判が悪い。
 しかし一九九O年、ユーミンのコンサートは空前絶後のレベルに達した。
 ペーパー・ムーンと網タイツ以後、ユーミンのコンサートは恐るべき勢いで進化
を続けた。ステージには本物の象やペンギン、全長三十メートルの電動の龍が
登場し、ユーミンはある時は宙吊りになり、ある時はステージに吹き出した噴水
によって水浸しになりつつ歌った。
 九O年の「天国のドア」ツアーは、これまでのすべてのノウハウが統合された完
成品である。
 サウンドと照明を完全にシンクロさせた「マディー・ロッキー・シンクロニステム」
は、時に光のカーテンとなり、時にまばゆい閃光の柱へと変わる。ユーミンとコー
ラスの三人は、TVモニターと現実のステージを自在に往復する。
 巨大なステージの中心で力強く歌い、踊るユーミンは、観客すべての視線を集
めつつ、秒単位で決められているタイミングをすべて把握し、間違えることは決し
てない完全無欠のスーパースターだ。
 幸いなことに「天国のドア」のショーは、照明を担当したマーク・ブリックマンとプ
ロパガンダ・フィルムによって見事に映像化されている。
 ユーミンとは何かを手っ取り早く知りたければ、DVD「WINGS OF LIGHT」を観
ればいい。一夜の夢を生み出すために、主役たるユーミンと演出家の松任谷正
隆、そしてバンドやコーラスを含む大勢のスタッフたちが、どれほどの熱意とアイ
デアと時間と訓練、そして制作費を投入しているかを、はっきりと理解できるだろ
う。
 「バブリーとか、そういうこととはまったく違います。ファンタジーを作り出すため
にはもの凄いエネルギーが必要。SF映画にお金がかかるみたいに。モノを作る
ためには、才能と時間とお金が不可欠で、それらをどのくらい高い位置で一致さ
せるかということのピークは、確かにあのあたりにあったような気がします」(松任
谷正隆)

 
 


  限界点  



  限界点

 八三年の「VOYAGER」以降、ユーミンのアルバムは、年に一度、十一月末か十
二月初めに発売されることが恒例となっている。
 リリース直後から長いツアーが始まり、通常六月末まで続く。次のアルバムのた
めの曲の〆切りはツアー中に設定されている。つまりユーミンは、ツアーの合間
に曲を書いているのだ。
 「外国人のスタッフに私の年間スケジュールの話をすると、ほとんどバカ扱いさ
れる(笑)」(松任谷由実)
 一九九O年のユーミンは、三十六歳とは思えぬ力強い声で歌い、踊る毎日を続
けていた。
 「ユーミンはとにかくタフ。ツアーの最終日には必ず打ち上げがあるんだけど、
二時間半のコンサートをやった後、スタッフに朝までつきあう。風邪を引いたとい
う話は一度も聞いたことがない。ペルーのマチュピチュに一緒に行った時だって、
マネージャーは高山病で寝込んでいるのにユーミンは元気に『向こうの丘まで行
こうよ』って言う。こっちは下向くと吐きそうになるから、カメラを上に持ち上げてフ
ィルムチェンジしているのに」(ユーミンの写真を撮り続けたカメラマンの三浦憲
治)
 プロモーションにも積極的なユーミンは、アルバムが出るたびに約五十本もの
新聞雑誌のインタビューをこなし、三十回もラジオ番組に出演した。
 だが、史上最高の二百十七万枚(オリコン調べ)を売り上げた「THE DANSING
SUN」(九四年)の頃から、四十歳を超えたユーミンは身体と精神の限界を感じる
ようになった。
 しかし、ユーミンというブランドは、あまりにも巨大になっていた。アルバム作り
でもツアーにおいても、あらかじめ決められたスケジュールに添って、大勢の人
々が働いているのだ。
 商家の娘であるユーミンは、暖簾を守るために歯を食いしばって曲を書き、ツ
アーを続けたものの、ついに破綻が訪れた。
 ユーミンは、九六年末に発売されるはずだった「Cowgirl Dreamin'」の進行スケ
ジュールを守ることができなかったのである。
 「とにかく体が動かなかった。ショックを受けたというより、締めつけられる感じ、
ただ、どこかで撤退しないと、とは思いましたよ。成果に対するこだわりで拡張し
ていくしかないのが資本主義社会だけど、それを捨てないと、創作に自由になれ
ない。一番大事なものをなくしてしまう」(松任谷由実)

 
 


  ユーミンの現在  


  ユーミンの現在

 バブル経済の崩壊は九一年と言われている。だが、不況が深刻な問題となっ
たのは九八年頃からだ。銀行の大量の不良債権が発覚し、二十一世紀に入る
と、派遣切りが行われ、格差社会が叫ばれるようになった。
 一流の大学を卒業した者は一流の会社へ、二流の大学生はそれなりの会社
へ、という社会的な合意は失われ、卒業しても就職できない学生が急増した。
 女子大生のキャリア指向は幻のように消え去り、専業主婦を望む女性が急増
した。だが、彼女たちが結婚するのは難しかった。未来が不透明な中、妻と子供
を養いつつ、住宅ローンを一生払い続けるリスクを背負おうとする男性は極めて
少ないからだ。かくして街は独身の中年男女で溢れた。
 サラリーマンはインターネットに、若者たちは携帯電話のiモードにアクセスして、
ミクシィやツイッターに熱中するようになった。誰もがオタク化し、小遣いはコンピ
ュータや携帯電話のバケット代に消え、スキー場や高級なレストランはガラガラ
になり、高級ブランドの服も高級外車も売れず、海外旅行は裕福な老人の娯楽
と化した。
 音楽CDの売り上げも、八O年代の十分の一以下になった。
 音楽業界の不況が極めて深刻な中、ユーミンは今もアルバムを作り続けてい
る。
 もちろんかつての勢いはない。二OO九年四月、三年ぶりに発売された「そし
てもう一度夢見るだろう」の売り上げは十一万六千枚、全盛期の二十分の一に
過ぎない。
 声もやや低くなった。
 しかし、そんなユーミンが歌う哀しい曲は、だからこそ凄絶に美しい。

  いつか あなたはやって来る
  深い涙の底へ
  私を目醒めさせるために
  やがて 薔薇色の朝になり
  あなたはささやくのよ
  哀しい夢だったと
             (「人魚姫の夢」)

 今年四月には通算三十六枚目となるニューアルバム「Roadshow」が発売さ
れる。
 一聴して驚くのは、ギター中心のシンプルなロックであることだ。音の数が減っ
たために、ユーミンの最大の美点である「微妙な色彩感を持つ歌いやすいメロデ
ィー」が洗練されたバンドサウンドの中にくっきりと浮かび上がる。
 アルバムタイトルの「Roadshow」とは「映像が見えてくるような音楽」ということ
の他に、ライブ向けの曲、という意味があるのだろう。
 ひと言で言えば、今のユーミンは、かつてないほどポジティブなブリティッシュ・
ロック少女なのだ。
 「私にとって、アルバムを作ることはライフワークです。人のためじゃなくて、自
分が気持ちいいと思う知性、センスの中でずっと作っていきたい。
 私はね、日本のピークはこれからくるんじゃないかなって思っているんです。も
ちろん物質的な右肩上がりという意味じゃなくて。
 店じまいするのは簡単だけど、弛むことなく、ずっとやり続けていれば、新しい
ジェネレーションに出会えるかもしれない。
 今の時代はどこも調子が悪いんだし、プロダクションをキープできる範囲で売
れていればいい」(松任谷由実)
 全国四十都市七十三公演という長いツアーもスタートする。
 「ツアーの前になると、ワードロープの人たちがひとつの部屋に何人も集まって
衣裳を縫うんですけど、リハーサルの合間にそこで和むのが好きなんです。たわ
いない話をしたり、みんながてんてこ舞いで縫っているのをボーッと見ていたり。
ふと気づくと、子供の頃に戻ったような気がする。そう、疑似家族なんです。だか
らこそ、ツアーはずっと続けていきたい」(松任谷由実)

 
 


   どうしてなの 今日にかぎって   

   安いサンダルを はいてた   


  普遍的な感情

 コンサートで最も人気の高い曲は、大ヒットした「守ってあげたい」でもドライブ
の定番「中央フリーウェイ」でもクリスマスのスタンダードナンバー「恋人がサンタ
クロース」でもなく、「DESTINY」である。

  冷たくされて いつかは
  みかえす つもりだった
  それから どこへ行くにも
  着かざってたのに
  どうしてなの 今日にかぎって
  安いサンダルを はいてた
  (今日わかった)空しいこと
  むすばれぬ悲しいDESTINY
                    (「DESTINY」)

 「もっといい靴をいっぱい持っているのに、今日に限ってどうして安いサンダル
を履いてきちゃったんだろう、という間の悪さは、平安時代からあって百年後にも
存在する普遍的な感情。そんな『ヤバい!』と感じる間の悪さを、ユーミンはうま
く掬い上げて詞にした」(松本隆)
 ユーミンの曲が時代を超えて愛されるのは、日本人の普遍的な感情が描かれ
ているからだ。
 ユーミンは今日もピアノに向かう、「安いサンダル」を探して。
                  (文中敬称略。「時代を創る女」は隔月掲載です)

     柳澤 健
         一九六O年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、
         ダイキン工業を経て、八四年文藝春秋入社。
         「週刊文春」「ナンバー」「クレア」等に在籍。
         二OO三年からフリーライターとして各紙誌に寄稿。
         O七年、単行本「1976年のアントニオ猪木」(文藝春秋)を上梓。
         「Fight&Life」誌の長期連載「日本レスリングの物語」が、
         O九年度ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。

                            2011.03.20〜3.22丸写ししました。
                                      (馬鹿だねぇ。)

 



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