読書日記
小中学校のころ、読書感想文がきらいでしかたありませんでした。でも、読書は好きでした。高校から大学にかけては、専門の生物や森林関係の本を中心に読んでいました。スイスに住んでいたときは日本語の活字に飢えていたこともあり、日本人から借りられる本は何でも読みました。藤沢周平の作品は短編が多いため、読みやすく、よく読んでいました。帰国後も藤沢周平の作品や司馬遼太郎の作品に親しんでいます。年を経るにつれて、専門の分野だけでなく、歴史ものや伝記もの(どう生きたか)を好むようになりました。学生のころ、友だちのところに行って本棚に並んでいる本を見て、その人間がどのようなことに関心があるか、背景は何かがよくわかりました。海外も含めて何度も引越しを重ねてきて、そのときどきに、本を処分(捨てるのではなく、知人のところに退避させる)してきたので、今、ぼくのところに来ても、生物関係が専門であると言ってもピンと来ないと思います。最近読んだ本の読後感なりを記録したいと思います。
● 韓国民に告ぐ(金文学・金明学)
● 故郷忘じがたく候(司馬遼太郎)
● 武士道(新渡戸稲造)
● 白河馬物語(ニコル)
● 「善玉」「悪玉」大逆転の幕末史(新井喜美夫)
● 琉球王国(高良倉吉)
● イワシの自然誌(平本紀久雄)
● 特務艦隊(ニコル)
● 沖縄の神と食の文化(赤嶺政信)
● 歳月(司馬遼太郎)
● 最後の将軍(司馬遼太郎)
● 井上成美(阿川弘之)
● ポプラ物語(秋庭功)
● 米内光政(阿川弘之)
● 何があっても大丈夫(櫻井よしこ)
● 山本五十六(阿川弘之)
● 大久保利通(佐々木克)
● 祖父・小金井良精の記(星新一)
● 翔ぶが如く(司馬遼太郎)
● 森のスケッチ(中静透)
● 技術にも自治がある(大熊孝)
● 塵壷(河井継之助)
● 河井継之助の生涯(安藤英男)
● 闘将伝小説立見鑑三郎(中村彰彦)
● 坂の上の雲(司馬遼太郎)
● 世に棲む日日(司馬遼太郎)
● 峠(司馬遼太郎)
● 夜明けの雷鳴(吉村昭)
● 愛憎河井継之助(中島欣也)
● 馬上少年過ぐ(司馬遼太郎)
● 壬生義士伝(浅田次郎)
● カエル−水辺の隣人(松井正文)
● ニ龍山(深田信四郎)
● アトランティス・ブループリント(ウィルソンら)
● 名字と日本人(武光誠)
● 幕末(司馬遼太郎)
● 井上井月伝説(江宮隆之)
井上井月伝説(江宮隆之著)
岐阜在住の知人で俳句好きの関口さんに長岡藩のことを話したら、幕末から明治にかけて伊那谷を放浪した乞食俳人の井上井月の本を読んでいるとのこと。もともと長岡藩の脱藩者で江戸の藩邸では後輩に河井継之助がいたという。早速、購入して読んでみた。井月と書いてせいげつと読む。ぼくは長岡の隣町の越路町の出身ではあるが、井月のことは知らなかった。長岡でも知っている人はあまりいないのではないだろうか。なぜなら、井月の活動の場所は伊那谷だからである。越路町の北に大積というところがある。そこに栃倉酒造という造り酒屋があって、そこでは「米百俵」と「越の井月」という清酒を出している。知ってる人は知ってるというところだろうか。
さて、井上井月。1822年高田の生まれ、7歳のときに長岡藩の井上進之丞の養子となったという。文武両道、学問と弓術を得意とした。その後わけあって脱藩。1858年36歳のとき伊那谷入り。1887年、66歳で没するまで伊那谷を放浪、居を定めず酒をこよなく愛し、多くの俳句を作った。宿を所望した先で書をしたため、食事と酒を馳走になり、感謝の言葉として「千両、千両」とお礼を言ったそうである。井月の作った俳句は1600あまり、それらの一部は井月句集にアクセスされたい。ここでは、季節感のあふれる句と酒にちなむ句を紹介しておこう。同じ漂泊の俳人、山頭火が井月に憧れ、井月没、52年後の1939年に墓参りに伊那谷を訪れている。(河出書房新社刊)2002.2
売に来る鋸鎌や百舌鳥の声
明日しらぬ身の楽しみや花に酒
幕末の日本は海外列強の脅威に晒されていた。幕府側は開国を、薩長は攘夷を主張していた。薩長は英国と戦争をはじめ、彼の国の近代的な武器に接し、英国と和解、同盟を結び、急遽開国へと転換する。幕府は大政奉還をおこない、政権を投げ出す。やがて、薩長に対立する勢力として、奥羽越列藩同盟が成立する。この同盟は薩長に先がけて、いち早く開国を模索していた。しかし、戊辰戦争に突入し、薩長側が勝利を収める。薩長政権は、大正6年、南部藩出身の原敬が政権を握るまで約50年間つづいた。さらに一部の体質は1945年の敗戦までつづく。
明治維新前後、日本は大きな激動に遭遇する。激動期や危機時には、ふだん安穏・平和時には世に出ないような人たちが現れる。皆、若かった。そしてさまざまな人がさまざまな役割を担い、命を落としていった。だからさまざまなドラマがあり、小説の題材になりやすい。
司馬遼太郎の『幕末』はそのころの暗殺をテーマにいろいろな人を登場させている。伊藤俊輔(博文)や三菱創業者の岩崎弥太郎もひとを殺した。一方、だれが殺ったか諸説あるものの、坂本竜馬が暗殺されたのはあまりにも有名な話である。司馬によれば、1級の人物は暗殺されたり、戦死したという。残った人たちは2級、3級の人材で、これらの人材が明治の世の中を担う。薩長新政府は必要に駆られて、敵側の人材をも要職につけざるを得なかった。
現在は激動の世の中。今の体制を変えない限り、乗り越えられないような状況にある。もちろん戦争はまっぴらではあるが、危機意識をもった有為の人材が出てこない限り、この国はよくならないと思う。ところで、この本ではふれていないものの、司馬は長岡の河井継之助のことを1級の人物と考えていた。河井のことを、別の本でかれが戊辰戦争で死ななかったら、お札の図柄に登場するような業績を残しただろう人物だったと評した。この継之助や竜馬、高杉晋作らが生き残っていれば、世の中はどうなっていただろうかと思う。(文芸春秋社)2002.6
昔、新潟の家に兄が買ってきた日本の名字に関する本があった。たしか、金子という名字は全国で36番目に多いと書いてあったように記憶している。何番目かは、名字の研究者によりちがうようだ。でも金子はかなりふつうの名字である。最近、笹岡という名字に関心をもつことがあった。昔、中学時代の先生の名前であった。ぼくの知り合いでは、先生をふくめ2人しかいないから、比較的珍しい名字なのだろう。いろいろ調べてみると、笹岡という名字はいくつかの地域で独立して生れた可能性が高いようである。そのひとつが、新潟の下田村を発祥の地とする笹岡で、地名にもとづいたものだ。ぼくの知っている2名とも下田村由来の笹岡である。
そんなこともあって、最近電車の行き帰りに『名字と日本人』という本を読んだ。それによると、名字は武士だけに限らず、ほとんどの人がもともと持っており、明治になって公称することが許された。その場合は、名字からかなりのルーツがわかる場合があるという。地名や職業などいろいろなものに由来する名字が存在する。日本には鈴木や佐藤姓が多い。古く、収穫した稲の山に棒を立てて、そこに神が降りるようにしたといい、その棒のことを「すすき」といい、鈴木はそれに因んでいるのだそうだ。佐藤は佐野の藤原、伊藤は伊勢の藤原、斉藤は斎宮の藤原から来ているそうである。個人のルーツは、寺の過去帖などで、江戸時代まで遡れる場合が多いという。それ以前は、よほど由緒ある家系でないとわからない。江戸時代には、ニセ系図売りがけっこう多かったらしい。この本は名字がなぜできたかについて、わかりやすく書かれた本である。(文春新書)2002.8
たまたま入手した本。著者のウィルソンは『殺人の哲学』などあらゆるジャンルの本を書いている。まさにマルチタレントである。さて、この本はプラトンが書き残したアトランティスの謎をめぐり、新説を出している。プラトンは、昔アトランティスという巨大な大陸があり、文明が栄えていた、大洪水があり、そこから人々が脱出したとしている。この大洪水こそが、「ノアの箱舟」の神話を作り出した。これと似た神話は、世界中にあるという。南米の原住民のあいだにも、神々が南から舟に乗ってやってきたという言い伝えがある。この本では、アトランティスは今の南極であり、昔は氷がなかった、アトランティスの遺跡は氷の下に埋もれているというのだ。古代のシュメール人はアトランティスから脱出した人の末裔だろうとしている。アトランティスは高度の文明を持ち、はるか10万年前に遡るという。世界にはピラミッドや聖地、遺跡などが多いが、それらは、測量(地形、天体)をするために置かれた目印であるという。それらは規則的な配置をしており、逆にその法則から遺跡がどこにあるか言い当てることが可能であるという。これが青写真(ブループリント)理論である。この本はフリーメーソンのことも記述しており、荒唐無稽に感じるところもあるが、全体的にはとてもおもしろい。遺跡の多くが今の北極ではなく、昔の北極の方向を向いていること、地殻が一瞬にして大きく動き、それにともない気候が急変してしまうことなどを推理している。かつて、ぼくはメキシコの「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」に行き、太陽のピラミッドには登ったこともある。事前に知識があれば、もっと興味深かったかもしれない。(学研)2002.10.6
かつて日本は台湾、朝鮮半島を併合し、傀儡の満州国を設立した。国策にもとづき、多くの日本人が満州に入植した。やがて、敗戦。軍部はいち早く避難し、開拓民は祖国に見捨てられた。深田夫妻による『二龍山』という本は、敗戦から帰還まで、北満の北安市近くの二龍山という開拓地に入植した人たちがなめた辛酸を克明に記録している。戦争は昭和20年8月15日に終わったのではない。その後もずっと続いていたということが本書を読めばよくわかる。敗戦当時、約300人の開拓民のうち、翌年8月まで、約半数しか生きて帰還できなかったという。ぼくの叔母、伯父の家族も二龍山にいた。子どものころ、従兄弟から満州の話を聞いたことがある。赤ん坊が背負われながら、死んで行ったという。まさに生き地獄である。祖国に見捨てられ、逃避行をしたこうした人たちへの償いを果たして国はおこなったのだろうか。以前、山崎豊子の『大地の子』という小説がテレビで放映されていた。見たときは、とても悲しい話だと思ったが、もっと悲惨な話があることを知った。二龍山はまだいいかもしれない。場所によっては、開拓民全員が死んだところもあるという。悲惨な物語だ。昭和45年発行。なお、二龍山は「あるろんしゃん」と読む。(柏崎日報社刊)2002.11.22
深田信四郎著で1982年発行の姉妹本『幻の満州柏崎村』も最近読んだ。これも悲惨な話で、多くの人が死んだ。著者の深田氏は引揚者を訪ね、丹念に聞き出している。このふたつの本はきっと著者の死者への鎮魂歌として書かれたのだと思った。
大学院時代、この本にも出てくる友人の大河内くんが京都大学に著者の松井さんに会いに行ったことがある。初対面であったが、廊下でこの人に間違いないと思ったそうである。研究対象のヒキガエルに体型が似ていたからである。著者の体型のことは、自分でも本に書いているくらいであるから自他ともに認めているのだろう。さて、この本はカエルの分類学、日本のカエルの紹介、世界のカエルについて、さらには、ここ数年話題になっているカエルの減少に章を割いている。内容もおもしろく、よくまとまった本である。カエルは卵や子どものころは水中にいて、成長すると陸に上がる。このことから、水陸両方の環境の指標となる生物であるという。カエルの減少の主要因は、構造改善事業で昔ながらの田んぼがなくなったことによる。宅地開発もそれに拍車をかけている。われわれが子どものころは、カエルがたくさんいた。カエルやタニシのいない田んぼは田んぼではない。米製造工場といったところか。(中公新書)2002.11.22
『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞をとった浅田次郎。ぼくはいままでかれの本を読んだことはなかった。1年以上前から『壬生義士伝』を読むべきだと人から言われていた。年末に購入して、そのままにしておき、時間ができたため読んでみた。内容は重いのだが、かなり軽く読めたのは著者の表現のたくみさだろうか。主人公は、南部藩の脱藩者の吉村貫一郎。剣がめっぽう強く、新撰組に入った。その理由は家族を養うためには下級武士では暮らしていけないことによった。吉村貫一郎に切腹を言いつけた大野次郎衛門、最初は無慈悲な人間だと思ったが、本の最後ですばらしい人物だということがわかる。そこで目が潤む。吉村貫一郎の息子が嘉一郎、函館戦争で死ぬ。その弟で父親と同じ寛一郎という名前をもらう。東京帝国大学の農学部の教授だったそうだ。どこまで史実で、どこまで虚構かよくわからないが、もし、これらの人たちが本当に実在の人たちならいずれもすごい人生を過ごしたんだなと思った。ぼくの生まれたいなかが属していた長岡藩関係者については、河井継之助と長谷川泰のふたりがほんの少し登場している。いずれもすごい人である。(文芸春秋、文春文庫)
7つの短編からなっている。そのうちのひとつが『英雄児』で長岡の河井継之助のことを書いている。著者によれば、継之助と同じ古賀塾の土田衡平は継之助を称して「百年に一度出るか出ぬかの英雄児かもしれん、しかし長岡藩はわずか7万4千石、小藩であれだけの男がいるというのは、藩の幸せか不幸か、天のみが知ることだ」と述べた。また、継之助の師、山田方谷は「長岡のような小藩にいるのは、藩として利か不利か」と述べた。結果は、長岡藩にとって不幸だった。継之助が長岡の政権をにぎり、やがて熾烈な北越戦争へと突入していく。古賀塾で継之助に私淑した鈴木無隠は、戦後、しばしば長岡の栄凉寺にある継之助の墓を訪ね、「あの男の罪ではない。あの男にしては藩が小さすぎたのだ」と語っていたという。継之助のことは司馬遼太郎の『峠』にくわしい。この『英雄児』のほか、おもしろいと思ったのは伊達政宗を扱った『馬上少年過ぐ』と伊達藩の支藩である宇和島伊達藩のことを扱った『重庵の転々』である。伊達政宗が米沢に生まれ、20歳まで育ったことは知らなかった。米沢は伊達と上杉という有名な戦国の2武将にゆかりがある地ということになる。宇和島は四国のほかの地と習慣が異なり、仙台の伊達の風習を受けついでいるそうだ。いつか訪ねたい地である。(新潮文庫)2003.3.30
数々ある継之助本のうちのひとつ。継之助は長岡の人。地元の三条出身の中島欣也の本で、継之助のよいところだけでなく、欠点も書いたという。そのため「愛憎」という言葉を題名に入れたのだそうだ。継之助の欠点といえば、不遜、傲慢、独断専横といったところだろうか。しかし、長所と短所というのはコインの表裏なのだ。たとえば、協調性があるといえば長所だろうが、優柔不断といえば短所になる。継之助の短所は、幕末の激動期に生きたリーダーの要件だったのかもしれない。かれは人に厳しかったというだけでなく、やさしかったという逸話も多く残っている。継之助の家来として仕えた庄屋の息子たち、大崎彦助、目黒茂介、外山脩造、それに従僕の松蔵、かれらはみな継之助に私淑した。継之助のような性格は往々にしてカリスマ性をともなう。カリスマはしばしば危険でもある。継之助はまさにカリスマだったといえるだろう。中島欣也のこの本は、いままであえて無視してきた継之助の欠点を入れ込んだという点で、ほかの本とは異なるが、その記述のほとんどが、すでにほかでも扱われている内容である。ただし、いくつかぼくがはじめて知った点もあった。中之口川の改修がそれである。なお、著者が地元の出身であるということから、継之助らの会話は長岡の方言で書かれている部分が多いのが特徴である。(恒文社)2003.4.15
風雲急を告げる幕末。越後長岡藩の河井継之助と薩長との談判が決裂し、戦争を決意する前、幕府の脱走兵からなる衝鋒隊が新潟にやってきた。新潟は元長岡藩領だったが、幕府領になっていた。そこで、衝鋒隊が住民に乱暴狼藉を働いていた。継之助は長岡から新潟に赴き、衝鋒隊の隊長の古屋佐久左衛門に新潟を立ち去るように交渉する。佐久左衛門は元、福岡の久留米藩領(現在の小郡)の庄屋の出で、江戸に出て、はじめ医学を志した。その後、英語を修め、幕府の英学所の教授をしていた英才である。
さて、この本の副題は『医師 高松凌雲』であり、幕末から明治に活躍した西洋医学者の高松凌雲の物語である。凌雲は、水戸藩の徳川昭武に随行してフランスに行く。そこに留まり、フランス語と医学を学んだ。フランス滞在中に徳川慶喜が大政奉還をし、日本は薩長の支配下になった。しかし、榎本武揚をはじめ旧幕府軍の一部が蝦夷に逃れ、蝦夷の独立を図ろうとする。フランスから急遽、帰国した凌雲は武揚らと行動をともにし、函館に行く。そこで、病院を開設し、やがて箱館戦争で敵味方の別なく、治療をおこなった。箱館戦争では、土方歳三らが戦死。武揚らも降伏し、明治の世の中になる。江戸に戻った凌雲は、その才能を見込まれて、仕官の話が何度もあったが、すべて断り、市井の町医者として開業する。そして、フランスでみた病院の影響を受けて、貧民救済のため無料で治療をはじめた。凌雲は、最初オランダ語を学んでいたが、佐久左衛門の勧めで英語に転向、フランスでフランス語を学んだ。凌雲も小郡の出身で、じつは、佐久左衛門は凌雲の実兄である。佐久左衛門は元、高松勝次と称していた。貧民救済をおこなう医師の集団である同愛社を設立し、榎本武揚を社長に迎えた。凌雲は多くの人に惜しまれながら、大正はじめに鬼籍に入った。
高松凌雲のことはこれまで知らなかった。昨年と今年、小郡市で越後長岡藩主の子孫も参加してシンポジウムがあり、そのシンポジウムの報告書を読んで、そのような人物がいたことをはじめて知った。敵味方わけへだてなく治療するのは、赤十字の精神である。この本を読んで、なぜかアルゼンチン生まれの医師で革命家のチェ・ゲバラのことを思い出した。チェは、医師では救える人の数はたかがしれている、革命こそが人を救うのだと信じ、カストロ軍に参加する。バチスタ政権を倒すためにハバナまで進行していく先々の農村で貧しい病人に治療を施した。ハバナに到着したときは、農民の志願兵の数が大きく膨らんだという。(文春文庫)2003.4.27
最近、なんと4回目の『峠』を読み終えた。最初に読んだのは30年以上も前のこと。そして2年前に2回目。その後、2回読んだ。2,3年前から、主人公をはじめ、『峠』に出てくる人物の末裔何人かと知り合う機会があり、親近感を覚えるようになった。それとともに、越後長岡の史蹟などを訪れる機会もふえた。ぼくは同じ本を何度も読み返すことはなかったが、この『峠』は読むたびに、新たな感動にひたっている。さて、主人公の河井継之助。越後長岡藩士である。継之助は幕末、藩の財政改革に乗り出し、その名声は世に聞こえた。長岡藩の軍事総督にもなり、戊辰戦争で薩長軍と戦う。長州の山県有朋は、「河井は経済だけでなく、戦争もできるのか」と驚いたという。山県はさらに明治になって、「おれはあの河井と戦って勝ったのだ」と自慢していたという。とにかく、河井継之助は、すごい人だったようだ。多くの人が、継之助は神様のような人だと言っている。この『峠』のタネ本は、今泉鐸次郎の『河井継之助傳』である。今泉の本は、『峠』に出てくる古賀塾の鈴木佐吉少年、のちの刈谷無隠の談によるところが大きい。『河井継之助傳』が完成して、無隠に郵送したところ、行き違いで届かなかった。無隠はそれを見ずに死んだという。刈谷無隠が司馬遼太郎の『峠』を読んだらどのように感じるだろうか。古賀塾といえば、土田衡平もいた。無隠に言わせると、人物では、土田は継之助に及ばなかったが、後の外務大臣の陸奥宗光が土田にかかると赤子のようだったとのこと。継之助は薩長軍との戦いでは、前線で指揮していた。会津藩の鬼官兵衛、佐川官兵衛とともに、信濃川の土手を走り回っているところが目撃されているそうだ。さて、『峠』はあと何度読むだろうか。そのたびに新鮮な感動を味わうことだろう。2003.8.1
これは、吉田松陰と高杉晋作のふたりを軸に長州をはじめとする幕末の日本の姿を描いている。幕末ものは上記のように、薩長に負けた長岡藩をはじめとした敗者の側の読み物を中心に読んできたが、今回はそれと対立した長州のふたりの侍の話である。松陰は脱藩したり、アメリカ行きをたくらんだりし、萩の野山獄につながれる。やがて、江戸で斬首。晋作は幕府が長州を攻めたときに、小倉を夜陰に乗じて、急襲、小倉城を奪ったりした。病を得て、若くして病死。このふたりがいたために、長州が幕府を倒す決意をする。だから、いまのわれわれ、あるいはわれわれの住む社会はかれらが出てこなかったら、ちがったものになったであろう。司馬遼太郎のある講演で、日本に吉田松陰や河井継之助のような人物がいて、よかったと述べている。ふたりとも開明派であり、信念をとおし、非業の死を遂げたという点では、似ているのだろう。文春文庫(2003.12.27)
俳人の正岡子規、騎兵隊の秋山好古、海軍の秋山真之の3人が主人公で、正岡子規は早く死んだため、途中から秋山兄弟が主人公となる。3人とも、四国の松山藩の藩士の子として生まれた。薩長側に与しなかったため、いわゆる賊軍の出である。テーマは日清戦争と日露戦争である。司令長官などトップはほとんどが薩長で占められているなかで、薩長と対立した側の人たちの意気込みはかなりのものがあったようだ。日露戦争で活躍する桑名藩士の立見尚文もそうだ。幕末のものをのぞき、戦争ものは読まないので、乃木希典がまったくの無能でなかなか旅順が落ちなかったのを、児玉源太郎が一気に陥落させたこと、ロシアのバルチック艦隊は負けるべくして負けたことなど、知らないことがいっぱいあった。日露戦争の直前の1902年に日英同盟が締結される。イギリスがつかんだバルチック艦隊の位置情報は日本側に伝えられた。日英同盟といえば、当時は日本郵船のロンドン支店長として河井継之助の甥の根岸錬次郎がイギリスに赴任して、日英同盟実現の立役者のひとりとなる。かれの孫娘は、日露戦争時の第7師団長の大迫尚敏の息子に嫁いだ。もうひとり、継之助の一族として、日露戦争で活躍したのが、豊辺新作。『坂の上の雲』の主人公のひとり、秋山好古の部下である。好古は、部下のなかで豊辺をもっとも信頼していたとある。新作は、継之助の父親の河井代右衛門の弟の孫にあたる。新作の父親と継之助が従兄弟だ。司馬遼太郎ははたして、新作と継之助に同じ血が流れていることを知っていただろうか。たぶん知らなかったのではないか。でなければ、そのことをこの小説のなかで書いただろうし、長岡の朝日山での戦いで活躍した立見鑑三郎、後の尚文に小説のなかで、新作と会話をする場面を設けたかもしれないからだ。文春文庫(2003.12.27)
立見鑑三郎。桑名藩士。後の立見尚文陸軍大将である。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争と4つの戦争に従軍。最初の戊辰戦争は、いわゆる賊軍として、薩長と戦った。戊辰戦争では、柏崎の鯨波の戦、長岡の朝日山の戦がよく知られている。長岡藩が会津藩らによる奥羽越列藩同盟に参加してから、鑑三郎は長岡の河井継之助や会津の佐川官兵衛らとともに薩長と対峙。けっきょく列藩同盟は負けてしまう。以降、鑑三郎は賊軍側の出身として明治を生きる。しかし、西郷隆盛を首謀とする西南戦争の勃発により、鑑三郎はこの西南戦争に駆り出される。かつてと順逆が変わり、鑑三郎が西郷を討つ側に回る。日露戦争が終ってまもなく、62歳で歿した。この本は4つの戦争をひとつの本にまとめたため、駆け足で一生を追ったという感がある。長編ものにすれば、また掘り下げ方もより深まったのかもしれない。角川文庫(2003.12.31)
以前から読みたいと思っていた本書を古書で入手した。最近はネットでも古書を探せるようになり、便利な世の中になったものだ。さて、ほかの河井継之助本と同じく、内容の多くを今泉鐸次郎の『河井継之助傳』によっているが、自身でしらべた多くの資料があらたに盛り込まれているのと、著者の継之助観がよく出ている本だと思った。長岡藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷の地図が出ていたり、小千谷など戊辰戦争の関連地図が多く所蔵されている。巻末の河井家系図は圧巻である。多少の誤りはあるものの、よくここまで調べたものだと思う。継之助のことはすでにほかで述べたが、今回の本には継之助の揮毫による『民者国之本吏者民之雇』という言葉が載っている。これは、「人民が国の根本であって、役人は国民に雇われているに過ぎない」というもので、世間でいわれている、あるいは薩長政権が作ったことばでは、「佐幕派」(徳川慶喜が政権を投げ出した時点で幕府は消滅し、したがって佐幕ということ自体がありえないのだが)の代表選手のような長岡藩筆頭家老の継之助があの時代にあって早くから、民主的な考えの持ち主だったことがうかがえる。39歳の秋に郡奉行に抜擢されてから42歳の春に戊辰戦争がはじまるまで、正味2年のあいだに多くの藩政改革を断行した。本書から抜粋すると、賄賂の禁止、水腐地の処理、米の備蓄、河川改修、検見廃止、寄場設置、賭博禁止、遊郭廃止、妾禁止、株特権廃止、河税廃止、兵制改革、禄高改正、などなどをおこなった。これにより万年借金体質の長岡藩から負債をなくしたのみか、戊辰戦争突入時には10万両の余剰が出たという。継之助は北越戦争を起こし、長岡を焦土にした張本人のようにも言われるが、戦争突入はかれの本意ではなかったはずである。民衆重視の姿勢は上の揮毫でもあきらかだし、はじめから戦争をしようと思うのであれば、藩境にある榎峠や朝日山などの要所や、小千谷を戦争前に抑えていただろう。長岡の悠久山公園にニ松学舎創設舎の三島中洲による撰、第2代首相の黒田清隆揮毫による石碑が建っている。その全文と、現代語訳が本書に掲載されている。好戦派の薩長政権が大正6年まで、その残滓が昭和20年まで続いたことを思うと、継之助があと5年与えられたら、本人が意図したように戊辰戦争を回避することができたとしたら、信濃川渡河の期日が1日早ければ、あるいは、銃創を負わなかったら、日本はいまどうなっていただろうか。新人物往来社(2004.1.11)
河井継之助の唯一の著作が『塵壷』という日記である。平凡社の東洋文庫として昭和49年に発行された。安藤英男校注のこの本は、ほぼ3部構成で、最初が『塵壷』そのもの、付録として、『継之助書簡集』、もうひとつが安藤氏の『河井継之助小伝』。入沢達吉の『河井継之助の最期』も収録されている。『塵壷』は継之助が江戸を出て、岡山の高梁の松山藩、山田方谷を訪れ、そこからさらに長崎に行き、松山に帰ってくるまでの日記である。富士山に登ろうとしたが、天気があまりよくなかったため、断念したことを悔しがり、生涯一の優柔不断だと反省している。有馬温泉では1泊し、計7回温泉に入ったそうだ。姫路の近くでは、長岡の家族を思い出して、「ふるさとの こしじは遠し はりま山 すめる月こそ かわらざらまし」という句を詠んだ。福岡では、ガン、ツル、カモが多かったと書いており、それを見るたびに狩猟ずきな継之助は、鉄砲で撃ってみたいと思ったそうだ。佐賀では蓑を買って、一度も着ずに松山までかついで帰り、馬鹿な目をみたともしている。私費で行ったため、金がすくなくなり、ほんとうは鹿児島や長州の萩城下にも回りたかったが、それが果たせなかった。さて、上記『河井継之助の生涯』で述べた三島中洲は山田方谷の弟子で、松山でいっしょだった。山田方谷は元来百姓の出で、それが取り立てられ、数々の藩政改革をやった人。継之助はその影響を大きく受ける。方谷が10年くらいで改革をやりとげたのに対し、継之助は2年でやってしまった。守屋洋『中国古典の人生学』によると、方谷と継之助を次のように言っている(要旨)。
「ほんとうの経世家とはどういう人物かというと、松山藩の山田方谷、その教えを受けた継之助あたりを、典型的な経世家としてあげることができる。さらに、橋本佐内、吉田松陰、坂本龍馬もそれに含めていいかもしれない。」
ここでわかるように、方谷と継之助は、あの松陰や龍馬よりも、先に来ているところがおもしろい。松陰や龍馬は、「ついでに」という形で、付け足されているのである。継之助本を読めば読むほど、偉大な人物だったことがわかってくる。将来、年をとって、一線から退いたら、継之助の辿ったところを歩いてみたいものだと思う。『塵壷』について詳細を知りたい人は下記HPを参照のこと。平凡社(2004.2.28)
http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/museum/tiritubo/index.html
昔、通っていた大学の前に「南洲屋」という飲み屋があり、よく通った。名物の肉豆腐と泡盛はもちろん、暮れには、南洲翁と慕われる西郷隆盛の肖像画入りの手ぬぐいをもらうのが楽しみだった。『跳ぶが如く』はその西郷隆盛を軸に、大久保利通、川路利良、山県有朋などが登場する。維新後から西南戦争で西郷が死ぬまでのことを扱っている。西郷隆盛がひとつの軸であれば、それに対立する側の大久保利通もひとつの軸を形作っている。西郷は征韓論などをめぐり、太政官政府と対立し、陸軍大将を辞めて、故郷に帰る。そこで、人斬り半次郎といわれた桐野利秋にかつがれ、太政官政府と戦争を起す。つまり、薩摩がふたつに割れ、戦争したことになる。太政官政府は北越・東北の諸藩の士族を徴募し、薩摩と戦わせた。会津の佐川官兵衛も参加、戦死した。長岡の三間市之進も、桑名の立見鑑三郎も参戦した。かつて「官軍」の薩摩がいまや「賊軍」になり、かつて「賊軍」の会津が「官軍」として戦ったことになる。維新後、太政官政府は税を米納から金納にし、農民が苦しみ、また士族階級がなくなったことから、元武士からの不満もあった。これを打開するために、大久保は天皇の政府であることを強調し、自分達への不満をそらそうとした。しかし、それだけではおさまらず、各地で反乱が勃発した。萩の乱、佐賀の乱などである。萩の乱は前原一誠らがおこした。最後の乱が西南戦争で、これが沈静され、国内の戦争は終結した。そのエネルギーは国外に向かい、日清、日露、太平洋戦争へとつづく。近代史を区切るものとして、明治維新と昭和20年の敗戦がある。この2つの時点を境として、社会体制その他が大きく変わる。大戦敗戦時には、軍部が解体され、内務省がなくなった。しかし、政府の体質は維新後の中央政権の太政官政府のそれをそのまま引きずっているようだ。さて、大久保と西郷をくらべてみると、前者が現実的政治家であり、後者は革命家だったように思われる。これは、キューバ革命のカストロとゲバラの関係を連想させる。西南戦争の終結後、しばらくして、大久保は凶刃に倒れ、川路も病死する。ところで、この本を読むのにずいぶんかかった。文庫本で10巻からなっていることと、通勤の電車内や海外出張時の機内で読んでいるからだ。司馬の『坂の上の雲』の登場人物の多くがこの西南戦争に関与している。幕末から日露戦争に至るまで、司馬の本を読むのであれば、『峠』もしくは『世に棲む日日』⇒『翔ぶが如く』⇒『坂の上の雲』の順に読んだらわかりやすいと思う。文芸春秋。(2004.8.28)
おもしろい本だ。星新一の本を読むのはこれが最初である。かれは、ショートショートで有名な短編SF作家。星新一の最初の作品をこの『小金井良精の記』から入る人は稀だろう。新一の父は星一。製薬会社の社長であり、星薬科大学の創立者でもある。星一家は、祖父の良精の家に居候した形だった。父は仕事で留守がちだったため、祖父母との結びつきが強い。いわゆる、おじいちゃんこ、おばあちゃんこだった。祖父の良精は安政うまれ、江戸、明治、大正、昭和と生き、敗戦の前年の昭和19年に亡くなった。87歳。日本人初のお東大・解剖学の教授で、人類学者としてもしられる。祖母の喜美子は森鴎外の妹。曾祖母つまり、良精の母は「米百俵」の小林虎三郎の妹の幸(ゆき)。この本は、若き日、良精がドイツ留学してからずっとつけつづけていた日記を土台に喜美子の作品などを駆使した、自分のルーツ探しの本であるといっていい。と同時に、幕末時から大戦までの近代史であり、解剖学史でもある。良精が越後長岡藩士であったことから、長岡藩のことがあちこちに出てくる。良精は若いときに一時ではあったが、河井継之助の側近、花輪馨之進の養子だったことがあった。長岡藩のことに関心のある人には興味深い本である。昭和9年、新一が小学校2年のときに、日記をつけた時期があった。良精の日記と、星一の日記、三人三様の1日が並列して示されており、おもしろい。戊辰戦争で負け、幼き良精は八十里越を越え、会津、米沢、仙台へと敗走した。良精は敗戦の前年に死んだ。翌年まで生きていれば、東京の空襲、さらに敗戦と体験することになり、80年前のことをありありと思い出させたことだろう。その前に逝ったというのは、その意味で幸せな人生だったかもしれない。良精の先祖、兄弟の墓は長岡の安善寺に、良精の墓は芝の泉岳寺にあるという。星新一がこの本を出したのはいまから31年前の74年、48歳のときである。わたしが21歳のときだから、東京に出てくる1,2年前のことだ。河出文庫。(2005.1.9)
報知新聞の記者・松原致遠が大久保を直接知る人から聞き取った話を報知新聞に書いた記事と松原の著書をもとに構成した本である。大久保利通は西郷隆盛や桂小五郎などとともに明治維新の立役者である。西郷とは生まれ育った家が近所で、兄弟のように育ち、その関係は兄弟以上であったという。戊辰戦争時は、西郷が戦争を、大久保が朝廷を受け持った。明治政府というと、薩長閥で構成されていたと思っていたが、大久保は薩長以外の有為の人材を積極的に登用したようだ。薩長閥になったのは、むしろ大久保が死去して以降だという。大久保は謹厳実直、清廉潔白を地で行くような人だったらしい。部下には仕事を自由にやらせ、責任は自分がとるというタイプだったようだ。維新後、西郷が鹿児島に帰り、桐野利秋らにかつがれ、結果的に大久保と袂を分かつ。明治10年西南戦争で西郷が死去。翌年大久保は凶刃に倒れる。地元鹿児島では西郷の人気が高く、大久保は西郷を殺した首謀者として、あまり好まれていないようだ。維新後欧米を見て回った大久保は西洋文明に接し、日本をどのような国にするべきかに集中したという。この本は、維新後のことがほとんどであり、維新前のことはあまり触れられていない。明治維新に関心のある人にとっては、そこが知りたいところだ。いずれにしても動乱期を生き、新政府の基礎固めをした人物であり、かれがいなかったら、世の中は今のような状況にはなっていなかっただろう。『翔ぶが如く』で詳述されているが、台湾に出兵した後、北京に清朝と談判に出かける。これにはボアソナードがついていった。そして北京から賠償金をとってくる。激動期を生き、胆力の座った人であったようだ。講談社学術文庫。(2005.1.23)
高野五十六。長岡藩士・高野貞吉の子として生まれる。祖父も父も戊辰戦争を戦った。この戊辰戦争で長岡の河井継之助や、継之助を支えた山本帯刀らが戦死する。帯刀家は代々、家老職を務めた由緒ある家柄である。由緒ある家名を守ろうと、帯刀の遺児の頼みで、五十六は山本家を継いだ。継之助は戦争には反対だった。戦争回避のため、薩長軍の駐屯する小千谷の慈眼寺に談判に向かう。しかし、談判は決裂し、継之助は戦を決意、凄惨きわまる北越戊辰戦争へと突入した。真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊長官の山本五十六は、同じ考えをもつ米内光政、井上成美とともに、独、伊との三国同盟や米英との戦争に反対であった。ロンドンでの軍縮交渉に出かける前に、五十六は「小千谷談判に出かけた河井継之助の心境だ」と言ったという。継之助が決裂した相手は、土佐の軍監・岩村精一郎、五十六が対抗した相手はじつは米英ではなく、戦争を支持する日本の軍部であった。相手の性格は異なるものの、継之助も五十六も戦争に反対しながら、戦争に突入せざるを得なかったという点で、似たものがある。親米英の五十六は、米英に戦争をしかけたら負けるとわかっていた。それがなぜ戦争を止められなかったのか。海軍を辞めてでも、抵抗できなかったのだろうか。どうもその出自に原因があるように思える。五十六は、異常なまでに郷土愛が強く、頻繁に長岡に帰っていた。結果的に、賊軍の汚名をきた長岡藩。それがトラウマのように五十六のなかに残っていたのではないだろうか。軍部にそそのかされたとはいえ、天皇の勅命が下され、それから逃れることはできなかったのだろう。新潮社の『山本五十六』は昭和48年発行。その10年前に朝日の雑誌に連載されたものがそのもとになっている。つまり、たかだか20年前のことを書いたことになる。当時、生存していた五十六の同僚や部下への取材をおこない、執筆したそうである。したがって、義経や信長などの、「創られた」人物像ではなく、生身の五十六に触れることができる。五十六を海軍大臣にしようという動きがあった。自分は政治家でなく、武人であるとして固辞したようであるが、海軍次官時代にかれがやったことを考えれば、政治家としての資質のほうが適していたのかもしれない。固辞しなかったら、日本はどうなっていただろうか。五十六の墓は、多摩霊園の東郷平八郎の墓の隣にあるほか、分骨した墓が故郷・長岡の長興寺に、戊辰戦争で降伏を拒み、斬首された養祖父・山本帯刀の墓と並んであるという。新潮社。(2005.2.26)
ジャーナリストの櫻井さん。テレビや雑誌などでの論評をみると、彼女はとても硬派だ。それはなぜか。その答えはこの本を読めば、なんとなくわかるだろう。この本は、彼女が生まれてから高校を卒業するまで、ハワイでの学生時代、ジャーナリストになってから、の3部からなる自伝である。終戦直後、ベトナムで生まれる。その後引き揚げて、母の実家のある小千谷へ、それから大分へ、ふたたび小千谷に戻った。小千谷からさらに隣の長岡に移住し、長岡高校を卒業する。そうした生い立ちから、国のありかたを考えるようになったという。ハワイでの学生時代は外国からの留学生が多い中、自国の歴史、文化などを見つめる機会になったという。ジャーナリストになってから、日本のありとあらゆる新聞を読んだ。そうした過程から生まれてきたのが、いまの櫻井さんだ。ちなみに、彼女は、ブラックバス反対、捕鯨賛成で、バードウォッチングが好きなんだとか。この本は自伝ではあるが、巻末に本人が述べているように、「母の物語」であるという。櫻井さんのような人を育てたお母さんはきっとすごい人なんだろう。新潮社。(2005.3.13)
昭和15年、半年間、37代総理大臣。米内光政が海軍大臣のときの次官が山本五十六。その部下が井上成美。井上に言わせると歴代の海軍の大将には一等、二等、三等といるそうで、無条件の一等大将として名を挙げたのが、山本権兵衛、加藤友三郎とこの米内である。山本五十六は条件づきの一等大将だそうである。さて、米内、山本、井上の3名は独伊との三国同盟、対米英戦争に反対する。しかし、その後、近衛内閣を経て、東條内閣に。そして米内はこの無謀な戦争を終結させるために尽力した。米内は盛岡、山本は長岡、井上は仙台と、なぜか明治維新時に「賊軍」とされた藩の出身者であるのは偶然か。「賊軍」出身の3人が戦争に反対したことになる。惜しむらくは、開戦に対して、もっと徹底的に抵抗できなかったのだろうか。新潮文庫。
北海道のポプラ、とくに北大のポプラは有名である。北海道にポプラを根づかせたのがこの本の主人公の森廣。廣の父の源三はクラーク博士のときの札幌農学校副校長である。その後、農学校の校長になる。源三は長岡藩士として薩長と戦った。長岡藩といえば、河井継之助。継之助の死後、その母親の貞と妻の寿賀の面倒を源三が見た。源三は継之助の姪のまきと結婚する。その子が廣である。廣の弟の茂樹が河井家を継いだ。北海道のポプラと継之助が関係あるとはこれまで知らなかった。文芸社。
海軍大臣米内光政、同次官山本五十六とくれば軍務局長の井上成美に行き着く。阿川弘之の3部作である。3人とも三国同盟、米英戦争に反対していた。そのうちもっとも強硬だったのが、井上成美だ。日本が米国に戦争をしかけ、日米は戦闘状態に突入した。アメリカは、日本語のできる人たちを優遇した一方で、日本は英語を敵性語として野球のストライクを「よし」と言い換えさせることまでした。そうしたなかで、江田島の海軍兵学校は英語を重視して、教えていたという。兵学校の校長が井上で、昭和17年から19年まで務めた。19年8月に米内に請われ、海軍次官になる。それは、終戦処理のための人事だったという。20年8月の敗戦。井上はその後横須賀の寒村の長井に引きこみ、ずっと世に出なかった。性格は実直、清廉潔癖を絵に描いたようだったという。その分、とっつきにくい性格でもあった。戦争に反対していた井上は敗戦を当然予想していた。江田島の兵学校長のとき、即戦力になる兵隊よりも敗戦後の人材、ジェントルマンを育てることに主眼を置いていたという。それにしても、思う。米内、山本、井上がいながら、なぜ戦争を回避できなかったのだろうか。陸軍の横暴、マスコミの責任、それに操作された国民などなど、分析検証してみることがまだまだ残っているようだ。新潮文庫。(2005.4.10)
徳川慶喜。15代将軍。慶喜は水戸の徳川家から一橋家に養子に入った。水戸は徳川光圀の大日本史で知られるように、日本の宗主は将軍ではなく、天皇ではないかという説を信奉していた。水戸には光圀以来、江戸の徳川と京の朝廷の間で戦が始まったら、朝廷につけという家訓があった。慶喜は智謀知略の人物で、教養もあったそうである。頭が回ったようだが、つねに自分のこと、後世での評価のことを気にしていたという。長州の策略により錦旗が出たことから、逆賊になることを恐れた。行き着く先は絶対恭順である。かくして大政奉還、大阪城への退却、江戸への逃亡とつづく。部下を説得するために、得意の智謀を使った。大阪城へ退いたときも、そこを拠点に京を攻めるためだと言い、江戸に逃げたときも同行の会津、桑名の松平容保・定敬両藩主に態勢を立て直すためだと諭し、連れていった。松平兄弟は、江戸で慶喜に捨てられる。容保は会津へ、定敬は越後柏崎に移り、戊辰戦争に突入する。司馬はこのふたりは慶喜から「捨てられた」と書いている。かれらは慶喜の無情を恨んだという。そうすると彼らが戊辰の役を北越で戦ったのは慶喜の、あるいは幕府のためではなかった。だから、「佐幕」という状況は成立しえない。徳川300年の幕引きのために登場したような将軍である。文春文庫。(2005.4・29)
肥前佐賀藩を脱藩した下級武士の江藤新平。京に上った。やがて捕らえられ、佐賀で蟄居を命ぜられる。しかし、世の流れは、江藤に幸いした。時代の主役は、江戸から京と薩長へ。佐賀藩はその流れに乗り遅れまいとして、薩長や朝廷に近い江藤の蟄居を解き、藩重役にした。江藤は才が勝ちすぎていたようだ。つねに人物や物事に批判的な目を向ける。新政府の行政、司法の基礎をつくったほか、長州閥をつぶすために、動いた。やがて、太政官政府を去り、佐賀へ戻る。そこで、佐賀の乱を起す。佐賀で乱を起したら、薩摩はじめ、全国各地で乱が起きるだろうとよんでいた。しかし、それはおこらなかった。佐賀の乱が鎮圧され、逃亡を図った江藤は四国で捕らえられる。佐賀に送られた江藤を待っていたのは、大久保利通。司法権も手中にした大久保は江藤を斬首する。江藤は官僚としての才はすごいものがあったが、戦に関しては、戦略、戦術面ではあまり得意ではなかったのだろう。講談社。(2005.6.30)
最近、沖縄の美ら海水族館の館長に会う機会があった。かれによれば、琉球と薩摩、つまり沖縄と鹿児島の関係はいまもって複雑のようだ。1609年に薩摩が沖縄に侵攻して以来、ずっとその支配下にあり、搾取されていたことによる。支配下におかれていたとはいえ、一方では明の属国の立場も維持していた。この状態は明治初期の廃藩置県までつづいた。九州・沖縄サミットを開くために時の小渕首相は、沖縄に万国津梁館を建てる。この建物の名は1458年に尚氏が鋳造した、アジアの国々の架け橋になるということを意味した万国津梁の鐘にちなんでいるのだそうだ。沖縄といえば、料理。食事のことを「ぬちぐすい」(命の薬)と呼ぶ。これは医食同源の考え方だ。よく広東人は四足のものは机以外、なんでも食べるといわれるが、これと似たような表現が沖縄にある。それはブタに関するもので、沖縄の人はブタの鳴き声以外、すべて食べるというのである。そういえば、ミミガーやアシテビチは、ブタの耳と足の料理である。この本は沖縄の信仰、生活、歴史、食べもの、泡盛、沖縄語など広く網羅しており、かんたんな沖縄入門書である。青春出版社。(2005.7.16)
最近、ニコルの新しい小説が出た。『勇魚』、『盟約』、『遭敵海域』に続く4部作の最後を飾る本だ。『勇魚』は紀州の太地の鯨とりの甚助が主人公である。バンクーバーに居を得た甚助はジム・スカイと名乗り、この『特務艦隊』の最後で、その一生を閉じる。この本では、甚助の末っ子の三郎が日本海軍の将校として第一次世界大戦時に地中海で英国と協力して、ドイツのUボートから同盟国の船を守るための活躍を描写している。この当時は日英同盟の確固とした関係があったようだ。その後、なぜ、英国との同盟を破棄して、当時敵であったドイツと同盟を結び、英米と戦い、転落していったのか、そのへんのこともニコルの口から聞いてみたいことのひとつである。第一次世界大戦で日本海軍が地中海に進出し、同盟国を守るために死者も出し、地中海のマルタ島にはその墓もあるという史実はどれほどの日本人が知っているだろうか。文芸春秋社。(2005.7.18)
体によく、うまいイワシ。最近まで安かったが、漁獲量が減少して、だいぶ高くなった。本書によれば、60年なり100年なりの周期で個体数が変動しているのだそうだ。直近のピークは15−20年ほど前である。イワシには多くの種類がいて、魚屋で鰯として売っているのがマイワシ。ほかにもカタクチイワシやウルメイワシなどがいる。コノシロというイワシの仲間は、すしやの光り物のコハダのこと。サッパというのもいて、これは岡山名産のママカリの材料。ニシンもイワシの仲間で、マイワシとニシンは、マイワシとカタクチイワシの関係よりずっと近いという。また、マイワシも、取れる時期や大きさにより呼名が異なる。そういえば、入梅イワシとか大羽イワシと書いた缶詰や飲み屋の品書きにお目にかかったことがある。マイワシはなぜ自然変動するのだろうか。それには諸説あるそうだ。最近の新聞では、稚魚のときの水温が効いていると書いてあった。イワシの増減は自然変動だからといって、資源管理をしなくてもいいわけではないと、著者はいう。たとえば、「技術革新の結果、異常な早さで生産性を高める漁業機器がつぎつぎに開発され、その装着に追われて否応なく過重な操業を強いられていった。生産性の増大は必然的に対象資源の乱獲をまねき、カツオ、マグロからサバへ、サバからイワシへと対象を拡大してつぎつぎと資源を食いつぶしていった。ちょうど、従来の小規模圃場を機械を導入して米国並みに大規模圃場にして生産性を高めようとしている、わが国農業とどこか類似した傾向をしめしているように思える。」と手厳しい。江戸時代、イワシがたくさん捕れたときは、それを肥料とした。これを金肥という。今後、とうぶん資源量の回復は見込めないであろうから、心して食べたいと思う。中公新書。(2005.7.30)
このあいだの本に続いて、2冊目の沖縄本である。琉球と日本本土は文化の底流を等しくする関係にあった。これは、言語の点からそういえるようだ。第一尚氏王朝、第2尚氏王朝で独自の体制を確立した。一方で、日本と明への両属関係を維持してきた。1609年、薩摩は琉球を侵略、支配下に置いた。1624年には、琉球の一部である奄美を薩摩の直轄領とした。沖縄は受難の歴史である。1872年、明治新政府は琉球藩を設置、尚氏を藩主とする。1879年廃藩置県により、450年続いた尚王国は滅びる。薩摩侵略以来、多くの文書が持ち去られた。明治政府が持ち去った書類は、関東大震災で焼けてしまったという。しかし、「辞令書」など、民間が所有していた書類がすこしずつ発見、分析されてきた。本書はそうした「辞令書」を通じて、どのような統治制度がしかれていたかを明らかにしている。岩波新書。(2005.9.4)
タイトルでわかるように、幕末の人物を次々と分析する。遡上に上がったのは、井伊直弼、西郷隆盛、小栗忠順、坂本龍馬、河井継之助、勝海舟、松平容保、徳川慶喜の面々。勝海舟はなんとなく胡散臭いと思っていたが、筆者は井伊直弼と小栗忠順を高く評価している。井伊は安政の大獄の張本人だが、大獄の対象者はそれほど多くない。筆者によれば、井伊は法に照らして政治の王道を行っていた、むしろ、あらゆる陰謀をたくましくしていたのは、倒幕側であるという。倒幕側を批判する筆者は、最後の将軍の徳川慶喜を史上最大の汚点と言い切る。よく考えれば、幕府を倒した張本人が慶喜だからだ。
ニコルの数ある著作のなかに『白河馬物語』というのがあるのは、知っていた。かつて『盟約』という本の出版兼日本国籍取得のパーティの席で、橋本龍太郎氏が「白河馬物語、あれはいただけませんね」とスピーチしたことがあった。先日、ニコルに「作品のなかで、ぼくは『バーナードリーチの日時計』というのが好きだ」と言ったら、ニコル曰く「自分は、『白河馬物語』がいちばん好きだ」と言っていた。本人がいちばん気に入っている本を読まないわけにはいかない。いくつか本屋を探したが見つからなかったので、Amazonで探したら、古本で10円で出ていた。送料込みで360円だった。『バーナードリーチ』がシリアスものなら、『白河馬』はナンセンスの極致である。日本に在住するウェールズ人が親友の書いた小説原稿の『白樺物語』を翻訳するわけだが、漢字が読めないことから、テープに吹き込んでもらって、それを聞きながら翻訳する過程で、ものすごい誤訳が生じる。原作とはまったく異なった本ができあがり、それが欧米で大ブレーク。それを日本語訳にして出したら、直木賞をとったというストーリー。主人公はウェールズ生れのウイスキー好きで悪ふざけが好きで格闘技に長けているというから、ニコルそのものではないか。それを打ち消すために、本の扉に「この作品はフィクションであり、日本に住む飲んだくれのウェールズ人とのいかなる類似も、まったくの偶然である」と断り書きをしている。文春文庫。(2005.11.13)
樋口一葉の前の5000円札の肖像が新渡戸稲造。江戸末期に南部藩士の子として盛岡に生まれた。札幌農学校に進む、そこでキリスト教徒となる。『武士道』は日本人の精神的支柱を説明したもので、職業的武人である武士は選ばれた階級であるがゆえに、それにともなう義務が派生したという。フランス語でいう noblesse
oblige である。武士道とは何か、新渡戸は、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義を説明するなかで、それを説く。新渡戸はなんていう人だろうか。外国の文学や哲学、歴史に精通しており、西洋の事情との比較を通して、日本の武士道はけっして特別のものではないという。彼は、この本を英語で書いた。それが日本語をふくめ、各国語に翻訳されている。それにしても、明治人の教養はすごいものがある。あの杉本エツ子の『武士の娘』も英語で書かれたものだ。原著は、Bushido
- the soul of Japan という題である。新渡戸がどういう英語で、武士道を説明しているのか、いずれ原著を読んでみたいものだ。PHP文庫。(2005.11.13)
秀吉が朝鮮制圧のために加藤清正らを送ったときに、薩摩の島津やほかの武将も一緒に行った。朝鮮侵攻の最中に、秀吉が死去する。朝鮮では、李舜臣が率いる軍がよく戦い、武将は日本に撤退したが、そのときに、島津は朝鮮から、陶工とその家族を多数、拉致、日本に連れてくる。途中、船が漂流し、薩摩に流れ着く。その後、一団は人知れず暮らすが、当時の島津の当主により厚遇され、武士並の扱いを受けるようになったという。朝鮮人は、焼き物に精を出した。薩摩焼のルーツである。薩摩に暮らしながらも、朝鮮の言葉、風俗を守り通した。戊辰の役や西南戦争に従軍した若者もいたという。明治になり、新政府が日本人として扱い、言葉習俗が薄れていく。一方、姓は変わらなかったことから、差別を味わう。いまから400年以上前に秀吉が朝鮮派兵をおこなったことから、数奇な運命を歩むことになった。「故郷忘じがたく候」は沈寿官氏の物語である。第14代沈寿官は4世紀ぶりに里帰りする。日韓の関係がぎくしゃくしているこのごろ、日本でも韓国でも読んでほしい本である。本書に収録されている「斬殺」は世良修蔵のことを、「胡桃に酒」は明智光秀の娘・細川忠興の妻の細川タマ(洗礼名ガラシ)を扱ったもの。文芸春秋。(2005.11.13)
たまたま読んだ本。著者は朝鮮族の中国人で、日本在住。6年前に出版されたので、日韓共催ワールドカップや韓流ブームの前である。韓国では日本批判の本が相次ぎ出ているが、そうした批判はほとんど根拠のないものだという。逆に、韓国人の問題点を列挙している。韓国は儒教の唯一正統的な後継者であると朝鮮人は考えているという。つまり、中華思想の持ち主のようだ。そこから文化の多くを学んだ日本はあくまで自分たちより劣った存在でなければならないのだそうだ。韓国の多くの欠点を指摘している一方、ずいぶん日本を持ち上げている。持ち上げすぎのようだ。たとえば、次のような記述がある。「不正工事で原価を削るためには元請・下請けを問わず、管理会社にいたるまですべてが不正に加担している。資材の間引きやすり替えは建設の各レベルごとにある。ここまでくると技術は何の用もなさなくなる。技術レベルの高い専門下請け会社であっても、元請の横暴に圧されて拙速施工を拒むことができない。」韓国でしばしば起こった、橋が落ちたり、デパートが崩れたりする人災の原因を記したものだが、この記述はまるで、今話題の姉歯事件そのものではないか。祥伝社。(2005.12.17)
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