長府(2005年6月14日)
| 前日、長崎に用事があって、1泊して、この日、長崎から次の目的地である松江に移動した。 途中、下関で時間がすこしできたため、新下関駅からタクシーで長府に往復した。長府は 毛利萩藩の支藩である。小さな城下町で、当時の名残をとどめる土塀が存在する。この長府 に忌宮神社という社がある。「いみのみや」と読む。ここは、中国から蚕が伝わった土地である という。それを記念して、「蚕種渡来之地」の碑が建てられた。高さ3メートルの大きな碑で、揮 毫は大日本蚕糸会会長の牧野忠篤氏。忠篤公は、越後長岡藩15代当主で、11代当主の忠 恭公の末子であり、初代長岡市長も務められた。忠恭公は、幕末、河井継之助を登用した殿さ まで、司馬遼太郎の『峠』にくわしい。長岡藩主の揮毫した碑が戊辰戦争を戦った相手の長州 にあるのも奇妙な気がするが、それだけ世の中が変わったということか。昭和8年建立。 1859年(安政6年)、継之助は備中松山の山田方谷のもとを訪ねる。方谷が江戸に行ってい る間、長崎行きを試みた。途中、この長府により、1泊している。継之助は萩藩をほめる一方、 長府藩の政治はよくないと『塵壷』に記している。 |
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| 忌宮神社 | 神社左手にある大きな碑 |
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| 下の碑文に牧野忠篤公の名がある | 蚕種渡来之地(蚕の旧字を使っている) |