寺内さんの思いで
2002年9月25日、寺内重信さんが亡くなった。77歳になってまもなくのことだった。2月から入退院を繰り返していた。
寺内さんに最初に会ったのは、ぼくが1985年11月にスイスのローザンヌにあるワシントン条約事務局に赴任してまもなくのころだった。軽工業品輸入組合の仕事でアフリカに行く途中、ほかの何人かの人たちと事務局を訪れたのである。以来、ぼくがスイス滞在中に何度か訪れてくれた。一度は、いっしょにツェルマットまで行き、ゴルナーグラートまで登山電車でのぼり、そこでマッターホルンを背景に写真を撮ったことを覚えている。
1990年、帰国してからも仕事のつきあいは続き、オーストラリアやキューバなど、海外出張も何度かともにした。オーストラリアでは、ゴールドコーストにボンド大学のハリー・メッセル総長を訪問した。そうしたことから、寺内さんの人となりにふれることができた。
寺内さんはまっすぐな性格の持ち主だった。そんなわけで、親子や孫ほどの年齢差のある若者や女性からとても好かれていた。また、外国の人たちからも慕われており、亡くなる6日前には、4人の外国人(カナダ、シンガポール、オーストラリア2名)が病院にお見舞いに行った。かれの性格がまっすぐだったことから、かれを嫌っていた人たちもいた。つまり、まっすぐなことを嫌う人たちからは煙たがられていたようだ。
寺内さんの葬儀は家族親戚だけで内輪でおこなわれた。かれの友人の多くが自分も参列したかったということから、12月6日に都内で『寺内さんを偲ぶ会』が開催された。この会には、約50名の友人、知人が参加し、奥さんや息子さんに対して、生前、寺内さんにとても世話になったことを伝えていた。
寺内さんは、1925年8月兵庫県に生まれる。45年大竹海兵団入隊、まもなく終戦を迎える。47年神港新聞社入社。1948年、つまり23歳のとき、細川淳一郎のペンネームで、『ゆがんだ空』を書きあげ、講談社の『群像』第1回新人小説懸賞に応募し、佳作第1席に入賞した。そのときは佳作のみであり、その第1席であるから、『群像』の新人小説懸賞のトップで選ばれたことになる。小説家になる夢を抱いたが、肺をわずらい、夢を断念したという。その後神戸貿易協会入社、何年かして東京に出る。半世紀にわたり、軽工業品組合に奉職し、最後は日本べっ甲協会に移り、2001年春に退職した。
退職後、任意団体のACクラブ会長の立場で、ACクラブのNPO法人化に尽力した。ACクラブは「ACクラブ自然保護研究会」と名前を変え、NPO法人の認証を2001年暮れに取得、寺内さんは理事長に就任した。時間的な余裕もできたことから、2001年5月末には黒姫にC.W.ニコルを訪れたり、同年9月には池袋での信濃川に関するシンポジウムを聞きに行ったりもした。下は、ニコルからもらった色紙とニコルのアファンの森の散策の様子である。
『寺内さんを偲ぶ会』には多数の友人が参加してくれた。予算がすこしあまったことから、ご家族とも相談して、アファンの森に寄附することにした。寺内家からの寄附もふくめ、30万円になる。これで新たな土地を100坪購入することができる。それとともに、ACクラブに寺内基金もしくは重信基金の名で、口座を維持できればと思っている。(2003.1.1)
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