最後の瞽女
瞽女と書いて「ごぜ」と読む。ぼくが子どものころ、「ごぜさん」が家にやってきた。家のなかで三味線を弾いて唄を歌ってくれるのだ。いなかでは、「ごぜさ」、「ごぜんぼ」あるいは「おごぜさん」とも呼んでいたようである。彼女たちは目の見えない芸能集団で、三味線を引いて門づけをして歩いていた。家に来たのを覚えているのはこれ1回だけだが、ごぜさんとはしょっちゅう遭遇することがあった。
新潟県越路町岩田のぼくの生まれ育った家のすぐそばの家には長岡瞽女の金子セキさんが住んでいた。ぼくと同じ金子一族である。いつも縁側に座っていたことを覚えている。セキさんは、隣村の越路町飯塚の中静(なかしずか)ミサオさんといっしょに、これも同じ越路町山屋の関谷ハナさんに連れられて、あちこちを門づけして回っていた。セキさんとミサオさんは全盲である。ハナさんは目が見え、ふたりの道先を案内するのが役目であった。加藤イサさんもこれに加わることがあった。
ミサオさんやセキさんたちは長岡の瞽女集団に属していた。長岡瞽女を統制していたのは、長岡の瞽女の山本ゴイさんで、この親方は代々山本ゴイを襲名していたそうである。初代山本ゴイは、牧野家のゆかりで、山本家に養子に入ったという。牧野家は三河出身の長岡藩主である。山本家というのは、山本帯刀や山本五十六のあの山本家であろうか。
瞽女は江戸時代から明治にかけて数が多かったという。それがしだいに数が減ってきて、最後に新潟に残った。新潟では高田瞽女が有名であるが、最後まで門づけをしていたのは長岡瞽女で、それも越路町出身の瞽女であった。セキさんとミサオさんが昭和52年(1977)に引退したのを最後に、現役瞽女は日本から消えてしまった。
あちこちを巡業して歩いていたため、いろいろな情報を伝播する役目ももっていたようだ。この点は富山の薬うりと似たようなものだろう。とくに、越後の冬は長いあいだ雪に閉ざされる。いまとちがってテレビなどがなかったころは、村人たちにとっては、大きな娯楽だったかもしれない。
引退前後、高田瞽女や長岡瞽女は世間の注目を浴びるようになった。滅びるものに対する郷愁だろうか。東京にも何度か公演にきたようで、ぼくの兄も聞きに行ったことがある。セキさんたちは明治神宮に出かけたらしく、明治神宮の鳥居の脚に抱きついて、「なんと大きな鳥居だろう」と驚いていたという。小沢昭一さんが越路町にある湯治場の西谷に瞽女唄を収録しに来たこともある。
引退したミサオさんやセキさんは同じ新潟県の黒川村にある盲人の老人ホームである『胎内やすらぎの家』に入所した。昭和48年(1973)にすでに引退し、同じ老人ホームに入所していた三条出身の瞽女仲間の小林ハルさんは、昭和53年(1978)に人間国宝に指定された。ハルさんは長寿で、ことし103歳の誕生日を迎えるそうである。
ミサオさんはずいぶん前に亡くなられた。セキさんは『胎内やすらぎの家』におり、今年の1月26日に90歳になる。ハナさんは94歳で、生まれ故郷である越路町の老人ホーム『こしじの里』で健在であるという。
瞽女の社会は戒律もきびしく、また全盲であったことから苦労も大きかったにちがいない。世の中の冷たさや、逆に情にもふれたことだろう。いずれにしても、瞽女さんが新潟の田園地帯を歩く姿は、田んぼの稲架木(はさぎ)とともに越後の風物詩でもあった。いまは、前者はなくなったし、後者もほとんど残っていない。(2003.1.11)