春の越路(2004.4.29)
前日まで暴風雨で寒い日だった。実家のネコはストーブ の前で居眠り中。 |
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かなり重いネコで、7キロくらいあるのではないだろうか。 |
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いなかのネコはしょっちゅう外を歩き回り必要なときに家に 戻ってきます。 |
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寒かった日も終わり、29日、緑の日は快晴でした。母親と いっしょに先祖の墓参りに。 |
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その後、昔、家のあったところ(古屋敷)へとスギ林の中を行 く。タケノコが出てるかどうか調べにいった。 |
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その後、母親を置いて、秋葉神殿へ。オオイワカガミが咲い ていた。 |
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よく見えませんが、中央にギフチョウがいます。 | |
オオイワカガミ。付近にはリスがいた。オオルリやキビタキが 盛んに囀っていました。キビタキは20年以上前はいなかった が、樹木が大きくなったから、定着し、繁殖するようになったも のとおもわれる。下の写真はオオルリ。 |
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田中真紀子のファミリー企業の長鉄工業の土砂採取場。一山 ほとんどなくなった。親の角栄の『日本列島改造論』の置き土産 か。いまもなお、土砂採取は続いている。 |
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秋葉林道をさらに北進すると、こんなシダがあった。これは、 ウラジロ。暖地系のシダで、正月の飾りに使われることで有名。 関谷守夫さんの山小屋を左に見て、さらに進む。 |
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秋葉林道がどこまで続いているのかと思ったら、こんな田園風 景に出くわした。高鳥という部落である。 |
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高鳥から山屋へと向かう。途中、牛池があり、ミツガシワが花 盛りだった。 |
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ミツガシワ。リンドウの仲間。この湿地にはサワギキョウな どもある。 |
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牛池から桝形山へ。桝形山は謙信の武将、甘粕家の居城。 標高300m。 頂上からは360度展望が効く。遠くに見えるこの山は、米山。 993m。頂上に雪が残る。 |
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右側は米山。左の影の双峰の山は、八石山。その裏に黒姫山 がかすかに見える。なお、この黒姫山は高柳町にある山。 |
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桝形山の頂上から東方を見る。まんなかの白い山は、守門岳。 | |
信濃川と渋海川が造った平野が広がる。有数の穀倉地帯だ。 写真のほぼ中央には「久保田」の酒蔵がある。 |
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親戚の安藤正さん。桝形山のキャンプ場の管理をしている。 週に3日程勤務とか。管理棟でお茶をご馳走になった。 |
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桝形城は灰下城の名もある。 | |
頂上から先にさらに進むと、千王の六地蔵があった。 | |
ここから、右へ、飯塚部落の八幡神社へ。途中、千王 清水があり、喉をうるおす。 |
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道路わきに、こんな石像があった。 | |
まんなかにスギの枯れ木があり、穴が開いている。白く見え るのは、フクロウの雛。 |
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さらに下ると「あま池」という水のないところがあった。伝承 によると、池の主が千本の赤池に嫁いだことから水がなくな ったとjのこと。 |
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ここに昔は水があったのだろう。 | |
カナヘビが真ん中にいる。八幡神社のそばで。 | |
飯塚から、渋海川右岸を上流へ向かう。これが渋海川頭 首工。むかしも堰があったが、自由に子供たちが入りこめた。 堰下流は子どもの遊びだった。 |
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岩塚小学校。この3月で廃校になった。渋海川の隣にある。 この小学校のことは、上の渋海川頭首工とともに、大熊孝 著『技術にも自治がある』で紹介されている。 |
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小さな川もコンクリートの3面張り。勾配が垂直になったことから、 危険なため、柵がついた。 |
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これは魚道。はたして、サケは昇れるだろうか。 |
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渋海川頭首工を上流から見る。頭でっかちで、刑務所の監視 棟のように見える。 |
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スギナの緑がきれいだったので、撮影。 | |
渋海川の瀬替え。蛇行している部分を掘ってまっすぐにし、蛇行 部分を水田に利用するという工法。渋海川には20箇所前後のこ うした瀬替えがあるという。ここは、渋海川の最下流にある瀬替え。 地元では淵と呼んでいた。左の高台は成出(なるで)、右の高台は 岩谷(ようんだに)。そのあいだを掘った。「瀬替え」は「瀬違い」 ともいうようだ。 |
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ここから山側に行き、オシャグジデンダというシダを撮影。 | |
これは、瀬替えではないが、道路がまっすぐに岩谷を横切っ て走っている。道路を河に見立てれば、瀬替えのようなものだ。 |
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瀬替えを上流から。 | |
同じく。ここが掘削されたのは江戸時代のことだから、 どういう技術をつかったのだろうか。渋海川沿いには、この ほかにも、山の下、斜面の中をトンネル状に掘り進み、 地上にある小さな川を地下に押し込めるという技術も見ら れる。 |
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ここがもともとの渋海川の河道跡。もとの流れは、左の山にぶつ かり、そこから右に方向を変え、右の山をかすめて、右手前に流 れていた。 |
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不動沢部落を過ぎ、箕輪へ。ここに前記、岩塚小学校と 塚山小学校が統合した、新しい越路西小学校が開校した。 |
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このあたりは、豪雪地で知られている。 |
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不動沢から上ノ山山田林道へ。入口付近にあった、エンレイソウ。 | |
昔なつかしい横井戸(よけど)。ここに冬季に芋などを貯蔵保存した。 | |
延々と行くと林道の終点に。ここは西谷部落のさらに奥のほう。 |
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西谷から塚山駅へ。荒瀬への途中、道路でエゾタンポポを撮影。 在来のタンポポ。 |
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前記、瀬替えのそば上流部にある地層露出部。 | |
実家の前から、瀬替えの部分を撮影。 | |
岩田の実家から渋海川の土手を通って岩塚駅へ。土手にはスミレ がきれいに咲いていた。 |
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岩塚駅のそばにある宝徳大社というお稲荷さん。やがて、岩塚駅へ。 そこから長岡を経て、東京へ。 家についたら、歩数計が45000歩を示していた。 |
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この日、出現した鳥たち ノジコ、アオジ、ホオジロ、カシラダカ、ジョウビタキ、 トラツグミ、オオルリ、キビタキ、ツツドリ、キジバト、 アオゲライ、コゲラ、マヒワ、シジュウカラ、ヤマガラ、 キセキレイ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、ツバメ、 スズメ、ムクドリ、ヤブサメ、センダイムシクイ、エナガ、 ヒヨドリ、シロハラ、フクロウ、メジロ、タヒバリ、 ハシボソガラス、イカル、カルガモ、カワセミ、イカルチドリ、 サシバ、サンショウクイ、ウグイス、タシギ |
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桝形城址について(キャンプ場の紹介文書より) 桝形城址は、越路町飯塚集落と長岡市大積町高鳥集落との境にそびえる桝形山の頂上にある。頂上の南北36m、 東西16mの平坦な場所が本丸跡といわれ、その南の広場は出丸跡といわれている。南の広場に3m程低くなったと ころがあるが、そこは城門の跡ではないかと考えられる。頂上の平地の北側にも南北74m、東西31mの松林がある が、ここも見張番所などのあったところではないかといわれている。城門の跡と推定される場所の近くに、清水が湧き 出ているが、これを殿様清水と呼んでいる。この清水は、城の用水として使用されていたのではないかと考えられてい る。 頂上からの展望は、四方に遠く広がり、近隣の動静を一望のうちにつかむことができる。これらのことから桝形城は、山 城として非常に恵まれた地形にあったということができる。 伝承によれば桝形城址は、1444年(文安年中)当時の越後の国守であった上杉安房守清方の家臣、甘粕家の居城で あったといわれている。甘粕家は、新田氏の流れを汲むもので関東の上野の国(群馬県)にいたが、新田氏が衰えた後、 上杉氏に従って越後入りしたもので後に長尾氏に仕えた。謙信時代の城主は、甘粕近江守景持といって、剛勇をもって 知られた武将であったと伝えられている。近江守には、3人の子供があったが長男は、生まれながらに病弱の身であった ので、親沢(長岡市)の地に帰農しそこに永住したといわれている。次男の備後守清長は、古志郡椿沢(見附市)の城主 になり、三男の大弐が跡目相続をしたといわれている。後に甘粕家は、景勝の移封とともに会津へ移っている。 |