田んぼしごと

ぼくの父親は、ぼくが12歳中学1年生のときに他界した。父は冬の間、関東や関西に酒造りの出稼ぎに行っていた。越後の酒づくりである。春、酒の仕込みが終わって戻ってくると、さっそく田んぼを耕しだす。田起し、代かき、苗代づくり、畦塗り、田植え、草取り、稲刈りと春から秋にかけて、一連の作業をこなす。そしてまた長い冬が近づくと、杜氏に旅立って行った。ぼくのいなかでは酒屋に出稼ぎに行くことを、「じょうしょうに行く」と言った。これは、「上州に行く」という意味で、上越国境の山を越えるという意味だろう。余談だが、じゃがいものことを「甲州いも」と呼んでいた。父は、田んぼの農作業がないいわゆる農閑期は、左官として地元の大工、屋根葺きとともトリオを組んで、仕事にでかけていた。でも、生活のサイクルは田んぼとともにあったことは確かである。

今とちがって当時は、農業の機械化が進んでおらず、ほとんどが手作業であった。たとえば、田んぼを起すには4本歯の鍬で去年の切り株を起す。田んぼに水を引き込み、雪上を歩くかんじきで土を踏みつけ、土をやわらかくした。田んぼに苗を等間隔に植えるために、木製の枠をころがし、苗を手で植える。除草には、ゴロと呼ばれる道具を使う。稲刈りは、稲刈り鎌を使い、刈った稲を藁で束ねる。それらをさらに藁で作った「つなぎ」で束ねる。それを、稲架木(はさぎ)のところまで運んだ。稲架木が近くにあるときはいいが、遠い場合は、家の前まで運んだ。それを稲架木にかけ、天日乾燥させる。乾燥した稲を脱穀して、さらに籾を家の前に敷いた筵に広げ、再乾燥させる。

こうした手作業中心の仕事は、多くの労働力を必要とする。もちろん、子どもたちをふくめ、家族総出である。とくに、田植えや稲刈りなど、短期間で終了しなければならない作業には、近所や親戚が手伝いに来た。子どもたちは小さいながら、それぞれの能力に応じ、仕事を分担する。たとえば、田植えのときは、2列か、3列を受けもつ。刈り取った稲を運ぶのも少量で、親の後について、稲架木まで運んだ。やがて、中学生、高校生ともなると、体も大きくなり、大人と同じ量をこなす。

こうした作業を通じて、両親や親戚の人たちからいろいろなことを学んだ。それは田んぼの仕事のことであったり、そこに生えている植物のことであったりした。山間の田んぼで農作業をするときは、作業の合間に、春であればゼンマイやウドなどの山菜、秋であればキノコやアケビをとったりした。植物のみでなく、カエルやサワガニ、イシガメ、トンボなどいろいろな小動物にも親しむきっかけでもあった。

最近、環境教育ということがよく言われるが、昔は必要ではなかったはずである。それはわれわれの生活が地域に密着していたし、日ごろの生活そのものが自然との関係で成り立っていたからである。そして、いろいろな知恵を親たちから学んだ。最近、農作業も機械化され、それにしだいに大型機械となり、田んぼも構造改善事業と称して、大規模なものになってしまった。それとともに、子どもたちは田んぼや自然から遠ざかっていった。環境教育とは、昔あったような、自然との関係を再構築することだと思う。

日本の初等教育は、ゆとり教育と称して、円周率(π)を3にするなど、子どもの能力を馬鹿にしたようなことを決定したが、いずれにしても教師の裁量で自由になる時間が増えるという。そうした時間を利用して、地域で自然とのつきあい方を知っているお年よりを先生代わりにして、いろいろなことを子どもたちに教えたらいい。そうした環境を整備してやるのが、国や地方公共団体など、行政の役割だと思う。(2001.11.18)

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