越路の水辺

越路町にはその東端を流れる日本一の大河・信濃川がある。この川は、学校の社会や地理の授業で習うから、利根川と同じように、ほとんどの日本人が知っているはずである。しかし、越路町ともっとも密接に関係している川は渋海川(しぶみがわ)という。この渋海川、信越国境に源を発し、松之山町、松代町、川西町、小国町と流れ、越路町を縦断して、やがて長岡市で信濃川と合流する。子どものころは「大川」と呼び、魚つり、水遊びを通じて、この川と親しんだ。

こうした大きな川以外にも、水辺はたくさんある。そうした水辺とはいろいろなつきあい方を住民はしてきた。ぼくが生まれ育った岩田という集落には、五十鈴川という小さな川がある。この川は今は新潟県林業試験場のスギの実験展示林になっている細河内(ほそごうち)というところから流れてくる川で、はかま温泉の前を通り、南河内を流れ、北河内からの川と合流し、岩田と不動沢のあいだで、渋海川に注いでいる。渋海川との合流点付近でも川幅は2メートルと狭い。この川にヤマメが住んでいたことはすでに書いた。南河内では、川は崖の中に姿を隠す。これは、狭い沢を少しでも田んぼにしようということで、先人たちがこつこつと崖の中をくりぬき、川を崖の中に閉じ込めた結果である。

北河内からの川の水が田んぼの用水として利用され、岩田の西側の集落内を流れている。この川の水はもともときれいだったことから、大根や白菜などを洗ったり、洗濯物をゆすいだりするのに利用されていた。今はコンクリートになったが、かつては石組みであり、カワニナなどの小動物も生息していた。

また村落のあちこちに防火用の溜池があった。これは地元では「消防だな」と呼ばれていて、カエルやトンボ、魚などの天国だった。子どもたちもギンヤンマをとったりして遊んだ。最近、話題となっているビオトープの大掛かりなものだと思えばいい。やがて、この「消防だな」はコンクリート製となり、上部もコンクリートで塞がれ、今は跡形もない。つまり地下に潜ってしまったのである。

これらのほかにも、小さな池を持っている家が多かった。ぼくの家は30メートルくらい沢筋に下ったところの池を利用した。この池の水はそのまま飲めるほど、きれいだった。井戸水が少なくなる夏、風呂用の水を汲むために、バケツを持って何度も往復した。そこにはイモリやツチガエルが住み、トンボが集まったり、クロサンショウウオが春先、卵を産みにきた。

越路町には大きな池はあまりない。かつて、浦の越路橋の上手に大きな池があり、オオハクチョウが採食場として、夜間に利用していた。今は、埋め立てられ、グラウンドになっている。一部は釣りができるように残されている。このほか、東谷の池の平(いけのひら)には女池がある。池の平はかつて小さな集落を形成していたが、離村して、現在は渋海川の河岸段丘上の荒瀬に移った。その池の平にある女池周辺は、崖、池、田んぼがセットになっており、これと似た景観は新潟のあちこちで見られる。地すべりがあったところに水が溜まったもので、人間の手が加えられ、溜池状の様相を呈している。十日町市から少し入った大池も似たような景観である。山屋から枡形山に登るところにも、小さな池がある。これは牛池と呼ばれる。女池も牛池も春先はミツガシワが咲き競う。

中学生のころ、越路中学校のある巴ケ丘を植物採集で歩いていたとき、林の中の低地が湿地状になっているのを見つけたことがある。ここは、かつて田んぼだったところだと思われるが、ヨシやノハナショウブなど、水辺特有の植物が生えていた。

越路町の最大の水辺はなんだろうか。信濃川でもないし、渋海川でもない。じつは田んぼである。春先、田植えが終わり満満と水が溜められた田んぼはまさに大きな湿地である。日本やアジアのモンスーン地域は田んぼがあることで、大湿地帯を形成しているといっていい。こうした田んぼは生物の宝庫でもある。

ラムサール条約は水鳥など、湿地に住む生き物の保護と賢明な利用を目的とした国際条約である。この条約に加盟した場合、その国で重要な湿地を登録し、保全管理の計画を立てることが義務づけられている。登録湿地となるにはいくつかの基準を満たさなければならない。しかし、その基準を満たさなくとも、重要な湿地が日本のあちこちにある。そうした湿地は、人間の生業とも密接に関係して、守られてきた。女池や牛池もそうした湿地のひとつである。こうした水辺が将来にわたって、保全されていくことを期待する。(2001.11.24)

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