冬の雪遊び
越路の冬は、5か月近くも雪に閉ざされる日がつづく。子どものころは、今のようにファミコンどころか、テレビもなかった。ぼくの家にテレビが入ったのは、東京オリンピックの年、昭和38年のことであった。村ではかなり遅いほうだった。そうしたことから、子どもたちにとって、長い冬をどう過ごすかはとても重要なことであった。
雪というと真っ先に思いつくのがスキーやそりだろう。最近のゲレンデスキーこそ、ジグザグに優雅にすべるが、昔はスキーがうまいというのは、どれだけ急な斜面をすべることができるかどうかということだった。子どものころは、とくに恐いものしらずで、急な斜面に果敢に挑戦した。また、複数の人数で組を作り、先頭がすべって、転ぶと次の人が先頭に立ち、里山の斜面を遊んだりしたものだ。そりは、木のみかん箱やりんご箱と竹を使って作った。竹の先を火であぶり、やわらかくなったところを曲げて、水で冷やしその曲がりを固定する。それを木箱の底に2本、釘で打ちつけた。
雪合戦は雪国のあちこちで人気がある。雪をボール上に丸めて、敵味方に分かれてそれを投げ合うのである。雪のボールを利用して、別の遊びがあった。できるだけ硬くして、雪上に置いて、相手のボールにぶつけて、割れれば勝ちである。このために、いろいろなやり方で硬いボールを作った。手では、力が充分でないため、足裏で固めたり、泥を少しつけてみたり、子どもたちはなるべく硬いボールを作ろうと一所懸命だった。記憶はそれほど定かではないが、この遊びはたしか「かちわり」と言ったような気がする。
雪だるまやかまくら作りもよくやった。とくに、かまくらは屋根の雪下ろし(越路では屋根から雪を下ろすことを雪堀という)後に軒先に溜まった雪を利用することが多かった。かまくらは中で子どもたちが遊ぶほか、野菜の貯蔵所としても使うことがあった。小川や道端の用水路に雪を入れ、踏み固め、いわば雪のダムを作る。水により雪が溶けるのと水圧により、その雪のダムが一気に崩れ、水が流れる。この遊びをたしか、「ざいご」と言った。小学校帰りの道草の代表的な遊びであった。
3月も終わり近くになると、雪がほとんど降らなくなる。鉛色の空だったのが、青空が出始める。日中、太陽の熱で溶けた雪が夜の冷えで翌朝には、雪が固まることがよくある。すると、スキーやかんじきを履かずとも、雪の中に潜らないようになる。とくに午前中は、自由に雪上を歩きまわれるのである。これを、「しみわたり」と呼んだ。しみわたりができるときに、スキーをすべるときは注意を要する。完全にアイスバーンになり、スピードが出すぎるからである。
しみわたりができるころ、里山を歩くと、雪上に出ているマンサクの木ではすでに黄色い花が咲いていることがある。ハンノキやヒメヤシャブシの花は目立たないが、これも早く咲く花である。長い冬が終え、雪が消えて、全山ピンク色のカタクリの花で埋まる春がまもなくやってくる。(2002.3.10)