越後毛利のこと
ぼくは新潟県越路町に生まれた。実家のあるところは幕末までの80年間、あの米百俵の越後長岡藩領に属していた。河井継之助率いる長岡は戊辰戦争で、薩長軍と戦って負けてしまう。薩長軍は長州の山県有朋が率いていた。この間のことは司馬遼太郎の『峠』にくわしい。ぼくのいなかは長岡藩領の前は、淀藩だったり、幕府直轄領だったりしたこともある。
長岡藩領のぼくのいなか、じつは長州藩とも縁がとても深い土地柄である。「そうせい公」と呼ばれた長州藩の藩主・毛利敬親の祖は広島にいた。さらにその祖先は今の神奈川県、相模国の毛利荘に拠り、その地名にちなんで毛利と称するようになったという。毛利一族は鎌倉幕府の内紛に巻き込まれ、ことごとく粛清された。唯一紛争に巻き込まれなかったのが、越後の佐橋荘(今の柏崎市)にいた一族の越後毛利である。越後毛利は、城のあった地名にちなみ、「安田」、「北条」、「南条」、「石曾根」などと称していた。
ぼくのいなかは、1500年代後半、太田保(おおたのほう)と言われていた。佐橋荘の東隣にあたる。太田氏が所領していたが、その後、石曾根氏や南条氏が支配するようになる。これらはいずれも越後毛利である。越後毛利の一部は、広島の安芸に移住する。安芸毛利であり、その末裔が戦国の毛利元就である。豊臣側についた毛利は、徳川家康により長州の萩に封じられる。萩藩である。萩藩は支藩の下関の長府藩とともに、いわゆる長州を形成する。
つまり、長州の毛利の先祖の一族が越後の長岡藩領の一部を支配していたのだ。越後に留まった毛利はその後、どうなったのだろうか。毛利という名字をもつものはすべて越後毛利の末裔だと考えられている。なかには、あちこちの藩に召抱えられたものもいるだろう。
長岡藩出身で幕末から明治にかけて活躍した人物に、森一馬、森源三兄弟がいる。森一馬は幕末、蝦夷地から樺太までを探検した。戊辰戦争で戦い、負傷する。明治になってから、長岡の千手小学校の校長を務めたという。いっぽう、森源三は北海道へ、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士で有名な札幌農学校の校長を務めた。農学校の校長といえば、いまの北海道大学の学長に相当する。森源三の妻は継之助の姪の「まき」。源三は継之助の妻の寿賀(すが)と母の貞(てい)の面倒を見た。源三とまきの子どもの茂樹が河井家に養子に入り、河井家を再興した。
森一馬、森源三は幕末まで毛利姓を名乗っていた。つまり、毛利一馬、毛利源三である。かれらの祖先がいつ、どのようにして、長岡藩の藩主・牧野家の家臣となったかはいまのところ、よくわからない。越後に留まった毛利一族なのだろうか、あるいは長州をはじめとする各地に散らばった毛利一族の末裔なのだろうか。
戊辰戦争から130年。会津や長岡で、長州の萩や下関と交流しようという試みがされている。何度もシンポジウムなどが開催されたという。しかし、両者の和解はなしとげられていない。とくに敗者の会津や長岡の怨念がつよいのだろう。
ぼくの仲のいい友人に萩出身の人がいる。同じく、奥羽越列藩同盟の最初の離脱藩である新発田出身の友人もいる。新発田と同じような行動をとった福島の三春藩領出身者にもぼくの友人がいる。かれらとは、出身地がどこであっても、何のわだかまりもない。おそらく、両者の和解には長い道のりが必要だろう。しかし、人と人との個人的な人間関係はまったく異なるはずだ。戊辰戦争時に戦ったものどうしのなかにも、江戸で同じ学校に行っていた人たちがいたはずである。かれらの気持ちはいかばかりかと思うとともに、戊辰戦争がなぜおこったのか、その時代背景に思いをめぐらせている。
ところで、幕末という舞台の配役のひとりに勝海舟がいる。幕吏である海舟の曾祖父はじつは、ぼくの出身地にある里山の低い丘陵を越えたところ、現在の長鳥の出身である。かつての佐橋荘にある。長岡、長州、幕府という幕末・明治維新時の中心的な人物がすべてあのあたりの出身や由来であるという。これも歴史のめぐりあわせの妙というものか。(2002.10.20)