長崎(2004年3月26日、27日)

長崎は私の仕事の関係で何度も行ったことがある。名所旧蹟も訪れることがあった。今回、2004年3月26日、27日と
滞在する機会があり、『塵壷』に出てくるところを訪れた。唐人屋敷跡はいまの館内町にある。唐人街は中華街近くの
山の手にあり、市場と住宅街になっている。わずかに唐寺がその名残をとどめている。これらの寺を継之助も訪れてい
る。付近を散策していたら、西岡武夫の家があった。長崎では当時から中国人のことを「アチャサン」と呼んでおり、これ
は継之助の『塵壷』にも出てくる。県庁の人から地元の研究者にそのいわれを聞いてもらったが、はっきりとは知らない、
おそらくアチラサンという言葉から出たのではないかとのこと。そういえば、継之助の長岡では幼児言葉で余所の人のこ
とを「アッチサン」と呼ぶが、これと同じなのだろう。継之助は眼鏡橋を見たほか、出島の蘭館にも出入りした。継之助に
よれば、長崎の人は唐人には親しみを持っているが、蘭人は粗暴で嫌われていたという。かれは、聖福寺、福済寺も訪
れた。この両寺には今回行けなかったので次回の楽しみにとっておこう。継之助は稲佐山のふもとの製鉄所も見たかっ
たとのこと。長崎では、あのラフカデオ・ハーンをして「神のような人」と言わせた会津の秋月悌二郎と何日間かをいっしょ
に過ごした。秋月は製鉄所には出かけたが、興味を示さなかったようだということが『塵壷』に出てくる。継之助は長崎で
豚の角煮を食べたという。今回の長崎の旅では角煮は食べなかったものの、親子でやっている居酒屋に行った。そこで、
ツワブキの煮たのをはじめて食べた。ふつうのフキよりも苦味がすくないように思えた。ツワブキを食べるということは聞い
たことがなかったが、フキと同じキク科の植物だからとうぜん食べられるのだろう。なお、出島には3人の外人研究者の案
内板があった。シーボルト、ケンフ、ツンベルグである。いずれも博物学にも造詣がふかく、動植物の学名に接したことの
ある人にはおなじみの名前である。継之助はここ長崎に何日も逗留している。横浜につぎ、長崎でも西洋文明に接し、か
れの夢をふくらませたことだろう。もともと長崎から脚を伸ばして薩摩にも行きたかったそうだが、自費での遊学のため、断
念したそうだ。かれが鹿児島や、おなじように断念した萩に行っていたら、戊辰戦争もまた違った展開になったかもしれな
い。


眼鏡橋 ツワブキ煮
若い茎を使うそうだ 居酒屋の親子
唐人屋敷地図 唐人屋敷跡石碑
唐寺1 唐寺2
西岡武夫の家があった ミニ出島
記念碑 稲佐山を見る
帰りの飛行機から。継之助は富士に登りたかったそうだ。