長岡の礎を築いた堀直竒


織田信長の家臣に堀秀政がいた。信長の後、豊臣秀吉に仕えた。その秀政の親戚(従兄弟かおじ)に奥田直政がいた。ふたりは、どちらかが戦功を立てて大名になったら、もうひとりは家臣になろうと誓い合ったという。やがて堀秀政が大名になると、約束どおり奥田直政が家臣になった。ゆるぎない主従関係は、上杉謙信・景勝の智将直江兼続らとともに、豊臣秀吉をして、奥田直政は戦国の3陪臣と言わしめた。その後、堀秀政のすすめにより、奥田直政は堀氏に改名した。

越後の上杉が豊臣秀吉により会津に移封された後、堀秀政の子の堀秀治が越後の支配を命じられる。堀と改名した奥田氏も越後に移り、一部を所領した。
秀治の弟が長岡の蔵王堂城へ、直政の子・堀直竒が坂戸城へ入った。訳あって直竒(なおより)は、その後蔵王堂も支配するようになった。

やがて徳川の時代に。長岡に牧野家が三河から上州大胡、越後長峰を経て1618年に入封するまで、長岡を支配していた。蔵王堂城は信濃川の水害を受けやすいことから、城を現在の長岡駅の地点に移すとともに、長岡の町づくりの礎を築いた。また、新潟の湊町も長岡の支配下であったことから、新潟の町づくりもおこなった。直竒は新しい城と町の完成を待たずに、越後村上へ。村上の町の完成を待たずに死去。その後堀家は、最終的に越後村松に移り、直竒の次男・直時が初代村松藩主となった。以後、幕末まで堀氏は3万石の村松藩主として君臨した。

幕末、村松藩は長岡藩と同盟を結び、薩長軍と戦い、そして負ける。維新後、堀家は天皇に恭順を示す意味もあって、堀姓をもとの奥田姓に戻したという。村松藩の支藩に信濃須坂藩と越後椎谷藩がある。そこも堀姓から奥田姓に戻した。奥田氏は、もともと斯波氏の末裔、今の愛知県稲沢市にある奥田荘に拠り、その地名にちなんで奥田と称した。

長岡は牧野の殿様が有名であるが、堀直竒のことを知っている人は少ないようである。2002年10月9日、ほんの5分ばかりであったが、蔵王堂城址を訪ねることができた。長岡駅前からタクシーに乗ったところ、運転手は知らないとのこと、北長岡に城跡があるはずだと言ったら、池のようなものはある、神社もある、城跡は知らないと言われた。運転手は会社に連絡し、蔵王堂という城跡があるというがと聞いたら、金峰神社だという返事だった。その神社ならばわかるとのこと。運転手が池と言っていたのはお堀だった。


蔵王堂城址には1994年、堀直竒公の偉業を記念して、銅像が立てられた。長岡城の面影がまったくないのにくらべ、その前身の蔵王堂城はそこに城があったことをはっきりと伝えている。そこに顕彰碑が建てられている。参考までに全文を掲載しておこう。

ところで今から20年くらい前に、堀直竒ゆかりの地、坂戸山に登ったことがある。そのときは堀直竒のことや、直竒の前に坂戸城にいた上杉景勝、その家来の直江兼続のことは知らなかった。今回、蔵王堂を訪れて、坂戸山のことを懐かしく思ったしだいである。(2002.10.13)

蔵王堂城址とお堀 蔵王堂城址の碑
堀直竒公の銅像 堀直竒公の銅像














堀直竒公顕彰碑
                堀直竒公顕彰碑

堀直竒は天正5年(1577)12月26日、美濃国某郡に生まれた。父は堀直政、母は妙
泉院である。直竒は豊臣秀吉に見いだされて14歳から9年間を小姓役として仕えた。

慶長3年(1598)、上杉景勝越後春日山城から会津へ移され、代わって越前から堀秀
治が入国した。中越の要衝蔵王堂へは秀治の弟親良、坂戸城へは又従兄弟の堀直竒
が入った。直竒は親良の隠退後、その子鶴千代が蔵王堂城主になると、その後見役と
なり、蔵王堂・坂戸両城の領地を支配した。慶長10年(1605)、信濃川による川欠けの
ために城地を長岡の地へ移す決意を固め、新城の縄張りを開始した。翌11年の鶴千代
の死後も直竒は蔵王に留まったが、忠俊の頚城郡福島城築城の手伝いに忙殺され、長
岡の築城は中断された。

慶長15年、直竒は秀治の後を継いだ忠俊と、兄直清のざん言によって突如国外に追放
された。直竒は将軍徳川秀忠と大御所家康に直訴し、その裁定によって忠俊は改易さ
れ、直竒も坂戸城から信州飯山4万石へ移された。その後直竒は駿府で家康に仕え、
大阪冬・夏の陣で大功を立て、元和2年(1616)には8万石蔵王堂城主として故地へ
返り咲いた。同3年、融雪を待って懸案の長岡城築城にかかり、傍ら新潟湊村を整備し、
港町に作り上げ、新潟港と長岡間には信濃川通船の組織「長岡船道」をつくり配船もし
た。諸法制の整備中同4年に10万石村上城主に封ぜられ、代わって長岡へは牧野忠
成が入部した。

直竒は村上でも城や城下町を整備し、家康死後、秀忠・家光二代の将軍に仕え、信望
が厚かった。大老土井利勝、天海大僧正、沢庵禅師らと親交を重ねる中、寛永16年
(1639)6月29日、63歳で没した。

上杉氏以後の中越を治め、領民を愛し、築城と町造りに秀でた武将堀直竒公の像を蔵王
堂城址に建て、その信望を永く後世に伝えたい。

平成6年(1994)7月

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