司馬遼太郎の継之助・長岡藩論

河井継之助と長岡藩を扱った司馬遼太郎の小説に『峠』がある。かれの継之助論や長岡藩論は
この『峠』にくわしい。しかし、司馬遼太郎はほかの小説や講演でもしばしば継之助や長岡藩を
登場させている。そうした箇所を抜粋したのが下記である。すこしずつ、掲載していきたいと思う。

坂の上の雲
●敵は機関砲というものをもっている。ということが、日本軍の将兵がひとしくもった驚異であった。日本歩兵は、機関銃を知らな
かった。火器についての認識が、先天的ににぶい日本陸軍の体質が、ここにも露呈している。機関砲については、日本人が知ら
なかったはずはなかった。幕末、越後長岡藩の家老河井継之助が横浜でこれを買うために江戸藩邸の美術品を売りはらって金
をつくり、二挺買った。その威力が、この藩が会津藩とともに佐幕派の孤塁となって官軍を戦ったとき、すさまじく発揮された。長
岡市街における最後の戦闘では継之助みずからが城門わきでこれを操作し、官軍を薙射してしばらく近づけなかった。そのとき
の官軍指揮官が、狂介といったころの山県有朋であり、この兵器のために大いに痛いめにあわされたことをおもえば、陸軍の大
元締になったときそれに注目すべきだが、しなかった。この河井継之助の機関銃と、いま南山で火を噴きつづけているロシア軍の
機関銃とは、構造は基本的にちがっている。(文春文庫 巻3 301ページ)

●沈旦堡拠点については、「豊辺は北越人じゃから」と、好古はたえず言っていた。豊辺は新潟県出身で、越後人に多い頑固さと
ねばりづよさの典型的な人物が、豊辺新作であった。かれは士官学校第5期の騎兵科の出身で、平素愚鈍の評があった。好古
は豊辺が目はしのきく小才子でないことに、この沈旦堡防衛という日本軍全体の運命にかかわるしごとの担当者として最適である
ことを知っていた。(巻6 72ページ、豊辺は長岡藩出身、祖父は継之助の伯父にあたる。つまり豊辺の父と継之助がいとこ。)

翔ぶが如く
●山県は、軍事には弱かった。戊辰戦争のときに長州軍の前線司令官として各地に転戦したが、北越戦争では長岡藩の戦術的
なわなにしばしばかかり、ほとんど逃げてばかりいるのではないかというような戦いぶりであった。(巻2 69p)

●大久保は大隈や伊藤といった維新期における二流の人物を味方にひき入れ・・・(巻3  278p、司馬は別の本で、継之助を一流
の人物と評している)

●官軍に抵抗したなかで最も強かった藩のひとつである越後長岡藩の旧藩からも、その士族代表である三間正弘が川路に会いに
きて、「われわれのほうから50人ぐらい出したいが」と申し出たぐらいである。(巻3 317p、三間正弘は三間市之進のこと、長岡
の三進といわれ、英才のほまれ高かった)

●かつては、前将軍徳川慶喜や当時の老中たち、あるいは北越や奥州において官軍を手こずらせた越後長岡藩主や会津藩主を
あれほど寛大に待遇した明治政府が、にわかに弾圧者の相貌を帯びるのはこの江藤に対する惨刑が最初といっていい。(巻4
85p)

●誰もが、武士の世が去るということを知って、鳥羽伏見で徳川軍の弾雨の中を突撃したわけではなく、北越で頑強な長岡藩の抵
抗にあやうく敗れそうになるまで戦ったわけでもなく、また東北の山野に屍を曝したわけでもなかった。もしそうとわかっていれば、
銃を執らない連中も出たに相違なく、第一、薩摩藩の藩父である島津久光は兵を出すことを拒絶したであろう。かれはたれよりも封
建制の保持を頑固におもいつづけていたひとである。

●士族階級は、太政官がやる変革と開化事業に身分をうばわれ、経済的基盤をうばわれたが、最後にかれらの心理に対して衝
撃をあたえたのは、明治9年3月28日に布告された廃刀令(帯刀禁止令)であるといっていい。(中略)廃刀令については、幕末、
ごく小さな地域にかぎられたことながら、越後長岡藩の総督河井継之助が、大小の佩用を無用のこととし、そういう布告を出してい
る。(巻6、254P)

●げんに、永岡の計画では、かれが千葉県に兵をあげれば、同時に新潟県で農民一揆がおこる手はずになっていた。・・・川路は
このにおいを嗅ぐや、機先を制すべく少警視三間正弘に警部以下二百余人の警官を付し、新潟県に急行させた。ひとつには前原が
新潟に上陸するという予報が入ったからでもあるが、ともかく東京からこれだけの大部隊を派遣したのはよほどの規模の一揆がお
こるであろうことを川路は予測したのであろう。(巻7、60P)

●「一時天下は瓦解と見るより外なし」とも大久保はいう。大久保という人物は、その性格もあって誇張した表現をめったにつかわな
かっただけに、この言葉はよほどのことといってよく、要するに東京は孤立する、という観測をかれも覚悟として持っているのである。
維新成立後、東京が一時孤立したかのような時期がある。戊辰戦争中(明治元年)、北越戦線が新政府軍にとって敗走、萎縮、膠
着がつづいたときであった。河井継之助に統率された越後長岡藩が予想以上につよく、これに会津・桑名両藩の連合軍と旧幕府の
洋式軍隊が加わって、山形有朋らに指揮された新政府軍をつぎつぎに追い落とし、これがために横浜あたりの外交筋では、新政府
を見限ったがごとき時期があった。大久保の手紙では、それにふれて、「宛然、戊辰東北戦争の自分に異ならざる可し」大久保の配
下は、伊藤博文をはじめことごとくといっていいほどに、右と似た感想をもったであろう。(巻8、47P)

●薩軍がその欲するところ(高瀬の占拠)を得なかったから敗北という判定はなり立つ。野津(鎮雄)も三好(重臣)もそのように判
定した。「幸先がいい」と、三好はしきりにいった。三好は長州奇兵隊あがりで戊辰のとき北越で長岡藩の河井継之助と戦った。か
れはやや驕慢なたちだが、俊敏さはいかにも奇兵隊あがりという感じはある。「乃木少佐は疲れているのではないか」と、野津がい
って、後方警備にまわしてはどうかといったが、同郷人の三好はむしろそれは乃木のためによくない、こんどの高瀬への南下戦に
は乃木を先鋒にし、かれに功名の場をあたえてやろう、といった。(巻8、280P)

●健次郎は会津落城のときには数えて15歳で篭城中の城内で沼間守一からフランス語を学んでいるといった少年書生にすぎな
かったが、その兄の浩は20代の若さながら佐川官兵衛とともに家老に列せられ、篭城の後半には佐川が野戦軍の総指揮をとり、
山川浩は篭城軍の総指揮をとった。ついでながら戊辰戦争で、敵味方を通じて野戦軍の名将といえる人物は、長岡藩の河井継之
助のほかに桑名藩の立見尚文、会津の山川浩とそれに佐川官兵衛があげられるだろうが、いわゆる官軍においては板垣退助以
外にそれに値した者が居そうにない。(巻9、109P、山川健次郎はのちの東大総長)
 
●政府軍では、薩軍本営のある岩崎谷口を最難関とし、私学校口をそれに次ぐ困難な関門とした。私学校口の突撃隊長を立見尚
文少佐が担当したのは、理由のないことではない。幕末、幕府をささえたのは会津藩と桑名藩だったが、幕府瓦解後、かれは桑名
藩の残兵をひきいて薩長軍にはげしく抗戦し、会津藩、長岡藩、旧幕府歩兵と連携しつつ薩人や長州人をなやました。維新後、立
見は野にかくれたが、その名は、薩長人にながく記憶され、西南戦争がおこるとともに起用され、少佐の階級をあたえられて新撰旅
団の一大隊を指揮した。ついでながら立見はその後陸軍にとどまり、日露戦争のとき、弘前の師団をひきいた。風雪の中を強行して
黒溝台における日本軍の大崩壊の危機を救ったのは、かれとその師団である。(巻10、281P)


司馬遼太郎全講演
●幕末の人材を眺めていて、どう考えても河井継之助という者は、木戸孝允よりも3倍ほど上でした。(朝日文庫 巻1 155p)
竜馬がゆく
●次いで竜馬は、土州脱藩高松太郎、越後脱藩白峰駿馬の2人を呼び、「お前たちは利口ではないが、一つだけ取り柄がある」と
いった。「無口ということだ。・・・・」(文春文庫巻5、336P、白峰駿馬は長岡藩士、鵜殿団次郎の弟)
歳月
●米原はこういう帳簿操作で8万両を浮かし、その金をもって越後に高飛びをするということであった。越後方面は目下、越後長岡
藩と官軍のあいだで死闘がくりひろげられており、しかも官軍の敗色が濃く、このため新政府の警察権がそこまでおよばない。(講談
社、157P)

●腹を切り、絶命した。辞世の歌があった。「ほまれある越路の雪を消えもせず永らえてこそ恥ずかしきかな」というものであった。ほ
まれある越路というのは、野村の戊辰戦争での軍功をさす。野村はかつて長州奇兵隊の幹部として北越に遠征し、長岡藩と激戦し
た。そのときに死んでおればこういう恥もなかったものを、というのが歌の意味であろう。(281P、野村とは山城屋和助のこと)

●西郷にいわせると、(中略)日本の士農工商をあわせて一個の炎としてもえたたせるにはかつてのフランスやアメリカがそうであっ
たように内戦を徹底的にやりぬく必要があり、国民的気概というのはその焦土のなかから生まれでるものであった、ということであっ
た。西郷は戊辰戦争が数年かかるとみていた。ところが西郷にとって意外であったのは日本人は大勢への順応性がつよく、徳川家
直系の大名のほとんどが弓を伏せて官軍になびき、抗戦らしい抗戦をしたのは、会津藩を筆頭に、越後長岡藩と出羽庄内藩ぐらいの
ものであり、このため戦乱は1年でかたづき、西郷ののぞむ「焦土」にはならず、まるで芝居の舞台がまわるように新時代になってしま
った。(328P)

●幕末、勤皇活動をしたというのが岩村高俊の自慢だが、土佐の自由民権家たちはこの岩村高俊とその兄の通俊兄弟がおなじ土佐
人であることを同郷人として恥じたほどに権力好きの人物であった。(中略)そのあと、幸運にめぐまれた。京で薩長土を主力に官軍が
編成されたとき、北陸方面へゆく土佐藩の小部隊の軍艦に抜擢された。坂本の知人(実際はこの世で会ったことがなかったが)という
肩書がものをいったのである。北陸では歴史的な失敗をした。越後長岡藩に対し、数万両の軍資金を要求し、さらに長岡藩の友藩で
ある会津藩を攻めよせまったがこの要求事項は岩村の責任ではない。京ですでにきめられている方針であった。ただそれを要求する
にあたって岩村は高圧的であり、長岡藩の弁解をきかなかった。長岡藩からは家老河井継之助が単身、小千谷の官軍陣営にきて
岩村に会い、しばらく時間をあたえてくれ、と嘆願したが、岩村はあたまからはねつけ、わずか30分ほどで立ちあがり、河井が岩村の
そでをとろうとするのもふりはらい、そのあと、河井が数度面談を申し入れたがついに奥から出ず、追いはらってしまった。河井は窮し、
やがて決戦を決意し、ついに官軍を急襲して岩村らを奔らせ、あとで官軍が押しかえし、双方増援軍がかけつけて、官軍6万、奥羽軍
4万余という大規模な戦争に移行して戦闘が5か月つづくというさわぎになった。なぜあのとき岩村のような小僧を出したのかと、この
方面の官軍の総指揮官だった山県有朋は、のちに品川弥二郎にせめたという話は有名だが、いずれにせよこの男の小僧ぶりがこの
戦乱をまねいたといっていい。岩村は後年この一件を弁解して、「河井継之助という男をよく知らなかった。あの当時どの藩にもいた馬
鹿家老のひとりだろうとおもって相手にしなかっただけのことだ」と、つねにくりかえした。かといってべつに岩村はこのことを後悔せず、
維新後も相変わらずもち前の向う意気のつよさで権力社会をわたった。(501P)

●「諸君らはいかにも敵を過大に見すぎる。佐賀者というのは、当方が断固たる決意をもってのぞめばかならずくじけるのだ」(ばかなこ
とをいう)と、大尉和田勇馬はおもった。岩村は戊辰のとき、このでんで越後長岡藩を見くびり、陳情にきた家老河井継之助を嘲侮して
追いかえしたために越後勢の戦意をあおりたてた結果になり、戊辰戦役中の最大の難戦を官軍にさせてしまった。奇妙な運命の男で、
いままた戊辰のときとそっくりの条件下にこの男は身をおいている。さらにはその戊辰のにがい失敗を、この男はもう一度くりかえそうと
していた。みな、無言で顔を見合わせた。(538P)