第六部

建設の始まったつくば

では、なぜ筑波山麓でも、鉄道や、幹線道路から離れた「桜村」「谷田部町」とその周辺が選ばれたのだろうか。

常磐線沿線や、筑波鉄道沿線(現在は、赤字により廃止されている)、国道6号線沿いに建設してもよさそうである。

なぜ、鉄道や幹線道路から離れて建設されたのか?

これも、「学園都市」の真の姿「拠点都市」の秘密を守るためである。鉄道沿線や、幹線道路沿いに建設すると、政府の意図に反して「学園都市」の周辺が、多摩ニュータウンのようなベッドタウン化してしまう恐れがあった。

そう、既に何度も述べている、「政府にとって好ましくない人間」が流入してくる可能性があるのである。また、鉄道や幹線道路沿いに作ると、人の出入りを監視しにくくなる。そう、「政府にとって好ましくない人間」「人の出入りを監視しやすくする」ため鉄道や、幹線道路から離れたところが選ばれたのである。

こうして、60年代後半より建設が開始された。筑波大学などを始め、45の国立、それに順ずる研究機関の移転が始まったのである。もちろん、反撃ライン、最終防衛ラインの拠点となりそれぞれの研究機関、建設物には知られざる真実の役割があると言う事は、極秘にされながら。(各研究所などの真の役割は後述する)
研究所等の移転は70年代後半に一応完了した。「学園都市」が機能し始めたのもこの頃からであろう。しかしこの頃はまだ完全に完成したと言うわけではなかった。まだ、有事のとき、「国家の狗(国家公務員)」とその家族を養うための貯蔵施設などが完成していなかったのである。(なぜ有事に「国家の狗」の家族を養う必要があるのか、その理由は後述する。)

では、正式な完成はいつなのだろうか?

「筑波センタービル」「バスセンター」「クレオ」「ダイエー」などが完成した、80年代半ばを完成年代と見るべきであろう。

事実これを裏付けるイベントも開かれている。EXPO85こと「科学万博」である。

本来、余り外部の目に触れさせてはいけない、学園都市をなぜ外部にさらしたのだろうか。

これには、国際情勢の変化なども関係してくる。

80年代になると、60年代の冷戦の雰囲気は和らぎ、全世界が、対話と共存の道を歩み始めた。60年代のように、いきなりソ連が北海道に上陸してくる、と言う可能性は無くなってきたのである。こうなると、対ソ防衛計画も多少の修正を迫られることになる。もちろん、「敵を懐近くまで誘い込んで弱ったところを反撃する」と言う作戦に変化は無いが、その拠点となる「学園都市」を極秘にするよりも、「ごく一部ではあるが公開して、日本の国力、防衛能力、技術力を外部に示し威圧する方が効果がある。」と考えられるようになったのである。あえて公開することにより「日本の防衛力は完璧である、攻めてくるのなら、それ相応の覚悟で来るがいい」と、つくばを公開することにより各国、特にソ連に無言の牽制をしたのである。

また人間の心理のうちにも、出来たものを見せびらかしたい。と言う心理があるが、それも働いたのであろう。

そう、「科学万博」は、「防衛拠点都市」完成記念イベントであったのである。

こうして85年つくば真の完成を迎えたのである。

 

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