裏木戸通信 117号

 

 

外敵襲来?

 

 

 

外来動物による、既存の生態系の破壊。

これらの事が問題視される様になってから、もう、大分経っている様な気がする。

所謂、本来日本にいなかった生き物が、日本にやって来て、日本の生態系を変えてしまう。

日本に本来いた生き物が、そのせいで数を減らしたり、絶滅の危機に瀕したり、絶滅したりしてしまっている。

彼らが来る経路も色々だったりする。

荷物に紛れ込んでいたり、元々、ペットとして飼われていたものが逃げ出したり、飼い主が飼えなくなった物を放してしまったり、養殖用に輸入したものが広がってしまったり、etc、etc。

刺されれば死ぬ危険性もあるセアカゴケ蜘蛛は、駆逐しようとする努力をあざ笑うように、全国に広がりつつある。彼らは元々は、海外から来た荷物に紛れ込んでいたものらしい。

北海道の恵庭市では、アライグマが、野生化し、農作物を荒らして問題になっている。恵庭市では農作物を守るために、アライグマを駆除しようとしている。

元々彼らは、ペットとして日本に連れ込まれたものである。それが逃げたのか、飼えなくなってしまって逃がしてしまったのか、兎に角、本来野生のそれがいるはずのない我が国に、野生のものとして住み着いてしまったのである。

野生化してしまったアライグマを駆逐することに、私としては異論はない。農家からすれば、生きる糧を食べられてしまうわけであるし、そのままほおって置けば、ますます損害は広がっていくし、また、本来いないはずのアライグマが存在することにより、新たな、環境への悪影響が出てしまうかもしれない。

もちろん、アライグマに罪はない。悪いのは、可愛いからと言う理由で、彼らを輸入し、ペットとし、それを飼いきれなかった飼い主の責任である。大きくなり過ぎて、持て余したので、野生に離してしまったというのなら、その責任はなお更、重大である。

アライグマと言うと、ラスカルを思い出す。飼っている人たち、または、飼っていた人達も、そのイメージで、アライグマをペットとしたのかもしれない。

アニメの中で、ラスカルは、最後には、野性に帰って行く。そこは、ラスカルが本来住むべき場所であったから、ラスカルは、野性に帰ることが出来たし許されたのだ。そして、ラスカルが、野性に帰る事になったきっかけは、ラスカルが、農作物を荒らすようになったから(だった筈である)である。

日本では、逆に、野性に帰ってしまったアライグマが農作物を荒らしている、何だか皮肉といえば皮肉である。

東京では、インコが野生化し、しかも、その数を増やしていると言う。

当然、インコも、本来は日本にいなかった鳥である。ペットとして飼われていたものが、逃げ出したりして、定着してしまったものである。

この場合、本来いなかった生物が土着してしまったと言う事意外に、東京が、本来熱帯の生物であるインコが、年間を通して、野生の生物として住めるほどに暖かくなったと言う、事の表れでもあるという。

そうして、考えてみると、美しいインコも、なにやら原色ケバケバの、なにやら、恐ろしいものに思えてしまう。

まあ、もっとも、この場合も、インコにはつみはない。生物は、必ず生きようとする。ペットであったインコが、外に出てしまい、その上で、生きようとした結果、こうなってしまったのだから。この場合も、やはり人間の責任である。

ブラックバスの問題なども、バス釣りが、広まっているためか、色々論争がある。

この魚も、本来、日本にはいなかった魚である。

それが、いろいろな理由で、日本中の湖沼に広がり、そこの環境、生態系を破壊するとして、問題視する向きがある。

これも駆逐しようとする動きが一部で見られる。

ただ、この魚の場合は、この魚を守ろうとする動きもある。もう、住み着いたものを駆除できないのなら、それと共存する道を探すべきだとか、他の魚が滅びているのは、バスのせいではない、etc、etc。

他の、他の国から来て、日本に住み着いてしまった生物を駆除しようとする動きに対しては、余り反対はない。あったとしても、動物愛護の観点からの反対運動であり、闇雲に、殺すのではなく、もといた環境に生きたまま返そうとか言う運動であったりする。

だが、この魚の場合は、保護しようとする動きがある。

この魚の場合は、それを釣る人々がおり、そして、それを釣る人々の上に、産業が成り立っているからである。私も、バス釣りを、中学の頃した事はあるし、それはそれで楽しかった。だから、それを楽しみたいと言う人たちの言い分は、それなりにわかる。

だが、一方で、断固駆除と言う動きもある。

バスは、本来、日本の湖沼にいるべき魚ではないから、これがいる環境は正常とはいえない。ほとんどの日本の湖沼は、本来いるべき生物以外を放流するときは、許可がいるが、バスの場合、殆どが、無許可で放流されたものだから、本来いてはいけない生物だから、それをつる行為自体が、本来は、おかしい、etc、etc。

こちらの言い分もわかる。違法に放流されたものを釣り、その上に、産業が成り立ってしまうのは、何だかおかしな話である。

ただ、この場合も、一番哀れなのは、バスと言う魚である。人間の楽しみのために、違法放流され、彼らのあずかり知らぬところで、喧々諤々の議論の対象にされてしまっているのだから。

人間も地球を構成する環境、自然の一部なのだから、これらの出来事も、自然の営みと言えば、営みと言えるかもしれない。そういう意味では、環境破壊、とか言う言葉も当てはまらないかもしれない。この論法で行けば、この世で起こっている、環境破壊と言われる行為も、環境破壊と呼んではいけないのかもしれない。

人間と、その行いも自然の一部と見るか、人間は、環境から超越した存在と見るか、それは、個人の主義主張の範ちゅうなのだから、とやかく言うべき事ではない。

ただ、どちらの考えであるにしても、これらの事を考えると、今ひとつ、自覚が足りないような気がする。

私の日々の行いを冷静に考えてみると、やはり無自覚に色んな事をやっている。私の考えは、人間も自然の一部だから、私のやっている行為も、自然の営みのうち、しゃあないしゃあない、と、そのまま、無自覚に生きて行くのもいいが、

 

 

 

本当にそのままでいいのか自分

 

 

 

と、自問自答する今日この頃である。

 

 

取り敢えず、ごみの分別ぐらいはやっておくか