裏木戸通信 162号

 

○×が悪い!!

 

 

子供が切れやすくなっていると言う

一寸した事で切れたり、人をさしたり、アレヤコレヤをやってみたり・・・・・・

で、色々、アレヤコレヤな事件が起こるたびに、教育評論家だとか、何とか療法士とか、○×先生とかが、色々言って、喧々諤々の論争をして、色んな原因を追究する。

で、大抵その手の事件が起こると、その原因として、槍玉に挙げられるのが、ゲーム、漫画、アニメ、等のサブカルチャーである。

最近では、上記のそれに加えて、ネット、メール、ケイタイを槍玉に挙げるのが、その手の人たちというのか、その手の論調のトレンディーのようである。

ネットによる、匿名の○○が、××で、現実と、虚構の境界線が、△△になって、その結果、□□になる。

とか、何とか、もっともらしい事を、もっともらしい声で、もっともらしい顔をしながら、どう贔屓目に見積っても、携帯の機能を使いこなせていない様な感じの、もっともらしい人が言っている。

個人的な意見かもしれないが、新しい物をたたく、と言う心理のうちには、時代についていけなくなったものの僻みみたいな物があるかもしれない。

人間年をとれば、当然、順応性は低くなる。色々物覚えも悪くなるし、アレヤコレヤを受け入れるだけの柔軟さもなくなってくる。

で、新しい物をたたく。

が、叩かれ様が、蔑まされようが、やっぱり便利な物、役に立つ物は、普及してゆくし、普及しなくても、無くなる事は無い。テレビだって、色々たたかれはするが、廃れる事は無い。ラジオだって出た頃は、たたかれたらしいし、レコードだってそうだという。

サブカルチャーだってそうである。映画だって、出たばかりの頃は、立派なサブカルチャーで蔑まされたし、ミュージカルだって、軽く見られた。古くは、オペラだってそうだし、日本を見たって、歌舞伎、浄瑠璃等等だって、最初は立派なサブカルチャー。その時代に生きていた、その手の人たちには、軽く見られ、時には蔑まされていた。

どんな物にも、利点があれば、問題点もある。いい影響も与えれば、悪い影響もあるはずだ。

高尚な文化、その手の団体が、認める、文化や芸術だって、案外色々な問題点や、欠点があるかもしれないし、人に悪影響を与えているかもしれない。

利点が、問題点を上回れば、それは普及するのだろうし、問題点が多ければ、普及もしないだろうし。色々対策も考えられると思う。

が、やっぱりサブカルチャー、新興勢力、新しい何かは、たたかれて、問題点ばかりが指摘される。

で、何かが問題が起これば、それのせいにされる。

漫画が悪い、アニメが悪い、ゲームが悪い、テレビが悪い、ネットが悪い、ケイタイが悪い。

確かに、それらの影響も有るであろう。そういう意味では、悪いといえば悪い。

が、人間に一番影響を与えるのは、今更言うまでもないが、親であり、周りの大人であり、その人たちを取り囲む社会そのものである。上記の物は、その社会を構成する一部分である。

何か問題が起こって一番悪いのは、言うまでも無く、親であり、周りの大人であり、そして、我々や、○○が悪いとのたまう人たちを含む、社会全体である。

が、やっぱり人間自分の責任を認めたくは無い。そう、自分の責任として、問題点や、アレヤコレヤを受け入れられるほど、人間は強くない。だから、何かに逃げ道を求める。で、得てして、社会的に見れば、弱い立場(?)にある、サブカルチャーや、新しく出てきた何かに、それを求める。

何かが起こって槍玉に挙げられるのは、新しい物の宿命だし。いわゆる良識派と言うのか、教育家と言うのか、まあ、その手の人たちの槍玉に挙げられ、目の敵にされるのは、サブカルチャーの宿命であり、そのような標的にされるうちは、サブカルチャーが、サブカルチャーとして健全である証拠ともいえる。

幸いにして、日本のサブカルチャーには、今のところ自由がある。

これまた個人的な意見であるが、いわゆるサブカルチャーを、法律とかで、縛ったりした国で、栄えた国は無いような気がする。蔑まされつつも、サブカルチャーが、サブカルチャーとして、色々出来る国は、やっぱり健全だと思う。そういう意味では、日本は実に健全な国だと思う

 

 

俺がもてないのも○○×が悪い