裏木戸通信5号

ノストラダムスと宇宙旅行

私も子供の頃は、ノストラダムスを信じていた。1999年には人類が滅びると本気で信じていた。

私が子供の頃に読んだ本に「地球滅亡と未来の世界」と言う本があった。(出版社、著者ともに不明)

そのタイトルどうり、地球の滅亡と、未来の世界を同時に扱っていると言うなかなかシュールな本であった。

この本では実に多くのパターンで人類の滅亡が記されていた。「核戦争で死に絶える」、「洪水で滅亡する」、「謎の病原菌で滅びる」etc・・・・・

実に色々な人類の滅亡ぶりが書かれていた。そして実に全体の5分の4がこの様な内容であった。

子供の頃は、この本を読み本気でびびっていた。

そして、この本の残り5分の1には、人類の輝ける未来が描かれていた。それを読んで未来の世界に夢膨らませもした。

一冊のほんの中に滅亡を延べ、子供を不安にさせる一方で、未来をえがき子供に夢を与える、この本を編集した人間の感覚を少し疑いたくなるが、考えてみれば、子供の頃は、一方で、オカルトや、滅亡などを本気に心配しながら一方で、未来に夢を膨らませる、そんなフレキシブルな感覚を誰もが持っていたのではないだろうか?

子供の頃、宇宙博というイベントがあった。

その名のとおり、宇宙開発についての博覧会であった、月着陸船や、当時まもなく実用化されるスペースシャトルなどを見て、自分が大人になったときには、宇宙旅行をできるようになっていると考え、未来に夢を膨らませたものである。

そう、一方ではノストラダムスの預言にびびりながら、もう一方では宇宙旅行のできる未来に夢を膨らませたのである。結局今のところどちらも実現していない。

ある年になると、人類の滅亡にびびらなくなったが、宇宙旅行というとりあえず実現しそうも無い未来にも夢抱かなくなった。

ちんけな文化人は、それがさも悪いことのようなことをほざくが私はそうは思わない。

子供の頃は誰でも夢を見る、しかしそれを実現するために努力する子供は余りいない、一時的にはするが持続させない奴が殆どだ。結局遊ぶ、休む、騒ぐ。それも無理は無い、それがガキというもの。ごく一部の子供が、努力を続けて、大人になり、夢を実現させたり、夢を実現するための一翼をになうようになる。

殆どが現実的になり、破滅や、実現しない夢を追わなくなるのは、半分は努力をしない当然の結果でもある。

また、正義の味方だのおかしな夢も当然見なくなる。

しかしごく一部ではあるが、努力もせずに夢だけ見つづけている大人がいるのも事実である。

そしてそれらの人間は不思議とあちらの世界のほうに行ってしまっているような気がする。

これはなぜであろう?

おそらく、宇宙旅行や、便利な社会と言うのは、研究や、開発などで実現できるものである。つまりこの事についていつまでも夢を見ていると自分が努力をしていない駄目駄目人間と言うことがばれてしまう。

しかし、あちらの世界は違う、基本的にたいした研究、努力をせずとも、適当なことをしていれば、何とかなってしまう世界なのだ。

これが科学などだと証明やらなんやらで、多大な努力をしなければならない。

しかし基本的にあちらの世界には、科学的証明や、理論的展開などは必要ないし、大体回りもその様なものを求めていない。

つまりあちらの世界は、大して努力もせず、しかも無責任に夢だけ見つづけていたい人間にとっては、義務を果たさず、夢を見つづけていられるまことに便利な世界なのである。

しかしその代償も当然ある。

殆どの人間には相手にされないと言うことである。

 

あっちの世界もいいものだ

(また訳のわからない戯言を書いてしまった・・・)