裏木戸通信5 9号
曲者
私は怪談が大嫌いである。
兎に角子供のころは大嫌であった。
なぜか?
よくは判らない。
兎に角、子供のころの私は、怪談で泣く奴だった。だから回りの人間は面白がって怪談をする。なおさら怪談が嫌いになる。
冷静に考えれば、お化けなどはおおよそ非科学的なものである。
平たく言えば、幻覚、幻聴、幻視、まあ、その類だろう。
「寝ぼけた人がみまちがえただけさ」、と言う歌の一説があるが、それが正しい所だろう。
理論で証明できないものだから怖いのだろうか?
そういう側面もあるが、それだけではあるまい。
大体、この世には、科学では証明できるが、怖いものもたくさんある。(恐怖の種類は違うかもしれないが)
大体、怪談がぜんぜん平気な人間も居れば、まったく駄目な人間も居る。
この違いは何であろう。
私は、臆病な人間であった。(今でもだが)。だから怪談が苦手なのかもしれない。だが、勇敢な人間が怪談も平気かと言うとそうでもないらしい。科学的、理論的な人間が平気と言う物でもないかもしれない。
用は信じやすいかどうか、かも知れない。
お化けが怖いと感じるのは、お化けを怖いものと認識し、信じる心があるからかもしれない。
そういう面では、案外お化けを怖がる人間は、単純で、純粋なのかもしれない。
私は、宇宙人の与太話、超古代文明、フリーメーソンリーの陰謀とか、その手の話は大好きだが、怪談だけは今ひとつ好きになれない。
怪談をへとも思わない人間からすれば、どちらも同じようなものであり、如何わしい物であろう。
だが、上記の物を信じている人間にしてみれば、それらは怪談ほどではないにしても、ある程度の怖さを伴うものかもしれない。
これらを信じている人間はある面純粋な人間といえる。
何かを信じるのは純粋でなければならない。
では彼らはいい人間なのか?
そうではあるまい。
世の中には、純粋で、単純な人間はいい人間という図式があるが、それは大いなる間違いである。
そのようなある面純粋で、何かを信じつづける人間が生み出した悪事、悲劇は腐るほどある。
純粋な人間は一歩間違えればとんでもない悪人になりかねない。
だから、少々曲がった人間のほうが案外善人なのかもしれない。