裏木戸通信 60号
熱湯甲子園
毎年恒例、日本の夏の風物詩、高校野球大会が開催されている。
今年も多くの球児たちが、甲子園という舞台を目指し、その中から勝ち抜いた高校が、現在甲子園で暑き戦いを演じている。
おそらく今年も数多くのドラマが生まれ、またこれから生まれようとしているのだろう。
プロ野球がつまらない現在、面白い試合が見られる唯一の場かもしれない。
確かに何かに打ち込む若者の姿は美しいし、勝って喜び、負けて悔しがる球児たちの姿はいつの時代も感動的な物だと思う。
でもさ、いい加減やめない。
いや、甲子園大会を止めようなどという気はさらさらない。
野球をやっている高校生たちに、自分たちがどのぐらいの力があるのか?スポーツを通じて、日本中の同じスポーツをしている人たちと交流を持つのは大切だと思う。
でもさ、言い方は、悪いかもしれないけど、数多くあるスポーツの一つに過ぎないんだよ、野球だって。
そりゃ、プロがあるから、そのスポーツを一生懸命やって将来成功する可能性は、ほかのスポーツに比べたら遥かに高いけどさ。あくまでも、高校の部活の延長なんだよ、甲子園大会も。
それを何故、甲子園だけ特別扱いするのか?
ほかのスポーツだって全国大会は開かれているわけだしさ、そこには甲子園に負けないくらい感動のドラマだって毎年生まれていると思うんだよね。それを甲子園だけは、どの試合もどの試合も全国中継。
あれはやり過ぎでしょう。いくらなんでも。
だったらほかのスポーツも中継して、その感動を伝えるか?
これも余り賢いやり方とは思えない。
確かに感動のドラマ、感動の試合、感動の光景。これらは色々なスポーツ、いや、高校の部活動、高校生活の中で生まれると思う。でもさ、その感動は本来、当事者たちのものでしょ。周りがそれを見て、感動したいというのはある意味非常に無責任だと思う。
以下のような光景は甲子園で結構あると思う。
体調が悪いにもかかわらず、炎天下の中、試合に出つづける選手、しかし、8回彼はついに、耐え切れなくなり、部員たちに抱えられながら、足取りもおぼつかない状態でグランドを去る。球場はは感動と、温かい拍手に包まれる。
みんな感動しているんでしょう
「何かに打ち込む若者たちは素晴らしい。」て、
でもさ、これってスッゲー無責任だと思うんだよね。
あんな炎天下の中、体調が悪い状態で、スポーツをしたら、そんな風になって当然でしょ。大体良い訳ないでしょ、心身ともに。あれで育ち盛りの体にとんでもないダメージを受けて、その後スポーツを出来なくなった、なんてなったらどうするの?それで感動を与えてもらった人が責任を取ってくれるとでも?
おそらく取らないでしょ。だれも。
甲子園で決勝近くまで活躍したピッチャーは、プロでは大成しにくいという話はよく聞く話である。言うまでもなく、体が壊れてしまうためである。
これも冷静に考えれば、当然の話である。普通の人間だって、30度を超える、直射日光びんびんの中で、軽くスポーツをする位でも、物凄く体に悪い(こんな中で、スポーツをしたって、百害あって一利なし。)それを、連日、30度の中、数時間、全力投球をさせられたら、体が壊れて当然でしょ。
中には、「それでも耐えられるのが本物のプロだ」とか、言う人もいるし、「球児の健康を考え云々」と言うと、それだけで、反論してくる人間もいる。「そんな事をしたら、大切な精神が鍛えられない」とか、「ああいう中で、苦しい中戦うから、不撓不屈の精神が養われる云々」言うのは勝手かもしれない、でも、無責任である。主役である、高校生のことを何も考えていない。
高校野球は、あくまでも、高校の学業の一環である。あんな炎天下の中、体に無理を強いる試合でしか、不撓不屈の精神を養えないのなら、それは周りの教育の仕方が間違っているとしか言いようがない。
野球、いや、部活、学校教育、その他、色々な場で、多方面から、色々教えるのが教育ではないだろうか?
現在、甲子園で、連投を禁止させようとか、もっと涼しい季節にしよう、言う意見は、一部ファンからは出ているが、導入される様子はない。これもある面、感動は得たいが、責任は負いたくない、という身勝手な大人の考えのためではないだろうか。
スポーツに感動を求めるのはまだいい。でも、感動を求めるあまり、当事者たちが犠牲になってはいけない。もし、そんな形でしか感動できないのなら、スポーツを見るべきではない。そして、感動を求めたいのなら、見るものも、一定の責任を負うべきである。
責任は負いたくない、でも甲子園を見て感動したい。
もし甲子園がこんなゆがんだ人たちに支えられているスポーツ大会なら、無くしてしまったほうがよい。
もし感動したいのなら、ほんの少しでも、大人としての責任感を持って見るべきだと思う。
責任感の無い人たちが、ルールをぐちゃぐちゃにして、プロ野球はつまらなくなったんだからさ。