裏木戸通信 69号
馬鹿なりのゲーム考
男一人に、女複数
このようなシチュエーションを扱った物はこの世に溢れ返っている。
ゲームの世界では、ギャルゲーがそれですね。
なぜか複数の女に囲まれ、選り取りみどりの主人公。
現実には起こり得ないこと、現実では中々出来ない事の代替物を与えるのがゲームの重要な役割。
だからこの手のゲームは無くならないし、手を変え品を変え現れる。
虚しいかどうか等と言ったら、虚しいに決まっている。恋などその気になったら出来るんだから(多分)。
「それをゲームの中の虚構の世界に逃げてどうする。もっと現実を見ろ。」
おそらくこれが一般人の理論であろう。
仰るとおりです。
ゲームばっかりやっていないで現実をもっと見るべきでしょう。
「大体そんな物をやってて、虚構の世界に逃げてばっかりの人間が、虚構と現実の境目が付かなくなる可能性だって無きにしもあらず。そうなったら如何するんだ一体?」
こういう事を言う評論家、文化人も沢山いる。
これもある面反論の仕様が無い。
「遊ぶ人は一人一人自覚を持って、虚構と現実の境目を見極めているから心配は無い。」
などと言っても、上記の文化人が言う理論と言っている内容は同じで、結局堂々巡りになってしまうからだ
でもこの論争(と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい水掛け論かもしれないが)は実は、殆ど全てのゲームに当てはまる。
レースだってやろうと思えば幾らでも出来るんだから、ゲームでやってて虚しくない、とか、野球だって、何だって、一部のゲームを除けば、殆ど現実の世界でもやることが出来ることがゲームになっている。
それらだって、ゲームをする=虚構の世界で以下ギャルゲート同じ論争が成り立ってしまう。
いや、現実の世界で出来ないこと、たとえば、人をぶち殺しまくるゲームとか、ゾンビを右に左に切って捨てるゲームとか、その手の物は、完全に虚構の世界なんだから、それをやってて,以下ギャルゲート同じ論争が当てはまってしまう。
もっと言えば、文学、演劇、映画だって虚構の世界である、これ等にだって、以下省略
虚構の世界は文化の誕生と同時に生まれたと言っても過言ではないのではないか?
でもゲームなどは何故か色々たたかれるし、実際影響力などもあるように思えてくる。
まあ、これ等が悪影響を与え、切れ易い若者を生んでいるのか、そうでは無いのか、難しいことはわからない。
大体今の若者が本当にきれ易く命の尊さが判っていないのかどうか等は判らない。
とにかくゲームが代替物の提供である以上、この先も同じようなゲームは出続け、同じような論争が繰り返されるのだろう。
ただゲームにはひとつの約束事がある。
プレーヤーが何かをしなければならない。
傍から見れば虚しさ爆発、気持ち悪さ爆発のギャルげーだってそれは当てはまる。
ゲームでは、簡単にハーレム状態、ウッハウハ状態というわけにはいかない。
たいていのギャルげーは、一応障害となる何かを乗り越えなければならない。
イベントをこなしたり、好感度を上げたり、その他諸々、とにかくゲームによって、細かな違いはあるが、何かをしなければならないのは事実だ。
恋に障害はつき物?
だからこんな物があるのかも知れない。
だが、ゲームによっては、現実のそれとはかけ離れたものがあったりする。
虚しい夢の代替物なんだし、現実離れした障害を入れるくらいなら、こんなもの無いほうがいいかもしれない。
だってそうでしょ、どうせ買うのはモテ無いオタク。だったらさ、障害も何も無く、いきなりウハウハになったほうがいいじゃないか。
案外そのほうが売れてしまうのでは?
でもそれではもはやゲームとはいえない別のものになる。
ゲームはプレーヤーも何かしてこそゲームなんだから。やっぱり現実離れしても何か要素があった方がいいのかも知れない。
大体、この「プレーヤーが何かをやらなければならない。」という部分が、案外、虚構の世界と現実の世界を辛うじて結び付けている物なのかも知れない。
これが無かったら、それは完全に現実から離脱した、虚構とも呼べない世界になってしまうかも知れない。
「プレーヤーが何かをする」と言う部分が、虚構の世界に入り込ませる反面、現実世界と虚構の境目を認識させ、ゲームが終わった時、虚構から現実に引き戻す事になるのかもしれない。
プレーヤーが何かをする、という要素は、ゲームにおいてはあらゆる意味で重要な役割を持っていると私は思う。
その要素が、反面やり終わった後強烈な虚しさと、自己嫌悪感をを与えるんだけどね。