裏木戸通信 95号

 

 

ゆとり。

 

新学期。春は別れと出会いの季節。今年から、学校は、完全週休二日制になる。

いわゆるゆとりの教育の実践らしい。

 

 

 

ゆとり。

 

 

 

ゆとりが在るに超した事は無い。

私は小心者なので、遅刻しないように、朝はゆとりを持って家を出る。だが乗る電車は満員電車である。新聞を読むゆとりは無い。

オフピークとか、フレックスとか言われているが、、満員電車を見る限り、その効果は今の所あまり無い。基本的に日本人の朝にはゆとりが無いような気がする。

そして会社について、一息入れた後、仕事が始まる。仕事は決して、遅くは無いが、かと言って人並み以上に出来る訳でもない。結果、仕事をしている間は、余りゆとりが無い。

帰り道、電車は朝ほど混んではいないので、まあゆとりは有るかも知れないが、仕事で疲れ切っていたりすると、家に帰って何かをしようとするゆとりが無くなる。まあ、私のヤル気が今一無いのが最大の原因で、ゆとりだ何だに逃げ道を求めてはいけないが。

因みに生活にもゆとりは無い。貧乏だし、結構無駄使いをする性格のためか、日常生活は、ゆとりが無いギリギリの生活である。

 

 

 

そのせいにしてはいけないのは百も承知だが、人間にもゆとりが無い。

 

 

 

 

他人の失敗は、絶対に許せない。

 

 

 

 

自分の失敗は、見苦しく言い訳をする。

 

 

 

 

思い道理に成らないとイライラする。

 

 

 

 

 

つまらない事に腹を立てる。

 

 

 

 

くだらない失敗をする。

 

 

 

 

 

 

自分を冷静に見つめない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな自分にいらだっている、もういい歳だからそのイライラはなおさらである。

 

 

 

 

 

人間にゆとりが無いから生活にゆとりが無いのか、生活にゆとりが無いから人間にゆとりが無いのか、結局議論は堂々巡り。

まあ、最大の原因は、変えようとしない自分である。

まあ、何にせよ、ありとあらゆる物にゆとりが在るに超した事は無い。

それで、今回話題の、ゆとりの教育。

 

 

 

一部では、このゆとりの教育で育てられる子供たちは、馬鹿に成るのではないかと言う懸念があるそうだ。

 

 

 

ゆとりの教育のその実態は、教育内容を薄めてだけの物だと言う。

まあ、詰め込み教育も良くないが、内容の薄い教育も困ったものだと思う。

その、内容の薄い教育のせいで、これから社会を担う、子供たちが馬鹿に成るのも、確かに困りものである。

 

 

 

 

 

だが、心にゆとりの無い利口者より、心にゆとりの在る馬鹿の方が、遥かにマシである。

 

 

 

 

 

ゆとりの教育は結構だが、先ずは心にゆとりのある人間を育てる方法を、考えてほしい。

 

 

 

 

永田町の先生方に先ずはゆとりの教育を。