御府内88所巡拝    2007年1月〜2月


1月29日、旧友N君の通夜参列。
翌日から、予てよりお参りしようと心に決めていた、御府内を参拝することにした。

第1番 高野山東京別院
       
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品川駅を出ると、さすがに新しい札所巡りをするという気分になってくる。
1番高野山東京別院は、高輪警察の隣と調べてあったので、この警察には、落とし物でお世話になったこともあり、方向は分かっていた。真っ直ぐ上る道でないのは分かっていたが、高輪プリンスの横の道から上ってみた。思い通り、きつい登りである。こんな坂がこれからどれだけ待ち受けているのか、いささか不安でもある。上のバス通りに出て、右へ曲がると、すぐに別院である。
しかし着いてみてびっくり。表にはガードマンが何人もいるし、なにやら大勢がうろうろしている。どうも、大きな葬儀があるらしい。天幕やら、駐車場のセットやら、もう始まっていて、関係者の人たちが歩き回っていた。
本堂を覗くと、そこには花に埋もれた大きな遺影が飾ってあるし、ここでは、亡くなった人を拝んでいるようで落ち着かないし、読経も出来ない。まずは、寺務所へ行くことにして、係りの人に聞いてみた。
すると、本堂の外から遥拝するか、本堂の横に御府内の石塔があるので、それを拝んで下さい、とのこと。そこには、記念塔のようなものと、字は定かではないが、それらしき塔があったので、本堂の横でもあり、その前で、今回の最初の経を唱えることにした。最初でもあり、フルコースだ。懺悔文から始めて、三帰、三竟、三帰依文、十善戒と続く。発菩提心真言、さんまや戒真言、開経偈と来て、昨晩の友人の通夜を思い出した。読経が、これから始まったのだ。般若心経の頃に、傍では、ガードマンたちがなにやら準備をしていて、落ち着かない。
それでも、何とか、スタートが切れた。寺務所に戻り、朱印帳と、案内書を買い求めた。

第26番 海賞山来福寺
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1番の参詣を終ってみると、既に11時になっていた。予定していた時間を少しオーバー気味だったので、歩いて次に向かう予定を変更して、京急で鮫洲へ。案内書を見ると、立会川と書いてあるのを、敢えて一つ手前の鮫洲で下りたのは、此処までは急行に抜かれずに行くのと、電車賃が30円安いのと、駅の前に公園があり、そこで、お昼のおにぎりを食べることが出来そうだったから。と、此処までは良かったのだが、食事時に外した入れ歯を入れた袋をどこでどうしたのか紛失してしまった。1年で二つ目。
消防署の先を裏手に入り、小さな道を辿っていくと、来福寺の標石塔が立っている。きれいに手入れされた参道を行くと、江戸時代のものという山門がある。境内は比較的ゆったりしていて、左側には桜の木がある。その下には、世の中は三日見ぬ間の桜かな、の句碑がある。
般若心経をあげて、右手の寺務所へ。ベルで案内を請う。街中のお寺なので、皆こういう風なんだと理解する。ここの本尊である地蔵菩薩は、一度行方知れずとなったが、頼朝が写経を埋めたという納経塚から読経の声がするのを、通りすがりの僧侶が聞きつけ、掘ったところ出て来たと言われ、「経読地蔵」と呼ばれるようになったとか。札所になったのは、明治以降のことである。
横に稲荷さんが祀ってあり、これが梶原稲荷かなと思い写真を撮ったが、違ったらしい。

第8番海岳山長遠寺
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次の馬込までは、大森を抜けて行かなければならない。記憶では、大森貝塚付近から、環七へは坂があったはずだと、覚悟をしての歩きだったが、思ったよりは厳しくなくて良かった。何より、人通りも多く、年配の人が歩いている。負けていられない。環七からはまた坂だった。
大きなお寺の満福寺の横を通り、バス通りの角が八幡神社。その隣のお寺が第8番海岳山長遠寺である。道の反対側からしか寺の標石は写真に撮れないが、その中に空き地(駐車場)があり、その先に山門がある。
平安後期の開創だと言われるだけに、古刹の趣がある。本堂前で、一通り読経して、寺務所に行くと、本堂が開いているので中でお参りして下さいと言われた。有難く、中でもう一度般若心経を唱え、寺務所に戻ると、朱印と茶菓の用意がしてあり、いい天気なので、御府内の方が何人か見えましたとおっしゃる。上品な女性が三人いらっしゃった。馬込名物のお菓子は孫への土産にと頂戴し、寺を辞した。

第84番 五大山明王院
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長遠寺からは、一旦、国道へ出て馬込の駅まで歩く。此処から、地下鉄で泉岳寺まで行った。凡その見当は付いているからと、適当な坂を上ると、伊皿子の交差点に出た。此処からが方角を取り違えてしまった。一度戻って、伊皿子坂を下り、そのまま国道へ出てしまえばいいのを、この辺の裏通りにあるのではないかと思ったのが間違いで、元の木阿弥で坂を幾つも上がったり下りたり。国道へ出ても、方向を取り違えるほど。やっと、国道を歩いて、幽霊坂は見つけたのに、急な坂を登るのが嫌で、通り過ぎ、結局は間違いを二三度してやっと目的地の第84番明王院へ。
地図の敷地は結構ありそうに見えたのだが、道路に面して小さな山門が立ち、奥行きもそれ程無かった。本堂の鐘が思いの外大きい音を立てたので、一寸どきまぎしつつ、般若心経を。喉の調子が悪く、やたら咳き込む。何とか終えて、朱印の案内を請う。年配の住職がいて、この方と三田寺町のこととか、元は八丁堀にあり、江戸時代初期に、区画整理で移転したこと、町の名前の変遷とか、別院のあるところは本来、府内ではないとか、ついでに飛鳥山の話などしてしまった。
表の手洗い石には、かつての町名が入っているとか、お話を聞いた。寺宝の鼠心経の話をねだってみれば良かった。

第65番 明王山大聖院
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国道に戻り、ビルの谷間を注意しながら歩くと、すぐに第65番明王山大聖院のプレートが見つかった。
本堂らしき雰囲気の格子があるのだが、中へは勿論入れない。どこで経を読んだものか分らぬまま、横手に回ってみると、ドアがあり、そこに朱印が置いてあった。やたらな訪問はお断りという姿勢が出ているようで、南無大師遍照金剛と唱えただけで、早々に退出した。

第69番 龍臥山宝生院
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大聖院と並んで、第69番龍臥山宝生院がある。
道路に面しては、築地塀があるが、その中はなんとも殺風景だ。右手に大きな石柱が立っていて、中には横綱(陣幕)の記念碑?もあった。右側の本堂も、そっけない感じがするものだが、火災予防で昔からこうだったのかなと思うような土蔵作り。
左にある庫裏には、立派な扁額が飾ってある。江戸時代初めの開創は、大聖院と同じである。
何回か呼び鈴を押してから現れた大黒さんは、いささかそっけなかった。

第80番 太元山長延寺
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宝生院から数十メートル進んで、右手奥に鉄柵があり、その奥のビルがどうやら次のお寺である。入っていくと、若い母子がいて、私の顔を見て、朱印ですかと尋ねてくるので、はいと返事すると、奥に向かってその旨を告げてくれた。広い玄関で朱印を受け取ってはみたものの、表へ出ても、どこに向かってお祈りするか考えてしまった。
一段下がった所が本堂の入り口のようだったが、ガレージのような所に向かって拝むのはどうもいけない。中でお参りさせてもらえば良かったと悔やんだ。
右手には墓所が並んでいて、名のある人のものもあるようだった。

第69番 龍臥山宝生院
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三田寺町を後にして、慶応の横を曲がり、春日神社を通り過ぎた所の左奥に第13番高野山龍生院がある。間口も奥行きも狭いお寺である。
寺の標石が立っている中庭に、学生のアパートのようなものまである。鐘を鳴らし、古いイメージの本堂に立つと、狭さは感じなかった。寺務所へ行ってインターフォンを鳴らすが、人の気配はあるのに、一向に出てこない。仕方なく、写真など撮って、暫くしてから、もう一度案内を乞うと、やっと年配の女性が現れた。猫の話など暫く雑談。その間に、若い参拝者がいたのには驚いた。賽銭を上げ、手を合わせて去って行った。
一日目は此処で終了。元の会社の前の田町駅へ。


<2日目>

第67番 智積院別院真福寺
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虎ノ門眼科の診察待ちの間に、近くの二つの寺院を訪ねることにした。
まずは西新橋の交差点を南に向かった。愛宕山の手前に大きなビルを構えているのが第67番総本山智積院東京別院真福寺である。
所謂智山派の東京別院ということで、立派な寺務所を構えている。入る時、一瞬、どこかの会社が入っているのではと思って、躊躇ったほど。本堂は2階にあり、中には入れないので、ガラス戸越しにお祈りをすることになる。今日一番なので、例により、しっかりとお経を読む。途中一人、若い人が来て手を合わせて行った。
17世紀始め、愛宕神社の創建と時を同じくして、愛宕下に出来た六つの寺の一つで、真福寺は下総から移転してきたのだそうだ。幕府からも手厚い保護を受けていたといい、江戸名所の一つであったらしい。

第20番身代山鏡照院
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真福寺のすぐ西側、新橋よりの所にこちらも装いはかなり小柄だが、ビル仕立てのお寺があり、第20番身代山鏡照院という。このお寺は、完全に周囲のビル群に埋没していて、入り口にお稲荷さんがなく、扉が開いていなければ、全く分らないと思う。開いた扉からすぐに祭壇になっているので、本堂には自由に入れた。とは言っても、背中は道路に出そうな感じなので、何となく、背後が気にはなるが、堂内で経をよむ。
ビルをグルッと回って、庫裏に通じているらしき呼び鈴を鳴らすが、全く反応なし。ついに諦めて、小さなお札を一つ拝受してきた。
此処も、愛宕下六院の一つであったらしい。常陸の身代不動尊が移転し、愛宕権現社の本地仏、将軍地蔵尊を祀ってきた。元々の20番金剛院から明治以降に移ったという。

第75番 智劔山威徳寺(赤坂不動尊)
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虎ノ門眼科の診療を受けてから、虎ノ門を出発、まずは赤坂見附方面へと向かう。一ツ木通りに赤坂不動尊の背の高い、朱塗りの山門が立っていた。そこから短い急坂を登ると、右手に本堂がある。さすが、東京でも一等地のお寺だけにこじんまりしているが、地元に密着した感があり、一寸立ち寄って、手を合わせていく人がいる。
智劔山威徳寺というのが正式名称だが、赤坂不動の方が通りはいいらしい。般若心経を上げていたら、中でもなにやら読経の声が聞こえてきた。さてと、思っていたら「伺いますが」と声を掛けてきた女性がいた。道でも尋ねられるかと、振り向いたら、此処の者ですが、と言ってくれたので朱印をお願いした。中では、護摩を焚いていたので、外からだが写真を撮ってみた。
此処の不動様は随分と古い言い伝えがある。そもそもは、最澄が中国からの帰途に暴風にあった時、自分で彫った不動像を海に投じたのが始まりと言う。その不動様が流れ流れて、こちらの本尊になったということ。

第81番 医王山光蔵院
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光蔵院へは、一ツ木通りを戻った方が良かったのだが、一度青山通りに出て、山脇の横を回り込む道から行った。しかし、結果的には失敗だったらしい。坂を何度も上り下りする羽目になった。細い路地の突き当たりにその寺はあった。しかし、どこから入ればいいのか、一見しもた屋風にしか見えない。案内を乞うと、家の通用口風の所へ周るように言われ、玄関から、招じ込まれた。本堂へ案内され、勝手にお参りしてもいいようだったので、座って、お勤めをした。ついでに本堂内の写真を撮らせてもらうことも出来た。
一寸入っただけで、随分静かなのですねと言うと、日曜日はもっと静かですよという答えだった。赤坂の住宅街ということなのだろう。朱印代として、300円の積りで、500円玉を出すと、もっと一桁少なくて結構ですと言われ、結局200円を置いてきた。
創建は江戸時代の初めだが、かなりの遍歴を経て、現在地に来たらしい。

第6番 五大山不動院
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予定の組み方を間違えていて、光蔵院から先、六本木方面に抜ける道を検討していなかった。しかし、ほぼ正しい道を歩いていたようだ。光蔵院から坂を下り、赤坂小学校の角を右に曲がると、乃木坂だった。その時は、何だ乃木坂へ来てしまった、と思ったが、ここで、外苑東通りへ出れば、後は真っ直ぐ六本木の交差点を抜けるだけだった。少し早めに左へ折れると、大きな墓地があった。その横に細い道があるのを見落として、暫くうろうろしたが、
すぐにその先にある立派なビル構えの寺院を発見した。
第6番五大山不動院である。
案内を乞うと、返事はあったが、随分待たされた。やがて、入り口が開き、恰幅のいい住職が現れ、どうぞと招じ入れてくれた。朱印を書いてもらう間に本堂で経をよんだ。何と言っても、本堂でお経を上げられるのは幸せである。
後で案内本を読むと、留守のことが多いと書いてあった。ラッキーである。
住職は小伝馬町の大安楽寺との兼務だそうだ。開創は不詳だが、家康以前とか。江戸時代には、目黄不動として親しまれたとの事だ。

第27番 瑠璃山正光院
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六本木からは、芋洗坂を下っていく積りが、一本東の道を進んでいた。学校が多く、文化的雰囲気がする通りを過ぎ、更に、何とか小道を辿り、狸坂を進むと、警官が多くなり、何事かと思ったら、中国大使館だった。その先は、最後に坂を登ってテレ朝通りへ出た。
第27番瑠璃山正光院。
入り口にちゃんと標石があり、石段を登ると本堂があるというのは、ホッとする。本堂前で般若心経。下に下りた所にある寺務所で、年配の住職に朱印を頂く。
黒田家の祈願寺として17世紀始めに創建された。有名な黒田騒動の時、藩の安泰を願って祈祷した所、瑠璃光薬師の効験で無事に収まった。その薬師が本尊である。札所となったのは明治以降のことである。

第5番 金剛山延命院
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正光院前のテレ朝通りを左へ進み、愛育病院の角を左折した。仙台坂上から楽園坂を下り、明治通りに出た。賽銭が底をつき、仕方なく反対側のコンビニへ入り、四之橋のベンチで小休止。明治通りの絶江坂を登る。絶江とは曹渓寺(寺坂吉右衛門の墓所)の和尚の名前。左側に小さな入り口のある敷地があった。正面には本堂らしき建物。
第5番金剛山延命院。
気分は悪いが、その前で読経する。よく見ると、横の棚に朱印が収められていて、新しい紙と交換するように書いてある。ついでに御丁寧に、皆さん300円入れているようですので賽銭箱へ、と書いてあった。なんか侘しい気分になった。
江戸時代から御府内の札所であったが、明治に入ってから寺運が衰えた時に、深川不動尊の阿闍梨が再興したとのこと。坂のアップダウンで疲れ、四の橋からバスで渋谷経由、帰宅。


<3日目>

第68番 大栄山永代寺
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地下鉄で門前仲町へ。不動さんは知っているが、その参道にお寺なんかあったかなぁと半信半疑。しかし、ちゃんと参道右側にありました。第68番大栄山永代寺です。
地元の方らしい女性が参拝していた。お参りの順序がちゃんと書いてあったので、それに従って念仏を。懺悔文、開経偈、般若心経の順。終ってから朱印は本堂の中だったので、そこで住職に書いてもらう。「こちらは、元々は広い寺領を持っていたとか」と話を向けてみた。江戸時代は富岡八幡宮の別当院として建立され、広大な土地と、塔頭を擁した大寺院であり、門前とは、永代寺の門前と言う意味だったのだそうだ。それが、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺となり、再興は塔頭の吉祥院が引き継いだのだ。
深川不動尊は永代寺で成田山の不動明王を開帳したことに始まるという。今では、深川不動堂の方が有名なのは、歴史なのかな。

第74番 賢臺山法乗院
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永代寺から、真っ直ぐに清澄通りへ出て、交差点を渡るとすぐに、深川閻魔堂、第74番賢臺山法乗院である。
境内に緑の木は少なく、代わりに緑の絨毯。三方から建物に囲まれている。正面階段を上がって、まずは本堂に参拝。左手の小部屋のガラスケース内に諸仏像が安置されている。少し下がった左手が閻魔堂。さすがに迫力のある閻魔様ではあるが、近代的なお方だ。ガラスの窓を開けて、お賽銭を上げると、説法が聞こえてくる。お賽銭口は幾つもの願い事に分かれているので、ひょっとしたら、入れる所によって違うことを言うのかも知れない。境内には、幾つかの建立物がある。寺務所は1階にあるので入ってみると、正面に仏が輝いていた。右手には、簡易墓地のような設えがある。
朱印は、住職がいないという理由で、印刷をしてあるものを頂いた。

第37番 瑠璃光山萬徳院
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深川1丁目の交差点を渡り、暫く行った裏通りに、第37番瑠璃光山萬徳院がある。
ここいら辺は、小さな商店とか、問屋風の家が多く、此処も、それ程大きくない敷地の中に立っていた。本堂は横から上がった2階にあるが、手前の幅が狭く、真正面から立つと一杯一杯の感じがするほどだった。下に下りて、裏手の墓地を一寸覗いてみた。それと言うのも、元は相撲寺と呼ばれ、力士や行司の墓があると案内書に書かれていたからだ。
ここが札所になったのは、明治以降のことだが、創建は古く、江戸時代の初期には、既にこの場所にあったと言う。江戸時代、富岡八幡で勧進相撲が催され、この辺りに相撲部屋があったことによるようだ。しかし、一寸見には、判別が難しそうなのと、誰かお参りしているようだったので、退散した。境内には、戦災の供養塔がちぢこまったように建っていたが、この辺のお寺には、どこも同様の供養塔が建てられ、3月10日の空襲の悲惨さが偲ばれる。

第23番 川崎大師別院薬研掘不動院
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萬徳院から薬研堀不動へは、一度、川向こうへ渡る必要があり、適当に歩いて、まずは隅田川に出ることにした。新大橋かと思ったら、清洲橋を渡っていた。ここからは、隅田川テラスに出て川岸を歩く。この日は風も空気も冷たく、手の甲は、がさがさになってきた。新大橋を越えたところで、浜町公園を横切り、北へ向かう。突然のように、不動院の赤い幟があちらこちらに立っているのが見えた。
ここは、第23番川崎大師別院薬研掘不動院である。
間口が狭いし、階段の両側に、赤い幟が立っているので、すごく目立つ2階が本堂になっている。更に、その上に8角形の宝塔を頂いている。江戸時代は、江戸の三大不動として信仰を集めた。本堂前は少し狭いし、他の人がお参りに来るので、避けながら、早目の読経。朱印は、左側の戸を開けて、中で頂く。丁度お昼時で、住職は食事中だったのだが、快く応じていただいた。町で見かけたのは、赤い幟だけではなく、明日の節分会の予告や、毎月行われる奉納講談の知らせで、街中に生き付いているということが良く分った。

第50番 高野山大徳院
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両国橋の上は寒かった。渡り終えて右へ曲がり、回向院方向に向かう。回向院は工事中だったが、
第50番高野山大徳院も工事中だった。
現場事務所のような建物の扉を開けると、部屋の中も仏具などが散乱していて、ひどい状態。これでは、お経も上げられないかなと思っていたら、住職が出てきて、どうぞと言って招じ上げてくれた。2階が仮本堂で、簡単に仏壇が作られていた。
本所一つ目の薬師さん、として信仰されてきたそうである。そもそもは家康が高野山に祈願寺として建立したお寺で、家康は薬師如来への信仰が厚く、東照大権現と言う、東照とは、薬師如来のことを意味するのだそうだ。従って、此処のことを昔は本町東照宮と言ったらしい。家康が生まれた時、十二神将のうち、寅がいなくなったので、寅の生まれ変わりだと言われたのだというような話を住職が聞かしてくれた。戦災では、全ての堂宇を焼失したが、本尊などは難を逃れたとか。

第46番 萬徳山弥勒寺
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まずは、竪川を渡り、再び東に進み清澄通りを渡る。
第46番萬徳山弥勒寺は江戸時代には高い寺格を持っていたらしい。
小さいながらも、厳とした気品を感じる寺である。本堂の扉が、あまりにきちんと閉まっているので、前に立って読経をしずらい。
水戸光圀の迫害により、寺院が迫害された折、薬師如来が川に流されたが、川上に遡っていったという本尊の伝承から、川上薬師とも呼ばれたらしい。本尊が薬師如来であることと関係があるのかは分らないが、杉山検校の墓がある。この人は綱吉の鍼医となった人である。それだけではなく、弟子の養成にも努めたというからえらい人なのだ。此処にも、当然のように戦災で殺された人の墓が祀られている。

第73番 法号山東覚寺
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両国に戻って、電車で亀戸に向かおうかとも思ったが、ままよ、4KM程しかないのだからと、歩き出す。良い天気ではあるが、街中だし、大通りは車が多い。この辺りは、戦災で焼けたために、きちんと区画整理が出来ているので、何しろ東に向かって真っ直ぐ歩いていけばいい。亀戸に近づいたら、信号の様子を見ながら少しずつ北へ上がる。亀戸駅の西側でガードをくぐり、明治通りを北に、蔵前通りを渡って3つ目の角を曲がると、
第73番法号山東覚寺がある。
堂々とした風格のあるお寺だ。元は、明王山と言い、奈良時代の良弁作の不動明王を本尊としていたが、明治になってから、寺の合併により、大日如来を本尊とするようになった。本尊は代わったが、江戸時代は盗難除け不動として、現在は亀戸不動と呼ばれている。右側には、亀戸七福神の弁天様を祀った祠があり、朱印を頂く時も、御府内のと言った。

第40番 福聚山普門院
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明治通りの香取神社の脇を通り、突き当りを左に行った所にあるのが、
第40番福聚山普門院である。
門前に伊藤左千夫の墓という標石がある。山門を入ると、都会にしては鬱蒼という感じで木が植えてあるが、手入れはあまりいいとは言えない。数段上がった本堂の前にも、風が運んできた枯葉が散乱していた。読経をしている間も、何となく気になる光景だった。境内には、色々な石造品があるが、中には、字が読めないものがあり、伊藤左千夫の有名な歌碑もある。
戦国時代に浅草で創建され、17世紀に入ってから現在地に移ったらしい。寺務所も、今時珍しく、手入れのされていない感じだった。もう少し早い時間であれば、御茶ノ水界隈のお寺も回りたかったが、亀戸駅で3時を回ったので、今日、3日目は此処までとした。


<4日目>

第77番 高嶋山仏乗院
       
次の目的地が大山だったので、早朝の電車に乗り、小田急秦野駅に着いたのが8時過ぎ。ヤビツ峠行きのバスは、登山客で一杯。座れないまま、20分一寸かかって蓑毛停留所。ここで何人かが一緒に下車したが、彼らは、ここから、ヤビツ峠か大山方面を目指すのだろう。停留所から道の反対側の坂を金目川に沿って上る。
結構な登りだなぁと思う間もなく、目的地に着いた。
目印は、蓑庵という料理屋さん。その右手から、本堂が見えている。木の段を数段のぼり、本堂前で参拝した。隣にある家で朱印を貰おうとベルを鳴らしたが、やたら、犬に吠えられるだけで、出てきてくれない。こんな所まで、もう一度来るのは困ったなぁと思っていた頃に、やっと、人影だ見えて、戸を開けてくれた。寺務所は、蓑庵の方にあるらしかった。それから、本堂も開けてくれたので、もう一度、般若心経のやり直し。ご本尊千手観音は厨子の中でした。そもそも、このお寺の開創は不詳だが、八丁堀、三田、そしてこちらという経緯を辿っているらしい。山奥の小さなお寺になってしまったが、それだけ苦労されていると言うことのようだ。
金目川の渓流の音を聞きながら、念仏を唱えるのも、なかなか良いものだった。
バスで、秦野まで戻り、急いで伊勢原へ。そこで仲間と落ち合い、大山詣で。日本人は都合よく、仏教も神道も一緒にお参りが出来て良かった。だべりながらの湯豆腐の上手かったこと。

<5日目>
第4番 永峯山高福院
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病院に行く前に、先日巡り切れなかった二つのお寺に行くことにした。10時半頃に目黒駅下車。目黒通りを権の助坂とは反対方向の東の方へ1分程進んだ所に、誕生八幡神社という変わった名前の小さな神社がある。この神社は太田道灌が夫人の安産を祈願して作ったという。その脇に、小路があり、入り口には寺の標石が立っている。
第4番永峯山高福院と言う。
江戸時代には、高福院が八幡神社の別当院を勤めていたようだ。お参りしてから、朱印を貰いに事務所に行くと、あまりに若い坊主が出てきたので、色々聞いてみたかったことも忘れてしまった。朱印の文字も、サインペンで書いたかと思うような字だった。
本堂は、江戸時代の建立で、天井絵は林功のもの。墓地には、長谷川伸の墓もあると言う。

第7番 源秀山室泉寺
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第4番札所を出て、目黒からJRの線路沿いの道を恵比寿に向かう。この辺りも、細かい坂の多い所である。恵比寿駅を過ぎてすぐの信号を右に曲がると、庚申橋がある。200年以上前の供養塔が立っているが、そんなものには目も呉れずに、昼食へ急ぐサラリーマンたちの波があった。明治通りの信号を渡ると正面に、山門が見える。道の途中に、標石が立っているが、この写真を撮ろうとすると、民家の洗濯物が沢山入ってしまうのが、かえって傑作だった。街の真ん中にありながら、きちんとした諸堂を備えているこの寺は、
第7番源秀山室泉寺という。
現在の建物は50年近く前のものだが、しっかりした造りで印象的にはちゃらちゃらしていないし、本堂と横手にある歓喜天堂などがいいコントラストになっている。撮影的には、色々なアングルから撮りたくなるので、何枚も撮ってみたが、どれも中途半端であった。
綱吉のお声がかりで元禄時代に創建された寺院である。中興の堅雄の時代には、現在のような体裁も整っていたと言われ、歓喜天像は堅雄作である。

<6日目>
第25番 六所山長楽寺

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巡拝6日目に入りました。(と言っても、一日、1か寺、2か寺の時もありましたが)多摩動物公園という所へは、行きにくいという感覚があったので、これまで足を運んだことが無かった。今回、改めて、行き方を調べてみると、京王線で高幡不動から多摩動物公園線というのがあって、すぐ行けることが分かった。そんなことで、初めて、多摩動物公園の駅に降り立って、道路を横断すると、公園に隣接して、すぐ右手に第25番長楽寺の標石が建っていた。
車止めには、檀家寺なので、一般の人は入ってはいけないと書いてある。そんなこと言ってたら、お寺参りが出来ないではないかと、舗装された坂を登ると、右手に、古い墓石が並んで迎えてくれた。右手の入り口から入ると、右側には大師像などが並び、左側は庫裏になっていた。その先は完全に閉まっているので、まずは庫裏で案内を請う。朱印を貰い、どこでお参りが出来るか聞くと、前の大師像に拝んでくれと言われた。お大師様をお参りする旅には違いないが、本堂の形も見せてくれないと言うのは、なんとも寂しい限り。何か、考え方が違うのではないのかなぁと思ってしまう。
戦災にあって、昭和30年代にここに引っ越してきたお寺である。かつては、新宿角筈にあったという。17世紀始め秀忠の命によって開創され、御膳所となった。

第3番 金剛山多聞院
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京王線を新宿の方へ戻り、千歳烏山で下車。商店街を抜けて中央高速の下をくぐると、すぐに右側に第3番多聞院がある。
この辺も寺町になっていて、沢山のお寺が集まっている。その中では、一番手前の方にあった。境内には、新しい寺にしては立派な木が植わっていて、新しいと言っても、50年かという感がある。ここも、正面本堂は閉まっていて、外からのお参りである。右手の庫裏で朱印を貰い、右側に並んだ涅槃像をお参りする。壷坂寺から寄贈された石で作ったそうだ。壷坂寺の大きな涅槃像を思い出した。
創建は寛永年間、四谷新町で長く歴史を刻んできたが、戦後、新宿駅周辺の区画整理に伴って移転した寺院の一つとなった。

第76番 蓮華山金剛院
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新宿近辺はひとまず飛ばして、西武池袋線沿線に向かう。椎名町下車。いつも通り過ぎてしまって、初めて降りる駅である。踏切を渡ると、すぐに長崎不動の赤い幟が見えてくる。
第76番金剛院。
間口は狭いので、ちまちました感じかなと思ったが、右側の少し奥まった所に山門があり、その先には本堂まで見通せた。本堂手前に木の柵があり、これ以上は進めない。江戸時代から、この地にあるということで、色々な石造物が残っている。参道左には、大師堂もあり、正面を向いては、しだれ梅がきれいだった。池袋に近く、住宅街に、こんな寺が残っていることに驚いた。

第17番 東高野山長命寺
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西武沿線での順番からすると、次は練馬下車なのだが、時間の都合もあり、練馬高野台まで行った。環8に面して、順天堂病院があり、その先を左に折れると、
すぐに第17番長命寺の立派な総門が見える。
右脇には、少し小柄な仁王門が立ち、こちらは17世紀の建造物である。門からは、広い参道が続き、右にある鐘楼を取り囲むように、何体もの仏たちが立っている。本堂でお参りした後、左手に進むと、奥の院になり、そちらはそちらで、別の参道があり、灯篭が立ち並んで厳かな雰囲気を作っている。御影堂にも、お参りした後、本堂裏に立ち並ぶ諸像を拝む。何度も火災にあっているので、木造物は新しいが、石仏や標石は江戸時代のものが残っている。ここは、高野山を模して作られたので、東高野山と呼ばれる。高野山のどこに似ているのかは、一見して判然としない。
開山は、北条早雲の曽孫だそうで、古いし、由緒あるお寺だ。当時の面影は、奥の院に残っていると言われていることはよく分かる。帰りは、東門から出てみた。この門は、環8に面している。

70番 照光山禅定院
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長明寺の東門を出て、環8を南に進み、石神井川を渡った所で、右に折れる。川沿いの道を西に向かう。この川の両岸には、桜が多く、春はきれいである。石神井から来る道を荻窪方面に曲がると、禅定院前バス停があり、
やがて第70番禅定院に着く。
コンクリートの立派は山門があり、見越しの松、六地蔵などが迎えてくれるが、どうも、この門は開かずの門らしい。左の方に、参詣者入り口という所があり、そこから境内に入る。天保年間建立という、鐘楼周辺は改造中で、右側の墓所の入り口まで立ち寄ってみた。区の文化財、織部灯篭とかの石造物もあり、年代を示す古いものがある。南北朝時代の板碑が出土するので、その頃の開山と考えられている。面白いのは、明治7年にこのお寺に豊島小学校が出来たことを記念して、「なかよしわらべの碑」が立っている。

第16番 亀頂山三宝寺
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禅定院を出て、道なりに石神井図書館の方に進む。隣には、立派なお寺の道場寺がある。こちらは武蔵野33観音に列している。
更に隣には、第16番三宝寺である。
これまで参った諸寺の中で、これほど立派なお寺は始めてである。山門を入ると、深閑とした境内が迎えてくれる。右に鐘楼、左に大黒天堂。本堂は、二度の火災で焼失し、50年ほど前に建立されたものである。それにしても、堂々たる風格がある。左手に周ると、奥の院があり、大師堂に参拝。途中、四国88箇所お砂踏みも作られていた。元々、大師堂のあった場所に、根本大塔が立ち、その先には、大きな平和観音像が立っている。朱印を貰ってから、御成門(山門)の右手にある、屋敷門(勝海舟の屋敷から移設)から出た。鷹狩に来た家光が休んだということから、御成門と称され、その頃には門は閉ざされていたらしい。
創建、14世紀末の古刹である。

<7日目>
第21番 宝珠山東福院

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巡拝7日目。祭日である。
普通なら出掛けないのだが、夕方に会合があるので、それに合わせて、新宿の近くを歩こうと思った。まず電車で四谷へ。新宿通りを四谷2丁目まで行き、左折、東福院坂というらしい。
坂の途中、右側にある第12番東福院を見過ごして通り過ぎた。
暫く行き過ぎて、すぐ気付いた。入り口には小さな門標があり、少し登った所にお寺の玄関がある。まずは、中で朱印を頂き、お参りはどこで?と尋ねると、前の大師像で、と言うことだった。参道の右側に露座の大師像が立っている。隣の家の壁に向かって拝んでいるようで、心地好くない。最初から、何となくついていない感じ。
17世紀始めに創建されたが、すぐにこの辺りの寺町に移転させられたらしい。現在は名前も出てこないようだが、江戸時代は、豆腐地蔵の名で知られていた。

第18番 独鈷山愛染院
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東福院の斜め向かいに、入り口はゆったりとした第18番愛染院がある。
駐車場を横切り、、門から入ると、境内も都心の寺にしては広い。左手に本堂があり、本堂に向かって右側は墓地である。ここならゆっくりと朝のお勤めが出来ると、読経した。
並びにある庫裏で朱印を貰おうと思い、ふと、目をやると、柱に、朱印と言うのは、本来納経をした者に対して授けるのであるから、当院では、唯、朱印が欲しいという人には、出さない。どうしても欲しい人は、自分で、下に置いてある判を押しなさい、と書いてあった。これを言うなら、納経はお断りと言う寺はどうなっているのか、と聞きたい。多くの寺で、納経をさせないのだし、今時、納経しないなら朱印はやらないと言うのは、いくらなんでも、変だ。と、ここで文句を言っても始まらないので、諦めて自分で押したが、味気ないし、朱肉が乾いていて上手く押せない。
開創は、天正年間(16世紀後半)で、東福院と同じ頃に移転した。内藤新宿を作った高松喜六や塙保己一の墓がある。

第39番 金鶏山真成院
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東福寺坂を下り切った所を左折。観音寺坂を少し登ると、
左側に、これはすぐそれと分かる第39番真成院がある。
薬師如来の幟が立ち、マンション風の建物の上の階には、潮干観音の幟が何本もひらめいていた。暫時ためらった後で、階段を登ってみた。屋上には、お堂があり、重い扉が閉まっていた。この前でお参りするのか、どうしようかと考えていると、タイミングよく、中から女性が出てきたので、中でお参り出来るか尋ねてみた。出来る、ということだった。きちんとした仏壇が設えてあり、この日初めて、きちんとした中でのお参りとなった。終って、階段を下り、庫裏を探して、反対の方に行ってみると、立派なガラス戸があって、中には、テーブルが置いてあり、住職が座っていた。朱印をお願いすると、宜しかったら、上に観音堂があるので、そちらでもお参り下さい、と親切に言ってくれた。四谷霊廟と書いてあり、それなりの檀家も抱えているようだった。客殿もちゃんとあるらしく、奥も広そうに見えた。
坂の名前も、この観音様に由来しているそうだし、観音の霊験があらたかで、癌の駆け込み寺として知られているという。

第83番 放光山蓮乗院
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真成院の上隣には蓮乗院がある。
祭日なのでか、鉄の門扉も開いていた。敷地も境内も狭く、小ぶりな本堂はしっかりしているだけ、近寄りがたい感じであった。
この寺院も、16世紀後半に建てられたが、ほかの寺院と一緒に、麹町から、この寺町に移転させられたようだ。
朱印をお願いすると、奥さんが、もうこの辺は済んだんですかと聞かれ、はい、と答えると、重ねて、何か理由があって始めたんですか?と突然の質問に、いえ、特にと答えたが、友人「N」の死にかなり触発されたことは否めないな、と後で思った。44番はまだと言ったら、分りますか?と教えてくれそうだった。こちらの方向ですよと、指し示されたので、礼を言って辞した。

第44番 金剛山顕性院
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蓮乗院から、一度東福寺坂下に戻り、左手の坂を上る。右手に須賀神社がある。一度外苑通りへ出てから左門町を入らないと分らないかな、と思っていたら、
大通りに出る前に、左手に第44番顕性寺があった。
門標から境内に入ると、右側は客殿?正面二階が本堂、1階は庫裏のようであることがすぐ見て取れた。右手の階段から上がって、本堂前で読経。下で朱印を頂いてから、表に出て、本堂を写真に。逆光で撮りにくかった。
このお寺は珍しいお寺である。なんとなれば、府中から外へ移転する寺院の多い中で、17世紀初頭、牛込門外に創建されたのが、その後、四谷に移ってきたのだ。本堂には、俎板大師と呼ばれる寺宝があるそうである。
寺の前の道を少し行くと、四谷怪談のお岩さんの社とお寺があると言うので、一寸立ち寄ってみた。

第10番 観谷山聖輪寺
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顕性寺出ると、すぐに外苑東通り、信濃町の駅から、外苑の中に入る。自転車用に開放しているらしく、子供たちが自転車で遊んでいた。何十年振りかで、絵画館前に出た。梅の花がきれいである。
青年館の横を抜けて、外苑西通りを渡ると、すぐに第10番聖輪寺が右側にある。
このお寺もコンクリート作りだが、1階でお参りが出来るようになっているので、違和感はない。
江戸時代は千駄ヶ谷観音堂の別当寺だったと言う、由緒あるお寺である。歴史的には、浅草寺と並ぶくらいの古刹。外観が、こんなになったのも、時代のなせる業か。

第9番 古碧山龍厳寺
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外苑西通りを青山方面に進み、古ぼけたアパートという感じの霞ヶ丘団地を過ぎた所を左折、すぐに右に曲がると、お化けの出そうなお寺がある。
第9番龍厳寺といい、八幡太郎義家の腰掛石が残っているとか。
何故か、真言宗ではなく、臨済宗の寺院である。山門があり、右にくぐり戸がついているので、開けて入った。中は、昔の墓地といった様相を呈していた。古い木造の建物が二つ三つ並んでおり、右手に本堂があったので、そちらでお参り。大師堂があると案内書には書いてあるが、果たして、どれか?庫裏も一体どれなのか、分らないので、ひとまず写真を撮っていると、どちら様ですか?と咎めるような声を掛けられた。御府内回っていますが、御朱印はどこで?と聞くと、書きますから出して下さい。ここは写真は遠慮してもらってますので。あまりに手入れが行き届かないので、写真に撮られたくないのかな、と判断した。お墓もそれなりにあるし、檀家の人も尋ねてくるだろうに、朱印を待っている間に、門の方で声がするので、何かと思ったら、木戸が閉まっていて、入れないと老女が言っているので、飛んでいって、開けてあげた。単にそっけないと言うよりも、人を入れたくないという雰囲気を感じて、それなら、札所を返上してもらったらいいのにと思った。
今日、三つ目の変なお寺であった。
当初、浄性寺というのが札所だったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。その時に札所が龍厳寺に移ったという。禅宗なのに、大師堂が建っている理由は、弘法大師がこの地で堂宇を建立したのが始まりという由来があり、禅宗に変わったのは17世紀に入ってからのことだと言われている。

第22番 天谷山南蔵院
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予定では、龍巌寺で終わりだったが、時間があったので、神楽坂の方に回ることにした。飯田橋から神楽坂を登り、大江戸線の牛込神楽坂駅の先に、
第22番南蔵院がある。
と書くと簡単だが、てっきり裏通りにあると思い込み、かなり先まで一回りしてしまった。何のことはない、大久保通りに面していて、前に立てば、すぐに分かる場所だった。お墓参りの人が来ていた。門の右にあるのは、桜の木だが、もう花が咲いていた。梅と見違えたかと、しげしげと見てしまった。正面に本堂があり、見事な構えである。右側に歓喜聖天堂。間にある大きな木の下に、古い小さな石像があり、花が飾ってあった。街中のお寺でも、こんな小さな心遣いが、穏やかな感じをもたらしてくれる。
17世紀初頭から早稲田にあったお寺が、17世紀後半になって、ここに移転してきたと言われている。

第31番 照林山多聞院
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大久保通りを、新宿方面に一駅歩き、柳町交差点で外苑東通りを右へ。病院を通り過ぎると、二つ並んでお寺があり、二つ目の方が第31番多聞院である。
大通りに面した所で、門標を撮影していたら、クラクションを鳴らされた。車が参道を入っていった。参道を少し登ると、右側に沢山の石碑が建っている。正面が墓地で、左手に本堂がある。
天正年間に建てられ、50年ほどの間に2度の移転をして現在地に移ってきた寺院で、当初からの札所であるが、近くの札所は廃寺になってしまったところが多い。
この本堂も立派であるが、隣り合った庫裏は、近代建築。明るい玄関で朱印を貰い、そそくさと出ようとしたら、どうぞゆっくり支度して下さい、と言われた。霊園には、松井須磨子の墓があるそうだ。

<8日目>
第72番 阿遮山不動院
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いよいよ8日目に入る。
上野と谷中の寺院を廻る予定で、数は沢山こなせるだろうと、まずは上野駅で下車して、浅草通りを浅草方向に向かう。田原町の交差点の一つ手前を右に折れて、二つ目の十字路を右に曲がると白壁の小ぶりなお寺がある。
今日の最初の札所、第72番不動院である。
正面に本堂があるが、しっかり閉まっているので、まずは、庫裏に伺った。本堂を開けてもらい、堂内で座っての読経。やはり、朝一番であるし、気持ちがいい。
朱印を頂いてから、若い大黒さんに質問してみた。一つは、何故、南側に偏って札所があるのか。もう一つは、一番札所は府内にないのでは?札所のことは、昔から本願寺があって、その門前から寺が並んでいたとのこと、真言宗は、そこに偏ってあるということで納得。もう一つは、分らないので、最後の成就院に義父がいるので、聞いて下さいと言われた。ここで、この一帯の札所の地図を頂いた、入り口など書いてあり、分りやすかった。護摩焚きをしたしるしの災難除けも頂いた。感じの好い方で、気持ちよく辞した。
門の左に、石がぼろぼろになった宝筺印塔がある。戦災の生き残りかと推察した。開創は不詳とのことだが、江戸時代の初めから、ここにあったようだ。本尊の不動明王は、奈良時代の良弁作と伝わる。

第62番 鶴亭山威光院
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不動院でもらった地図に従って、東に向かい、二筋目を右に行くとすぐに第62番威光院である。
石の山門を入ると、本堂前には、車が止まっていて、なんとも不細工な写真しか撮れない。こちらでも、庫裏に先に寄ってみたら、本堂を案内された。二つ目も、大変当たりがいい。自然と読経にも熱が入る。ここも、不動院と同じような配置と言うか、狭い境内に幾つかの石造物が置かれている。その中では、三界萬霊という供養塔が大きい。新しい六地蔵もあった。
創建は15世紀というから古い。太田道灌の家臣が開基で、江戸城内に建立したと伝わっている。

第43番 神勝山成就院
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威光院からは、一度、浅草通りに出て二つ目の角を曲がる。道の反対側から、ここかなと思って様子を伺っていると、車を降りた人が、巡拝ですかと聞くので、そうですと答えて、門の所に行ったが、案内を請うベルもなく、戸惑っていると、先ほどの人が、開いているから大きい門から入っていいですと言われた。確かに、大きな方が開いた。
ここは、浅草の成就院と言うらしく、最後の上野の成就院と区別している。
朱塗りのシンメトリックな本堂が珍しい。ここでも、本堂を開けてくれたので、堂内の読経。朱印を呉れた女性に、先ほどの男性のことを尋ねると、前の住職の縁者だと言われた。
江戸時代、百体の観音像があり、百観音と呼ばれていた。現在は、一つだけ観音像が立っていて、由来が書いてある。本堂左前に、成就院の標石が立つのが、不思議な感じ。成立は17世紀始めで、50年後に現在地に移転した。

第61番 望月山正福院
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次は、一本西側の対称的な場所にある。
第61番正福院である。
右手にある庫裏を尋ねると、本堂を開けて頂いた。読経をして戻ると、女性の客が二人いて、余分な話は出来ずに辞した。参道左側には、椿が咲いて、白衣観音像が立つ。小さいながら、真っ直ぐに伸びた参道、引き締まった感じの造りをしたお寺と拝見した。
このお寺も、他と同じような経緯をたどって、17世紀中ごろ、この寺町に建立されたようである。

第51番 玉龍山延命院
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正福院と同じ通りを南に二筋、右手に延命院がある。
山門左には弘法大師の石標がある。参道の正面には客殿、その左側の本堂がある。本堂の柱に繋がれた犬が猛然と吠えるが、話しかけながら近づくと、おとなしくなった。参拝客は分かっているようだ。犬にも聞こえるように、読経する。どんな反応をするかと思ったが、すっかりリラックスして、寝そべってしまった。今日始めて、堂前での読経となった。本堂左手に、不揃いの数体の地蔵尊。延命地蔵である。参道左側にも、幾つかの石造物があった。
室町時代に(15世紀半ば)延寿院として創建。江戸時代になって、延命院となり、明暦の大火で現在地に移転した。本堂の弁財天は、弁天島の弁財天の兄弟らしい。(生みの親は弘法大師)

82番 青林山龍福院
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元の道を南下して、右に曲がる。
第82番龍福院前には、小林清親の墓という掲示が出ている。
門から入って行くと、本堂の前で、女性が野菜を片付けていて、小さな女の子が「誰か来たよ」と叫んでいた。女性に来訪の趣と朱印を頼み、本堂前で、勤行。途中から、後で聞かれているので、大声を出しにくかった。そんな雰囲気なので、写真を撮りにくく、困っていた時に、別の女性の来訪があり、急いで、碑文などの写真を撮った。女の子とは、持っている葉っぱは、食べないの?などと話をして別れた。小林清親の墓は行かなかったが、彼は、江戸末期生まれの浮世絵師で、昭和までの下町の変遷を描いた。
創建は不祥だが、17世紀中ごろにこの寺町に移転してきたといわれている。

第45番 広幡山観蔵院
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龍福院から、一筋北に戻り、第45番観蔵院に。
コンクリート作りの門扉と本堂で、まずは、庫裏に立ち寄った。若いひげの住職が現れ、横の通路から本堂へ行くように言ってくれた。本堂は2階にある。広々とした本堂で、お勤め。朱印を貰いに庫裏に戻って、少し雑談。三田の方に、住職がいないお寺があったでしょう、と向こうから切り出してきたので、新橋のお寺がそうでした、と答え、ついでに、龍巌寺の話を持ち出して、酷かったと言ってみた。その気がないのなら、札所を返上するということは出来ないのでしょうか、とも聞いてみた。やりたいお寺もあるのでしょうけれど、と言っていた。彼も、修行のためということで、御府内を回ったことがあるのだそうだ。次の吉祥院の入り方について、詳しく説明してくれ、皆さんに差し上げています、と言って、札所巡拝勤行式という小さな本を呉れた。
17世紀初頭の創建で、他寺院同様、中期の寺町形成時にこの地にやってきた。

第60番 摩尼山吉祥院
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さて、その吉祥院、観蔵院で教わった通り、東へ出て、右折して真っ直ぐ行くと、広い方の道に面している。
確かに立派な鉄の門が閉まっていたが、案ずることなく、小さなくぐり戸が開いた。本堂前で読経してから、朱印を頂く。参道の周囲には、植え込みがきれいに手入れされており、その間に石造物が点在している。その中でひときわ大きな碑文は、山岡鉄舟が書いたものである。一本、大きなイチョウの木があった。街中の寺としては、庭が一番美しかった。
創建は明らかでないそうだが、この地に移転するに至った経緯は、ほかの寺院と同じ事のようである。

第78番 摩尼山成就院
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上野地区最後の寺は、成就院(上野)である。
吉祥院から西に歩き、清洲通りに出た辺りに昔の雰囲気を残して建っている。参道を進むと、左手にある庫裏に人がいたので、案内を請う。朱印をお願いしてから、本堂の前で読経をした。戻ると、正しく大黒といった雰囲気の年配の女性が、もう大分お参りですかと尋ねるので、今朝方、不動院でお嬢さんに色々お尋ねしましたら、こちらのご住職なら知っているかもと言われました。と言ってみた。次男の嫁ですから、分からないでしょうと言いつつ、何のことですかと言うので、一番札所が府内にないのではないかという話を持ち出した。あそこも古いのですけどと住職が答えてくれた。成る程、よく勉強されてますねと、言われたが、多少受け売りの所があり、それ程嬉しがれもせず、例の、気分の悪い札所の話をしてみた。江戸時代からのものですから、簡単には変えられないでしょうが、ということだった。四国巡礼の話や、100観音のことなど、話して、今回も、友人が亡くなったので、急遽始めたということを話すうちに、涙が出そうになり、慌てて失礼をした。巡拝記念としてガーゼのハンカチを頂戴した。
慶長16年の創建。他の寺院と同じ時期に移転してきた。当時は、田んぼに囲まれていたため、田中成就院と呼ばれた、と案内書に書かれている。戦災を受けなかったため、木造の立派な本堂、大師堂である。

第53番 本覚山自性院愛染寺
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午後から谷中を巡る前に、上野公園で座り込んで、おにぎりの昼食。国立博物館の前から、芸大の前を通り、上野桜木の交差点に出る。何やら、谷中巡りの一行なのか、大勢の女性に行く手を阻まれ、谷中6丁目の交差点を曲がる所で、ホッとした。
ここを右に行くと、突き当りが第53番愛染寺である。
山門と塀の上から、堂々とした本堂が見える。山門の標示でも、本覚山、自性院愛染寺と書かれ、本堂の左手には、宝筺印塔や碑が並んで立っている。堂前の桂の木は、川口松太郎作の愛染かつらのモデルの木である。愛染寺と呼ばれる由縁は、愛染堂があり、その信仰から始まったもので、未だに続いているらしい。
慶長の頃の創建。17世紀中ごろ、現在地に移転。

第55番 瑠璃光山長久院
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愛染寺を出て北に向かうと、右側に立派な塀を廻らした第55番長久院がある。
石造の閻魔像があるという掲示板があった。本堂の横には、高い石柱が立っているし、古い石造物は、あちらこちら、墓地の中にもあるということで、とても、仔細に見ていられなかった。右手の大師堂は、土蔵作りである。門が開いていたので、くぐり戸に開いていると言う、戊辰戦争の弾跡は確認するのを忘れてしまった。この辺から、先を急ぎすぎた感がある。
この寺も、慶長16年に創建され、40年ほど経ってから、この地へ移転してきた。江戸時代、閻魔参りというのが、盛んに行われた時期があった。1月と7月の縁日にはにぎわったという。

第63番 初音山観智院
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長久院の前の道の突き当りには、幼稚園が見える。
第63番観智院の副業である。
門を開けて境内に入ると、園児たちが帰宅準備をしていた。通園バスも待機しているし、とても境内の雰囲気ではない。本堂下で簡単に手を合わせ、左手の庫裏らしき所のベルを押すと、後ろから、赤ちゃんを背負った歳の行った女性が声を掛けてきた。朱印を頼むと、大分周ったのかと、質問された。出掛けに、何冊かの本を渡してくれた。本堂は高い所にあるんですね、と言うと、あちらには、上がれませんと言われた。左手の大師堂を示された。明王堂と並んだ小さな建物で、開いているのに、中まで良く見えなかった。明王堂の方は閉まったまま。門前には、六地蔵が立っている。
創建は慶長年間で、一端、谷中清水坂を経て、この地に移転してきたらしい。明王堂は谷中の火除け不動と呼ばれて信仰を集めている。

第57番 天瑞山明王院
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観智院の通りの並びに第57番明王院がある。
参道を進むと正面に大師堂があり、その左奥に本堂が立っている。本堂の前に立つと、中から勤行の声が聞こえてきた。負けないようにと、別の経をよむ。庫裏で朱印を貰おうとすると、今日は涅槃会なので読経が聞こえて良かったですね、と言われた。確かに、プロの読経と一緒にお参りが出来るとは、ラッキーである。右側には、広い墓地を持っている。表に出て、この墓地と塀越しに本堂を見ると、宝形造りの屋根が、なかなかの景観に思えた。
慶長16年、後水尾天皇の勅願寺として誕生。後、谷中清水坂を経て、この地に至る。

第64番 長谷山加納院
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明王院の墓地の横の道を真っ直ぐ行くと、突き当りに朱塗りの門が見える。
第64番加納院の山門だ。
門前には、石標が立つ。うねったような参道を行くと、植え込みの中に本堂がある。周辺の植え込みは手入れは好い所もあるが、雑然としている所もあるという、不自然な感じに見えた。左手の庫裏で朱印を貰う。
この寺院も、他の寺院同様、慶長11年の創建で、谷中清水坂を経て、1680年にここに移転した。

第42番 蓮葉山観音寺
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加納院を出ると、左側が第42番観音寺の塀で、
まちかど賞を貰った築地塀である。この角を曲がると、観音寺の大きな山門がある。残念ながら、工事中らしく、本堂の前に2台の車が止まっていて、興ざめである。このお寺は、赤穂浪士ゆかりの寺として、台東区教育委員会の掲示板が出ている。本堂は立派である。但し、前にでんと工事用の車が停車していては、何としても様にならない。右には、赤穂浪士の慰霊塔、大師堂などが並んでいる。更に奥は墓地が広く続いている。大師堂の前の標石には、札所巡りの歴史を示す文言が入っている。
創建、移転は加納院など他の寺院と同じ。元は長福寺と言っていたのを、吉宗の頃に観音寺と改めた。

第49番 宝塔山多宝院
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谷中の広い通りと日暮里からの道が交差する所に、第49番多宝院がある。
門前に、札所の標石が立っている。境内に入ると左側に大きな地蔵が立っていて一寸不気味だ。小さな墓石が六地蔵と同じように列を作っている。ここも本堂前に車がいて、正面でお参り出来ない。本堂の扁額は山岡鉄舟の書と言う。本堂隣に吉祥天を祀った堂がある。墓地の前には慈母観音像が立つ。谷中では、本堂と庫裏とが離れていることもあり、本堂内でのお勤めは出来なかった。中に入り、本尊の前に座りたいという願いも叶えたいものだ。
創建、移転の経緯は他の谷中の寺院と同じだが、本尊の多宝如来像は行基菩薩作と伝わる。
浅草、谷中周辺を一日で回れたことで、まだ、少し早めだが、この日は帰宅した。

<9日目>
第19番 瑠璃光山青蓮寺
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第9日目
成増駅を下りて、西友の裏手を回り、と地図を頼りに最後は細道も探検しつつ、無事にお寺の前に到達。
第19番瑠璃光山青蓮寺である。
三叉に分かれた道の頂点に山門がある。本堂まではきれいになっているが、本堂横はうっそうと草や竹が生えていて、如何にも郊外の寺院といった風情がある。石造物の類もそれ程多くないが、それも点々と移転を繰り返したゆえか。それにしては、馬頭観音像があり、その昔、草競馬が行われていたしるしとか。朱印を貰おうと、庫裏のベルを、何回押しても応答なし。ついに諦めた。今回初の出来事に、いささか落ち込む。
この寺の開創等は不祥だが、札所としては、いくつかの寺が廃寺に追い込まれたため、大正時代になって、大師像とともに移ってきたものである。とは言うものの、本寺も水害にあって、高島平から成増に移転したという。

第87番 神齢山護国寺
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青蓮寺への、もと来た道を取って返し、成増駅の北側の踏切を渡る。この弓状に曲がった商店街の道は、就学前の私が、電車ごっこと称して、走って来た頃と変わっていないようだ。当時、家から駅までは遠かった。だから、寄居行きと言って、めったに走らなかった。今の感覚ではどうなのだろうか。川越街道に出て、地下鉄に乗る。有楽町線で護国寺下車。目の前が総門である。
広いエントランスを歩いて、門に至る。立派な風神たち、裏側には歓喜天たちが迎えてくれる。右手の本坊を見ながら不老門をくぐると、正面に豪華な観音堂が立っている。この辺り、戦災にあわなかったので、本堂も、大師堂も江戸時代のままである。大変残念なのは、時間で本堂内を拝観できなかったこと。朱印だけは、嫌な顔をされたが、書いてもらえた。是非、日を改めて、もう一度参拝したいものである。
本堂では、表からの参拝になったので、大師堂でも入念にお勤めをした。規模もすごいし、参詣者も多かったが、本堂に入れる時間まで決まっている所、さすが大寺院である。ちなみに、休み時間は11時50分からという半端な時間なので注意だ。
綱吉の生母桂昌院の発願で、将軍家祈願所として創建された。従って、将軍家とは縁が深いが、名所図会に取り上げられるほど、庶民の参詣も多かった。

第35番 金剛宝山根生院

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護国寺前の不忍通りを真っ直ぐ右の方に向かうと、目白通りにぶつかる。向かい側の細い道を入り、斜めにぶつかった所を右折。
すぐに第35番根生院は見つかった。
山門はなかなかのものがある。しかし、本堂は、石段を登った上にあり、祭壇も少し質素な感じがした。手前の方に白い布がかけられており、一寸嫌な感じがしたら、案の定、留守の時には、住所氏名を書いて、箱に入れておけば、後で朱印を送付すると書いてあった。ということで、お留守。移転が多かったらしいので、大変だったのだろうが、
そもそもは、将軍家の祈願所として建った寺院らしい。古そうな碑が残っている割には、敷地も少し狭いし、将軍家の祈願所なので、一般の墓地もないようだ。留守勝ちそうなことと合わせて、経営難?なんて思ってしまった。そんな失礼なことを考えていたら、二日後には、丁寧な詫び状と、お札などを同封して、朱印を送ってくれた。有難いことでした。

第38番 神霊山金乗院
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根生院からは目と鼻の先、
こちらは堂々たる寺を構えているのが第38番金乗院である。
丁度私が着いた時に、三人連れの男性がカメラを持って境内を撮影していた。すぐにお勤めをするのははばかられたので、
先に目白不動、第54番新長谷寺の方をお参りした。
金乗院の本堂とは墓地に向かう細い坂を挟んで建っている。空襲で焼けた後、金乗院の、敷地内に建てられたとのことである。一寸、隣との対照で、可哀想な気がする。墓地を見に入るのは初めてだが、ついでに、丸橋忠弥の墓を見に行った。墓地への道の両側に古い石造群があり、古い寺であることが知れる。本堂前に、一寸面白いものがあった。倶利伽羅不動庚申塔といって、剣に龍が巻き付いたものである。また、目白不動のお不動様は空海の作と伝えられているが、勿論、見ることは出来ない。
金乗院の創建は不祥だが、16世紀であろうと言われている。

第54番 東豊山新長谷寺
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元和4年(1618)秀忠の帰依により建立された。
江戸時代は、目黒不動、目赤不動とともに江戸三不動として信仰された。
伽藍は戦災で焼失、以来金乗院に合併されている。

第29番 大鏡山南蔵院
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13時を過ぎたのに、住宅地で、昼食を食べるような公園がない。止む無く、先に進む。
金乗院からすぐ南に下った所に第29番南蔵院がある。
怪談、乳房榎由来のお寺として、門前に掲示板が立っている。境内には樹木も多く立派な本堂が建っているが、2階の本堂前には行けない様になっているし、階段下の柵の前には、工事用の車がでんと収まっていて、おまけに、大きな声で工事の人が携帯で話している。いささか、酷い環境だ。仕方なく、そのまま読経をしたが、簡単に済ませてしまった。
開山は14世紀と伝わり、境内には、色々と見るに値する石造物もあったらしいが、何となくパスしてしまったようだ。札所になったのは明治以降のことだそうだ。

第52番 慈雲山観音寺
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面影橋を渡り、都電を見ながら、ようよう、幼児達が大勢遊んでいる甘泉園公園で、トイレと昼食。少しホッとした所で、早稲田の終点から早大の方に抜ける道を辿る。正門の少し手前に、間口は狭いが奥は結構あるらしいお寺があり、
入り口に、第52番観音寺の石標が立っている。本堂は、一風変わった建築様式で、現代建築の誰か有名な人が建てたのではないかと思うような、ユニークで形のいい建物だ。二階の本堂前でお勤めをすると、足元に変わった模様を見つけた。庫裏は一階にあり、上品な老女が応対してくれた。
本尊は、天台宗の智証大師の作と伝わる十一面観世音菩薩。天台宗の僧が作ったものが本尊というのは面白い。ここの開創は、1673年と、他の寺院より少し遅め。

第30番 光松山放生寺
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観音寺から出て、早稲田大学の正門前から大学沿いに進み、商店街を抜けると、諏訪通りという広い通りに出る。穴八幡の入り口があり、交番の横から、工事中のため特設の歩道を上って行くと、
第30番放生寺の本堂である。
工事中をしているのは、その奥の客殿であろうか、やたら派手な大きな建物を建築中だ。本堂は、立派ではあるが、グッとおとなしい。石段を上がると、それほど広くはない部屋になっていて、中央に香立があり、左側には、常設の売店がある。売店があるということは、それだけ、参拝が多いということだろう。お勤めをしてから、祭壇の写真撮影を許可してもらった。本堂前に、大師像があり、その周囲を右回りに回ると、四国霊場巡りに相当するというお砂場である。面白いのは、隣に役の小角の像がある。役行者は、よく神社に祀られているのだが・・・・
放生寺は寛永年間に穴八幡の別当寺として建立され、現在も引き続き隣接して建っている。

第85番 大悲山観音寺
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諏訪通りを真っ直ぐ高田馬場方面に向かい、そのままガードをくぐると、すぐに道路の工事をやっている。小滝橋の方まで、真っ直ぐ抜けるようにしているのだ。その道を迂回しながら、GSの所で右折して、早稲田通りを抜けると、正面に立派なビルの寺院が見える。
それが、第85番観音寺である。
門の両側に菩薩が立っている。門を入った時は、少し冷たい感じのするお寺だなと思ったが、重い扉を開き、中にいた女性に声を掛けて来訪の趣を告げると、2階ですからどうぞ、と言ってくれた。そのまま、一人で上がって行っていいのかと思うほど、立派な雰囲気の階段、廊下を過ぎて、右側が本堂だった。広い本堂の中で座して経を読む。非常に厳かな気持ちになり、巡拝をしていて良かったと思う時である。終ってから、一度右の方にある庫裏の入り口に回ると、先刻の女性が、別の女性にお茶を入れて上げて下さいと言い、お茶を頂いている間に御朱印を持ってきてくれた。建物の左に周ってみると、大きな墓地になっていて、古い墓標などもこちらに置かれていた。吉川英治の筆塚もここにある。
開創は17世紀だが、札所になったのは後のことである。

第36番 瑠璃山薬王院
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観音寺の前の細い道を北へ向かう。途中階段になっていたりするが、真っ直ぐ進み神田川を渡ると、下落合の駅の横に出る。更に数十メートルで新目白通り。
その先の傾斜地に建つのが、第36番薬王院である。
石の標柱が立つ先に立派な山門があり、その中は、美しい庭園になっている。庭園の向こうに建つ本堂はコンクリート造りではあるが、清水の舞台を思わせる舞台造りである。丁度、夕陽があたって、得も言われぬ美しい庭園振りを見ることが出来た。残念なのは、それからで、この本堂、どこからも入れない。側面の道からしかお勤めも出来ない。この斜面を登りきった所に墓地がある。
このお寺の開創は不詳だが、鎌倉時代の僧が開いたと言われている。ボタンの寺とも言われているそうだ。

第14番 白鷺山福蔵院
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薬王院を参詣して、少し時間があったので、離れた所にあるもう一寺院を訪れることにした。下落合から各駅停車で10分ほどか、鷺宮で下車。南口下りてすぐの角に「50M先八幡神社」の標識があり、神社に沿って左に曲がると、
第14番福蔵院の門標が立ち、その奥に山門がある。
地元の人たちが通り抜けていく。境内に入ると、すぐ右側に涎掛けを掛けた13佛が立っている。後で、寺の人に、これだけ古い13佛が残っているのは都内ではここだけだと聞かされた。反対側には六地蔵。
開山は16世紀、江戸幕府の開府以前である。
現在の本堂は50年ほど前に造られたもの。御朱印をもらいに庫裏を訪れた時、時間がかかるので、先にお参りしてきて下さいと言われ、お参りをして、13佛を尋ね、東屋の横のしだれ梅を愛でて、戻ると、もう御朱印はできていて、表に置いてあった。一寸窓越しに声を掛けたが、人の気配がないので、お布施は本堂の賽銭箱に入れた。八幡社と合わせて、地域の重要な役割を果たしてきたという雰囲気のあるお寺だった。創建は不祥。開山の和尚が16世紀初めごろの没しているので、16世紀初めと推定されている。

<10日目>
第15番 瑠璃光山南蔵院
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西武線を練馬下車。目白通りを越えて、南蔵院通りを南下。
南蔵院バス停の角を曲がると、第15番南蔵院の入り口がある。
山門を入ると、古めかしい雰囲気に包まれた境内がある。山門からドーンと参道があり、右手植え込みの中に本堂と庫裏がある。左手には、立っているだけの長屋門、正面には、朱塗りの鐘楼門がある。本堂(薬師堂)鐘楼門、閻魔堂は17世紀の建立である。中興の祖は良弁と言い、14世紀の人である。
間口の広い本堂は、案内書では入れると書いてあるが、後で聞くと、いたずらされることが多くなり、閉めてしまったとのこと。残念なことである。それ程広大とはいかないが、しっとりとした古さが残っており、暫く境内を散策したくなるような好い寺院であると思った。境内には、古い道標も残されている。
明治9年に、この寺で豊玉小学校が開校した。

第2番 金峰山東福寺
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南蔵院を出て、そのまま南へ向かい、大きな通りを左折する。環七を横切り、病院を過ぎると商店街がある。
その左手に第2番東福寺がある。
門前には、徳川将軍の御膳所の掲示がある。門内には大きな石標も立っている。正面の石段を登っていくと、左側に大師堂がある。正面の本堂も、大師堂と同じ造りになっている。左手にある墓地には、江戸時代の墓標も建っていて、古い寺だと分るが、創建は13世紀とされている。
以前の本堂には、将軍のおなりの間というのが残っていたそうである。

第41番 十善山密蔵院
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東福寺の横の大通りを、南へ向かうと、すぐに新青梅街道を渡る。住宅街に入り日蓮宗の大きなお寺の傍に、こちらは、こじんまりとしたお寺がある。
第41番密蔵院。
広く開いた本堂の入り口から、案内を請うと、上がってどうぞお参りを、と言われ、ご朱印を書いてもらっている間に、お勤めを済ます。程なく戻ってきた住職は、どうぞ座って下さいと言い、「南無大師遍照金剛」と3遍唱えた。今回の巡拝では初めての体験だった。境内にも、それ程目立つものはなく、この辺りに集まってきた寺の中では、少し商売が下手なのかもしれない。
開創は不祥。家康入国以前と伝わっている。明治時代に現在地に移転した。

第48番 瑠璃光山禅定院
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密蔵院から少し下がった所に第48番禅定院がある。
こちらは立派な四脚門の山門を構え、境内中央には、高い銀杏の木がある。山門に比べて、本堂は新しい。再三の戦火に焼かれ、30数年前に建てられたものだ。本堂左に庫裏があるが、グルッと回り込んだ玄関で御朱印を頂く。小さな池を配した庭は、これからの境内を趣深くしていくことであろう。草創期の本尊は、薬師瑠璃光如来で、山号も瑠璃光山である。しかし現在の本尊は不動明王である。
14世紀頃の創建で、本尊も鎌倉時代のものらしく、薬師如来から本尊が何時入れ替わったのか、多少興味が湧いてくる。
明治の頃に札所がこちらに大師像と共に移ってきたらしい。

第71番 新井山梅照院
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禅定院から沼袋の駅は近い。線路沿いに暫く行って踏み切りを渡る。やがて中野通りに出るが、その先に大きな公園があり、
その裏側が新井薬師である。第71番梅照院。
横の裏門から入ったので、一度表門から入りなおす。こちらからだと、正面に本堂が見える。境内には、余計な庭園はなく、如何にも庶民に愛されているお薬師さんといったところである。左側には多宝塔、右側には大師堂があり、鐘楼も備わっている。本堂右側に、売店があり、そこで御朱印がいただける。目の薬師様にご利益を期待して、珍しく、お守りを購入した。2代将軍秀忠の娘和子が目の病を得た時、祈願して治癒したことから、目の薬師と呼ばれ、その後は、小児薬を調合したので、子育て薬師とも呼ばれた。
16世紀に行春という僧が、梅ノ木から紛失していた新田家の尊像を発見した。その庵を結んだという謂れが、清水の沸く土地だったということからか、現在も境内の水を求めに来る人が後をたたないようだ。
公園側に建つ大悲殿(客殿)の境内には、聖徳太子像が立っている。

第58番 七星山光徳院
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新井薬師の駅裏の道を線路沿いに東へ向かう。上高田スポーツ公園の手前の道を左に曲がっていくと、左側に間口はさほど広くないお寺がある。
第58番光徳院である。
山門はあるが開いておらず、横から入れるようになっている。境内の左手に珍しい五重塔が建っている。まだ建ってから十年程だが、美しい姿が逆光に聳えていた。右側には観音堂があり、正面は本堂である。
創建は慶長の頃だが、その後移転を重ね、明治になってから現在地に来た。本尊も、菅原道真の作と言われるが、流転の末にこの寺に納まったと言われている。境内に、ひな壇のようになった石仏があった。

第24番 高天山最勝寺
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上高田公園の踏切を渡って、二つ目の角を左に曲がる。後は目白通りに突き当たるまで真っ直ぐ。目白通りを右に曲がると、すぐに、大きな門と客殿が目立つ寺院がある。周囲にもマッチした現代的な寺院である。境内に入ると、中央に植栽があり、本堂は非常に立派に見えた。右手にある庫裏の前の小さな岩屋の中に七福神が祀られている。何ともかわいらしい。境内には、戦災受難者の碑が建てられ、戦火のひどかった形跡をとどめている。
第24番最勝寺は、鎌倉時代北条時頼の開創と伝わる。

第12番 明王山宝仙寺
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予定では、東福寺で終る積りだったが、時間に余裕があるので、満願を目指す。まずは、中野坂上に向かうことにして、山手通りをひたすら南へ。
ここ、第12番宝仙寺へは、以前法事で来たことがあった。
宝仙学園と言う短大を持っている寺院である。中野坂上で青梅街道を西に少し行くと、右手に山門がある。本尊は奈良時代良弁の作と伝わり、源義家が建てた寺と言われている。さほどに格の高い寺であったが、戦災で焼失。戦後、次第に伽藍が復興したものである。本堂も、三重塔も、朱塗りが美しい。丁度、葬儀の予定があるらしく、立て看板や受付の準備が忙しく進められていた。
御朱印を頂き、四国の話をしていると、珍しく、同じ御朱印帳を持った人が後に立った。

第11番 光明山荘厳寺
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次に向かう幡ヶ谷の第11番荘厳寺も山手通り沿いにある。
再び南へと進む。左手に都庁を見ながら、西新宿4丁目はまだか、まだか。交差点の一つ手前の道を右に曲がる。この通りは不動通りと呼ばれるように、この寺は幡ヶ谷不動として有名である。境内正面に大きな不動堂が建っている。ここで読経して朱印を頂く。88番への道を尋ねたが、分らないと言う。ひょっとして、不動さんと、荘厳寺とは別仕立てかなと疑ったりした。
実際、最初は気付かなかったが、境内の左奥にもう一つ門があり、そこには荘厳寺と書いてある。
こちらは庭園もきちんと整理されており、如何にも寺院風のたたずまいである。一番奥に薬師堂が建っていたので、もう一度経を上げた。横には大師堂もある。何やら書いてある石碑もあったが、よく読めなかった。案内書によると、芭蕉の句碑だったようだ。
「暮れおそき 四谷過ぎけり 紙草履」
本尊の薬師如来像は、古く天台宗の僧侶が作ったものと伝わるが、ここの開創は16世紀のこと。

第88番 遍照山文殊院
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予定外のこととて、荘厳寺からの道順は全く分らず。前の第11番でも教われなかったので、まずは西を目指す。不動通りを西へと向かったが、途中で南に偏って来ているのではないかとの疑念が湧き、少し北に修正。そうこうする内にやっと目指す方南町が載った案内図を発見。神田川にもぶつかったのでホッと安心。取敢えず方南通りに出た。環七を左折し、神田川沿いに西へ。途中、河川工事のため迂回させられたり、住宅地に入って分らなくなったが、周囲を圧する高い木が見えたので、そこへ行くと、文殊院の石の門が見えた。
歴史的には珍しい寺である。16世紀後半、木喰上人によって高野山で開創。駿府を経て浅草に移転。元禄の頃一時寺領を没収されるが、白金に再び再建。大正になってから現在地に移り、戦災で焼失。

友人の通夜の翌日、発願から23日目、やっと満願寺である。思えば、生まれ育った東京と言っても、知らないお寺や土地が多かったし、札所の応対にもいろいろな思いをした。沢山のことが記憶に残った。その思いをこめて、丁寧にフルコースの読経をして今回の札所巡りを終えた。


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