鎌倉33観音巡礼
豆横道33観音を調べている時に、たまたま鎌倉33所寺めぐりという観音巡礼があることを知った。又、mixiに鎌倉33観音のコミュがあることも見つけて、早速調べてみた。伊豆の巡礼は、宿の問題や日程のことなどあり、なかなか実現できないので、まずは鎌倉を廻ることにした。季節は春、桜には遅かったが、花々に迎えられた巡礼となった。
倉の33所の成立は、昭和になってからのことである。江戸時代に観音巡礼が盛んだった頃に、鎌倉郡33ヶ所というのがあったらしいが、明治の廃仏毀釈などの変遷をたどり、鎌倉市内にすっぽりと収まった鎌倉33ヶ所が新たに誕生したようである。
光地鎌倉にはいろいろな宗派のお寺があり、特に日蓮宗のお寺が多いと感じていたが、33ヶ所に加わっているのは、臨済宗、時宗、真言宗などの寺である。お寺の規模も大小さまざま、巡礼者に対する扱いもさまざまであった。

<<<第2巻>>>

2009.4.16日(木) 8:30〜14:30 約20000歩
前日同様、鎌倉駅を出たのは8時半頃。この日は、若宮大路を渡って、すぐに小町通へ入る。

第十四番札所 随我山来迎寺 (時宗、聖観世音菩薩)


 大町の四辻から更に南下。横須賀線の踏切を渡る。新旧入り混じった感じの街並みを行く。先に十五番に寄る積りが、どうしたことか勘違いして、裏へ廻ったものだから、分らず、そのまま、御所神社の方へ進み、左折して100メートル。右側の来迎寺を訪れた。
 写真の通り、参道から正面に本堂が見え、境内にも特に目に付くようなものはない。
堂前で、身なりを整え、朝最初のの読経をした。









頼朝は源氏再興の戦いの中で討死した三浦党一族の菩提を弔うため、真言宗能蔵寺を建立した。その後、音阿上人が中興開山となって時宗に改め、その際、寺名が来迎寺となった。太平洋戦争中、軍の命令で山頂の観音堂は取り壊された。

第十五番札所 円龍山向福寺 (時宗、聖観世音菩薩)


 再び、元の道に戻り、今度は案内書を確認して、すぐに向福寺を見つけることが出来た。朝から、サーフィンをしていたらしくサーフボードを持った人も見かけた。
  道から、細い参道が少しあり、正面には本堂も見える。
なるほど、こうしてみると、裏手が墓地になっているのが、肯けた。
当初、扉は閉まっていたが、朱印を頂こうとすると、戸を開いてくれた。









1282年、一向俊聖上人の開創。

  参道から門、堂内。

第十六番札所 内裏山九品寺 (浄土宗、聖観世音菩薩)


 更に、海岸の方に一筋下った所に、九品寺前のバス停もあり、今度はすんなりと分った。
入り口からして、街中にしては立派なお寺であると思われた。庭には花が咲いていた。
写真の白い花は「ナニワイバラ」










1336年、新田義貞が鎌倉攻めの内裏(本陣)跡に戦死者を弔うために建立した。風航順西和尚の開山。本尊阿弥陀如来は京都から和尚が持ってきた聖徳太子作と伝わっている。

   
 山門、門額の字は新田義貞の直筆だそうだ。庭の六地蔵と花々。

第十七番札所 南向山補陀洛寺 (真言宗、十一面観世音菩薩)


 道なりに左折し、すぐの小路を左に入っていくと、お肉屋さんがあり、その前に斜めに構えてお寺がある。
 堂前には新しい階段ができているが、ここからは上れない。扉は開いていて、堂内を見ることが出来た。街中でも静かなので、ゆっくりとお参りもできる。
 頼朝の祈願所であるが、頼朝と、文覚上人の関係は、上人が伊豆に配流された時に出会い、上人の勧めで、源氏再興を祈願するために伊豆の観音を巡拝した。私が次に巡礼をしたいと願っている伊豆横道33観音である。







1181年頼朝の開創。文覚上人の開山。1350年、鶴岡八幡宮の供僧、頼供により再興されたが、江戸時代には寺領を没収され、その後も災害で規模は小さくなった。

  本堂内部と祈願所石碑

第十八番札所 天照山光明寺 (浄土宗、如意輪観世音菩薩)


 元の通りを更に200メートルほど行った所に、門前も広く開いている大きなお寺である。
小さめの総門をくぐると広い境内が広がり、先には、雄大な山門が待っている。門内、右に鐘楼がある。正面の本堂から左手にずっと建物がつながっている。
 本堂内に入り、広い堂内で座って読経する。なんとも気持ちの良いものである。
境内には、所在なさげなお年寄りたちが座っていたり、近隣の人たちの憩いの場でもあることが伺えた。
 左手の寺務所で朱印を貰った。受付は女性が、受け渡されて、奥の方で寺僧が書いてくれたらしい。





浄土宗関東総本山である。1240年、北条経時が開創、良忠上人が開山した蓮花寺を1243年材木座に移転、光明寺と改めた。北条氏の帰依で伽藍が整い、勅願所ともなった。更に、家康が寺領を寄進、延岡藩主の菩提寺でもある。

   

豪華な本堂内部、鐘楼、総門、山門。

第十九番札所 天照山蓮乗院 (浄土宗、十一面観世音菩薩)


 あらかじめ右手にあることは分っていたが、見回したところ、境内には見当たらないので、光明寺で尋ねてみると、一端、山門を出て下さいとのことだった。
 門を出ると、確かに入り口があり、門も立っていた。
屋根の作りは民家風、堂内はお寺のそれだった。


 
光明寺が移転してくるまで、ここに蓮乗寺があった。光明寺が出来て、その塔頭となった。本尊の阿弥陀如来は千葉常胤の守り本尊と言われている。

第二十番札所 天照山千手院 (浄土宗、千手観世音菩薩)


 蓮乗院の反対側にある。
朱塗りの門をくぐると先客がいて、なにやら大声て話し合い、庫裏に盛んに声を掛けていた。しかし、留守のようで、返事がなく、諦めて出て行った。
 私も読経後、インターホンを何度も押してみたが、誰も出てこなかったので、ここでの朱印は貰えず仕舞いとなってしまった。

 
光明寺の僧坊として建てられた。その後、千手観音で親しまれたため、千手院と改めた。

光明寺の前は材木座海岸である。海岸に出て、小休止する。
穏やかな海岸には、何人かの人たちが散策したり、サーフィンをしていた。
相模湾に面した広い浜で、右左の岬を眺め、これから行く、稲村ガ崎方面を望みながら、
「鎌倉」の歌が口をついて出た。
滑川を渡ったところで、ファミレスで昼食。

第二十一番札所 普明山成就院 (真言宗、聖観世音菩薩)


 由比ガ浜を1キロほど行くと、右に入る道があり、右に曲がれば長谷の駅から大仏方面に行ける。ここを曲がらずに直進すると、だらだらとした切通しに至り、右側に鎌倉十井の一つ、星の井戸がある。ここにある星井寺に興味を覚えたが、まずは成就院へと向かった。
 成就院に入るには、左側の階段を上る。108段あるそうだ。途中、東結界を通る。上り詰めた所から左に境内が広がっている。庭の植木の工事中であった。本堂の扉は閉まっていたが、堂前で読経。庭を一巡りしてから、めだかの世話をしていた住職に朱印をお願いした。
 門を出た所で、由比が浜を遠望。





弘法大師ゆかりの地に、1219年、北条泰時が建立。幕府滅亡時(1333年)に焼失したが、元禄年間に復興された。

   
 山門、階段下から見た東の結界、切通しに面した墓、山門前から見た由比ガ浜

 明鏡山円満院星井寺
所で、先程の星井寺は成就院が管理しているとのことで、後ほどお参りした。星の井のあるところから何段かの階段を上ると、小さな本堂(虚空蔵堂)があり、この菩薩は、日本三虚空蔵の一つという貴重な仏像である。私の生まれ年の守り本尊でもある。この寺は天平時代行基によって建立されたもので、頼朝によって庇護され、秘仏とされた。前立佛は頼朝が運慶に命じて作ったと伝えられる。
        
       本堂、堂内、星の井

第二十二番札所 霊鷲山極楽寺 (真言律宗、如意輪観世音菩薩)


 極楽寺坂は、元々は成就院の山門の高さまで登るようになっていたらしいが、現在は掘り下げられてそれほどの坂ではない。この坂を下っていくと、江ノ電の極楽寺駅がある。ここをすぐに左折したところに山門があるのだが、うっかり、そのまま直進してしまった。すぐ間違いに気付いたが、雰囲気のいい道だったので、そのまま少し歩いてから戻ってきた。
 山門を入ったところに、撮影禁止の看板が出ていたのだが、見落として、一枚写真を撮ってから、別の掲示で知った。
 境内は八重桜がきれいに咲いていた。
 本堂で参拝してから、右手に大師堂があるのを見つけ、ここでもお参り。実は、札所本尊の観音様はこちらにいらしたのだ。




忍性上人の開山。1259年、北条重時の招きで極楽寺に入る。念仏堂を移転し、堂塔の建立に努めた。重時の子らが七堂伽藍、塔頭を完成させたが、1333年の戦火で焼失した。その後も何度か再建されたが、現在は塔頭一つが残っている。
 趣のある山門

第四番札所 海光山長谷寺 (浄土宗系単立、十一面観世音菩薩)

 極楽寺を出て、星井寺に立ち寄り、元来た道を長谷に通じる角で左折した。
江ノ電の線路際で電車の来るのを待ち、写真を一枚。
長谷駅からはもう人の群れ。門前では、人力車に乗る観光客もいてごった返していた。
拝観料を納めて、階段を上り、観音堂で参拝。ここも、大勢の人が入れ替わり立ち代り来るので、邪魔にならぬよう、端によって読経する。
納経は堂内でやってくれるし、手早いので助かる。坂東を廻った時は正月で、七福神の朱印をもらう人で混んでいたことを思い出した。
いつも通り、大黒堂から経蔵を経て阿弥陀堂へ。お参りを済ませて下へ下りた。途中階段傍には石楠花やボタンが咲き、人々が楽しんでいた。弁天窟にもお参りして境内を後にした。

721年、大和の長谷寺に納められた観音像と一対の尊像が15年の歳月を経て、三浦に流れ着き、藤原房前の命により、736年徳道上人の開山となった。

   

   
観音堂前から撮った観音様、大黒堂、経蔵、境内の池や花、山門と門前風景。卍池には脱衣婆などもいて、死後の世界を現している。

第二十三番札所 大異山高徳院 (浄土宗、聖観世音菩薩)


 長谷寺から大仏までは、まさに人の波。狭い歩道に人があふれ、急いで歩きたくても歩けない状態。ここは、流れに任せるしかない。
 入り口で拝観料を払い大仏前に。大仏様は阿弥陀如来。本日、お参りするのは聖観音で、先に朱印所で納経をお願いし、観音堂を確認して回廊の裏手に廻った。こちらは観光客も少なく静かである。
本日の最後ともなるので、ゆっくりと観音経を読経し、堂前にて記念撮影。








僧浄光の勧進により、1243年木造の大仏殿を建立したが、台風で倒壊、1252年金銅製の大仏が誕生した。その後仏殿は何回が損壊し、15世紀以降露座となった。観音堂は高麗から移築したもので、徳川秀忠寄進の聖観音が安置されている。

  


3日目に続く