由来について

 江戸時代、郊外の札所としてまず現れたのが、純粋な意味での信仰のための「六阿弥陀詣」だったようです。そもそもの発祥は、行基菩薩伝説に始まるのですが、江戸時代のお参りは、浄土宗との関連が強いと言われています。浄土宗は徳川家の庇護を受けて大きくなっていきますが、六阿弥陀伝説を取り上げて宣伝しています。後述する、伝説にも、いろいろありますが、江戸時代以前からこの信仰があったということは考えられています。それが、何らかのきっかけで、浄土宗を通じて、開花していったということなのですが、この六寺院が選択されているということには、大きな謎があり、興味を引くところです。

伝説によれば、行基菩薩(667−794)が、一本の流木から六体の阿弥陀如来を彫り、六寺院に安置して、ある娘の菩提を弔ったという話です。何故こういう話が出てきたのかは、江戸時代にも分っておらず、太田蜀山人は、「ひともと草」で、
「そもそもこの道筋に立たせ給へる事、いかなる事ぞといふに、豊島川より田畑のわたりはいにしへのかまくら道ともきけば、忍が岡のもとよりふるすみだ川のわたりなるみちのくに往かよふむまやぢにかよへれば、かの街道のつらなるたよりにもやたておきけん、しかずかし、しかるあらずや」
と書いています。

江戸時代には、六阿弥陀が各所にできていて、江戸では、西方、山の手がありましたが、単に六阿弥陀というのは、この六阿弥陀を差しています。行基菩薩が東国に現れるのは、神亀3年(726)とされていますので、伝説は1280年前のことになります。17世紀後半になると、浄土宗関連の本として、この六阿弥陀が登場します。特に女性を導く如来として、阿弥陀の本願をこの六体の阿弥陀仏に託して説いています。1687年江戸の案内書「江戸惣鹿の子」にも登場します。この辺から、非常に盛んに六阿弥陀詣でが行われ始めたと考えられます。
「六阿弥陀巡り功徳の事」と題する一枚刷りや、地図などが出版されています。

*六阿弥陀の縁起「一心六阿弥陀二の巻」より
<前略>さてこの六阿弥陀の武蔵の国に立ち給ふ根元を尋ぬるに、沼田と申す侍一人娘を持ち給ふなり。川を隔て豊島といふ在所へ縁につき侍んべりて年月を送り給ひ心も打ち解けり。或日の徒然に互の物語の上にて豊島殿、北の方に向ひ申されけるは、其の方の親沼田殿は二人ともなき一人婿に引き出物をなしたもふてかかる見苦しきものを賜ることは我等を賤しめ給ふか、又は家に伝わる宝もなきか、この一腰は土民百姓もかかるものをば婿引出物には出されまじきに、一城一家を守る大将とも思われず心のうちのおこがましやと。・・・・・・姫君は聞こし召し一家の惣領と生まるる身の女性たりとも心は男子に劣るべきか、我男子の身にてもあらば人もいふべからず、我も言わせまじ女性の身の浅ましや。かかる事を目前に聞きておる身の因果の浅ましやと思し召し親里へも帰らず、姫君を始め供の上臈五人主従六人の人々は、沼田川へ身を投げて花の姿も散り果て給ふ事憐れなり。父上沼田殿はこの由を聞こし召し、気も魂も消え入りて姫諸共に身を投げて底の水屑となるべしと嘆き給ふ事は御道理なり。・・・・・・
<中略>(これより沼田殿熊野へ参詣し光明木を得る)
 沼田殿未だ武蔵の国に帰らぬに六阿弥陀の光木は沼田の川に着きにけり。其の折節に行基菩薩は諸国修行の其の為に、武蔵の豊島に仮の宿りをい給ふ。かの光明木の光輝きて見え侍るなり。この木の由来を御尋ねある由を沼田殿聞こし召し、始め終わりを行基菩薩に御語りありて、今の六阿弥陀を作り給ふものなり。この道理をもって六阿弥陀は女人成仏、親子の因果の罪科を消滅するの阿弥陀なり。殊にこの阿弥陀に参詣の女人は成仏の流灌頂を阿弥陀と熊野権現を頼みていたす道理なり。<後略>

前述の太田蜀山人の「ひともと草」には、このような記述がある。
*六の寺の縁起、いづれもその事同じくして、その名の異なるこそあやしくおぼろおぼろしけれ。まづ、一番にては豊島左衛門尉清光の女を、沼田足立少輔に嫁すといひ、二番には沼田庄司の女を隣県の豪家に、三番と六番には足立庄司従二位宰相藤原正成の女を豊島左衛門尉清光に。四番には豊島の郡主庄司左衛門清光の女を、足立の豪家沼田治部少輔に。五番には沼田庄司の娘を豊島左衛門にめあはすとしるせり。、

以上の由来に関しては、北区教育委員会発行の「北区の札所」より転載しています。

六阿弥陀に関するサイトhttp://don-quijote.or.tv/special/6amida.htmlより

≪由来≫
聖武天皇の時代(奈良時代)、今の足立区に、さる長者が住んでいたが子供が一人もいなかった。
夫婦は熊野権現にお参りし一生懸命お祈りをしたところ、やがて、玉のような女の子が産まれ
「足立姫」と名付け、大事に育てられた。

やがて近隣のうわさになるほどの才色兼備の姫となったが、今の北区に住まう豊島左衛門清光
という悪領主が姫にぞっこん。
色々圧力をかけて力づくで嫁にしてしまった。
舅にもいじめられ、辛い日々を送っていたが、ある日、里帰りの許しが出た。
帰る途中の沼田川で世をはかなんで身投げをしてしまった。五人の侍女も後を追った。

長者夫婦は悲しみに打ちひしがれ、霊を弔うため熊野本宮に参ったところ、
仏が夢枕に立ち「そなたに良い木材を与えよう。近いうちに行基という行脚僧が、そなたの家に立ち寄る
ので、その僧に六体の阿弥陀仏を刻んでもらうが良い」と告げた。

長者は夢から覚めると早速山中を探したところ、谷間に光り輝く霊木を見つけた。
行基菩薩の来訪を、一日千秋の思いで待ちわびていたが、程なくお出でになった。
そこで行基菩薩に一部始終話したところ、行基菩薩も自分の見た夢と一致すると
一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた。
長者は六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置ししたと言う。

第一には、西方浄土に生まれ出る御利益を授けるというところから、西福寺と名付けた。
第二には、家内安全・息災延命の御利益を授けるというところから、延命寺と名付けた。
第三には、福寿無量に諸願を成就させるというところから、無量寺と名付けた。
第四には、我ら一切の者に安楽を与えるというところから、与楽寺と名付けた。
第五には、常に一家和楽の福徳を授けるというところから、常楽院と名付けた。
第六には、未来は常に光明を放つ身を得させるというところから常光寺と名付けた。

木余りと木残りの弥陀の由来はしかとわからないが、多分余った材料で2体を作ったのかな?