私は、大学時代、ヨット部のマネージャーをしていた。 「けあらし」というらしいが、朝日に透かされるように海面から湯気が立つのを始発の汽車の窓から眺めながら、毎週末はハーバーの合宿所に通った。 高校時代は先輩やドンパでも、一浪、二浪すると先輩後輩がひっくり返る。それでもヨット部の中では1年メ、2年メ、3年メ、そして神様である4年メ、直接口をきいてはいけない5年メと、そこでのキャリアの序列は絶対だった。 上にホタルをやれと言われれば、1年メ達は喜んでトイレットペーパーでフンドシをし、火のついたタバコをオシリの隙間から挟み、ジェンカのように繋がって、「ほー、ほー、ほーたる来い!」と踊ったものだ。しかも定食屋の小あがりで。 なぜ、そこまで厳しいか。 それは海をアナドッテハイケナイからだ。そこはスパッと割り切って、キャリアが上のものに服従しないと命を落とすことに繋がるのだ。弁当をチャッカー(救助艇)から手渡しする時、よく、その弁当やハシも落としたが。一瞬の不注意で、大切なメガネや時計やタバコも、ゆっくり揺らめきながら沈んで行くのを見ているしかなかったものだ。 それほど、海は非情なのだ。 毎日早朝にラジオの気圧情報を聴き、気象台にも訊いて天気図を作成するのだが、それでもみるみる大シケに見舞われる時もある。 大好きなキャプテンのフネが、 何メートルものウネリに翻弄されて、次の瞬間マストの先まで見えなくなったりするのだ。「オレはいいから、アイツらの方に行ってやれー!」「キャプテ〜ン!」「行けーっ!!」‥‥の世界だ。 それほど、海は過酷なのだ。 その日は、春4月、まだまだ水は氷のようだった。ヨットが沈(チン)すると、それから何分経ったかを計り始める。 キャプテンは、二人をチャッカーに引き上げ、フネを捨てることを選んだ。毎日、外した巨大なセールを洗い、なでるように塩水を落としたフネから、なぜ今、自分達は離れて行くのか!みんなは引き裂かれそうな思いに貫かれていた。 あひるの行列のように、いくつものセールを降ろしたフネをチャッカーに繋げ、波が高くて入れなかったハーバーを迂回し、隣の漁港に何とか着けると、防波堤のコンクリートにうずくまり、そのフネの二人は泣いていた。唇はムラサキになり、強い震えが襲っていた。 「ダメだ!海上保安庁は動いてくれない!」 どんどん沖に漂流していくフネを、誰もが諦め切れずに、陸(オカ)で右往左往していた。私も突端の小山を駆け登り、灯台の双眼鏡を無理を言って借りた。次々とめくれていく白波の合間に、今や完沈して2ミリの船体に1ミリのセンターが立っただけにしか見えない私達のフネをようやく発見した。 このまま、沈んでいく弁当のように、ただ見ているしかないのか‥‥ と、その時、一隻の古びた漁船が視界に入ってきた。これから沖に出るフネなんてあるのか?ああ、ダメだ!もう水平線を超えてしまった。双眼鏡ではこれ以上追えない‥‥ ペタンペタンと坂を下り、とりあえずトボトボと漁港へ向かった。 明日のレース用の弁当のおかずに、この間ハーバーで転んでヒザを擦りむいた1年メが血が止まらず大変だったので、栄養をつけるために市場からレバーを買ってきていた。早く下ごしらえしないとな‥‥勝てるかな‥こんな気持ちで‥ ぼんやりと顔を上げた。一瞬頭が混乱した。酒屋から一升瓶をぶら下げたキャプテンが、赤黒い潮焼けの顔をほころばせて、何やら数人と談笑しながら歩いて行くではないか! 慌てて後を追うと、「やっぱ、海の男だよな!」と口々に言っている。何だ?何なんだ??? 私が灯台の小山を登ったり降りたりしている間に、漁港に戻ったばかりの、ある漁船の親父さんが、彼らの様子を見て「乗れ!」と一言、留まる間もなくUターンし、方角を知らせると一発であのフネを見つけ、同乗した部員でフネを起こして繋げ、めでたく帰ってきたというのだ。 終始無言の親父さんに、自分達の速攻でできるお礼はこれしかないと、それぞれのカッパのポケットの、小さな四角いタッパーに入れたタバコの陰から小銭を掻き集め、ポン酒を買って進呈するところだった。 海の男の粋に直撃され、誰もがしばらく心酔していた。黒いトックリセーターの漁船の親父さんは、まるで高倉健のようなヒーローだった。 夕食後のヤル気満々のミーティングを背中で聞きながら、洗い物を終えた私は、市場から買ってきた新聞紙の包みを開いた。二重のビニール袋に包丁を入れると‥‥ヒッ‥‥!!!!! 牛の肝臓、一個ゴロン。 30人分の弁当のおかずだとは、肉屋のおばちゃんに確かに言った。足をすくませてクラクラしながら、私も私で気合いをいれて、下ごしらえを始めたのだった。 |