ある中学生の死
私が研修医としてある病院の放射線科で勤務していた時の話です。
中学1年生のE君は悪性リンパ腫と診断されました。
胃に発症した悪性リンパ腫で、外科で手術を受けました。
しかし、その後頚部リンパ節に転移したため放射線治療目的で放射線科に転科されました。
まだ研修医の私が担当医になりました。
たいへん素直な性格で、なかなかの美男子でした。
外科ですでに化学療法を施行されていましたが、血液の悪性疾患はなかなか改善することがなく、一時的に良くなっているように見えていましたが、実際はかなり進行しており、完全に治癒することはないと思われました。
頚部リンパ節への転移は毎日増大していきました。
痛みをとるために麻薬の投与を行いました。
麻薬が切れると激痛が走り、痛みをとって下さいと主治医の私に薬の追加を要求するようになりました。
麻薬の投与量は毎日増え続けました。
E君の場合、本当の病名を告げて、その真実を「受容」するにはあまりに若すぎます。
私は両親と相談して結局告知はしないことにしました。
しかし、この悪性の病気は残酷なことに14歳の少年の頚部から口腔内に浸潤し、咽頭粘膜や舌の腫大が進んできました。
毎日増大が進行し、顔貌がだんだん醜くなっていくことは鏡を見れば本人にも明らかなことでした。
私は「大丈夫、大丈夫。放射線の効果が出れば元通りになるよ。」などと明らかな嘘をつき続けました。
放射線の効果もほとんどなく1日に2回照射も試みました。
しかし、残念ながら腫瘍はどんどん増大し、しゃべることができなくなり、腫大した舌は正常の10倍ほどになり、口から飛び出し、口を閉じることすら出来ないようになりました。
E君は私以外の面会処置を拒否するようになりました。
看護婦さん、両親、当直医すべての診察看護介護を拒否しました。
そして、深夜の麻薬注射も私以外の医療スタッフが行うことを拒否するようになりました。
それから私は毎日病棟当直を交代するようになりました。
本人が私以外を拒否する以上仕方がありませんでした。
そして結局ほぼ1ヶ月連続で当直をし続けました。
E君の腫大した舌は大きく飛び出し、唇はもちろん、鼻も隠れてしまうほどでした。
かわいそうで目をそらしたくなる顔貌でした。
しかしE君は私の目を見つめ私の治療のみを要求し、他のスタッフの処置を拒みました。
全身状態が極めて悪くなったため、私は両親にE君の余命は1ヶ月くらいだろうという説明をしました。
両親も心の衝撃を受けながらもE君の死が近づいていることは受容せざるを得ない状況でした。
その3日後とんでもない相談が両親から私にありました。
なんとE君のクラスメ−ト全員が担任の先生と一緒にお見舞いに来ると言うのです。
クラスの人気者だったE君ですが、本来の顔とはかけ離れた醜い顔貌になっていました。
両親はどう対処してよいのかわからずうろたえるばかりでした。
その情報は両親からE君に伝えられていました。
E君はその日の夜私に筆談で話があると言ってきました。
「先生、僕、死にたくない。でも死ぬんだね。
一つだけお願いを聞いて下さい。
クラスの友達と会う日だけでいいからこの顔と舌の腫れをもとに戻して下さい。
僕の好きな女の子も来るんです。」
私は胸が張り裂けんばかりの辛い気持ちになりました。
翌日私はこの悪性リンパ腫治療経験の豊富な各科の先生を訪ねました。
そして彼の希望を少しでもかなえる治療を相談しました。
結局、ある薬物の投与しか方法がないという結論でした。
死期を若干早めるかもしれないが腫れがひく可能性があることを両親に説明しました。
両親は息子のお願いを聞いてやって欲しいと私に頼みました。
クラスメ−トがお見舞いに来る前日にその薬を投与しました。
幸いこの薬が著効し、翌日にはE君の顔は劇的に浮腫がとれ舌も口腔内におさまりました。
しゃべることは出来ませんでしたが、以前のE君の顔に近い状態になり、クラスメ−トに対して笑顔で対応していました。
それから数日でまた腫れや激痛がひどくなり、これ以上生きて欲しいと願うほうがどれだけ残酷なことか、みんな分かっていました。
E君はクラスメ−トにあった10日後この世を去りました。
たった14歳でさぞかし無念だったと思います。
私は主治医として彼をもっと生かしてやりたかったと思い涙が止まりませんでした。
しかし、E君の命はたいへん短いものでしたが、クラスメ−トの前でたった一日だけですが輝くことが出来たと思います。
そのお手伝いが出来たことだけが私の心の救いです。