第32回

診療裏話2(忘れ物)

00.7.17

うらばなし2.
      
 「忘れ物」

85才のTさん(女性)は、軽い痴呆があります。
でも、もともと几帳面な性格で自分がよく物忘れをすることを自覚しており、
いつも忘れものをしないように注意されていました。
毎日食事の後に入れ歯の洗浄をされるのですが、
この入れ歯を洗面所に置き忘れないようにと気にされていました。
このTさんが2週間前から軽い気管支炎で入院となっていました。
そろそろ、退院させていいのではと思っていたある日のことです。

「先生。わたしゃもうだめじゃ。」
Tさんは困った様子で廊下をウロウロしています。でも別に体調が悪い様子でもない。
「どうしたんですか?何か心配事でもありますか?」
「またやってしも〜た。もうだめじゃ。
この物忘れにも困ったものじゃ。
あれだけ忘れんように気をつけていたのに、
入れ歯を洗面所に置き忘れてなくしてしもた。」
相当なショックを受けているようでした。
なくした入れ歯をまた買わなくてはならないことよりも、
気をつけていたのになくしてしまったという自分の物忘れに腹が立っている様子でした。
「わたしゃぼけよる。もうだめじゃ。」
「それは心配ですね。みんなで探しましょう。小さい入れ歯ですよね。」
「いや、わたしゃ総入れ歯じゃ。あんなでかいのなくすなんてやっぱりぼけよる。」
「えっ。総入れ歯??」
私は唖然としました。Tさんの前歯はちゃんと先程から見えていたからです。
「Tさん!入れ歯は、はめておられるのではないですか?」
Tさんは口の中に手を入れ確認しました。
「あっ。ほんとじゃ。ちゃんとはめとる。
よかった〜。先生わたしゃ、とうとうぼけたかと思いましたよ。
ちゃんとはめとる。ぼけじゃなかった。よかった、よかった。」

私は、よかったねと言ってその場を去りましたが、
ナ−スセンタ−に駆け込みそこで笑いが止まりませんでした。
だって、本人は喜んでいるけど、
入れ歯を入れてることすら忘れているのだからもっと悪い。

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