lost childhood
偶さか目にした情景。
しかし脳裏に引っ掛かった既知感。
―――そうだ、これは前にも目にした事がある。
デュナンの大湖のほとりにて名乗りを上げた新都市同盟軍。
その軍主たる少年は暇さえあれば、いや無くとも作り出して方々へと出掛けるのが常である。今日は東へ明日は西へ、次は南へ今度は北へと法則性はまるでない。だからか付き合う面々もその都度違った。
ハイランド軍の目が気になる東の地へと、仲間探しに出掛けるというその日に、カミューとマイクロトフが呼ばれたのは偶然だった。そして立ち寄った小さな村で、潜んでいた少数のハイランド兵が、敵わないと見て逃げ出しざまに火を放っていったのも、予期せぬ出来事だった。
長く雨の無かった事もあり、木材で建てられた家屋の燃える早さは尋常ではなく、瞬く間に火は大火へと変化したのだ。
幸いながら同道していたルックが『流水の紋章』を宿していたのも偶然で、何かを命じられる前にさっさと紋章を発動させて、意識的に火の勢いを抑え込むルックを横目に、マイクロトフもまた村の中央に井戸があったのを思い出して駆け出そうと身を翻した。
ところがカミューが動かない。
燃え盛り、見る間に乾燥した家々が梁や柱を露わにする様を前に、棒のように立ちつくしているだけだった。
「カミュー!」
何をしている! 怒鳴ってもまるでそよぐ風に揺れる梢のように、ゆらりと振り返ったのは、おぼろげに焦点の合わない眼差し。
そのあまりに尋常らしからぬ様子にマイクロトフは眉根を寄せたが、穏やかに問い掛けている暇は無い。炎は貪欲に風を孕んでますます大きくなっていくのだ。
仕方なくマイクロトフは拳を作ると、ずかずかと歩み寄りその頭を強かに殴りつけた。
ごつん、と鈍い感触が拳を通して伝わる。刹那胸が痛まないでもなかったがそれを抑え込んでマイクロトフは怒鳴った。
「井戸は向こうだ!」
「あ……」
痛みにか僅かに顔を顰めたカミューが何度か瞬く。だが直ぐにはっきりとした光を湛えた瞳がマイクロトフを捉える。
「急げ!」
怒鳴り捨てて駆けだすと、直ぐに後を追ってくる足音が聞こえてきてマイクロトフはほっと安堵する。どうやら正気に戻ってくれたらしい。
だからその時は、大して気にもせずマイクロトフは井戸に向かって猛然と走り出したのだ。
後になって、そんなカミューの様子を思い出して堪らない後悔に苛まれてしまうのも知らず―――。
村はトトの村に程近い小さな村であった。
大軍ハイランドも、小さすぎて目に掛けないような貧しく慎ましい村である。
そこに何故ハイランド兵がいたのであろうか。
幸い迅速に対応したおかげで、家畜小屋が燃えただけで人にも獣にも怪我は無く類焼も無かったので、あたりに漂う火災後の臭気以外は大した被害は無く事は済んだ。
ところが村人たちが安堵に胸を撫で下ろし、改めて同盟軍の一行を笑顔で迎え入れた頃、ビクトールが逃げ損ねて隠れ潜んでいたらしいハイランドの者を一人だけ捉えたのである。
男は一見して細く貧相な身体つきで兵士には見えず、しかし紛れも無いハイランドのブライト王家の紋章を刻んだ木箱を大切そうに抱えていた。その如何にも重たげなそれによって逃げ足が送れたのだろう。地面に押さえつけられながらも懐に隠すようにしまいながら、男は必死の形相で目だけを爛々とさせてビクトールを睨み上げていた。
「ったく、火なんぞつけやがって」
忌々しげに吐き捨てるビクトールに、しかし捕らえられたハイランドの男は無言で睨むばかりである。軍主の少年はそんな男に困ったような眼差しを向けつつも、その懐の木箱を注視した。
「それ、なんですか」
「ん? ああ、おい寄越せ」
少年の言葉にビクトールが腕を伸ばす。だがその手は激しく叩き退けられた。
「触るな!!」
男の甲高い叫びが耳に痛く、思わず顔を顰める面々に、しかし男は木箱を抱え込んでぶるぶると震えた。どうやらよっぽど重要な代物らしい。
「どうするよ」
「うーん、これはちょっと連れて戻って詳しくお話聞かせて貰わないと駄目かな」
ビクトールの言葉に、少年が困ったような顔で呟いた。すると途端にルックが異議を唱えた。
「反対だね。そんな得体の知れないモノを城に入れるなんて冗談じゃない」
「でもルック、置いていく訳にはいかないよ。逃げられても困るんだし」
少年の言葉に尤もだとビクトールが頷くのだが、ルックは尚も首を振った。そして外見と比べて大人びた眼差しでひたと蹲るハイランドの男を見定めて、その腕の中の小箱をひっそりと指差す。
「違う。そんな男のことを言っているんじゃないよ。そいつの持ってるモノが嫌だと言っているんだ」
そのルックの言葉に、彼の指差す先を皆が見る。
別段、なんの変哲もないような小さな木箱である。抱える男は怪しげで何をしでかすか分からない緊張感が漂っていて恐ろしいが、ハイランドの印象が刻まれたそれは、中身は分からないがさほどの危険物には見えないのだ。
しかしルックはまるで嫌悪するものを見るような目でそれを睨み下ろしていた。
「得体の知れない物には、容易に手を触れるべきじゃない。これは忠告じゃないからね」
「おまえ、これの中身が分かるのか」
ルックの口調に触発されたか、ビクトールがちらりと斜めに木箱を見詰めて問う。
「分かれば『得体の知れない』なんて言うわけがないだろ。ただ感じるんだよ、すっごく嫌な気配をね」
そして腕を摩り、近くに居るのも嫌だとでも言いたげにルックは一歩後退った。その態度に今度は一同の目が恐る恐ると男の木箱に注がれる。
「え……っと、そんなに嫌な感じがするんなら、ちょっと怖いかも」
ナナミがぽつりとそんなことを言う。
正直、ルック以外の者にはそんな嫌な気配どころか何も感じられないのである。半信半疑ながらも風使いの少年の言葉をまるっきり無視することも出来ない。
一同がそうして途方に暮れかけた時だ。
「では、ここで木箱の中身を白状して貰わねばなりませんね」
思いがけない発言の主は、それまで黙り込みその存在感すら無かった筈の青年だった。
「カミュー」
それはマイクロトフすら思わず驚きに目を瞠った程の不意だった。
それくらいに、カミューのそれまでの気配は薄かったのだ。そして他の面々も唐突の発言に、その内容よりもマイクロトフと同じ意味で驚く。
「あ…っと、なんだって?」
ビクトールが慌ててカミューに向き直って改めて問う。どうやら彼もすっかりカミューの存在を忘れていたらしい。いや、忘れさせられていたと言った方が正しいのだろう。
常ならばその華やいだ容貌もさることながら、カミューという青年の挙動は実に隙がなく、それでいて目の離せない優美さがある。それが本人自身の意思によってすっかり気配ごと、路傍の石のように掻き消えれば誰だって、意識の外に置かざるをえなくなる。
だが降って湧いた困り事に、存在を消しても居られなくなったと判断したのだろう。自分の突然の発言に一同が驚きを見せるのに、淡い苦笑を浮かべながらカミューは、絶妙の距離感を保っていたそこから数歩だけ前に進んだ。
たったそれだけで、その場の目が全てカミューへと集中する。人の注目を浴びる事に何の抵抗も感じない立ち居振る舞いだった。
だが反面、それまでの一切を感じさせなかった気配が気になるのだが、それを問うより先に青年が口を開く。
「連れ帰るのが出来ないのならこの場で対処するより無いでしょう。放って帰るわけにもいかないのなら」
「う、うん…そうなんだけど」
しかし相槌に惑う少年の視線の先には、未だ地面に蹲ったままぶるぶると震える男の奇妙な姿があるのだ。これをどうすれば良いと言うのだろう。さっきビクトールが手を伸ばしただけで、あの大袈裟な反応を見せたのだ。それ以上となったらどんな事になるか考え難い。
しかしカミューはふっと笑った。
「危険なものならば尚更城には持ち帰れませんよ。不安ならばこの『烈火』で形も残さずに処分も出来ますが」
そして自身の右手をちらりと動かす。
ところがそんなカミューの言葉に過剰反応したのはビクトールに押さえ込まれたままの男だった。
「これを処分! まさか燃やすとでも言うのか!?」
その甲高い声に、ナナミがビクリと震えた。
男はそして腕の中の木箱をぎらぎらと見詰めてその口の端を歪めた。
「馬鹿な事をっ、言うなっ! これは紋章などで燃やせるものか! ハハハハハ!」
そして狂ったように笑う男を、一同は呆然と見る。ところが男のその腕が動いて指が木箱を封印する紐に掛けられたのを見た時、ぎょっとした。
「お、おいっ!」
ビクトールが慌てた声を出し、その腕を掴む。しかしそれは遅く、既に男の指は紐を引っ張りそれを解いていた。途端にルックの身体が強張り冷気が降りる。
「っ……冗談じゃない。早くそいつを気絶でも何でもさせてその紐を元に戻すんだよ…!」
ルックの怒りに満ちた声にビクトールは応えようとした。だが男はそんな細い身体の何処に力があるのかと疑いたくなるような動きで傭兵の腕を振り払うと、木箱の蓋に掌を載せた。
「見ろ! こいつを見ろ!」
そして大きく蓋を開け放ち、中身を晒した。
「……!」
木箱に納められていたもの―――それは。
「紋章球……?」
カミューがひっそりと呟いた。しかしその声に確信の響きはない。それもその筈、紋章球とは、本来なら透きとおる硝子のような球体の中央にはっきりと紋章の陰影が浮かんでいる。だが今彼らの目の前に晒されたそれは、鈍く曇った球体の中に、色合いも黒だか赤だかはっきりしない何かがぼんやりと輪郭もなく浮かんでいるだけだった。
しかし男はそんな一同の驚きは承知の上だったのか、その歪めた笑顔を更に歪めて震える骨ばった手でそれを取り出した。
「そうだ! これは紋章球だ! だが、中身は紋章じゃない……! 我がハイランド軍の傑作……!!」
そして男は球体に頬擦りをして、うっとりと呟いた。
「炎如きでこれが消えて無くなるものか……こうして我らが作り上げた紋章球の中で漸く安定しているのに……」
それから一転、再び爛々と光る目で周囲を睨みつけて、鷲掴んだそれを高く振り上げた。
「始末できるものならして見せるが良い! これはおまえらにとっての恐怖そのものだっ!!」
どうして、男がその掲げた腕を降り下げるのを黙って見ていたのだろう。
ルックが警告していたのに、どうして誰もそれを男の手から奪いとらなかったのか。
くすんだそれが、地面に叩きつけられ粉々に砕け散るのを呆然として見ていたのはどうして―――。
「ぎゃああああああ!!!」
男の絶叫で、一同は我に返った。
そして砕けた紋章球から飛び出した何かが、男の身体に纏わり付くさまも。
それは黒っぽいような赤っぽいような奇妙な色をした煙で、しかしまるで意思を持つ泥のような動きで男の全身を覆いつくし、口や目から男の内側へと侵食していったのだ。
「な、何が起きてるの……」
ナナミが震えた声で問うのに、誰も答えられなった。
モンスターなのかと聞かれても、今までこんなものは見たこともなかった。ならば紋章なのかと言えば、やはり答えは同じだ。
だがそうして一同が為す術もなく見守る中、煙は全て男の内側へと消えた。だが、見掛けだけは煙に纏わりつかれる前の状態に戻った筈の男の様子は、違っていた。
その瞳からは生気が抜け落ち、だらりと開けた口は虚ろで、一瞬硬直したように立ち尽くしていたのだが、次には糸の切れた操り人形さながら男の身体はばったりと地面に倒れ伏した。
それから何度か男の身体はビクビクと痙攣したかと思うと、突然ぐんにゃりと力が抜けたのだ。そして。
「きゃ……っ」
「うわっ」
どろり、と生気の失せた男の口から先程よりも若干赤みが増したソレが出てきたのである。その異様な様に思わず後退る面々であるが、一人ルックだけは同じ場所に立ったまま厳しい顔でソレを見ていた。
「禍々しさが強くなってる……これって、どういうことさ……」
だがその呟きは次の瞬間ナナミの悲鳴に掻き消された。
「きゃあああ!!」
「カミュー!」
少女の叫びとマイクロトフの怒声。
その視線の先には右手の甲に宿る紋章を赤く染めたカミューの姿がある。そしてその身体に襲いかかる煙と―――。
「カミュー! 逃げろ!!」
危険だ。
確かめる術は無いがあの男は既に息絶えている。
それはつまり煙が男を害したという事だ。
それなのにカミューはそんなマイクロトフの声に動けなかった。
何故か。
その背後には軍主の少年が立っていた―――動けなかったのではない、動かなかったのだ。
「カミュー!!!!」
絶叫の中、煙は瞬く間にカミューの身体を覆い尽くした。
* * * * *
ところが一泊遅れて更に信じられない情景にマイクロトフは息を呑んだ。
カミューの身体を覆いつくした煙のようなそれが、一瞬後に真っ赤に染まった。―――いや、それは炎の色だった。
「カミュー!」
マイクロトフの絶叫に反応する声は無い。
その右手の烈火の陰影だけがはっきりと浮かび上がって、燃え上がる炎の色に包まれながらカミューの身体は棒立ち状態だった。彼は、身を包むそれを紋章の炎で更に包んでいるのだと、漸くマイクロトフが理解した時、唐突に煙は視界から消え去った。
「え……」
そして先程の男と同様、まるで何事もなかったかのような―――服が所々焼け焦げて悲惨な有様になってはいたが―――状態に戻ったカミューが、やはりばたりと地に伏せた時、やっとマイクロトフたちは膠着から解き放たれた。
「カミュー! カミュー!」
わけが分からなくて、後ろでビクトールが危険だと叫ぶ声も無視してマイクロトフは倒れたカミューの元へと駆け寄った。
男の口からどろりとこぼれたあの奇妙な煙のような泥のような。
あれがもしカミューの体内に侵入していたら。
そう考えた時、少し離れた場所に転がる男の屍が視界の隅に入って、どきりと心臓に痛みが走る。
カミューがああなったら。
為す術もなく一瞬であの暖かい身体を奪い去られたら。
ぞく、と氷の刃で身体を貫かれたような錯覚にマイクロトフは震えた。
だが伸ばした指先が触れたカミューは息をしていた。
紋章の炎に炙られた肌が煤けて痛々しかったが、カミューは息をしていた。その事にほっと安堵をして、気を失っている彼の身体を抱え起こす。
すると背後から緊迫した声がかかる。
「カミューさんは?」
振り返ると手の甲に盾の紋章を輝かせる少年の厳しい眼差しがあり、マイクロトフが強く頷くと少年は黙ってそれを発動させた。白い清々しい光がマイクロトフ共々カミューを包み込む。途端に火傷がするすると消えて行き、焦げた服だけが残った。
「カミュー……?」
その頬を軽く撫でるように叩くが、閉じられた目蓋はぴくりともしない。マイクロトフは眉根を寄せてそんなカミューの額や指先に触れるが、慣れたそれよりも幾分高いような体温に唸る。
「マイクロトフさん、戻りましょう」
「おいルック、この期に及んでカミューを連れ帰れねえとは言わねえよな」
少年の言葉に呼応するようにビクトールが呼びかけると、ルックは不機嫌な眼差しでそんな傭兵を睨む。
「馬鹿じゃないか。それより、その男の遺体も持ち帰るんだよ。城で調べる」
「え、あいつもか……」
途端にげ、と顔を顰めたビクトールの横を、ルックは澄ました顔で通り抜けて屍の手前で立ち止まる。そんな彼の杖の先が地面に転がる木箱に触れた。
かつん。
転がった小さな木箱の底が露わになった途端、そのルックの目が変わった。
「……『夢魔(nightmare)』…だって…?」
砕け散ったくすんだ紋章球の欠片が無残なその場所でひっそりと落ちたルックの呟きは、その時吹き抜けたささとした風にそっと掻き消されたのだった。
会議室には沈黙が降りていた。
ただ一人立っていたルックが静かな表情で目を伏せ、マイクロトフは握り込んだ拳が震えるのを抑えられず。他の者達は青褪めた表情で発するべき言葉が見つからずに黙り込むしかなかった。
時は数刻前に遡る。
カミューは医務室に収容され、ホウアンが診ているもののいっこうに目覚めない。だがルックが幹部連中を集めるよう指示したのだ。
集まったのは新都市同盟軍の中でも頭領以上の連中である。遅れてやってきたルックは詫びるでもなく手にしていた重そうな書籍を置いてから、そんな一同を一瞥して徐に口を開いた。
「最初に言うことはひとつ。このままだとカミューは目覚めない」
途端にマイクロトフがガタッと椅子を鳴らして腰を浮かせた。
「ルック殿! それはどう言う……!」
だがルックはそれをちらりと見やっただけでいなすように手を振った。
「焦らないでくれるかな。理由はこれから説明するよ」
そしてルックは重々しい書籍を開くと、テーブルの中央にずいと押し出した。
「『夢魔(nightmare)』という魔物がいる。詳しくはそこに書いてあるから知りたい人だけ読んで。掻い摘んで説明すると、人の夢の中に訪れてその精気を吸う魔物でね、説は色々あるんだけど、この魔物にとり憑かれると昏々と眠り続けて、死ぬまで目が覚めないんだ」
ルックの説明にビクトールが「おい」と口を挟んだ。
「じゃあカミューはそいつにとり憑かれたっていうのかよ」
「いや、違う。今度はこれを見てよ」
ルックは小さな木箱を取り出した。
「これはカミューに取り付いた煙が封印されていたものが納められていた木箱だよ。裏に『夢魔』と書いてあるんだけど、良く見るとその前に『悪』って掠れた字であるんだ。つまり『悪夢魔』……死んだ男は最期に、これは僕らにとって恐怖そのものだ、と言ったけど、通説通りの夢魔なら緩やかな死が訪れるものなんだ。しかもとり憑かれた者は淫蕩な悪夢を見ながら、ね。だけどあの場に居た者なら見たよね」
ごくり、とマイクロトフは唾を飲み込んだ。
忘れようがない凄惨な情景だった。
男は絶叫を迸らせ、ガクガクと痙攣して死んだ。そのあまりに急激な死と苦しみぬいたような凶相。あの何処にも緩やかさも淫蕩さも無かった。だからこそ次にカミューがその魔手にかかった時、あんなにも心が冷えたのだ。
「確かにあの死に様じゃあ恐怖を感じるね。あの男を調べたけど、やっぱりあれは紛れも無くあの煙によって殺されたんだ。だけど不思議なことにカミューは同じようにとり憑かれたにもかかわらず、まだ生きてるよね」
そうだ生きている。
あの男とカミューとの違いと言えば。
「カミューは『烈火』を発動させていた。それがその魔物に多少なりとも打撃を与えていたのではないか?」
マイクロトフがそう言うと、ルックはこくりと頷いた。
「そうだね、幸いにも火に弱い魔物だったのかもしれない。だけど、その攻撃も完全じゃなかった。即死は免れたけど、あの魔物はまだカミューの中にあってその命を奪おうとしているんだからね」
その名の通りに夢魔の如く、ゆっくりとカミューの命を削り取って。
「直ぐには死なないといっても油断は許されない。早く退治しないとカミューの精力は奪われるばかりで、結局死ぬことになるからね」
つまりルックの言いたいことは、夢魔に似て比なる魔物がカミューにとり憑いていること。
その魔物は本来なら即座に命を奪う凶悪な魔物だが、火の攻撃に弱いらしいこと。
直ぐにでも退治しなければカミューの命が危ないこと。
しかしルックは更に続けた。
「それにね、このままもしこっちの手が間に合わずにカミューが死んでしまったとしたら―――」
その言葉に思わずマイクロトフはルックを睨みつけていた。すると彼は嫌そうに顔を顰めて首を振る。
「ちょっと、仮定の話なんだからそんな怖い顔しないでくれる」
「すまん……」
「いいけどさ……まぁ、それで。魔物がカミューの命を奪えば、奴は間違いなく次の獲物にとり憑くよ。しかも今度はきっとカミューの命を得て充分な力を取り戻して居るはずだから、今回のような猶予は与えられないだろうね」
そこで漸くルックの言いたい事が分かってマイクロトフは顔を険しく顰めた。その傍らでビクトールが喘ぐように言葉を漏らす。
「それってつまり……もしカミューが殺されたとしたら、あっという間に地獄絵図ってことかよ」
「そう。カミューが夢魔の見せる悪夢に呑み込まれてしまえば……そしてあの魔物が次に解き放たれたら、今度こそあの男の言うとおり、僕らは恐怖を味わうだろうね」
そしてルックのそんな言葉に、シン……と会議室が静まり返ったのである。
それから最初に口を開いたのはマイクロトフだった。
「ルック殿、夢魔の退治方法を教えて頂きたい」
マイクロトフの瞳は強い光を湛えて、握り締めた拳は力が込められすぎて震えてすらいない。
ルックはそんな騎士をすうっと見下ろすと、小さく溜息を零した。
「勿論教えるよ。だけど、夢魔の退治は難しいんだ……何しろ他人の悪夢が相手だからね」
「他人の悪夢……?」
マイクロトフが眉根を寄せて聞き返すと、ルックはそうだと頷いた。
「つまり今回の場合なら、退治者はカミューの見ている悪夢と戦わなければいけないってことだよ。果たして彼の見る悪夢はどれ程のものなのかな―――」
酷くなきゃ良いけど。
ルックの呟きに、マイクロトフは更に顔を険しくしたのだった。
* * * * *
深夜の医務室。
あれから一度も意識の戻らないカミューの傍にマイクロトフは居た。
眠る人間の意識に潜るにはそれなりの準備が必要らしい。明日の朝まで何もすることがないらしいからゆっくり休めと言われたのだが、カミューを残して一人で部屋に帰る気もなく、こうして医務室に残ったマイクロトフは、静まり返ったそこで考えに耽っていた。
去り際ルックはこう言った。
「この城に普通じゃ考えられないくらい人材が揃ってるからこそ出来るんだけどね」
どうやら普通ならば他人の意識に潜るなど無理難題らしい。そこはやはりカミューの運の良さなのか。いや、そもそも夢魔にとり憑かれた時点で運が悪いのだろうが、それにしてもこれ程迅速に謎を解明し、その対応手段を講じてくれたルックには感謝せねばならなかった。
夢魔。
あれからルックの示した書籍に目を通したマイクロトフだったが、今までそんな魔物の名も知らなかったし、今カミューがそれにとり憑かれているのだと聞いてもピンと来ない。
しかしルックの言葉を疑うつもりはない。こうしている間も熱に汗ばんだカミューは息苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。マイクロトフはしっとりと濡れたカミューの前髪をそっと掻き上げて、項垂れた。
「カミュー……」
―――お前を苦しめる悪夢がどんなものなのか、俺には分からない。
他人の悪夢ほど恐ろしいものはないとルックは言った。
悪夢の理由も根拠も対処も分からない、ただの恐怖がそこにあるだけだからだ。生半可な気持ちで触れたならば逆に食われ呑まれてしまうに違いない。
だから心して取り組まなければいけない。その為の準備を一晩掛けてするのだ、と。
そうまで言われてマイクロトフは黙り込むしかなかった。
カミューを苦しめる悪夢。
それがどんなものなのか、少しも想像がつかない自分に気付いたからだ。
悪夢とは大抵、本人が過去に体験した何かが起因している。
しかしマイクロトフは騎士団に入ってからのカミューしか知らない。出会った頃のカミューは既に今と同じようなカミューで、彼は自分の本音を上手く覆い隠し、上手な人付き合いの出来る人間だった。
誰にでも柔らかな微笑を浮かべ、決して相手が不快になるような言動をせず、何でも優秀にそつなくこなして―――。
マイクロトフは、それ以前のカミューを知らないのだ。
知っていることと言えば、グラスランド出身だということ、それから兄がいるらしいことくらいだろうか。無二の親友と言っておきながら、滑稽なほどマイクロトフはカミューの少年時代を知らないのだ。
もしも、今カミューを苦しめている悪夢が、マイクロトフの知っているカミューが体験したそれから来ているのならまだしも、それがマイクロトフの知らない過去だったら、自分はどうすれば良いのだろう。何か彼のために出来ることがあるのだろうか。
―――カミュー、お前は今どんな苦しみを味わっている。
マイクロトフは毛布の中に手を忍ばせて、そこに横たわるカミューの右手を握った。
触れた甲からマイクロトフの掌に伝わる熱が、己の知るよりもずっと熱いのに思わず眉を顰めてしまう。
その悪夢を、俺が全部引き受けても良い。
だから頑張れ。
俺が、そこに行くまで頑張れ。
おまえを苦しめる『夢魔』を退治するまで、絶対に死ぬな。
しかしそう祈ってからマイクロトフは自嘲的な笑みを浮かべた。
どんな悪夢かも知らないのに。
どれ程の悪夢に苦しんでいるかも、己は知らないのに。
ただ頑張れとしか言えないとは―――。
「カミュー……教えてくれ」
掠れた声でマイクロトフは願う。
「おまえはどんな悪夢を見ているんだ……!」
そして火傷しそうなほどに熱い手を握り締めて、胸が痛いほどに願った。
どくん。
不意に、鼓動が響いた。
どくん……どくん。
カミュー? とマイクロトフは目を瞬かせるが、異変はあまりに身近すぎて気付けなかった。だが。
…どくん…どくん………どくん!
「あ………!!」
握り締めていた右手が脈打っている。
そう気付いた時、マイクロトフの視界は紅蓮の炎に染め上げられていた。
一面の炎。
突如視界いっぱいに巻き起こった紅蓮の渦に、マイクロトフは驚き逃げ場を探して後退さる。しかし、何故か後ろは無かった。
いや、前も左右も―――足場が無かった。
ただ視界を埋め尽くす炎だけが鮮明で、マイクロトフはその熱から逃れようと足掻いた。ところが、直ぐにそれが現実の炎でないことに気付く。熱くないのだ。
『なんだこれは……』
呟いてから自分の声もなんだかおかしいのに気付く。
声に出している筈なのに、音声として出ていない。そして一瞬後、声どころか己の実体すら覚束無いのを知って愕然とした。
『……!』
それなのに間近に迫る炎だけが現実じみていて、ごうごうと燃え盛っている。だが、マイクロトフはその炎の向こうに見知らぬ景色があるのに気付いた。
板の扉。そして、小さな白い手。
掌がその扉に触れるか否か、その瞬間に躊躇するかのように小さな手はぴたりと止まって震えた。だがそれを叱るような声が背後から聞こえた。
「早く逃げなさい!」
知らない女性の声だ。鋭く、切羽詰った声にマイクロトフは思わず振り返ろうとして、それと一緒に見える景色もぐるりと動くのを見た。
『……なんだこれは』
戸惑いのままにマイクロトフは目の前に広がる炎に埋められた景色を凝視するしかなかった。だが、直ぐに呆然とした凝視が驚きに変わる。
「カミュー! 早く逃げなさい!」
カミュー?
そう叫ぶのは見た事もない美しい女性だった。
淡い金茶の髪が炎にあぶられ、その顔は苦痛に満ちていた。しかし、とても美しいその女性の瞳は、強くこちらを見詰めている。そして再び逃げなさいと強く言った。
だがそこでまた、マイクロトフの知らない声が聞こえた。
「…でもかあさま」
幼くか細い声は震えている。もしかしたら泣いているのかも知れない。途端に目の前の女性がふと微笑んだ。
「母さまも後から逃げるから、大丈夫」
宥めるような声は何処までも優しい。
しかしマイクロトフはその声に潜む偽りに気付いた。
彼女はもう逃げられない。
何故ならその背に深々と突き刺さる短剣が見えたからだ。炎の朱に照らされながらも血の気のない肌が、もう母と呼ばれる女性の末期を教えた。
しかし彼女は再び重ねて言うのだ。
「大丈夫よカミュー。大丈夫」
穏やかな声音でそうやってどうにかして逃がそうとしている。
するとまたぐるりと景色が動いて、また木の扉が目の前に現れた。そして今度こそ小さな手がその扉に触れて、勢い良く押し開けば、真っ暗な夜空が大きくひらけた。
だが一面の星空に目をやる余裕もなく、また景色は回転して今度は燃え盛る家がそこに現れた。ぽっかりと開いた扉の向こうは赤々とした炎が凶悪なまでに渦を巻き、そこに小さく先程の女性が倒れ伏していた。
「かあさま……!?」
女性が動く気配はない。
だが迫る炎に押されるように、微かな声が届いた。
「もっと遠くまで逃げなさい。振り返らないで、走って」
そしてその声に突き動かされるように、また視界が動いて真っ暗い夜の景色が広がる。途端に、風を切って走るように世界が流れはじめた。
だが、どんどんと流れる景色に紛れて小さな声が聞こえた。
―――かあさま。
この声は。
マイクロトフは漸く判り掛けてきていた。
この声は、幼いカミューの声なのだ。
そして今マイクロトフが見たものは、母と子の別れの時だったのだ―――。
* * * * *
一番初めにその異変に気付いたのはトウタであった。
幼いながら医療に従事する身としての自覚に溢れている少年は、夜遅くでもたまに患者の様子を見る習慣を身につけている。この時医務室にはカミューの他にも、ホウアンから安静を言い渡された患者が数名いたので、その具合を見に来たのだ。
そこで、赤騎士団長の眠るベッドに倒れ込むようにしている青騎士団長の姿を見つけたのである。
最初は付き添っているうちに眠り込んでしまったのかと思った。
それならば起こして自分の部屋に帰すか、もし起きなければ余分の毛布などかけてやらなければと思って、トウタは彼らの傍に寄った。そこで気付いたのはマイクロトフが片手を忍ばせていた毛布の、その隙間から漏れる赤い光だった。
まさか燃えているわけではないだろうと、トウタはしかし赤々としたその光に急かされて、そっと毛布をめくり上げた。そしてマイクロトフの手がカミューの右手の甲に重ねるように繋がれて、そこから炎のような光が零れ落ちているのを見た。
トウタは驚き、慌てて師であるホウアンを呼びに踵を返した。
その場には、ホウアンとトウタの他にルックと、それから騒ぎに気付いて起き出してきたビクトールに、元から起きていたシュウが居た。
彼らは一様に難しい顔をして眠り続けるカミューとマイクロトフとを見下ろし、彼らの繋がった手から零れる赤い光に眉を寄せていた。
マイクロトフはどれほど肩を揺さぶっても目覚めず、彼らの手はまるで彫像のように繋がったまま離れなかった。カミューは相変わらず呼吸は浅く青褪めた顔色が不調を教えるが、苦悶に歪められた表情は先刻よりもずっと深くなっているようだった。
一見しただけで、尋常ではないことが起きているのが分かった。
だが、そうと分かっても、原因も理由も詳しく教えてくれる者などおらず、彼らはただ黙するしかなかった。ホウアンなどは、既にこの状況が己の専門外の様相であると知って何も発言しない。
だが不意にルックがぽつりと呟いた。
「紋章が……見せているんだ」
苦いものでも噛んだような顔をしてルックが赤く光る二人の手を示す。
「カミューの『烈火』がマイクロトフに自分の記憶を見せているんだ」
「なんだと?」
ビクトールが訳が分からぬと顔をしかめて、少年の魔法使いを見遣る。紋章と魔法の知識に関しては恐らく、この場の誰よりも博識であろうルックだが、時に彼の発言は説明が少なすぎて人を翻弄する。
シュウがじろりとルックを睨んだ。
「素人にも分かるように説明しろ。紋章が、記憶を持っているのか」
「紋章が記憶を持っていたらおかしい? そこの熊の剣なんて、人格があって感情まで見せるじゃないか」
星辰剣は真の紋章のひとつ、『夜』の紋章が姿を変えて在るものだ。確かにルックの指摘する通り、星辰剣は化身とはいえ紋章でありながら何に宿るでなく自身の意思でその力を行使し、あまつさえ人と同じように喋り、感情を見せる。
ならば記憶があってもおかしくはない。
「だが、星辰剣が特殊なのは認めるが、全ての紋章もそうだとは限らんだろう」
他にも喋る紋章があれば、ルックの言葉にも確実性が持てるがそうではない。シュウがそう言えば、ルックは肩を竦めて首を振った。
「ならカミューの『烈火』が特殊じゃないなんて、誰が言えるのさ。言っとくけど、紋章の力なんて人間の貧相な想像力の枠なんかには収まりきるもんじゃないんだよ。色んな能力を持つ紋章が世界には無数にあると考えるのが普通だろ」
「……けどよ、なんで『烈火』が記憶なんぞ見せてるって言うんだ」
ビクトールが口を挟めば、ルックはちらりとそちらを見遣ってから頷いた。
「マイクロトフが欲していたのは、カミューの悪夢の原因じゃないの? 悪夢っていうのはその人物の体験に起因するものだろ。そしてその体験は記憶に宿る。つまり記憶を探れば悪夢の原因も分かるかもしれない」
ルックはそして、赤い光を見詰めた。
「『烈火』はカミューの生まれつきの固定紋章だから、宿主であるカミューが死ねば『烈火』も終わる。紋章にだって存在する意志があるんだから、宿主を救おうと働きかけても不思議は無いね」
「そんで記憶を見せてるってのか。―――宿主以外の奴に紋章が記憶を見せるなんて話は聞いたことがねえや」
「……出来ない事じゃない…」
ルックは呟いて、己の紋章が宿る手を握り締めた。
「とにかく。マイクロトフの意識は今『烈火』に繋がっているんだろうから、無理に引き離したりしない方が良いよ。少なくとも『烈火』がこうして発動している間はこのままが良い」
淡く揺らめく炎のような光を発し続ける『烈火』。
ところがビクトールはひと声唸って再びルックに問い掛ける。
「だけどよ、このままマイクロトフが『烈火』に意識を奪われっぱなしで、カミューがその間にどうにかなっちまったら」
「有り得ないね」
ルックはきっぱりと言った。
「『烈火』がカミューに不利な真似をするわけがない。こんなに相性の良い紋章と使い手も珍しいんだからね、やばくなる前にマイクロトフは解放されるよ」
「確かだな?」
シュウが念を押せば、ルックは鬱陶しそうに手を振った。
「……あくまで推測だけどね、僕はそう考える」
話はそこで終わりだった。まずシュウが黙って医務室を出て行き、次いでルックもまだ調べものがあるんだと言って去って行った。ビクトールは暫くマイクロトフたちを見ていたが、状況に変化もなさそうなのを見て取って「眠る」と言い置いて部屋に戻って行く。
残されたホウアンも、トウタに休むように言って自分は医務室の簡易ベッドに身を横たえたのだった。
手出しが出来ないのなら、静観するほかに何があるだろう。そして黙って見ているくらいなら、彼らはそれぞれ有意義な事に時間を費やすのである。
一晩中、完全に灯りの落ちることが無い医務室の淡い明かりの中、『烈火』だけが赤々と燃えるように光を放ち続けているのだった。
そして、その『烈火』の中で、マイクロトフもまた己が今『烈火』の記憶を見ているのだと気付きはじめていた。
どうやら、これは紋章の観た世界であるらしい、と。何故なら見える視界は全て幼いカミューの身体の右側からで、彼の左手は見えるのに右手は絶対に見えないのだ。そして時折、視界が暗く閉ざされる事があるのだ―――。
カミューが左手で自分の右手を覆い隠す時。
それは頻繁にではないが、時折起きた。
そうされてしまうと景色は暗い影に包まれて何も見えなくなる。ただ音だけが響いてくるのだ。だからマイクロトフは、見えている景色が『烈火』の見たものだと考えた。
だが考える傍ら、堪らない苦痛を覚えて喘いでいた。
景色が閉ざされるそんな時、聞こえてくる音は大抵いつも似ていたのだ。
それは近所の子供たちの声だろう。
叩きつけるように乱暴な声音が幾つも重なって、カミューを罵る。
口々に、胸が冷えるような子供ならではの率直で残酷な言葉が放たれるのだ。カミューに向けて、容赦なく。
そんな時、カミューは決まって右手を左手で握り込むようにして胸の前で抱えて耐えているのだ。逃げられる時は逃げるが、捕まってしまった時はそうして耐えている。
乱暴なのが言葉だけではなかったからだろう。見えなくても声と音で知れるほど、子供達は拳や足を使ってカミューに絶対の力で襲いかかっていた。
四つか五つの幼子に、大勢で。
そうしなければいけないとでも言うかのような口振りで。
まるでカミューに消えない罪があるかのように。
始まりはあの火事だ。
あれきりカミューの母は姿を見せない。周囲から聞こえてくる声から、結局彼女は火災で倒壊した家の下敷きになって死んだのだと分かったが、その周囲はカミューが幼いと思ってか、歯に衣着せぬ物言いを平気でしていた。
どういう事情があったのかは分からない。だがあの火災が何故かカミューの母自身が火をつけたと言う話になっていた。
烈火が見せてくれる世界は切れ切れで、時間が一気に飛ぶこともあれば緩やかに進む時もあるので、全ての記憶を見られる分けではなかったのだ。
それでもマイクロトフには、カミューの母が火をつけたとは到底思えなかった。彼女は我が子を愛していた。その子―――カミューを危険に巻き込むと分かってどうして火などつけられるだろう?
だが周囲はカミューの母を火付けだと蔑み、下手をすれば他の家屋にも広がっていたと罵った。そしてカミューをそんな最低な女の子供だとしか見なかった。
そして子らは、そんな大人の言葉を素直に聞く。
大人が言って聞かせる必要も無く、大人たちの会話や言葉の端々に聞こえる声を、子供たちは聞き取るのだ。そして感情もまた一緒に受け取って、そのままをカミューにぶつけてくるのだ。
火付けの子と罵り、蔑み、排斥しようとする。
そしてそんなカミューに、味方は誰一人としていなかった。
驚くべき事に、カミューの父ですら、同じようにカミューを罵っていたのだから。
マイクロトフは驚愕していた。
実の親が、我が子を叱るでなく罵り、愛情の欠片なくまるで忌むべき存在のように疎ましく扱う様に。
そんな、初めて知ったカミューの幼少時代に。
今の今までそんな事実を全く知らなかった己に。
何もかもに驚愕して、ただ『烈火』の中で無力に喘いでいた。
* * * * *
カミューは父親と、あまり似てはいなかった。
マイクロトフの知る今でこそ、青年のカミューと父親は背格好が似ているような気がする。だが鏡に写る少年時代のそれとでは、この親子は他人かと思うほどに似ていない。―――それが、ひとつめの不幸だったのかもしれなかった。
そして幼い頃のカミューは、あの炎に消えた母親と酷く似ていた。
髪や瞳の色は勿論、さらさら滑る髪質も肌の白さも、それだけでなく醸す雰囲気が大人の女性と少年という違いがあるだけで、そのまま生き写しともいえた。―――そしてこれが、ふたつめの不幸なのだろう。
更にカミューには腹違いの兄が一人いた。
もともと、カミューの父は妻子があった。しかし妻はどうやら長男を産んで直ぐに身体を壊したらしく、以来病弱なまま寝たり起きたりの生活を繰り返しているらしかった。結婚したばかりの若かった父親が、そんな妻を愛していながらも、美しいカミューの母に目を移してしまったのは仕方がなかったのかも知れない。だが、それによって生まれた不幸は紛れもなく、この男の肩以外にも背負わされるのだ。
原因を生んだのは男一人であるのに、苦しむのは夫に不貞を働かれた妻であり、半分しか血の繋がらぬ弟を持った息子であり、母を亡くしてそんな家庭に引き取られざるを得なかった幼いカミューであった。―――それがみっつめの不幸なのだ。
以前にカミューが、自分は病弱な女性が苦手だとマイクロトフに語ったことがある。
その時は何気なく聞き流していたものだったが、今こうしてカミューの幼年時代を目の当たりにして、マイクロトフはこれが理由だったのかもしれないと重苦しい気分になった。
義理の母は決して悪い人ではなかった。しかし、明らかに義理の息子に対して拭いきれぬ遠慮と、またその背後に夫を奪った女性に対する仄かな恐れを抱いていた。
元は美しい人だったに違いないのに、痩せた青白い顔はどうにも苦痛を漂わせて、儚げで枯れて散りゆく花を思わせる。そんな女性が常に自分を恐る恐ると気遣わしげな眼差しで見たなら、いったいどんな心地であろう。
きっとカミューにとっては病弱な女性は、つまりこの義母を連想させるのだろう。苦手と思っても無理はない。
それなのにただ、少し苦手なんだと苦笑混じりにはにかむだけのカミューしかマイクロトフは知らない。知らなかったのだ。
そして当然ながら、父親はそんな気遣わしげで病弱な妻の味方だった。
愛すべき存在として認め、常にその身体を案じて決して負担になることなど無いように徹底していた。そして、妻の心痛に繋がる不貞の子……己に少しも似ていない、逆に後悔の対象でしかない女性の影を纏う息子を遠ざけた。
しかし、遠ざけるだけならまだ良かった。
父親はその望まなかった次男が、町の者から罵られ蔑まれているのを承知で、それを否定もしなかった。どころか、そのように見られ迫害を受けるのはカミュー自身に罪があるからだと正面から詰った。
四つか五つの子供に、いったい何の罪があるのだろう。
それなのに、唯一絶対の存在である父親は、幼いカミューを断罪した。そしてそれは、カミューが成長しても変わることなく、かえって知恵がついてものの道理が分かる年頃になると、よりいっそうに父親は厳しくあたった。
しつけ、と呼ぶには苛烈すぎるその教育方針は、時に拳も使われたし容赦のない言葉で幼いカミューを痛めつけていた。
それは、カミューが八歳か九歳くらいの頃だったに違いない。
どうにも『烈火』から見える景色だけが判断材料だっただけに、詳しいところは分からない。それに『烈火』の見せる情景は飛び飛びで、数分間を克明に映す時もあれば、数ヶ月を一気に飛ぶ事もある。
それでもそれは十歳に満たないカミューの、季節は冬の頃だった。
カミューの父は、領地持ちの騎士であり町では名士の一人であった。だから、町の者からそれなりの尊敬を受けていたし、妻もその息子も敬意を払われていた。
年のそう離れていない兄は専属の家庭教師がおり、父から剣の手ほどきも受けて、確りとした教育を受けていた。カミューも妾腹とはいえ息子に違いはなかったので、同じように教育を受けてはいたが、兄と同じ教師はあからさまに兄とカミューとを差別したし、父は一度もカミューに剣を教える事はなかった。
そんな環境でカミューは成長したのだ。
だが幼い頃は女児のようだった風貌が、成長するにつれて少年らしい活発さを帯びても、美しかった母の容貌を受け継いだ容姿が損なわれる事なく、魅力を纏っていたとしても、少年になったカミューの瞳に宿る知性は排他的な光を含んでいた。
十歳に見たない子供のする目ではないとマイクロトフは思った。
それは今でも時折カミューが見せる瞳にも似ていて、またマイクロトフは胸に痛みを覚えるしかなかった。
幼い頃は亡き母の面影を想い、哀しげでも無垢な瞳をしていたが、その頃はもうそんな無垢な光は欠片もなかった。いっそ無表情と言っても良い。今、あれほど常に微笑を湛えている笑顔ばかりの男が、少年時代に一切の笑みを浮かべない様が、マイクロトフには辛い。
しかしそれも当然かもしれなかった。
カミューが今自分の隣に並び立つ存在であるのが不思議なほどに。彼がマチルダにやってきて、騎士団で位階を極めた事が奇跡であるように思う。
父親によるしつけと称した虐待など日常だった。
そこで漸くマイクロトフはカミューの身体に点在する古傷の意味を知った。それまでは何となく、無茶をしてつけたのだと思い込んでいた浅はかさを呪った。
あの古傷の一つ一つにカミューの心を抉る記憶が宿っていたのだ。その全てを覚えていられる筈がなかったのだ。前にこれは何の傷だと問うた時、なんだったかなと本気で思い出せないでいた彼の、あの苦笑めいた表情が悲しかった。
そして同年代の子供たちによる、迫害と暴行。
うまく立ち回っていても、それでも逃げ切れない時がある。不意に紋章に刻まれた記憶の世界が真っ暗に閉ざされる時。それはカミューが『烈火』を決して使うまいと、左手で右手の甲をしっかりと握りこむ所為だった。音だけが聞こえる、その世界でマイクロトフはどうしても助けられない己の力なさに嘆いた。
カミューを傷つけるのは何も直接的な暴力だけではなかった。
家族だけでなく、子供だけでなく、近所の大人ですら彼の心を鋭利な言葉の刃物で傷つけた。
生まれてこなければ良かったのにと、いるだけで害悪だと吐き捨てるように罵られるのはどれほど幼い心をずたずたに引き裂いたろう。
信じられる相手のいない孤独。頼る相手のいない不安。
傷つけ続けられ、癒されることのない心。
そして決定的に少年だったカミューの心を壊した事件にマイクロトフは絶叫した。
火事。
カミューの仕業では、決してなかった。それなのに。
『烈火』は眠らない。
だから窓の外から聞こえる音や声を聞き逃す事はなく、全てを見ていた。
マイクロトフは、だから見たのだ。
その日もカミューは近所の悪童に運悪く捕まった。
けれど少年ながらもカミューは頭が良くて、その時は機転をきかせて難を逃れた。ただその時少しばかり相手に怪我を負わせたのが失敗とも言えたかも知れない。
珍しい反撃受けて、悪童どもは腹を立てたのだろう。
親に言いつけるだけではもの足りず、夜が更けてからこっそりと忍び出して、彼の仕業に見せかけてやろうとぼやを起こすつもりで、カミューの眠る家に火をつけたのだ。
大人たちがカミューを火付けの子と罵るのを子供達は知っていた。
もしまた火事騒ぎが起きれば、大人達は間違いなくカミューを懲らしめてくれるに違いない。そんな浅はかさが、悪童らにはあった。
ところが、火は瞬く間に広がってしまったのだ。
なんという真似を、とマイクロトフが憤っても火は益々夜気を孕んで大きく膨らみ、夜空を赤々と照らす。
悪童たちはその勢いに恐れをなして皆、転げるように逃げた。
静まり返った夜に、悲劇は幕開けたのだ。
カミューはその時他所の子供に怪我をさせたと父に叱られ、気を失うほどに張り手を食らった後だった。大人の男の手加減のない張り手にくらくらする頭のまま寝台に倒れ込み、そのまま食事も摂らずに―――もっとも、カミューの分は仕置きとして用意されていなかったが―――寝入っていた。
そんなカミューが臭気に目覚めたとき、既に火は家屋全体を包んでいた。
* * * * *
カミューは真っ先に家族を案じた。
マイクロトフは『烈火』の中で早く逃げてくれと焦りに似た思いでそんな少年のカミューを見守っていたが、彼は炎に束の間驚きはしたが直ぐに家の中へと視線を転じたのだ。
父も兄も確りした人だが義母は? 病弱なあの人は先にちゃんと逃げ出せているだろうか。言葉にせずともそんなカミューの思いは痛いほどにマイクロトフに通じた。
確かな造りの家屋は多少の火では直ぐに崩れたりはしない。しかし所々が赤い炎に覆われ、黒い煙が足元を這い、天井や壁を黒く煤けさせて行く。
だが煙たさと熱気に包まれながらも、カミューが真っ先に向かったのは、自分を忌み恐れている義母の部屋だった。逃げるだけなら部屋の窓から飛び出せば良かった。なのにそれをせずにカミューは義母を案じて廊下を進んだ。
そしてカミューは一度も足を踏み入れた覚えの無い義母の寝室に飛び込み、そこで寝台の下に倒れている彼女を見つけた。
「お母さん! お母さん、しっかりして!」
呼びかけても義母は目覚めなかったが、カミューはそれで諦めたりはしなかった。
その小さな身体に痩せた義母を背負うと共に逃げ出す決心をしたのだ。しかし火の勢いは止まるところを知らず、既に部屋の出口は塞がれていた。窓の外からもごうごうと燃え盛る炎の揺らめきが見える。
熱気と煙がカミューと義母を襲い、このままでは二人とも死んでしまうだろうと思われた。もっとも、カミューはこの時生き延びたからこそマチルダにやってきて、騎士となりマイクロトフと共にいるのである。案じる必要はなかった。だがそれでも『烈火』の中でマイクロトフは今にも幼いカミューの身体が倒れてしまうのではないかと、悲嘆を感じた。
ところが、そんなマイクロトフの視界が不意に赤く染まった。
『烈火』の中に意識を取り込まれて初めての景色にマイクロトフは慄く。だが直ぐに赤く染まった原因が知れた。それは紋章の力が唐突に高められた証だった。何故ならこの赤い輝きはカミューが右手の紋章を発動させた時に放つそれと酷似していたのだから。
つまりカミューは、炎に巻かれ義母を庇いながら『烈火』を発動させようとしていたのだ。
いったい何を考えているのかとマイクロトフが焦りの中で案じていると、赤い世界に白い閃光が炸裂した。そして次に視界が開けた時、寝室の壁に大穴が穿たれ、ぽっかりと外が見えていたのだ。
それはマイクロトフが見た限りで、カミューが初めて紋章を使った瞬間だった。何しろ日頃からカミューは父から決して『烈火』を使ってはならないと厳しく言い渡されていたからだ。生まれつきのものだから外せない以上ないものとして振舞え、と。だから悪童どもに囲まれてもカミューは一度も魔力を引き出すような真似をしなかった。
父親がカミューに『烈火』を禁じた理由は、恐らくカミューが幼い頃に起きた火事だろう。どうやらカミューの母もまた火系統の紋章持ちであったらしい。まことしやかに囁かれている噂では、彼女がその紋章を使って火をつけたと言われている。だからこそ、父親はカミューに紋章を禁じたのだと思う。
だがその『烈火』の魔法で壁を壊したのだと知った時、マイクロトフはカミューの咄嗟の機転が嬉しくてならなかった。父の言い付けを守るより、どんなことをしてでも義母と自分を救う方法をすかさず選んだ。こんなに賢い子供だからこそ、この大火事を生き残れたのだ。そして『烈火』の威力で壁の周囲の炎もまた吹き飛ばされて、白い煙だけが立ち昇るそこを、カミューは再び義母を背負い燃え盛る家屋から脱出した。
そのまま火の届かない家の裏手まで義母を連れて逃げ、漸くカミューは義母を背から下ろしてその身体を地面に横たえた。慣れない紋章の発動に精神力をすり減らし、自分以上に重い義母を背負って体力は限界だったらしい。玉のような汗を煤に覆われた額に浮かべ、肩で荒い息を吐いている。もし今その身体を抱きしめることが出来たなら、マイクロトフは間違いなく「良くやった、頑張った」と褒めただろう。
だが、そこに二人を探す声が届いた。
カミューが顔を上げると、燃え落ちつつある家の向こうから父と兄の姿が駆けつけてくるのが見えた。
「ユリア!」
父親は意識の無いぐったりとした義母の傍らに駆け付けると、その名を何度も呼び、無事を確認すると漸くそれからカミューを見た。だがその目がカミューの右手を見るなり表情を変えた。
魔力の発動の余韻が残る紋章の陰影―――。
「カミュー……貴様と言う奴は……っ!」
咄嗟の誤解を父がしたのだと、カミューは分からないようだった。ただぽかんとして見ている。だが、その父が腰の剣を引き抜いてその切っ先を己に突きつけた時、悟った。
「この悪魔め…! やはりおまえは俺の子ではなく、あの魔女の息子だったのだな!」
違う、との声は父の鬼の形相に行き場を無くした。
そして、即座に疑われ実の親に刃を向けられた恐怖は如何程のものか。
マイクロトフが紋章の中で『よせ、止めろ』と叫んでも届く筈がない。そもそもこれは過去に起きた情景であるのに、それでもマイクロトフは絶叫せずには居られなかった。
やっと火災の脅威から逃れられたのに、これではあんまりではないか。
何故、こうなる。
いったい、カミューに何の罪がある。
しかし父親は恐ろしい顔で剣を振り上げてカミューめがけて白刃を繰り出してくる。カミューはそれを、魔力を使い義母を背負った疲労を押して幾度か紙一重でかわした。
だが少年のカミューが逃げれば逃げるほど、父親は鬼の如く怒り狂った。
「貴様などあの火事の時に、あの女と一緒に死んでいれば良かったのだ!」
未だかつて、流石に父親の口からそんな言葉は聞いた事がなかった。
口さがない他人と違って、それなりに肉親の情があったのだろう。疎まれている予感はあっても、心底憎まれているとは思えなかった。
なのに、父親は剣を振り乱してそう叫んだ。
「今こそ貴様を殺してやる。そもそも生まれてきたのが間違いだったのだ!」
カミューは振り翳され遠く炎の朱に映える白刃よりも、父親のその言葉に恐怖した。
マイクロトフが『逃げろ!』と叫ぶその時も、地に手を突いて大きな存在である父親を見上げる形で、ガタガタと震えながら怯え固まっていた。
「呪われた紋章持ちめ! 貴様など死んでしまえ!」
ひっ、とカミューの喉が鳴る。
父親が己の息子めがけて、身体ごと剣を突き刺してくる。
カミューは咄嗟に、逃れるように小さな手を伸ばした。
そして見た情景に、マイクロトフは思った。
―――これこそがカミューの悪夢だ、と。
子供が、親に殺意を向けられて、死にたくないと願ったのは、それほどに罪なことだっただろうか。
少しの抵抗が生んだものは、カミューが己の手で実の親を傷付けるという悲劇をもたらした。
恐怖の対象だった親ではあったが、決して憎んだりはしなかった。ましてやその身を傷付けたくなどなかった。だが無情にも冷たい刃は肉親の腹を一突きにして、父親は苦悶の表情を浮かべたまま小さなカミューの身体の上に倒れ込み、その衝撃に震える子供の顔を真っ赤に濡らした。
少年だったカミューの悲鳴は、痛いほどにマイクロトフの心を貫いた。
* * * * *
しかしカミューの悲劇はまだ終わらなかった。
怒号と悲鳴を聞きつけた町の者たちがその場へと駆け付け、その時に彼らが見たものは、血に濡れた剣と、それを握る血まみれのカミュー。そしてそんな息子の身体に覆い被さるようにして意識を失っている父親の姿だった。
そんな親子の近くでは母親が同じく意識もなく横たわり、離れた場所にある彼らの住まいはもう取り返しがつかないほどの炎に巻かれて、崩れ落ちる瞬間を今か今かと待ち構えている。
彼らの脳裏に咄嗟に数年前の火事が甦ったのは誰かが言うまでもなかった。カミューが、火付けと噂された女の息子である事も、その右手に火の紋章を宿しているらしいという事も―――。
人々の顔つきが徐々に、恐れと憎しみに彩られていく様を、マイクロトフは見ていた。決定的な、父親のそれとはまた違う他人だからこその残酷で容赦のない眼差しをカミューがどう受け止めたのか。
しかし父親の血を浴びて、呆然と自失した子供がそんな他人の感情を理解できたかどうかは分からない。
ただ人々がそんな忌み子に対して、穏やかな心地で接して居られる筈もなかった。
とうとう恐れていた事が起きたと、人々の表情はそう語っていた。そして、こうなってしまったなら、一刻も早く諸悪の根源を断ち切らねばならないのだと。
口々に罵る声は徐々に大きくざわめきから怒声へと変わっていく。興奮に沸騰した男達はそして、カミューに対してその大きな手を伸ばした。
「こ、こいつ! 大人しくしてろよ!」
カミューの身体から父親の身体を引き剥がして、小さな手が掴んでいた剣を足で蹴り飛ばす。それから興奮につられてまだ赤く仄かな光を放つ右手の紋章に恐れを抱きながら、そのガチガチに固まったまま無抵抗の身体を引き上げた。
左腕を掴まれて立たされたカミューの表情は虚ろで、見開かれた瞳は何も映してはいなかった。辛うじて右手の紋章からその姿の見えたマイクロトフは、いっそカミューがこのまま失神でもしてしまえば良いと思った。
目覚めた時に、悪い夢を見たのだと誰かが言い聞かせてくれるように。だがカミューは意識を失いはしなかった。それどころか、男の一人に髪を掴まれ、ぐいと仰向けにされた時にぼんやりとではあるがそちらに視線を向けた程。
「あれはおまえがやったのか」
男はちらりと燃え盛る家屋を見遣る。その視線につられてカミューの瞳が炎を見た。途端、石のようにその眼差しが固定される。
「あ……あぁ…」
微かな喘ぎがカミューの唇から零れる。明らかに衝撃を受けていると分かるのに、男の詰問は止まらなかった。
「答えろ! お前が火をつけたんだろう!?」
「…っ……」
問い詰める、と言うよりはもうこれは。
後から駆け付けてきた者達も、やはり同じように燃える家屋とカミューとを見比べて即座に誤解を重ねていく。
「そいつか」
「ああ、全くなんて子供だ……母親も母親だが、まさか引き取ってくれた父親までこんな目に合わせるとは…」
「くそ。だからあの時一緒に死んでりゃ良かったんだよ」
「どうする、こいつ」
「決まってる。殺してしまえ」
「………」
ふと、沈黙が降りる。
たとえ憎しみを抱いていたとしても、誰もが子供の姿をした者を手にかけるのには躊躇いがあるだろう。
しかし誰かが言った。
「炎に放り込めば良い」
その言葉にマイクロトフは慄いた。
家はまだ激しく燃え盛っている。崩れ落ちそうなそこに、確かに放り込めば間違いなく死ぬ。死ぬが―――それが、人の言う事か。こんな子供を生きたまま劫火で焼き殺せと。
しかし興奮した人々はそれを最高の手段だと受け取った。
「―――そうしよう」
また誰かがぽつりと言った。
「こんな奴、母親と同じ末路をたどれば良いんだ」
「ああ、あの時どれほど俺たちが大変な目に合ったか」
「いくつも家が焼けたんだ…こいつの母親のせいで……それをまた、火なんかつけやがって」
憎々しげに、人々は燃える家屋を睨む。
カミューが幼い頃、母親と住んでいた家は小さくとも町の通りに並んでいたために、類焼を呼んでしまったのである。人死には出なくとも、家を燃やされた人々の憎しみは根深い。
だが今、丘の上にあるこの屋敷は幸いかな、周囲に他の家はない。それでも人々は許せないのだ。
過去の悪夢が再び甦ったかのように思えて、その悪夢を呼び覚ました呪われた子供が許せないのだ。強く髪を掴まれたまま、呆然と燃える家を凝視し続けるカミューが。
これは過去の出来事なのだと、分かっていてもマイクロトフは叫ばずにはいられない。
男たちがカミューの身体を掴み上げて、燃え盛る家屋へと連れて行く。近くまで来るとその背中を叩いて、飛び込めと怒鳴る。流石に吹き出す炎が熱くて近寄れない場所で立ち止まり、大人達は自失したままの少年を突き飛ばす。立ち止まったままの小さな身体に怒りをぶつけて、石を投げる。
もうやめてくれ。
これ以上傷を刻み込まないでくれ。
マイクロトフがどれほど叫んでも、興奮しきった人々の行為は益々暴虐と化すばかりでとどまるところを知らない。もし、その場に立つ事が出来たなら、それはもう抜き身の刃をもってしなければ止められないのではと思うほど、異様なほどの興奮だった。
いったい、この窮地からどんな方法でもってカミューは生き延びたのか、奇跡が起きたのでなくてはなんだと叫び出したくなるほどだった。
投げられた石がカミューの背といわず足といわず、体中のあちこちにぶつけられる。そのうちのひとつが頭に当たり、鈍い音が響いた。それでもカミューはノロノロと炎に向かって歩いていった。
止まれ。逃げてくれ。
そう願うしかない自身の無力を呪いながらマイクロトフは嘆く。
だが、そんなマイクロトフの言葉に、まるで重なるように怒鳴った人物がひとりだけ、居たのだ。
「やめろぉー!!」
見た事もない、男だった。
年はカミューの父親よりも少しだけ若い、けれど伸びた髪や汚れてくたびれた服装や、こけた頬や無精髭が実年齢よりも随分老けたように見せている。
男は瞳だけを爛々と光たせて、まるで狂人のような眼差しでカミューを見ていた。その身体は町の人々を押し退け、ひとりだけ前に飛び出してヨロヨロと地面に膝をつく。
そして男はそのまま、まるで祈りでも捧げるように地面にひれ伏した。
「止めろよぉっ……その子が…悪いんじゃないんだ………俺なんだよぉっ!!」
唸るような、叫ぶような声で男は地面に額を擦りつけながら怒鳴った。
「あいつの家に火をつけたのは俺なんだ…俺があいつを殺したんだ……その子は何にも悪くないんだよぉ……」
その時、カミューの身体が大きく震えた。
同時にマイクロトフの視界が再び赤く染まって行く。
紋章が―――烈火の紋章が、この夜続けざまに威力を発揮しようとしていることにマイクロトフは愕然とする。
あの男は何を言った?
カミューは、何を聞いた?
「今夜だってその子が火をつけたんじゃない……俺、俺は見てたぞ……あいつら、あのガキども……慌てて逃げてった! 俺みたいに!! 血相変えて逃げてったぞ!!」
突然男はガバリと顔を上げると後ろの人々を振り返った。そして腕を大きく振り上げる。
「止めろ!! 俺が悪いんだ! 全部だ! 何もかも俺が悪いんだ!」
そして男は再び地面に身体を伏せ、くぐもったような泣き声をあげはじめる。
「ふ……ううう…愛してたんだ……それなのにあいつ…子供が居るからって見向きもしやがらない。だから俺は…俺は……―――」
男は、そして「うわああああ」と大声を上げて泣きだした。
その姿を見詰めるカミューはまるで凍りついたかのように動かない。しかし紋章は益々その力を高めて今にも激しく炎を吹きあげそうだった。恐らく、カミューの衝撃がそのまま魔力の暴走に繋がりかけているのだろう。何しろ、目の前にいるのだ。
カミューの母を殺した男が。
あの夜、逃げなさいと叫んだ美しい女性の背中に突き立っていた短剣を、マイクロトフは思い出していた。
強い声と眼差しで愛する我が子を逃した母は、こんな男の手によって命を絶たれたばかりか、汚名までも着せられたのだ。こんな、今になって漸く泣き崩れながら懺悔まがいに罪を告白する男に。
カミュー。
微動だにしない少年のカミューにマイクロトフは呼びかけた。
今は耐えろ。
耐えろなどと、言ってやれるような状況ではないのは当然でも、それでも耐えろと言ってやりたかった。
今ここで、この稀有なる烈火の紋章の力を使って、その男を殺してはいけない。その力があっても、今だけはそれを行使してはいけないのだ。
何故なら、カミューは無実なのだから。
こんな男のために、これまで犯さなかった罪を作るべきではない。
綺麗事と分かっていても、マイクロトフは少年のカミューに対してそう言ってやらずにはおれなかった。
* * * * *
ふと目蓋が持ち上がる感覚に、マイクロトフは途端に身体の重さを感じた。
意識が現実に戻ってきた。
思った時には目の前にカミューの今の姿があった。マイクロトフの意識が烈火の紋章に取り込まれる前と変わらず、浅い呼吸を繰り返し握り締めた右手は燃えるように熱い。
「………」
マイクロトフはいつの間にか伏せていた上半身を起き上がらせると、だらりと垂れ下がっていたもう片方の手を持ち上げた。そして、そっとカミューのこめかみに伸ばす。
淡い色合いの髪を掻き分けると、生え際の辺りに目を凝らさなければ分からないほどの薄らとした傷痕が見つかる。マイクロトフはこの傷の存在を知っていたが、それの原因は知らなかった。
石だ。
あの時に人々から投げつけられた石が、当たった場所だ。炎の照り返しを受けて少年だったカミューは呆然としながら、この箇所から血を流していた。
マイクロトフは指先でそこを軽く撫でると、元通り髪を戻してやる。それから今度は首筋をたどり、鎖骨の浮き出た辺りを覗き込んだ。
白っぽい線のような古い傷痕がある。やはりこれもマイクロトフは知っていたが原因を知らなかった。だがこれは、カミューが父親によって刃を向けられ、紙一重で避けた時に出来たものだ。あと少しだけ後ろに身体を引くのが足りなければ首を掻き切られていたかも知れないそんな場所に。
他にも背中や腰や―――古くとも目立つ傷痕に、原因を問うた事があったような気がする。別にはっきりと答えが知りたかったわけではなくて、ただ気になったからなんとなく聞いてみた。
さてなんだったかな、と。昔の事過ぎて覚えていないよ、と。まるで覚えていない様子で苦笑いをこぼしていたカミューの顔を思い出す。本当に忘れてしまっていたのか、それとも忘れたかったのか、どうなのかは分からない。けれど、どうして己は身体中に残っていた数々の古いそれらを、何の疑問も持たずに見過ごしていたのだろうか。
子供の頃にやんちゃが過ぎたのか、程度にしか考えなかったのかもしれない。どうであれ大した事と受け取っていなかった。
あまりに、予想外のことだったから。
今でも紋章の見せた過去が、真実なのか信じ難い。
想像すら出来ない、あんな―――あんな少年時代をマイクロトフは考えられない。
まるで別の世界の出来事のようだった。
作られた演劇ですらあんな脚本はない。それくらい、マイクロトフにとって有り得ない世界だった。
あの身体の古い傷痕が、それぞれ心を抉るような理由で作られていったものなのだとは、到底―――事実なのだと受け止める事すら難しい。
カミューは。
「俺に、いつも優しい……」
だから優しくされなかった時代があったなど。
「いつも笑ってばかり……で…」
笑顔の無かった時代があったなど、思いもしなかった。
なにも、しらなかった。
あの時、男が罪を告白してカミューの母の殺害と、放火を認めた時に、同時に男の告発により屋敷に火をつけた悪童共の罪も明らかとなった。
一転してカミューを責める声は消えたが、詫びる声も聞こえては来なかった。誰もが突然の事態の転覆に驚き冷静さを欠いていたのだろう。どちらにせよ、それはカミュー自身には知らぬ事である。
烈火の威力は実際、極限まで高められていた。
しかし未だ紋章の使い方も知らない未熟な身では、連続しての魔力の発動には無理があったのだろう。カミューは緊張を極限まで高めた途端に糸が切れたように意識を失ったのだ。
その身体を、吹き荒れる熱気と炎から遠ざけるように抱き上げて運んだのはカミューの腹違いの兄だった。
彼はこれまで、常に厳格な父と家族に馴染まない弟との間に挟まれて、我を張ることをせずに過ごしていた。だがこの時になって漸く彼は自発的に動く事を始め、傷ついた弟の身体を抱きながら、声も無く息を詰めて凝視してくる人々の間を通り抜け、町で一人だけいる医者の家へと運んだ。
その医者の元には既にカミューの父と母も運ばれていた。
母親は少しばかり煙を吸い込んだだけで大した事はなかったが、父親の方は重傷だった。しかし騎士である身体は流石に鍛えられており、医者の迅速な対処に命の危機を脱しはした。
そしてなによりも問題は、カミューだった。
目立って大きな傷は無かった。命に関わるような失血もしていなかった。しかしカミューは目覚めなかったのだ。
家の壁を吹き飛ばすほどの炎を慣れない紋章で生み出したからだろうか。限界以上の魔力の行使で、消耗が激しかったのか、カミューは昏々と眠り続けた。
そんなカミューが目覚めたのは、投石によって出来た傷が漸くふさがりかけた頃―――兄が、父の所属するカマロ自由騎士連合の知人と連絡が取れた時だった。
連絡を受けて訪れたのは、騎士でありながら執行官でもある男だった。カミューの父とは古くからの友人であったが、この時彼はその友人を断罪に来たのであった。
火災や様々な出来事で混乱があったとはいえ、正式な手順によって罪を決定されてもいない相手に、ましてや子供に対して誇りを宿した剣を抜いたのは、騎士としてあるまじき行為だった。
カミューの行為は正当防衛以外の何でもなく、それによってたとえ父親が致命的な傷を追っていたとしても、罪はないとされた。そして放火の件にしても勿論、男は数年前の事件とはいえ放火と合わせて殺人の罪は明白とされ捕縛。屋敷に火を放った悪童たちは親が賠償を行うことで和解し、数年に及び町にとり憑いていた不幸は払拭され解決をみた。
だが、関わった人々の意識には深い傷を残したのはもうどうしようもなかった。町の人々はカミューに対して膨れ上がった憎悪のぶつけ先を突然失い、それに戸惑い本当は罪など欠片もなかった子供に対して己等のした仕打ちを思い出し、愕然と震えた。
人々はひっそりと静かに噂をしあったが、誰もがはっきりと己たちの非を認めることに恐怖し、心も身体も疲れ果てて今は医者の家で養生をしている子供を敬遠していた。
その空気を感じ取り、やむなしと決断を下したのは、やはり執行官であった騎士だった。
騎士は、カミューの父に騎士位を返上すれば懲罰を免除するとし、子供の扶養権を剥奪するという形での隠居を命じた。そしてカミューは兄と共にカマロ自由騎士連合の保護下に置かれ、住まいを親元から騎士連合の砦に移し、そこで騎士の従者として暮らすよう整えたのである。
そして、初めて迫害の一切無い生活を始めたカミューは、そこで騎士から剣の腕を磨き、カマロではなくマチルダで騎士となる選択をし―――ロックアックスに単身、移り住んだのだ。
そこから先は、マイクロトフの知るカミューだ。
笑顔ばかりが印象強い優しいカミューだ。
カミューの父の友人という、その騎士が人格者だったことを、マイクロトフは感謝しなくてはならないと思った。
彼は友人の子を引き取って後、分け隔てなく公正に接した。そしてそれは他の者にも徹底させたし、子供の過去の痛ましい事件など引き合いに出すでなく、ただ一人の人間として扱った。
しかしそれは、カミューが真に欲した扱いであったのは言うまでも無い。
この騎士のもとでカミューは生まれ変わったといって過言ではなかったろう。彼が極自然に笑顔を浮かべられるようになり、冗談を口にして、その才気を隠す必要も無く発揮できるようになったのだ。
そんな恩義ある存在を、しかしマイクロトフは聞かせてもらった記憶が無いのを哀しく思った。
それはきっと、話せば幼い頃の実の親との事をも話さねばならなかったからだろう。そもそもカミューがそうして子供の頃のことを意識的に話題に出さなかったから、これまでマイクロトフが聞く機会を得なかったのだと、今気付いた。
話したくなかったのだ。
隠して、おきたかったのだ。
だがどうして。
マイクロトフは横たわるカミューの顔を呆然と見詰めながら、返事が無いのを承知で問いかけた。
「何故、教えてくれなかった……」
確かに驚くべき過去だった。
カミューの受けた傷を知って、とても辛くなった。
幼かったカミューにそんな仕打ちをした人々を憎く思った。
だが、今カミューがこうして目の前にいて、マイクロトフが大切なんだと言って微笑んでくれているのなら、それは過去の事にすぎなかった。
下手な同情などする気も無い。
過去は過去とカミューが割り切っているのなら、それまでの事なのだ。
しかしもしも、未だに当時の記憶に苦しむことがあるのなら、力になりたかった。
だがカミューは、ひた隠しとも思えるほどに過去をマイクロトフに教えなかったのだ。それはつまり、理由があり意図があったと考えるべきなのだろう。
間違いなく、カミューはマイクロトフに対して少年期の事を気にしている。
そして今、それが故に魔物につけ入られて、苦しんでいるのだ。
「……カミュー」
マイクロトフは囁き、握り締めたままだった右手を強く握った。
絶対に助けてやる。
そうしてから改めて、どういうつもりなんだと怒鳴ってやる。
だから、頑張れ。
その時、医務室の扉が開き知った気配が入室した。
「ああ、戻ったんだね」
振り向けば佇むのは風の魔法使いの少年で、マイクロトフが烈火に意識を繋げていたと知っている口振りでそう言った。
マイクロトフが無言で頷けば、ルックは「そう」と呟き顔を逸らして窓の外を見遣る。そして眩しさに目を細め、憮然と呟いた。
「準備が整ったよ。どうする?」
いつの間にか、夜が明けていた。
* * * * *
その朝は綺麗な朝焼けの、とても気持ちの良い朝だった。
マイクロトフはとにかくとても腹が減っていたので、まだ開店前だったハイ・ヨーの店に行くと、無理を言って朝食を作ってもらった。そのレストランの広いテーブルには、ルックもいた。
少年は夜通し準備のために起きて調べ物をしてくれていたようだった。しかしそれほど憔悴した様子もなく、マイクロトフの前で黙々と同じく朝食を片付けていく。
「あのさ」
サラダの皿にフォークを突き刺しながらルックが徐に口を開く。その視線は突き刺されたレタスの葉に注がれていたが、この場にいるのはマイクロトフだけなので、恐らく自分に向かって話しかけたのだろうと思われた。
「はい」
「詳しい説明は、この後会議室で全員に向けてするんだけど」
「はい、宜しくお願いします」
「その前にさ、あなたにだけ言っておくことがあるんだ」
ルックの視線は相変わらずサラダにある。しかし、その意識は強くマイクロトフに向けられていた。
マイクロトフは水を飲んで口の中をさっぱりさせると、そんな魔法使いの少年をじっと見詰めた。
「なんですか」
「うん、あのさ」
ルックの手元でフォークが動くたび、シャクシャクとレタスが音を立てる。次第に見るも無残に萎びていくそれを、マイクロトフもつい見詰めてしまう。と、その耳に少年のひっそりとした声が届いた。
「本当は、もっと簡単に夢魔を封じる方法があるんだ」
「……は」
思わず目をぱちくりとしてマイクロトフが視線を戻せば、ひどく不機嫌そうな表情のルックがいた。
「簡単に、と?」
「そう。他人の悪夢なんかに潜り込むような暴挙をしなくても、本当は夢魔なんて魔物は簡単に封じられる」
「………しかしルック殿」
昨夜、ルックは確かにマイクロトフに言ったではないか。カミューの悪夢と戦えと。まるでそれ以外に方法がないかのように。そして少年は夜通し悪夢に挑むための準備にかかりきりになった。それなのに、別に方法があるというのはどう言う意味だ。
「では何故」
マイクロトフの疑問は当然だと、ルックは小さく頷いた。しかし不機嫌そうな表情は変わらないままで、言葉を続けた。
「ただ、その簡単な方法をとった場合、カミューは助からない」
「……っ」
「一緒に封じてしまうんだよ。夢魔はカミューの中に取り込まれている状態だから、カミューの身体ごと封印を施してしまう。それだと、とても簡単だろ」
相手は逃げようもないし、封じてしまえばもうそれを解かない限り脅威はない。
言ってルックはフォークを置いて、両手で何かを包みこむような動作をとった。そして最後には掌を合わせてぎゅうっと握り込む。
「でもカミューの魂も夢魔と一緒に封じられて、封印の中で夢魔に全て喰われて消滅する」
「―――そんな方法は、認めません」
腹の奥が煮え滾るのを感じつつ、マイクロトフは押し殺した声で辛うじてそれだけを言った。すると、ルックは不意に握り合わせていた両手を離すと、力の抜けたように座る身体の横にだらりと下げた。
「だろうと思ったから、言わなかったのさ」
そして背凭れに身体を預けると、軽くあくびをする。
「勝率の分からない危険な賭けと、たった一人を犠牲にするだけの確実な方法と、両方を示されてどちらを取るかと言われたら、シュウもあいつも、確実な方を取らなきゃいけないしさ」
軍師としても、軍主としても大勢が危機に晒される事態は回避しなくてはならないのだ。それは、マイクロトフも当然心得ている指導者としての義務だ。たとえ犠牲となるのが騎馬隊頭領のカミューでも、だ。
「そしたら、あなたがどれだけごり押ししても、カミューはもう助けられないだろ」
そしてルックはこの朝初めて疲れたような面差しをしてマイクロトフを見詰めた。
「分かってる? 期待してるんだよ。絶対に夢魔を消滅させて彼を救って還ってきてくれないとさ。でなきゃ最悪、あなたも一緒に封印するからね」
励ましているのか脅しているのか分かりにくいルックの言葉であったが、マイクロトフは胸の奥が熱く熱く昂ぶってくるのが分かった。
「ルック殿……」
「勝率は少しでも上げておいた方が良いだろ。その代わり掛け金も釣り上がるけど―――でも、負ける博打をする気はないんだ」
そしてルックがぐっと奥歯を噛み締めて見詰めてくるのに、マイクロトフはゆっくりではあったが、深く頷いて返した。
「承知した。必ず、カミューを連れ帰ると誓う」
「……もしもの時は恨まないでよ」
ルックの呟きに思わず笑みをこぼす。
これほどに大きなチャンスを与えられたのだと、知ったマイクロトフに恨む気持ちなど微塵もない。
今、確実にマイクロトフの腹は決まった。
「ルック殿、感謝します」
必ず夢魔からカミューを救う。絶対にだ。
拳を握り締めてマイクロトフは自身にも誓った。それこそ命を賭けて―――。そんな騎士にルックは目を細めて肩を竦めた。
「感謝するのはまだ早いよ」
これから準備の仕上げにかかって、説明をして、そして夢魔と立ち向かうという一番重要で過酷な仕事が待ち受けている。
マイクロトフは再び頷き、皿に残っていた朝食を平らげるべくフォークを握りなおした。
それから、マイクロトフがルックと共に訪れた会議室には、関わりのある面々が既に集合していた。
眠そうな目を擦りながらビクトールなどは窓辺で大あくびをしている。そして彼は常に寝不足気味なのか青い顔をしているのは軍師のシュウだ。軍主の少年は姉と共に不安な面持ちで入ってきたルックとマイクロトフとを見詰める。
「お待たせした」
ペコリとマイクロトフが頭を下げると、やはり最後まで付き合うつもりでいるのかホウアンが、運び込んだ簡易の寝台に横たわるカミューの傍らに立って頷く。
「…これで、全員揃いましたね」
しかしそんなホウアンの声に、いや、と首を振ったのはルックだ。
少年は一人すたすたと部屋の中央に進むと、携えていた杖でカツンと床石を叩いた。
「もう一人、くるよ」
「誰だ」
シュウの問い掛けにルックは振り返り、マイクロトフの背後の扉を見詰めた。
「来たかな」
言葉どおり、扉の向こうから足音が響くのが聞こえ、マイクロトフは思わず扉の前から退く。すると音も立てずに扉が開き、そこから真っ赤なコートを着た男が入ってきた。
「キリィじゃねえか」
目深に帽子をかぶった男が、ビクトールの素っ頓狂な声に顎を引く。そしてルックが再び杖で床を叩いて全員の視線を集めた。
「ぼくが呼んだんだ。今回は彼の協力無しには何も出来ない」
そして少年の視線がちらりとマイクロトフを見る。
なるほど、キリィが居たからこそ危険な賭けも出来るということなのか。軽く頷きマイクロトフは赤いコートの男を見た。
「キリィ殿、宜しく頼みます」
「―――俺は、ただ自分の知っていることを、僅かばかり教えたまでだ」
「…シンダル、か」
シュウが呟く。それにあっと声をあげたのは軍主の少年だった。ついでにマイクロトフもそうかと頷く。
キリィは今は失われた高度文明『シンダル』を追い求める遺跡ハンターである。シンダルといえば一般的に知られているだけでもとにかく謎だらけの文明だが、かつて古代魔法が最も使われた文明だと言われている。その謎を追い、解き明かすうちにその古代魔法に精通する部分もあるのだろう。
現在はその一端しか伝承されていない古代魔法は、その全てを解き明かしたなら世界を手中におさめる事が出来るとまで言われている程のものだ。
今回はその古代魔法を利用して、夢魔と対決するのだろうか。マイクロトフがそうして結論付けたところで、再びルックの杖が床石を鳴らした。
「手順を簡単に説明するよ、良い?」
ルックが静かな声で語り出す。
「まず魔法陣を描いて、ここに特殊な力場を作る。周囲と完全に切り離しをするんだ」
杖の先が床から僅かに浮いて、すーっと円を描く。かなり径の広いそれは人間が一人充分に収まって余りあるほどの大きさだった。そしてルックは寝台に横たわるカミューを見る。
「そして更にその内側に、キリィにシンダルの転移魔法陣を描いてもらう」
キリィがこくりと頷くが、黙って話を聞いていたビクトールが「なぁ」と声をあげた。
「なんで転移魔法なんだ? どっか行くのかよ」
「精神だけね」
「あん?」
なお首を傾げる傭兵に、ルックは小さく溜息を落とした。
「昨日言った本に書いてあることだけどね、夢魔はとり憑いた対象に夢を見せる時、まず対象の精神を幽界に誘い出すんだ。そこで思う様夢を見せて少しずつ精力を削り取る」
「ちょい待ち、幽界ってなぁ…なんだ」
ビクトールの重ねた問い掛けにまたルックはげんなりとした顔をする。
「幽玄の世界だよ。魔物が生まれる場所とも言われているし、夢と現実の狭間とも言われている。普通、人間は生身では行けない」
「じゃあどうやってマイクロトフはそこまで行くっつうんだ。ビッキーみてえに飛ばしてもらっても生身じゃ無理なら意味がねえ」
「だから精神だけ飛ばすために、シンダルの秘法を利用するんだろ。まったく、順序だてて説明しなきゃいけないわけ?」
「しょうがねえだろ、こっちは素人だぞ」
ぶすくれるビクトールの後ろで、シュウも片手を挙げる。
「同じくだ。できれば詳しく聞かせてもらいたいな」
するとルックは諦めたように肩を落として溜息をこぼした。
「分かったよ。ったく、なんで今更こんな面倒な真似……」
それからルックは杖を立てて一同を見回した。
「まず転移魔法についてだけどね。ビッキーが使っているのは紋章の力を利用した魔力による転移なんだけど、そこは分かる?」
「おまえが時々突然消えたり現れたりするのは?」
「あれも紋章の力。基本的にはビッキーと一緒だけど、これは術者の魔力が相当高くないと転移は無理なんだけど、シンダルの秘法の場合は魔法陣と手順さえ正しく踏めば、魔力がなくても誰でも転移できる」
「あ、つまりマイクロトフでも簡単に移動できんだな?」
準備と手順は簡単じゃないけどね、と付け加えてルックは頷く。
「それから、今回は生身を残して精神だけを幽界の、しかもカミューにとり憑いてる夢魔の居る場所まで飛ばさないといけない。これには少し強引な方法をとらせてもらう。言っとくけどこれは、ぼくだからこそ出来るんだからね」
そしてルックは自分の額を指し示した。
「高い魔力を秘めた紋章使いは、自力で幽界まで精神を飛ばす事が出来る。だからこそ『蒼き門の紋章』なんて無茶な紋章も使えるんだけど、その理屈を利用して、カミューの身体から繋がっている幽界までの路に横穴をあける」
「…あ?」
「カミューの身体は今ここにあるだろ。でも精神は幽界に連れていかれてる。だけどその精神は決して身体から離れないんだよ。必ず通じている、でないととっくに死んでる」
「ちょっと待て、もうわけがわからねえ」
ビクトールが唸るのに、ルックはひょいと肩を竦めた。
「熱したチーズみたいに細く長く伸びて、端と端が繋がってるみたいなもんだと思ってよ」
「あー、分かった。たぶん」
「それで、その伸びたチーズの真ん中に、無理やり別のチーズをくっ付けるって言ってるんだよ」
「マイクロトフは、そこからカミューの居るだろう場所まで辿るって算段か」
ビクトールがぽんと手を打って答えるのに、ルックは軽く頷いた。
「そう。熊のわりには物分りが良いじゃないか」
「なんだとう?」
「とにかくね、カミューとマイクロトフとをシンダルの転移魔法陣の中に並べる。それを強力な魔法陣で囲んで、現世からの干渉を断つ。それからぼくが幽界までの横穴を繋げて、マイクロトフの精神だけをそこまで転移する」
あとは、マイクロトフの奮闘次第。
分かった? とルックがとどめに問えば、ビクトールはこくこくと頷いた。どうやら他の連中もこれで何とか手順が分かったらしい。
「じゃ、始めるよ」
ルックの言葉でキリィがコートの内側から何やら草臥れた本を取り出す。ボロボロの革表紙のそれは、中を開けば細かく何かが書きこまれている。どうやら手帳の類らしかった。
そして、広い会議室の中央に不思議な魔法陣が描き込まれていくのを、マイクロトフたちは緊張の面持ちで見守るのだった。
* * * * *
キリィが不思議な円陣を描いていく、その傍らでマイクロトフは眠り続けるカミューを見下ろした。
相変わらず呼吸は浅く、顔色は悪い。その額にかかる前髪をかき上げ、冷たい頬に手の甲で触れながらマイクロトフは奥歯を噛みしめた。今もまだ戦い続けているのだろうと思うと一刻も早く何とかしてやりたい時が焦る。しかしそんなマイクロトフに、静止をかけるのはルックだった。
少年はくどい程にマイクロトフに念を押す。
「良い? 相手は普通の夢魔じゃないからね」
「承知している」
「普通、夢魔を退治するには専門家の力が必要だけど、今ここには専門家は居ないし、あなただって専門家じゃない」
「それも、承知しています」
「夢魔をやっつけようなんて思わないことだよ。カミューの意識さえ夢魔から切り離せたら良いんだから」
マイクロトフは何度も頷いた。
ルックが言うには、仕組みはこうである。
夢魔の恐ろしいところは、幽界に場を作りだしてしまうところだと言う。そうされてしまうと、人間にとってひどく不利らしい。幽界では夢魔は好きに姿を変え人間を容易く翻弄し、またとり憑いた相手の夢を利用するから人間もまた簡単に罠に落ちる。
そうした夢魔を退治するのには夢魔専門のハンターがいるわけだが、彼らは独特の方法でとり憑かれた人間の夢に潜り、本来人間にとって不利であるはずの幽界で夢魔の正体を見破り、仕留めてしまう。夢魔ハンターは大概の事では左右されない強靭な精神力が必要とされるのだとルックは言った。
「他人の夢の中で自分の夢を紡ぐくらいの強い創造力が必要だね」
マイクロトフは首を傾げたが、話を聞いていたビクトールがなんとなく分かると頷いた。
「どっかの遠い国の呪術師の話を聞いた事がある。そいつらは自分の夢を好きに操れるらしいぜ? 普通夢ってな思い通りにならねえことが多いだろう? なんでこうなるって突拍子もない展開になったり、不思議なことがおきてたり、な」
だけどよ、とビクトールは言う。
「そいつらは、夢の中で自分の思い通りに身体を動かしたり喋ったりできるんだそうだ。それは訓練次第で誰にでも出来るって話しだが、その呪術者みたいに夢の中で自在に空まで飛べるようになるには、素質と長い年月が必要らしいなぁ」
何故ビクトールはそんな話を知っているのだろうと思うがとりあえずルックが異論を唱えないので黙って聞くマイクロトフだ。
「夢使い」
不意に誰かが言った。
声の主を探せば、キリィが相変わらずの作業を続けながらちらりとこちらを見るではないか。
「キリィも知ってんのか」
ビクトールが機嫌よさげに問えば、彼は帽子ごと緩く頷いた。
「聞いた事がある。夢使いと呼ぶんだそうだ。恐らく世に言う夢魔ハンターも彼らと繋がりがあるのではないか、と思う。彼らは夢の中で自在に武器も作りだせば、紋章がなくても炎や雷で攻撃も出来るらしい」
それがルックの言う創造力というものであり、だから夢魔を退治できるのだ、と。強く願い思う力が全てなのだとキリィは教えた。
ふうん、と頷いたのは軍主の少年である。その横でナナミが大きく頷いた。
「すっごいね。私なんてね、こないだ夢の中で崖っぷちからまっさかさまに落っこちた夢見ちゃったんだよ。崖下にひゅーんって落ちるのがもうすっごく怖くて、起きた時に胸が痛いくらいにドキドキしてたんだよ」
「ナナミって夢の中でもおっちょこちょいなんだから」
「あ、ひどーい。うん、でももしあの時崖から落ちないで、逆にふわって飛べてたらきっと楽しかっただろーなー」
ナナミは小首を傾げてそんな事を呟く。それからぱっと目を見開くとマイクロトフを見た。
「マイクロトフさんは夢の中で空飛んだ事ある?」
「は、空…ですか」
「うんそう。夢の中で空を飛ぶのって気持ち良いって聞いた事あるんだけどなぁ。ね、どう?」
どう、と言われてもと、マイクロトフは己の胸を押さえると何とも言えず気まずい顔をした。
「俺は……実はあまり夢を見ないので」
「あれ、そうなの?」
「はい」
頷いてマイクロトフは唇を引き結んだ。
マイクロトフの眠りは実は深い。一度眠ると朝の定刻まで夢も見ないのだ。時折、うたた寝などした時に稀に見るくらいだが、それも曖昧で断片的で大したものではない夢ばかりだ。
するとそれを聞いたルックが不機嫌そうに顔を顰める。
「ちょっと不安になってきたよ。夢も見ない人間が悪夢に乗り込むのって……」
そんな少年の呟きにマイクロトフはうろたえた。
やはり夢魔と対決するには、夢を見慣れている方が良いのだろうか。だがしかしこの期に及んで、だったら取り止めだと言うわけにも行くまい。
「ルック殿、俺はどのような不都合があっても諦める気は―――」
「分かってるよ。精々頑張ってきて」
ひらひらと手を振るルックは、そろそろキリィの仕事が終わりそうだと言うので己の杖を握り直して厳しい顔つきになっている。するとまたビクトールが口を挟んだ。
「まぁ要するにあれだろ。幽界とかいう場所に突っ込んでカミューを捕まえて夢魔からとっとと逃げ帰ってくりゃ良いわけだ」
「実に適当で乱暴な言い回しだけど間違いじゃないね」
ルックは振り向きマイクロトフを見上げた。
「絶対無茶はなしだよ」
再度念を押して、ルックはキリィに変わり今度は自分が魔法陣を描き始めた。
マイクロトフはまるで吸い上げられるような感覚に意識を覚ました。
ハッとして目を開けば、そこにはルックが立っていた。
「何ぼさっとしてるんだよ。ほら、さっさと行くよ」
くるりと踵を返して背を向け、ルックが向かうのは真っ暗な闇である。マイクロトフは立ち上がり慌ててその後を追った。そうしながら徐々に混乱していた意識が纏まってくる。
魔法陣が完成し、マイクロトフはカミューと共にその中に並んで横たわった。その直ぐ傍でルックが風の紋章で『ねむりの風』を唱えたところまでは覚えている。
そこから、今の今まで記憶がないという事は、それまで意識を失くしていたという事なのだろう。それにしても、いったいここは何処だ―――。
思いかけてマイクロトフは漸く思い出す。
ああ、そうか。
「ここが、幽界への道……」
呟けばルックが歩きながら顔だけ僅かに振り返る。
「いや、もうここは幽界だよ。はぐれたら二度と元に戻れないから気をつけて」
「え―――」
言いながらもルックはすたすたと先を歩いて行く。しかしやはり先には光明もなく、一切の闇しかない。マイクロトフにとっては少年の姿しかはっきりと見えなかった。こんな場所で彼の姿を見失えば確かにどうにもならない。
「ルック殿……っ」
「急いで。じゃないとこっちが持たないから」
「は……?」
「場を保ちながら、道案内のために意識を幽界まで潜らせているんだからさ―――悪いけど無駄話する余裕はないんだ」
と、突然にルックの姿がまるで幻のように一瞬だけ揺らいだ。マイクロトフが驚き息を詰まらせていると、再び少年が振り返りきつく睨む。
「早く確りして欲しいな。途中からはあなた一人で先を進まなくっちゃいけないんだよ?」
「は、いや……しかしこんな暗闇では…」
「闇? ああ、あなたにはそう見えるのか」
呟いてルックは相変わらずの速度で先を進みながら、ぐるりと辺りを見回した。
「意識を研ぎ澄ませば、あなたにも見えると思うんだけどな。足元を見てご覧よ、ずっと下に自分の身体が見えるから」
「え」
驚き足元の闇を見下ろす。
すると確かにそこは真の闇ではなく、まるで煤けた硝子の上に立っているかのような心地だった。くすんだその先には、おぼろげな景色が見えている。
更に目を凝らしてマイクロトフは再び息を呑んだ。
いや、実際には飲む息などないのだろう。
見て初めて実感した。
今の自分は意識だけの存在なのだと―――本拠地の城の会議室で、変わらず横たわったままの己の身体を見下ろした途端、マイクロトフは思い知った。
そして目の前を歩くはずのルックを再び見て、驚愕する。
少年は歩いているわけではなかった。何故ならその足は動いていなかったからだ。その姿は、真下に見える会議室に立つ姿勢のままであった。
床についた杖をまっすぐに立てて両手で支え、背筋良く目前を見据えている。その足は微動だにしていないのだ。そして気付けば己の足もまた動いていない―――いや、動く足の感覚すらない。
果たして己自身が今ここにあるかも、分からなくなってくるのだ。まるで指先から砂塵と化して自分が粉々になって散ってしまいそうな、そんな心地が―――。
「駄目だよ。確りしてって言ったろ」
「……ルック殿」
「ここは幽界。今あなたの意識は身体から離れてここにいる。それを忘れないで」
マイクロトフは重く頷く。
どうやら、自分の考えているよりもずっととんでもない世界にいるらしい。心構えが足りなかった。
「申し訳ない、ルック殿」
「ま、普通の反応だろうけどね。まだ落ち着いてる方だから安心してよ」
そしてルックは不意に真上を見た。
「見つけた―――」
「……っ」
足元の会議室はいつしか消え失せ、ルックの見上げた先には見た事もない風景が広がっていた。
荒涼たる、焼け跡。
まるで全てを焼き尽くされたというリューベやトトの村のように。
黒く炭化した家屋の柱梁。
草や土すら黒ずみ、所々から白い煙が立ち上っている。
―――これは。
呆然とするマイクロトフの傍ら、ルックが呟く。
「僕はここまでだからね……無茶だけはしないでよ」
振り向けば少年は青褪めた顔でマイクロトフを見遣り、そこで初めて杖から片手を離した。
「それから、あなたが帰りに迷わないように―――」
ルックの指先がマイクロトフの胸に伸びた途端、カッと白く光る。
「帰りたい時は、これに呼びかけたら引き戻してあげるから」
これ、と少年が指差す胸元には白い光が見えた。
「じゃあ僕はもう戻るから」
「ルック殿」
再び少年を見ればその姿はゆらゆらと霞みのように揺れていた。
「ルック殿!」
「忘れないで。ここから先は夢の世界―――強く願えば、叶うかもしれない世界だから―――…」
夢使いのように。
空も飛べる。
だから。
「頑張って」
最後にそう一言残して、ルックの姿は完全にかき消えた。
* * * * *
ルックが去り、マイクロトフは無言で背後を振り返ると果てしなく広がる荒漠たる焼け野原を睨んだ。そして、踏み出す。気がつけば青騎士団長の衣服に身を包んだ己がそこに立っていた。
目的地がどの方向にあるのかも分からない。だからマイクロトフはとにかく焼け落ちた廃墟の中へと踏み入った。だが少しも歩かないうちにその足が止まる。薄く開いた口から、喘ぎのような吐息が零れた。
それに気付いた時ぞっとした。
見覚えがあるのだ。
家屋も何もかもが焼け落ち、まともに焼け残った場所など少しもなかったが、マイクロトフには分かった。
焼け跡の風景に重なるのは、何処も彼処も自分の良く知るロックアックスの街並みや、デュナン湖ほとりの同盟軍本拠地だったのだ。馴染み深い想いの残る場所が、無残に炎にあぶられ、焼け、燃え落ちている。
それはまさしく悪夢と言えた。
決してそのままの風景ではない。
右側にロックアックスの路地が伸びているかと思えば、左側には本拠地の広場があったりする。でたらめなのだが、しかし細部を見れば現実のその場所がそのまま移され、そして火を放たれたようだった。
こんな場所に。
マイクロトフは冷ややかなものが背筋を伝ったかのような心地に息を呑んだ。そして拳を握り締めると、歯を食い縛り腹の奥から沸き起こる激情に目を伏せた。
カミューは今、こんな場所に居るのか。
こんな悪夢を。
たまらずマイクロトフは再び歩き出す。だが次第にそれが早足に、そしてついには駆け出していた。忙しく視線を四方へ飛ばし、荒れ果てた風景の何処かに、探す気配が潜んではいないかと鋭く探る。
夢の世界なのだから、疲れるわけがなかった。願えば空も飛べるはずなのだから、息が上がるわけも、汗がまとわりつくわけもなかった。それなのに、今マイクロトフの足は走りすぎて重く、息は継ぐ事すら困難なほどに荒く、全身に滲む汗は不快なばかりだった。
現実の世界と変わりのない感覚だった。
周囲の風景は、非現実であるにもかかわらず―――。
それでもマイクロトフは走り続けた。息が切れても、煙の漂う焼けた空気を吸い込んで喉が噎せても、汗で目が霞んでも。
「カミューっ!」
何処にいる。
頼むから出てきてくれ。
そして早く帰ろう。
「カミュー!!」
一刻も早く、こんな悪夢から出よう。
だがそんなマイクロトフの身体が、不意にぎくりと強張る。この風景がカミューの悪夢だと思い出したからだ。
この哀しく辛い風景を、夢魔の仕業とは言え作りだしているのはカミュー本人なのだ。これは、カミュー自身の闇なのだ。ならば、悪夢から覚めない限り抜け出すことなど不可能なのではないか。
「馬鹿な」
これはただの悪夢ではない。夢魔がカミューに見させているのだから。夢魔さえカミューから遠ざければ、元々見なくても良い夢だ。しかし……カミューの中にこんな悪夢の種が潜んでいたからこその、現状でもある。
「くそ……」
考え出すときりがなかった。
だがその時、頭の端から叱咤が聞こえた気がした。
カミューを連れ帰るんだろうが。
難しい事はどうでも良い。今はただ、それだけを考えていれば良い。端からマイクロトフは頭で色々考えるのは不得手な方だ。直感で動いた方が上手く行くことがずっと多い。
思い直してマイクロトフは再び駆け出す。
今出来る事を為せ。
自分に出来る事など限られている。この両手が届く範囲は狭い。掌に受け止めきれるものなど、本当に些細だ。けれど、だからこそ出来る事を最大限の力で為せる。
さぁ息を吸い込め。
拳を握り締めろ。
そして探せ。
「カミュー!!」
焼け落ちた廃墟に自分の声だけが虚しく響いても、挫けてはならない。この悪夢を見ているのは自分ではなく、カミューだ。ここから抜け出せなくては彼は死ぬまでこの悪夢から逃れられない。
こんな酷い場所で、カミューを一人きりにするなどマイクロトフの気持ちが認めない。
もう一度、顔を合わせて抱き締めて、そして言ってやろう。
おまえが生きてマチルダに来て、そして自分と出会ってくれたことに感謝する。
カミューと出会えたことが、マイクロトフの喜びであるのだからと。
あの幼い少年だったカミューに。
烈火の見せてくれた、マイクロトフの知らなかったカミューの少年時代に。強い感謝の心と、そして溢れる愛情を。
カミューの素晴らしい笑顔をもう一度、見るために。
ひとしきり名を呼び、そして廃墟を奥へと進んだマイクロトフは、再び違和感に足を止めた。
そこは見慣れた同盟軍本拠地の城内だった。
崩れ落ち、石は黒く焼けて砕けているけれど、間取りや廊下の跡が同盟軍の居住区なのだと教えてくれる。しかしその場所は今まで通ってきたどの場所よりもいっそう酷く焼けて、臭気さえたち込めていた。
マイクロトフは袖口で口元を覆い、煙を吸い込まないようにして慎重に進んだ。そうしなければ瓦礫に足を取られてしまいそうだったからだ。
それほど無残に荒れたその場所を更に奥へと進むに連れて、何故だかマイクロトフの鼓動は早く高まった。冷や汗のようなものが滲み、指先が震えてくる。直感のようなものが多分警鐘を鳴らしているのだろう。
この先に、カミューがいる。
もっとも酷い場所に―――そんな気がした。
そしてそれは、当たった。
「……カミュー」
崩れ落ちた瓦礫に腰をかけて微動だにしない人影を見つけて、マイクロトフは立ち止まった。
こんな中でも、彼の淡い金茶の髪は相変わらずで、そこだけ生彩を放っていた。だから安堵のあまりマイクロトフは深く吐息をこぼし、それから再び足を踏み出した。
しかし。
ゆらり、とまるで水中で動くような鈍重さでカミューが顔をあげた。
恐らくマイクロトフの足が小さな小石でも蹴った、その音に反応したのだろう。しかし見上げたカミューの瞳を覗いた途端、足が硬直したように動かなくなった。
「……カミュー…」
喉の奥から掠れた声が出る。
その声に、カミューがふっと笑った。冷酷な眼差しのままで。
「またかい」
ひっそりとした声だった。
嘲笑するかのような響きでマイクロトフの鼓膜に滑りこんできたその声は、まるで聞いたことのないようなカミューの声で。
「今度はどんなふうに死ぬの」
言われた言葉の意味が分からなかった。
「また、焼け死ぬの」
冴え冴えとした瞳でマイクロトフを見詰めながら、虚ろな声で言い募る。
「それとも、剣で死ぬの」
口角を笑みに吊り上げて、笑う。
「血を吐くのかな。腐って死ぬのはもう見飽きた。どうせなら一息で死んでよ」
「な、に……」
硬直したままの足が震えた。
カミューは何を言っているのか。
瓦礫の中で、焼け跡の臭気に包まれたまま、マイクロトフが死ぬのを、望んでいるのか。
思わず、息を呑んだ。
足の震えが全身を走って、立つのも困難な状況だった。
すると、カミューの瞳がゆっくりと瞬いて、首を傾げた拍子に髪が揺れる。
「どうしたの。もしかして趣向を変えてきたのかな」
そして今度はクスクスと肩を震わせて笑い始めた。
「焦ってきたのかい? でも無理だよ。俺は一生、この場所にいる覚悟を決めたから」
カミューの瞳の奥が不穏に揺らめいた。
「おまえと心中というのが気に喰わないが、まぁそうやってあいつの姿で現れてくれるだけましかな」
言って、片手を振った。
「現れるたびに、死に様を見せ付けるのは悪趣味だが、残念ながらそんなことで俺は絶望しない」
だって、と小さな呟きが聞こえる。
「俺がここで絶望したら、その姿が現実になるんだろう。そうやって、見せ付けてくれるから俺は、まだ、頑張れる。いい加減、諦めたら良いのに」
まるで独り言のように呟いて、カミューは再び項垂れた。
そして、また彫像のように動かなくなる。
いったい今のは。
マイクロトフは喘いでその場にとうとう膝をついた。
まさかそんな。
カミューはずっとここで。
マイクロトフの死ぬ姿を繰り返し、見せられていたと。
それが、悪夢だと。
なんということを。
* * * * *
はじめに感じたのは絶望にも似た哀しみ。
ところがそれを実感するよりも早く、腹の底から滾るようにせり上がってきたのは純粋な怒りだった。
「…っざけるな!!」
硬く握り締めた拳で地面を叩きつける。吼えるような声は一帯に大きく響いた。カミューがその大音声に弾かれたように顔をあげる。その瞳をマイクロトフは射抜く程のきつさで見据えた。
「出てこい」
「え……」
一瞬怯えたような目をしたカミューに、しかしマイクロトフは更に声を張りあげた。
「夢魔め! 姿を見せろ!! 俺の前に出てこいっ!」
「マイ、クロトフ…?」
呆然とするカミューを前に、マイクロトフは立ち上がり辺りに視線を移して更に怒鳴った。相手の姿など何処にもない。ここに居るのはカミューと自分だけで、虚空に向かって喚いているだけの姿など滑稽だろう。しかし怒鳴るより他にこの怒りを表す術がない。
ルックの忠告などあっさりと吹き飛んでいた。ただひたすら夢魔に対する怒りが体中を荒々しく渦巻いている。
「俺は怒ったぞ。絶っ対に赦せん!」
握り締めた拳を震わせてマイクロトフは怒鳴った。
「夢魔の奴を絶対に成敗してくれる。そうでなければ俺の気が済まんぞ!」
すると呆気に取られていたカミューが小さく身じろいだ。
「どうして……」
その声にガッと勢い良く振り返るとマイクロトフは決まっているだろうと拳を振った。
「おまえにこんな真似をしたんだぞ!? 赦せるか? 俺は赦せんぞ!!」
傷付けて、苦しめて、打ち捨てられた者のように無気力な瞳になってしまうまでに―――赦し難い仕打ちだ。しかしマイクロトフがそう訴えているのに当のカミューは呆然としたまま首を僅かに傾げている。
「マイクロトフ……なのか…?」
「なにがだっ!!」
「おまえ、本当に―――マイクロトフ…」
「俺は俺だ! おまえを迎えにきたんだがな、くそ! 出てこいというんだ夢魔め! 叩き切ってやる」
獰猛に唸ってマイクロトフは険しい眼差しで周囲を見遣る。しかし、視界の中央ではカミューが茫洋と立ち上がるところだった。
「どうして、だい…? どうしてマイクロトフがここに居るんだ」
問われて漸く自分が何の説明もしていないのに気付き、マイクロトフは少しだけ怒りを抑えてカミューを見つめた。
「ルック殿やキリィ殿が尽力してくださっておまえの元へ俺を連れてきてくれた。カミュー、俺はおまえを迎えに来たんだ」
言って手を差し伸べるとカミューは大袈裟なほどにビクリと震えた。
「まさか、マイクロトフ……本当に、俺を…?」
「何故俺がおまえに嘘をつく。良いから来い。夢魔は腹が立つが仕方あるまい、早く帰れと言われているのを思い出した」
この怒りはそう簡単には収まりそうになかったが、カミューに説明をしたことで少しだけ頭が冷えた。見た通りカミューは随分と憔悴している。随分と夢魔に付け入れられたのだろう、何度も繰り返しマイクロトフの死に様を見せつけられたと言った。
考えるだけで胸が冷える。
もし―――自分がカミューの息絶える様を、幾度となく見せられたらどうなってしまうだろうか。恐ろしくて、哀しくてどうにかなってしまうかもしれない。だがそんな悪辣な世界を見せつける夢魔に、やはり今のように怒りを覚えていたと思う。
相手が人間ならざる、妖魔だと分かっていても。人を苦しめるばかりの非道な所業に怒り心頭に達したろう。
だが、今はそんな夢魔に怒りをぶつけるよりも、目の前で未だ呆然とするカミューを救う方が大事だ。
「帰ろうカミュー。俺と一緒に」
そんなマイクロトフの差し出した手を、カミューはあと数歩で取れる距離にいた。戸惑いながらも、右手が緩く持ちあがろうとしている。そんな緩慢な動作に焦れて、こちらからその手を掴もうとマイクロトフが歩み寄ろうとした。
その時だ。
「……ぐっ」
不意に背中に石でもぶつけられたような衝撃がマイクロトフを襲った。いったいなにがと背後を振り返ろうとするが、それよりも先にカミューの見開かれた瞳とぶつかる。
「カミュー…?」
どうした、と問いかけようとして更に背中に強い重みがかかって、マイクロトフは膝をついた。
痛い。
いや、熱い―――。
首を捻じ曲げ自分の背中を見遣ったマイクロトフは、そこに短剣が深々と突き刺さっているのを見た。途端に背中を中心に激痛が走る。しかし背後には誰の気配もなかったのだ。
「なぜ……こんな…っ」
痛みに息を殺しながら疑問を口にした途端、ここが夢の世界なのだと思いだす。
「―――っ…!」
そして瞬く間に四方八方を炎が埋め尽くした。
突然の急変にマイクロトフの理解がついていかない。しかし、目の前のカミューは驚愕に目を瞠りながらも、諦念をその表情に滲ませて、ふらふらと後退していく。
「カミュー…っ」
「またかマイクロトフ。また、おまえは―――」
そしてカミューは両手で顔を覆うと、最初と同じ場所に腰を下ろしてしまった。
「違う。カミュー、これは違う!」
まさか自分自身が悪夢を体現するとは思わなかった。しかしこれが、ルックの言っていた悪夢に飲み込まれるという状態なのだろう。
見回せばマイクロトフは燃え盛る家の中にいて、ぽっかり開いた間口の向こうにカミューが顔を伏せて座りこんでいる。そしてマイクロトフは背中に短剣が突き刺さり、動けない。これは、まるでカミューが実母と別たれてしまったあの時の再現そのままではないか。
言葉にならない憤怒がマイクロトフの全身を染めていく。
こんな状況を作りだすために自分はここに来たわけではない。なのにこのざまはなんだ。夢魔の好きなように悪夢に踊らされている。
「カミュー!」
背中から息が引き攣りそうなほどの痛みが走るが、マイクロトフは渾身の力を込めて名を呼んだ。
「目を覚ませカミュー! こんなものはただのまやかしだ、俺は……! 俺はこんなことでは死んだりしない!!」
身体中が震えるほどに激痛に侵されていた。
それでもマイクロトフは立ち上がろうと足掻く。これは現実ではないのだからと、本当は短剣など背中に突き刺さってはいないのだと必死で念じながら。
「これしきのことで、俺がどうにかなるものか! 夢魔などに、俺は負けん!!」
カミューに呼びかけながら、次第に自分に言い聞かせるような言葉で自らを奮い立たせる。すると今にも崩れ落ちそうでありながら、マイクロトフは身を起こすことに成功した。
立ち上がれば炎はひどく熱く、本当にこのままでは焼け死んでしまうだろうと思うほどに燃え猛りマイクロトフを襲ったが、それでも足に力を込める。
しかし、激痛は現実で知るそれよりも身体中をがんじがらめにし、今にも気を失いそうなほどだった。
これが本当に夢の世界なのかと疑いたくなるほどに、現実的な痛みと炎の熱。背中がびっしょりと濡れている気がするのは、血が流れているのだろう。このままでは失血死するかもしれない。
そんなマイクロトフであるのに、間口の向こうではカミューが今にも泣きだしそうな顔でこちらを見ているばかりだ。
ふざけるなとマイクロトフは途端に腹が立った。
「カミュー! この馬鹿、さっさと俺を助けに来んか! 気が遠くなりそうなくらい痛いんだぞ!!」
人が決死の覚悟で悪夢の中まで迎えに来て、それでこんな目に遭っているのに呆然と見ているだけの奴があるか。
「カミュー!」
「え…でも……」
「でもではないっ。早く来い! でないとお前をおいて俺は帰るぞ!!」
「そんな。ちょ……っ」
情けない脅し文句にカミューが慌てたように立ち上がる。そして炎をものともせずに飛び込んでくると、やっとマイクロトフの身体を支えて立たせると、燃え盛る炎の中から連れ出してくれた。
そして炎から遠ざかると、二人揃って石くれの上に身を横たえた。マイクロトフはもう背中の痛みが指先にまで伝わって震えるしかなく、カミューもそんなマイクロトフを半ば背負うようにして運んだために荒く息を乱していた。
「大丈夫か、マイクロトフ」
「ああ。夢、だからな」
たぶん大丈夫だ、と呟いてマイクロトフはまた痛みに顔を顰めた。
現実と違って直ぐに死んだりはしないだろうと思った。だが、もし夢の中で死んでしまったら現実の身体はどうなってしまうのだろうか。良く分からないが、きっとこの悪夢から戻れなければやっぱり身体の方も死んでしまうのだろう。
夢の中とはいえこれ以上失血すれば本当に死んでしまいそうだ。幸い短剣が突き刺さったままなので、一度に流れる量は少ないのだが、指先が凍えて震えが止まらない。
まったくこんな目に遭うのは現実の戦闘だけで充分だというのに―――。
過去の失態の数々を思い出してマイクロトフは唇を真一文字に引き結んだ。実際に、生死の境をさ迷った事がある。しかも一度だけではなく、重傷を受けた事は何度もあった。その都度、カミューに大変な気苦労をかけてきたのだ。
もしかしたら、それゆえのカミューの悪夢なのかもしれない。
だったら、この有様はマイクロトフの所為でもあるのだろうか。
「カミュー、俺はいつもおまえにこんな悪夢を見せてきていたのだな」
痛みに喘ぎながら囁くと、傍らでカミューが首を振る。
「これは、俺の心の弱さだから―――さっき、お前に怒鳴りつけられて、反省した」
「……なんだ」
「目を覚ませ、と。こんな事では死んだりしない……早く助けに来いって」
そしてカミューはくしゃりと泣き笑いに顔をゆがめた。
「何度も何度も、マイクロトフの死ぬところを見せられて、最初は死なないでくれって手を尽くした。泣いて懇願したりもした。だけどおまえはそんな俺の手をすり抜けて何度も呆気なく死んでいく―――そのうちに俺は諦めかけていたんだ」
カミューはぎゅっとマイクロトフの手を握りしめた。
「ここが現実じゃないことも、これが、俺を苦しめようとしている手段だとも分かっていた。夢魔、かい? そう怒鳴っていたね。そいつの仕業なのかな……ただ、負けてはいけないと思って、絶望だけはしないように、俺はそのうちおまえが死ぬのを見ない振りする事で耐えるようになった」
「カミュー……」
「でも、それじゃ駄目だったんだな。諦めずに何度でも俺はおまえを助けようと頑張らなくてはいけなかったんだ。俺は、目を逸らして耐えているつもりで、いつの間にかゆっくりと絶望を呼び寄せていたみたいだな」
そしてカミューはマイクロトフの身体をぎゅうっと抱き寄せた。
「ごめん、マイクロトフ。俺はいつの間にか昔のように―――全てを諦めてしまうところだった。あんな後悔は絶対にしないと誓ったはずだったのに……」
最後の方はまるで独り言のような呟きだった。だがマイクロトフにはカミューがなにを言っているのかが分かった。
マイクロトフは、少年時代のカミューが多くの事を諦めていたのを知っている。亡くなった母を振り返ることをせず、笑顔をなくしてひたすら「生きている」だけだった。
幼いカミューは実母を見捨てて逃げたも同然で、少年になったカミューは自分が助かる代償に父を刃に晒した。決してカミューの所為ではなく、どれも抗い難い運命の仕業だった。しかし、どれほど深い後悔に苛まれただろうか。
「カミュー」
マイクロトフはその背に腕を回すと、痛みも何も振りきってカミューの身体を抱き締めた。
「大丈夫だ。おまえはいつでも最大限に頑張っている。俺はそれを知っている。何も、後悔する必要はないんだ。だから、俺と帰ろう」
「マイクロトフ……」
「早く目を覚まして、俺におまえの笑顔を見せてくれ」
「うん、そうだね。マイクロトフ…好きだよ」
「ああ、俺もだ」
微かに笑ってマイクロトフはカミューの頬を撫でた。
もう、大丈夫だろうか。
悪夢はカミューから遠ざかりつつあるだろうか。
「カミュー、もう負けるなよ。ここは夢の世界だ。意思の力が全てらしいのだからな」
願えば空も飛べるはずなら、死なないと願えば、この背中の傷も消えるかもしれない。しかし―――先程よりもずっと身体が重く感じるのは、マイクロトフの気の所為だろうか。
* * * * *
夢の中とはいえ、寒さも感じれば震えもするのが不思議である。
いつのまにか燃え盛っていた炎は消え、跡には煤けた瓦礫と鼻につく嫌な臭いがするだけだ。だが、今のマイクロトフにはそんな臭いを遥かに凌駕する背中の痛みがある。
「マイクロトフ……」
「―――平気だ」
短く答えてカミューに支えられながら立ち上がる。
「帰るぞ」
しかしその帰る術というのが心許ない。マイクロトフはルックの言葉を思い出しつつ、己の胸元に視線を落とした。
―――帰りたい時は、これに呼びかけたら引き戻してあげるから。
そう言ったルックが指先を伸ばした時、確かに眩い光がマイクロトフの胸に吸い込まれていったのだ。その場所におずおずと掌を置くと、不意にそこからじんわりと熱が生まれてくるのを感じた。
「……これは…」
呆然と呟き、マイクロトフがハッと胸から掌を離した瞬間、そこから翠色の光がふわっと広がってみるみるうちに視界を翠の閃光で埋め尽くした。
「う、わ」
その衝撃に思わず目を閉じて身を硬くしたマイクロトフとカミューだったが、光が収まった時、目の前に浮かんでいたそれに唖然と言葉をなくした。
「マイクロトフ、これって…」
カミューが呆然とした声で呟く。それも当然だろう。二人の目の前に浮かんでいたのは、極小のルックだったのだ。
掌に収まる程度の全長は翠がかった光に淡く包まれていて、片手には自分の身長と同じくらいの杖を持ち、空中にぷかぷかと浮かびながらふんぞり返っている。その目は本人と変わらないきつい眼差しなのだが、どうやら口が利けない様子でしきりに杖を振り回していた。
「ルック殿の化身だろうか?」
「さぁ……これ幻…じゃないよね」
マイクロトフが首を傾げると、そのルックは空中をすうっと滑るようにして移動し、カミューの目の前で留まりその前髪に手を伸ばした。
「い、痛っ」
どうやら幻ではないらしい。小さな手がカミューの前髪をまるで綱引きのようにして引っ張っているのだ。
「どうやら、このルック殿が出口まで導いてくれるようだぞ」
「この頼りなさそうなのがかい。って、イタタ」
またも髪を引っ張られてカミューがたたらを踏む。
「ごめんなさい。前言撤回。頼りにします! だからっ」
カミューが叫ぶようにして言った途端、ぱっと前髪を離して小さなルックは満足そうに頷いた。そして杖を大きく振り回すとくるりと向きを変えて、ふよふよと進みだした。
「ついて行けば良いのだろうか」
「…だろうね……」
げんなりした口調でカミューがマイクロトフの身体を支え直す。そして二人でゆっくりとルックの後を追い出した。
小さなルックは何度も気遣わしそうに二人の様子を振り返りながら先を進んだが、次第にその速度が遅くなっていく。急がねば、と思うのにマイクロトフの足が徐々に重くなっていくのだ。
「マイクロトフ。少し休もう」
「いや。かまわん」
「だけど」
「これは夢だ。目が覚めれば、こんな怪我など負ってはおらんのだから」
頑なに言い張ってマイクロトフは足を引き摺るようにして先を急ぐ。しかしその身体をカミューの腕がきつく抱き寄せて引き止めた。小さなルックが先から戻ってきてじっとそんな二人を見下ろしている。
「駄目だ。これが夢なら尚のこと、辛い想いはさせられない」
そしてカミューは自分から地面の上に座り込むと、マイクロトフの身体を強く引っ張る。全身が鉛のように重かった身体は抗いも出来ずにカミューの身体に凭れるようにして倒れた。
途端にどっと疲労が波のように押し寄せてきて、マイクロトフはカミューに抱えられるまま荒い息をついた。するとその肩を撫でながら静かな声が耳に滑る込んでくる。
「俺はね、嫌な夢って嫌いなんだよ。現実で幾らでも嫌な事があるのに、どうして夢の世界でまで辛いことを体験しなくてはいけないのかってね」
「だが、ここは夢魔の見せる悪夢だ」
辛くないわけがない。
だがカミューは小さく首を振る。
「でもこれは俺の夢だよ。マイクロトフまで辛い思いをしなくて良いんだ。それに、おまえが辛いのは俺も辛いんだから」
「……カミュー」
「その夢魔とやらはよく分かっているね。おまえの傷は、自分のそれよりも痛いよ」
にわかに明るい声で冗談めかして言うが、カミューの感じているだろう痛みはマイクロトフにも十分理解できた。その事をすまなく思う反面、またもや夢魔に対する怒りが湧いてくる。
相手は目に見えない存在だが、その脅威は本物だ。
背中から今もじくじくと流れ続ける血がそれを物語っている。マイクロトフは遣り切れず深い吐息をつくと目を伏せた。だが直ぐに目を開けると自分を横抱きに支えているカミューに声をかける。
「カミュー……おまえは夢で、空を飛んだことがあるか」
「うん?」
「俺は、ないんだ。夢をあまり、見んからな」
だから夢の中で自分の思うように動くという事がよく分からない。
「そうなのか? まぁマイクロトフはいつも熟睡しているしね。俺は、朝に見る夢が多いけど、空を飛ぶ夢は何度かあるよ」
その目の前では小さなルックがなにをするでなく、ふらふらと浮いている。それを見てカミューがくすりと笑った。
「けれど、こんなふうに飛んでいるのじゃない。夢の中で俺は鳥の姿になって空を飛んでいるんだ」
「鳥、に…?」
「そう。鳶か鷹か、それくらいの大きさの鳥になって、強い風を翼に孕んで螺旋に廻りながらぐんぐんと上へのぼっていく」
雲を幾重も抜けて上空へとまるで何かを追い求めるような勢いで、のぼっていくのだとカミューは囁く。
「マイクロトフ。その夢の、空の果てにいったい何があると思う」
「なんだ。太陽か」
「ああ、それは良いなあ。でも、違う。果てには―――何もない」
「………」
「何もないんだ。一生懸命飛んでのぼったはずなのに、果てには塵ひとつない、無の世界でね」
「カミュー」
思わず咎めるようにマイクロトフは名を呼んでいた。それ以上を言わせたくなくて、けれどカミューは構わず先を続けた。
「だけどさマイクロトフ。そこで目が覚めたら、ほら、おまえがいるんだよ」
そしてカミューは掌でさらさらとマイクロトフの肩を撫でた。
「カミュー……」
「良いんだよ。俺は、だから良いんだ」
言葉もなく、ただマイクロトフはまた目を伏せると吐息を細くこぼした。
「早く目を覚ましたいな」
「……そうだな。少し、楽になった。…行こう」
「立てる?」
「ああ。ルック殿も、頼む」
漸く立ち上がった二人に、小さなルックはまたも杖を振り回して忙しく飛び回った。その身体は相変わらず微かに翠色に光っていて、それが暗い光景の中で救いのように輝いている。なるほど、道しるべなのだということだ。
ところがそうして再び歩き出そうとしたマイクロトフとカミューだったが、不意に目の前を行くルックがぴたりと止まった。その小さな身体が止まりきれなかったカミューの顔にぶつかる。
「うわ」
その声にマイクロトフが足元から顔を上げる。
「な……っ」
そして驚きのまま固まってしまった。その傍らで、やっと小さなルックを顔から退けたカミューも同じく目前を見据えて凍りついた。
ぜぇぜぇと喘息の音が聞こえてくる。
一行の目前に立ちはだかっていたのは、死んだ筈の男。ハイランドの、この夢魔を封印球から解き放ち、最初の犠牲者として悶死したあの男であった。
その息苦しい喘ぎと、この世ならぬ者の薄昏い眼差しに心まで冷やされていくようだった。その幽鬼のような姿を認めてマイクロトフは失血からくる寒さだけではない悪寒が、全身を這い登るのを感じた。
「貴様は」
名も知らない。ただ、狂人のようとしか見えなかった男。
その壮絶な死に様は今も目の裏に焼きついているし、既に男が死んでしまっているのは分かっている。だが、この男もまた夢魔によって悪夢を見せられながら死んでいった者―――果たして、これが夢魔の見せる幻なのか、それとも男本人の魂がそこにあるのか、見分けなどつかなかった。
だが男はゆるりと哂った。そしてぽっかりと虚のように開いた口から、錆びたような声を放った。
「よく、来たな」
まるで抑揚のない呪わしい声に戦慄が走る。
「背中は、痛むか」
「ぐぁ…!」
途端に刃が刺さったままの背にずきりと激痛が走った。
「マイクロトフ!」
痛みに崩れ落ちそうになるマイクロトフをカミューが慌てて支える。その前で男は喉奥で引き攣ったような笑みを洩らした。
「死ぬるか」
笑っているのに全く感情が窺えない。まだ生前、狂ったように哄笑を迸らせていた姿の方が人間らしく思えた。
「夢で死ぬると、現(うつつ)でも死ぬるぞ」
その言葉にマイクロトフよりもカミューの方がハッとした。そして再び背からじわじわと染み出してくる血を見て絶望的な表情をする。そんな顔に大丈夫だと言ってやりたいのに、目の前の男がひくひくと虚ろな喉を震わせて笑うたびに、背に突き立った刃を目に見えない力がぐいぐいと押すのだ。
悲鳴を押し殺してマイクロトフはとうとう地面に手をついた。
「マイクロトフ!」
「…カ……ミュー…」
立ち上がらねばと思うのに。
そして立ち向かわなければと強く思うのに、少しも身体の自由が利かない。まさしく夢の中では自分自身のことさえままならないように、だ。そんな自分の弱さに歯噛みしたい気分でマイクロトフは掌に感じた土を握り締めた。
このままでは、夢魔の良いようにされてしまう。何とかしなければと心ははやるのに、動いてくれない身体が悔しくて堪らなかった。
ところが。
「おまえは大人しくしてろ」
頭上から冷えた声が降ってくる。ふと見上げればカミューが己の腰に手を持っていくところだった。
「我らの目覚めを邪魔するならば、排除するまで」
カミューの厳しい声と共にすらりと引き抜かれたのはユーライア。美しい白刃が煌いてマイクロトフは目を細めた。
「悪夢を、切るか」
錆びた声が不快を含んで吐き捨てる。
「やってみるがいい。悪夢が、切れるものか、どうか」
その声に応じるようにカミューはユーライアを正眼に構えた。
「切ってみせるさ。夢の中ならではこそ、叶うこともある」
そしてカミューは、こんな状況に不似合いな優しげな微笑を浮かべた。
* * * * *
「カミュー! 待て、俺も……」
戦う。
しかし立ち上がれもしないマイクロトフに、カミューは真面目な口調で返した。
「おまえはその背のナイフがどうすれば消えるか考えておくと良いよ。戦う役目は俺が負う」
「消えるかなどと……」
深々と刺さったナイフが消えるわけがない。しかしカミューはけろりと言い放った。
「夢なんだ。消えろと願えば消えるさ」
「そ、そんなものか…?」
「ああ、そうさ」
夢なんてものはね。
笑ってカミューはユーライアを斜め下に払うと、いつもの構えを取った。そして正面に立ちはだかる男を見遣る。だがその男は二人の会話にひっひと哂っていた。
「愚かな、者共よ。この幽(かそけ)き世界で、たかが人間に、なにが出来ようか?」
「貴様も、見た限りでは人間の姿をしている」
微動だにしないユーライアの先が微かに震える。仕掛けるきっかけを探しているのだろうが、頭の上で交わされる問答も気にかかる。マイクロトフは黙り込み頭半分でカミューの言葉を聞きながら、もう半分で言われるままにナイフがどうすれば消えるか考えた。
「だが貴様からは人間の気配がしない。何者、と聞いて答えてくれるのかな」
「害毒…災厄…恐怖……なれど、尤も心地良いは―――悪夢、とな」
「…貴様、がっ!」
思わずマイクロトフが吼えた途端、またも男は哂った。
「出てきて、やったぞ。そら、成敗してみるが、いい」
「おのれ……っ!!」
嘲笑う虚のような口に怒りが燃える。だがそれを冷静に制するのはカミューだった。
「挑発に乗るんじゃない。成る程、確かにこの穢らわしさは覚えのある感覚だ。こいつが、夢魔だな」
カミューの瞳に冴え冴えとした冷たさが宿る。
「この腹立ちも何もかも、全てぶつけて良い相手が現れてくれたというわけだ」
つ、とユーライアの切っ先が僅かに滑る。
「ここが夢の世界ならば、そうか―――空も飛べるかもしれない世界なわけか。では、現実にありえない力が働くのも理解できるね」
最前のマイクロトフとの会話を思い出してかカミューがくすりと笑う。そしてユーライアの柄を握りこむまま右手を僅かに持ち上げた。
「試してみる価値はありそうだ。紋章は、使えるのかな?」
カミューがそう言った途端に彼の右手がふわっと焔の色に染まる。その見慣れた赤い光は烈火の発動が見せる色だ。
まさか紋章が使えるのか、とマイクロトフは驚愕に目を見開く。その前でカミューは剣を左手に持ち替えると、小さく呟いた。
―――『火炎の矢』
瞬く間に掲げられた彼の指先で焔が渦を巻き、一点に凝縮されていったかと思うと、佇む夢魔に向かって真っ直ぐに矢を象った炎が打ち込まれた。
矢はそして夢魔の胸元を寸分の狂いなく貫き、その薄暗い色の衣服にわっと炎が移る。そしてあっという間に男の身体は真っ赤な炎に包まれた。
夢魔は、男の姿をしたそれは、全身を炎の色に染め上げると、まるで人形が焼けていくようにがくがくと揺れ、そして足元から崩れ落ちるとばったりと前のめりに倒れた。
その呆気なさに唖然とするのはマイクロトフだけではない。
「マイクロトフ。まさか、これで終わりではないよな」
「ああ。簡単すぎる」
しかし、そういえば夢魔はカミューに取り憑く前に烈火の攻撃を浴びて弱っていた。だから、あの男のように即死を免れて今こうして幽界に引き込まれてはいるが、カミューは生きているのだ。
「炎に怯んだのかもしれん」
「どういう事だい?」
取り憑かれて直ぐ意識を失ったカミューは知らない。
マイクロトフは短的に説明した。
するとカミューは成る程、と頷いて己の右手をしげしげと見つめた。
「そうだ、思い出したよ。あの時は咄嗟に繰り出したけれど、効果はあったわけか」
「カミューは、烈火の紋章に随分と救われている」
「そう?」
「ああ……流石は生まれながらの紋章だ。感謝すべきだな」
そしてマイクロトフは再び立ち上がった。
抉るような背の痛みは、夢魔が炎に包まれた途端に消え失せた。だが、未だに突き立つナイフは消えてはいないのだが。
「さあ、この隙に先へ進むぞ」
ルックには夢魔には立ち向かうなと言われている。それよりもカミューを連れ戻して目覚める方が大切だ、とも。
そしてマイクロトフがそう言った途端に、何処に隠れていたやら小さなルックが飛び出してさっさと先へと飛ぶと振り返って二人を急かした。
ところがそんなルックに苦笑を滲ませて先を急ごうとしたマイクロトフを、カミューが腕を掴んで止めた。
振り返ると青褪めた顔が厳しくマイクロトフの背を睨んでいる。
「マイクロトフ、また、血が流れている」
「大したことではない」
「馬鹿かおまえは。これの何処が!」
すっとカミューの手が背中に触れる。だが直後にマイクロトフの目前にかざされた指先にはべったりと赤黒い血が纏わりついていた。
「このまま進むのは無理だ。これを先に何とかしようマイクロトフ」
「カミュー、俺は大丈夫だ」
そんな柔ではない。
訴えるがしかしカミューは頑なに掴んだままの腕を離そうとしなかった。その手が、心なしか震えている。
「…カミュー?」
「頼むからマイクロトフ……俺の目の前で無茶をするのは勘弁してほしいよ」
そしてカミューはマイクロトフの手を引いて自分の腕の中に誘い込むと、ぎゅうっと縋るように抱き締めた。
「カミュー、俺は」
「言っただろう。おまえが痛いのは、俺も痛い」
痛いんだよマイクロトフ。
吐息のように呟いてカミューは指先をマイクロトフの短い髪に絡めた。その慰撫するような指の動きに当惑していると、不意に抱き寄せられていた身体が離される。
「そうだ、マイクロトフ。止血しよう」
「だが。手当ての道具など―――」
無い。
言おうとしたマイクロトフの口が止まる。
いつの間にかカミューの手に薬草や包帯が現れていた。
「ああ、これは便利だ。さすが夢だね」
呑気に感心しているカミューである。
だがマイクロトフの驚きは尋常ではなかった。
「カミュー。いったいそれを何処から…!」
「え? ああ、ただ必要だなと思って。そうしたらほら、このとおり」
両手を広げてカミューはそれから真剣な顔でマイクロトフの背中を観た。
医者ではないが、騎士という立場上怪我とは無縁では居られないため、少なからず心得はある。さっきまでは手当ての道具が無くて、そのままにするしかないと諦めていたのだが、どうやら夢の中では事情が変わってくるらしい。
「カミューは、夢使いの素質があるのかもしれんな」
「夢使い?」
再び地面に座り込み、自分の身体にマイクロトフの身体を抱き寄せながら背中の傷口を見ているカミューが首をひねる。
「そうやって、自在に道具を出してみせたりする才能だ。夢では、人はなかなか自分の思う通りに出来んそうではないか」
「確かに、夢は突拍子も無いことが起きるけど……でも結構思い通りになるもんだよ?」
よく夢を見るらしいカミューはそう答えた。そして背中のナイフに触れる。
「……少し食い込んでるね。『優しさのしずく』の札を使うから、一気に引き抜くよ?」
「ああ。頼む」
札まであるのか、と感心しながらマイクロトフは背中の傷が揺すられる感触に、無意識にカミューの肩にしがみ付く。そして一拍の後、激痛が走った。
「……っく」
だが途端に涼やかな清水の香りが全身を包み込む。ふっと衝撃に閉じていた目を開いた時には、背中の痛みは消えていた。
「―――すごいな」
思わず背中に掌を這わせて傷口を確かめるマイクロトフだ。そこは確かに服の生地が裂けてはいたが、その下の傷は綺麗に塞がっていた。
「カミュー。すごいな!」
「そうかな…? でも、これで少しは安心したよ。もしかしたらやっぱり夢の方が現実より都合が良いかもしれないね」
「そんなものなのか」
「うん。だって昔は結構夢で―――……」
と、そこで不意にカミューが口を噤んでしまった。
何か不審な事でもあったのか、と不安に思ったマイクロトフだったのだが、実はそうではない。
「どうしたカミュー。なんだ」
「いや別に。なんでもないよ」
「昔がなんだ。夢の話なのだろう?」
苦笑いで誤魔化そうとするカミューにマイクロトフは険しく眉根を寄せる。
「一体なんだ! こんなところで隠し事はよさんか」
「うう……でもさ。言っても怒らない?」
「俺が怒るようなことなのか」
夢魔が暫し去ったとはいえ、まだまだ危険である。夢をあまり見ないマイクロトフにとって、夢に慣れているらしいカミューの言葉は少しでも聞いておきたいところなのに、曖昧にされては非常に困る。
ところがカミューはそんなマイクロトフ以上に困ったような顔で唸っている。
「怒るなよ?」
「言わんと分からん」
「……だからさ、昔は夢でおまえと会ってたりしたんだよ」
「俺と?」
そこで疑問なのが、どれほど昔なのかだ。
「いつの話だ」
「もっと若い頃……団長になる前だよね」
「しかし俺たちは毎日ではないが、夢でわざわざ会わなくとも顔を突き合わせていただろうが」
ところがカミューは余程困り果てているのか、深々と溜息をついて頭を抱え込んだ。
「違うんだよ」
「なにがだ」
「だ、だからさ。夢の中だったら、好きに出来るじゃないか」
「何がだからだ。どうしてはっきり言わない」
次第に怒り出してくる始末だ。
何をそう言い淀む必要があるのか、全く理解に苦しむ。
しかし、何か意を決したようにカミューは口を引き結ぶと、ちらりと憤慨まじりのマイクロトフを見て呟いた。
「だから色々。触ったり口付けたり、あんなことやこんなことや」
「…………」
「これでも片思い歴は半端じゃないからねぇ」
しみじみと言う。
「夢の中のマイクロトフはそれはもう素直だし」
何処か遠い目をしてカミューは嬉しそうに笑った。
「そりゃ現実の方が数倍良いけど、ほら、あの頃は絶対有得ないと思ってたしね。夢でも見なきゃやってられないって気分で」
「………カミュー」
自分でも驚くほど低い声が口をついて出る。途端にカミューがびくっと肩を震わせた。
「お、怒った?」
恐る恐ると問い掛けてくる。その情けない顔にマイクロトフは苦く溜息を落とした。そして短く問い返す。
「今はどうなんだ」
「え?」
「今もまだそんな夢を見ているのかと聞いているんだ」
「み、見てないよ。だって夢より生の方がよっぽど―――」
「言わんで良い! 馬鹿者!」
怒鳴って、そして一呼吸。
見る間に己の顔が赤くなっていくのが分かるマイクロトフだ。
「全く、この本物の馬鹿が」
「…マイクロトフ?」
「なんだ!」
「怒ってないの?」
吃驚したような目をしてカミューが立っている。
その姿にマイクロトフは半ば呆れつつ首を振った。
「今更の話だろう。それよりも、そんなにも夢を好きに見られるのなら、せいぜい期待させてもらおう。目覚めるまで、カミュー……夢魔に負けるなよ」
脱力しつつも笑って言ってやると、じわじわとその言葉の意味が飲み込めたのかカミューがゆるゆると笑顔を浮かべていく。
そして言った。
「任せろ。何しろ昔はすごい事を夢でしたこともあるし」
一体どんなことだ、とは、流石にそれ以上聞けなかったマイクロトフである。
* * * * *
記憶の風景は随分と色褪せて、けれどあの日に初めて見た彼の髪の色と瞳の色だけは今も同じ鮮やかさを持っている。
あの日から常に傍らにあった、彼の眩いほどの輝き。
そつのない笑顔も結構だが、自分は彼の綻ぶような笑顔が好きで、面と向かってそんな笑みを向けられると、いつでも胸がじんわりと暖かくなった。
―――はじめまして。
あの時から、はじまった。
それからの彼を、自分は独占している。
金茶の髪はあの頃より少し色味が濃くなったような気がする。
猫っ毛のようにふわふわとしていたのに、いつの間にかさらさらと滑る髪になった。その手触りを今も昔も知っているのは、きっとマイクロトフくらいのものだろう。
あれでいて、そう簡単に他人の手に触れさせないところは、本当に人に慣れない猫のようだ。くしゃくしゃと、その触り心地の良さそうな髪を掻き乱せる特権を持っているのは、全く限られている。
最初は握手くらいしか出来なかった。
はじめまして、よろしく、と。お定まりの挨拶を交わしたのは一瞬。次には二人とも剣を抜いていた。
剣術試験の対戦相手だったのだ。
その時、マイクロトフが知っていたことと言えば、彼の名がカミューというのと、年がひとつ上なのだと言うことくらいだった。
彼がマチルダの外から来た人間で、遠いグラスランドから来たのだというのは随分後になってから、別の者の口から聞いた。マチルダには珍しい綺麗な髪の色だとは思っていたが、それがカミューを異邦人だと教える理由なのだとは考えてもいなかった。
ただ、陽光を受けてキラキラと光る髪が綺麗で、繰り出される剣先がまるで舞のように空を切り裂くのがすごいと思った。
一度で惹き付けられた。
カミューの剣に夢中になった。
ひとつ上とはいえ、同年代でマイクロトフと渡りあう実力の者は、それまでいなかったからだ。
試合の結果は引き分けで、決着はつかなかったがそれはカミューに声をかける良い口実になった。試合の後で呼び止めて振り向いた彼に、再戦の申し込みをすると、ひどく驚いた顔をしていたが受けてくれたのだから。
柔らかな笑顔で、こくりと頷いた。
―――いいよ。
短く。けれど、確実に諾を返してくれた瞳にマイクロトフも笑顔を返した。
その時から、マイクロトフはカミューの親友で、そして一番身近な場所にいた。それ以前の、何も知らず。
「マイクロトフ?」
不意にカミューが案じるような声をかけてきた。
ハッとして振り向くとあの頃と変わらない色をした瞳が、そっとマイクロトフの顔を覗きこんでいた。
ここは幽界。カミューの魂が引きずり込まれてしまった、夢魔の作り出した悪夢の中だ。マイクロトフはルックに導かれて、迎えに来た。
今、二人の歩く道はマイクロトフが辿った道だった。
荒漠とした世界に焼け焦げた瓦礫がところどころ山を成している。それらが視界を掠めるたびに言いようのない焦りが胸を覆っていくのだ。カミューを探して夢中で駆け抜けた道だったが、今ならはっきりと理解できる。
「カミュー……俺は、この道を知っている」
「え?」
砂利を踏む二人の足音しか聞こえなかった世界で、ぽつりと落とした言葉にカミューが不思議そうに瞬く。マイクロトフは不意に横に見えた焼け落ちた建物を指差した。
「あれは粉屋の家だな。息子は乱暴者で嫌な奴だった」
子供の頃のカミューを一番に苛めていた。ガキ大将で他の子供たちは皆が粉屋の子倅に逆らえず、まるで言いなりの兵隊のように大勢で寄って集ってカミューを追いつめていた。
「父親も何かにつけてカミューを悪し様に言っていたし、つくづく嫌な親子だったが、こうして無残な家を見ると怒りの持って行き場がなくなる」
「マイクロトフ、何を言って……」
「おまえは、マチルダに来る前の事を何も教えてくれなかったな。俺も聞かなかったしそれを不自然だとも思っていなかったが、今思うとそれこそ不自然なことだった」
マイクロトフは何度かカミューに自分の子供時代の話をした覚えがある。それなのに、その反対はないのだ。ただの一度も。なのにこんな事件が起きるまでそのことを疑問とも思っていなかったのだ。
「教えてくれカミュー。それは、言わなかったからなのか、言えなかったからなのか……どうなんだ」
ひく、とカミューの喉が震えたようだった。
瞠られた瞳は動揺を隠しきれずにおどおどと揺れている。
「え…? な、何言ってるの」
「おまえの子供の頃の話を、どうして俺は知らなかったのだろうと、聞いている」
今、こんなときに聞くべきではないのかもしれないが、こうもまざまざと彼のグラスランドでの世界が焼け落ちているのを見ると、無視できなくなってくる。
この道は、町を東西につき抜ける大通りだ。
両端には家々が立ち並び、通りに面した場所は商店が幾つも連なっている。比較的、人口の多い町の特徴を有していた。この大通りを真っ直ぐ進むと次第に人家がばらばらになり、緩やかな傾斜をのぼると丘の頂が望める。そこに、カミューの育った家があるはずなのだ。
小さなルックは先程から二人を導いているが、このまま進むと間違いなくその場所に辿り着く。
現実にあの屋敷は燃えた。
近所の悪童の仕業によって、焼けたのだ。その時カミューは実の父に放火の罪を疑われ、危うく死にかけたのである。
烈火の紋章の中で全てを見たマイクロトフでさえ気付く、この道なりを、カミュー自身が気付いていないわけがなかった。綺麗さっぱりその記憶を失っていない限り。
ルックはただ幽界からの出口に向かっているだけなのだろう。
しかし、直面する景色からは夢魔の意図を感じずにはいられない。或いはカミューの悪夢が色濃く反映されているだけなのかもしれない。ともあれ、否応なしに不安を煽られずにはいられないのだ。
「カミュー。この道の先には、おまえの家があるはずだ。大丈夫か」
するとカミューは信じられないという顔で首を振る。
「どうして、マイクロトフ」
「俺は見た」
それを果たして告げるべきなのか、迷ったのは一瞬だった。
「おまえがこの町でどのように暮らし、そして何が原因でこの町を離れることになったのか。全てを俺は、おまえの烈火の紋章を通じて知ることが出来た」
「―――全て?」
呆然とした声が問い返してくるのに、マイクロトフは頷いた。
「ああ、全てだ。カミューのこの……」
そしてマイクロトフは手を伸ばすとカミューのこめかみに掌を押し当て、髪の生え際にうっすらと残る白い傷跡に親指で触れた。
「この傷が、どうして出来たのかも―――俺は、見た」
見ることしか出来なかったけれど。
こんな一方的な告白は、公平ではないと分かっていたが、言わずにはいられない。
「あの時、俺が傍にいて庇ってやれたら良かったのに」
カミューに烈火の紋章があるように、マイクロトフに宿るのは騎士の紋章。守るべきものを守るための紋章なのだ。
「カミューが悪意をぶつけられていたあの頃、俺は騎士になることだけを考えて勉強していた」
それが悪いことだとは思わない。だが、その落差を思うとどうしようもなく、憤りが湧き起こってくるのだ。傍にいたなら、話し相手にもなれたのに。手の届く距離だったら、抱き締めてやれたのに。
「同じマチルダの騎士にするなら、最初から同じマチルダに生まれていたら良かったんだ。そうしたら、俺はもっと早くにカミューに会えたのに」
だが、それが運命というものだ。
人それぞれの、生まれと境遇があるからこそ、出会いがあり絆が生まれる。
あの経験がなければ、カミューは今もグラスランドで、遠く離れたデュナンの地に訪れることなく、マイクロトフと出会うことなく生きていたかもしれない。
あの全てが必要だったとは思わないが、無ければ良いとも言いきれない。
しかしこれだけは、切実に願った。
烈火の紋章の中で、無力感に喘ぎながら、何度も思った。
「俺は、でも……」
マイクロトフはまだ呆然としているカミューの髪に指先を差し込んだ。知った手触りが今は何だか泣きたくなるような気持ちにさせる。そしてそのままマイクロトフはカミューの頭を自分の肩に抱き寄せた。
「俺は、カミューをずっと抱き締めたかったんだ」
引き寄せられるままに肩口にカミューの頭が寄せられる。マイクロトフは無抵抗の背中に腕を回した。
「本当は目覚めてから抱き締めたかったんだがな、この景色は些か暗い」
暗くて陰湿で、今にも怒鳴り散らしたくなる。
誰に。
夢魔か、或いはまだ、囚われている愚かな男に。
「良いか、確りと聞けよ」
背を抱く腕に力を込めると、カミューが僅かにびくりと身を強張らせた。マイクロトフはそのままきつく抱き締めると、一呼吸してからはっきりと言った。
「カミューは、俺のだ。誰にも渡さんし、傷つけさせない。あれは、既に過ぎ去った過去の出来事でしかないのだからな。夢魔如き下劣な魔物に食われるような真似は、絶対に許さん」
「マイクロトフ……っ」
「分かったらさっさと帰るぞ。忘れるなよカミュー。この先にはおまえの家があるが、それは悪夢の中のただの幻だ。ここは意識の世界だ。惑わされるな」
そしてカミューの肩を掴むと身を離してその顔を覗きこんだ。途端にマイクロトフは眉を顰めた。
「……なんて顔をしているんだ、おまえは」
「…って、マイクロトフ…っ」
寄る辺をなくした子供のような、不安そうな顔で小さく悲鳴のように囁く。
「だってではない。俺はもう全てを知ってしまったんだ。忘れることは出来ないし、知らない振りも出来ん。だからおまえもそう理解しておけ」
大した開き直りである。だが、そう言うしかないのだ。
「何故、おまえが明かさなかったのかが俺にはわからん。しかも、何をそう負い目に感じているのかもだ。俺が見た限りでは、カミューは何も悪くなかったのに」
途端にカミューはまるで肺を破られたような息苦しい様で、大きく喘いだ。
「……でも俺は、父親を……―――母親だって…み…見捨て……た」
己の胸元をぎゅうっと握り締めて今にも地面に膝をつきそうに揺れる。
「自分が……自分だけが助かりたいために……実の親を、俺は…」
マイクロトフはその告白に目を驚愕に見開いた。
「カミュー、おまえは」
そんなことをずっと考えていたのか。
「馬鹿な」
それは違うだろうと、目撃者であるマイクロトフは首を振る。しかしカミューは激しくその言葉を否定した。
「俺は逃げ出したんだ! 母からも父からも! 血を流して俺を見て、恐ろしかったんだよ。親なのに……助けなくてはいけなかったのに……!」
マイクロトフは驚きつつも、カミューの腕を掴むと間近から瞳を覗きこんだ。
「カミュー、それは仕方のないことだ」
「なにがだよ! 見たのならおまえも知っているだろう!? あの時引き摺ってでも外に連れ出していたら死ななかったかもしれないのに。そうしたらあの人たちだって、俺と暮らさなくても良かったんだ……」
母を置いて逃げたこと。
父と義母と腹違いの兄への罪悪感と。
しかし。
「確かに俺は見た。だから知っているとも」
マイクロトフは唸るように声を絞り出した。
「カミューがどれほど懸命に生きようと頑張ったかを知っている。幼いおまえが必死で逃げてくれたから、あの日俺たちはマチルダの、あのロックアックスで出会えたんだろう!」
怒鳴り、マイクロトフは再びカミューの身体を抱き締めた。そして震える声で吐息のようにこぼした。
「俺は……カミューがマチルダに来てくれた事が、嬉しいんだ…」
誰も傷つかないのが一番良い。
だがもし、誰も傷つかない代償にカミューがマチルダに来ないのだとすれば―――そんな仮定の現在は想像もできないのだ。
「おまえと出会えた事を、俺は感謝すらする……」
こうして抱き締めてやれる今を。
カミューを自分に与えてくれた運命に。
* * * * *
抱き合ったまま暫く無言の二人だったが、ややもしてどちらからともなく離れた。いつの間にか二人共の瞳には穏やかさが戻っている。
そして二人は再び歩き出し、緩やかな坂道をゆっくりと進んだ。
ともかく今は、先を進むしかないのだ。
カミューにとっては何度も歩いた道だろう。マイクロトフにとってもまた、烈火の紋章が見せた記憶の中から幾度か覗いた景色だった。
そして覚えのあるとおりに、斜面の向こうに屋敷の屋根が見えた。
いつの間にか厳しい表情を浮かべている二人の前を、小さなルックはふらふらと飛んでいたが、不意にその身体がぐらりと揺れた。だが不審に思いながらその小さな翠の瞳が見つめる先を辿ってマイクロトフはぎょっとする。
「………」
冷や汗が垂れる。
そこには屍が横たわっていたのだ。
一見して普通の町人の装いの男が草むらに倒れ、死者特有の虚ろな目で天を見上げていた。
「粉屋の主人だ」
カミューがぽつりと言った。そして青褪めたその顔がゆらりとその向こうを見てまた緊張に頬を震わせる。
「息子も、いる」
父親の向こう側にうずくまるような格好で倒れている少年。その顔もまた屍のそれだった。
そしてマイクロトフはハッと息を呑んだ。
丘へと続く道の脇。青々と茂る草むらの至る所に、屍が累々と転がっているのに気付いたからだ。そのどれもが町の人間のようだった。隠居した皺深い老人も、頑健な職人風の男も、噂好きな感じの女も、やんちゃそうな子供も―――。どれもこれも。
呆然とマイクロトフが死者たちの姿を眺めていると、その横でカミューが大きく身体を震わせた。
「な……何故…」
引き攣ったような声は、悲鳴をかみ殺した故か。
今、カミューの目前に死者となって横たわっているのは、幼い頃に住んだ町の住人たちだったのだ。あの頃と変わらぬ姿で、死に絶えている。
よく見れば刺し殺された者もいる。中には焼け死んだような姿の者も。一体誰によってこんな無残な姿にされたのか。
きっとこの先に、夢魔が再び彼らを待ち構えているに違いなかった。
「カミュー」
マイクロトフは愕然と固まるカミューの肩を掴んで揺すぶった。
「先へ進むぞ」
「あ……あぁ」
「惑わされるな。夢魔の仕業だ!」
「分かっている……すまない、動揺した…」
軽く首を振ってカミューは気を取り直す。だがその顔には紛れもない衝撃の痕跡が残っている。青褪めて萎れた頬はまるで彼を老成した者のように見せた。
だが、マイクロトフはまだその時のカミューの苦悩を理解していなかった。
見知った者が累々と屍に成り果てた風景に、ただ衝撃を受けたのだろうとしか考えていなかったのだ。だから、この先に待ち構えている者の正体を本当に予見出来ていなかった。
「カミュー……夢魔に決して負けるな」
「…うん」
夢魔はカミューにとっての弱点を攻めてくるだろう。
考えたくはないが、もしかしたら父親の姿を借りて出て来るかもしれないのだ。あの夜、屋敷が燃えたあの時に悪鬼の形相で剣を突きつけてきたあの恐ろしい姿で。
或いは、母を殺したあの男。
罪に恐れ慄き何年間も沈黙を通し、最後の最後で全てをぶちまけて泣き崩れた狂人のような男の姿で出て来るかもしれない。母を殺したようにカミューを殺すために。
しかしそんなマイクロトフの予想は、屋敷の全貌が見通せる場所まで来た時に、完全に裏切られた。
「………え……?」
何処か呆然とした声が、自分の口から出たのだと気付いたのは、一拍遅れてからだった。
丘の上の屋敷。
焼けてところどころ柱や梁が剥き出しになった哀れな姿の屋敷だ。完全に崩れ落ちるまでには至らず、それでも全体を炎に包まれて黒ずんでしまった建物は、今は気味悪く嘆き悲しむような佇まいをしている。
その正面に、小さな影がぽつんと立っていた。
立っているのだから死者ではない。
屍の野に唯一の生ある姿にマイクロトフは遠くから目を凝らした。
だがはっきりと認識する前にカミューが突然、腰にさしていたユーライアを引き抜いたのだ。
「ど…うして……っ!」
恐れるような声音に驚きながら再び屋敷の方を向いたマイクロトフは、そこで漸く人影の正体を見極めることが出来た。そして、呆然と声に出していたのだ。
まさかそんな。
二人の到着を待っていたらしい人影は、小さく首を傾げるとその手をゆっくりと慕わしげ振ってきた。
「おかえりなさい、カミュー」
聞こえた声は、マイクロトフが烈火の紋章の中から聞いた声だった。
何処か優しげに聞こえる声に、マイクロトフはもう一度傍らのカミューを見た。
彼はユーライアを構えたまま、歯を食いしばり人影を睨み付けていた。だがその瞳は隠しきれない動揺に揺れ動き、歯の隙間から忙しない息をこぼしている。
そして再び人影が動いた。
その歩みの先にはまた別の屍が幾つか転がっていた。マイクロトフはその屍の顔を見て、またぎょっとする。
それは、カミューの父の顔だった。しかもその隣には義母までが横たわっているではないか。
人影は、その並ぶ屍の傍まで来ると嬉しそうにくすくすと笑った。
「でも、帰ってくるのが遅いよ、カミュー。待ち切れなくて、だから……ね、ぼくが……殺してしまった」
嬉しそうに囁く、その人影は―――。
「カミュー……!」
幼い頃のカミューの姿だった。
柔らかそうな金茶の髪。小さくすっぽりと掌で包み込めそうな頭。小作りながらも整った利発そうな面立ち。
母譲りの優しげな顔だが、大きく潤みがかった瞳は強い意思を宿していて、幼い顔立ちを裏切ってひどく大人びた雰囲気を醸している。
そんな幼い自分を睨んでカミューはユーライアを構えていた。
しかし、幼いカミューの方はそんな大人の自分をにっこり笑って見ていた。
愉しげに。
無邪気を通り越して、いっそ空恐ろしい程の笑みを浮かべて。
「どうしてそんな怖い顔をするの。願いどおりにしてあげたのに?」
「だまれっ!!」
カミューが怒鳴る。
しかし幼子のじれったいような口調は些かの怯みもない。
「嘘は駄目だよ。本当はこうしたかったんじゃないか。みんな殺してやりたかったんだ」
ねえ?
そこで、幼子の視線が唐突にマイクロトフへと向けられた。
「驚くことないよ。だってさ、当たり前のことだろう? ぼくが、どれだけ酷い仕打ちをされたかを考えればさ」
嘲笑って、幼子は小さな右手を閃かせた。そこには、大人になっても変わらなかった鮮やかな炎の陰影が宿っている。
「ぼくを人殺しと罵りながら、奴らこそ、ぼくを殺そうとしたんじゃないか。この男だって―――」
カミューは足元に転がる父親の死体を見下ろした。
「自業自得さ。育てる気がないなら最初から見殺しにしていれば良かったんだ。下手な情なんかかけたおかげで、このざまだよ」
そしてカミューはまた、にやりと嘲笑った。
「子供のぼくに何が出来たの。何も出来ないなんてこと、本当はみんな分かっていたんだ。それなのにどうして奴らはぼくを罵ったのかなぁ? 火付けだって? 悪魔の子だって? そうじゃない。ぜんぶ口実だよ。あいつらみんな、ただ自分たちの嫌な気持ちやどす黒い感情をぶつける相手が欲しかっただけなんだ」
淡々と喋るカミューの小さな右手が徐々に赤く染まっていく。
「一度も、使わなかったよ。使うなって言われたから……一度だってこれを使ったことなんてなかった」
呟き、カミューはぽつりと、だから余計にあいつらを図に乗らせたんだよね、と言った。
「さっさとこれで身を守れば良かったのに。ねぇカミュー。本当はこうやって、みんな燃やしてしまいたかったんだ」
その途端、小さな右手から真っ赤な焔が迸り、父親と義母の身体をあっという間に包み込んだ。既に絶命している彼らはみるみる全身を焔に舐めとられ焼けていく。
その光景を驚愕のままに見つめていたマイクロトフは、だが慌てて隣に立つカミューを見た。
「カミュー……っ」
彼はユーライアを手にしたまま呆然と立ちつくしていた。
徐々に焼け崩れていく両親の姿を凝視して、何も言わない。その姿に幼い声がくつくつと笑う。
「カミューがずっと望み続けた光景だよ。もっと嬉しそうな顔をしてよ」
そして晴れ晴れとした笑顔で―――満足そうに言った。
「みんな、燃やしてあげるよ。これで、もう誰もカミューを傷つけない。誰もカミューを苦しめたりしないよ」
幼子は、小首を傾げながら説得するように大人のカミューへとそう語りかける。
そしてマイクロトフは悟った。
これは、辛いときに救いの手を差し伸べられなかった幼いカミューの心だ。
誰も助けなかった。
虐げるばかりで、誰も。
幼いその心と身体を癒す者のいなかった。
延々と傷つけられるばかりだった。
抱き締めてくれる腕の温かさを知らない。
与えられた筈の愛情を諦めてしまった、子供の心なのだ。
それはつまり、カミューが言いたくなかった、忘れたかった自分―――失くしてしまいたかった、ひとりの子供なのだと。
だがそれを知ったマイクロトフが、まだ治まらない驚愕に言葉をなくしている目の前で、幼子が意味深に俯いた。
そして。
「ねぇ、カミュー。本当はもう、気がついてるでしょう」
幼い声がゆっくりと諭すように囁く。
「マイクロトフだって、いつかはいなくなる。かあさまのように、勝手に人を庇ってカミューを残して死んでいくんだよ」
思わずぎくりとした。
強張った視線の先、小さな天使のようなカミューがゆっくりと顔を上げ、マイクロトフを見つめて微笑を浮かべる。
「その時、カミューはとても傷つくよ? かあさまやとうさまの時とは比べられないくらい……」
だからね。
「今、殺してしまおうよ」
幼い顔がそう言って烈火の紋章をかざした。
* * * * *
カミューの操る『烈火の紋章』。その威力を見たのは一度や二度ではない。
地獄の業火もかくやといわんばかりの猛火が幾度も敵を呑み込み、味方の窮地を何度も救ったのだ。だがそれがマイクロトフを襲った事は一度もない。
ところが、今。
幼いカミューの右手から繰り出された紋章の焔が、一直線にマイクロトフめがけて襲ってきたのである。
「やめろ!!」
傍らからカミューの絶叫が聞こえた。しかし急襲を受けて突然押し寄せてくる焔をかわし切れるはずもなくマイクロトフの身体は一瞬で紅蓮に包まれた。
目の前が真っ白になったようだった。
「マイクロトフ!」
紋章の魔力によって生まれた炎は唐突に掻き消える。
白い煙を立ち上らせて、マイクロトフはがっくりと膝をついた。しかし地面に倒れ伏す前にふわりと抱きとめられる。
「マイクロトフ、ごめん…ごめん……!」
「……カミュー…っ」
ユーライアを片手に下げたままのカミューが、泣き出しそうな顔でマイクロトフの身体を支えていた。だがどうして彼は詫びているのだろう。
マイクロトフは自分を抱き止めている腕を、掌で押さえた。そして自分を覗きこんでくる瞳を見上げて微笑んでやる。
「どうして……おまえが、謝る…んだ」
するとカミューは「だって」と掠れた声で言った。その情けない声がどうしようもなくマイクロトフの胸をざわめかせる。馬鹿なやつめと呆れてしまいたくなったが、そこへ、二人を遮るように子供の笑い声が響いた。
「だって? ちゃんと言わなくちゃ、カミュー」
その愉しむような声にカミューが振り向きもせずぎゅっと目を瞑ると怒鳴り返す。
「うるさい! だまれ!!」
「どうしてさ。でも、僕が黙ってもマイクロトフはきっともう気付いてる」
「だまれ!」
マイクロトフを抱き止める手に力がこもる。
「あはははは。なんでそんなに必死なのさ。隠す事なんかないのにね」
天使のように邪気のない笑みで、幼子は声を弾ませた。
「言ってごらんよ。本当の気持ちをさぁ」
「だまれと言っているんだ。それ以上口を開くな!!」
カミューはマイクロトフを抱き込んだまま、再び何処から取り出したか、札をかざした。青白い光が瞬く間に全身を包み、やさしい紋章の水が火傷を癒していく。
するとそれを見ていた幼いカミューが、ふうんと不思議そうに小首を傾げた。
「へぇ……治してあげるんだね。でも、すぐに殺しちゃうから意味なんてないのにさ」
そしてまた幼子は右手を閃かせた。だが、今度はそれが発動する前にカミューが横たえたマイクロトフとの間に立ち塞がり、ユーライアの切っ先を幼子に向けた。その右手にある烈火の紋章が赤く光りだす。
「マイクロトフを、死なせるものか」
「守るつもり? どうやって? ぼくは、カミューだよ?」
「おまえは、俺じゃない。夢魔だ」
「そう思いたい気持ちは分かるよ。だって今までずっとこのぼくを忘れようとしていたんだもんね。何しろずっとぼくはカミューの中で押し殺されてきたんだから。声も上げられなくて、苦しかったよカミュー」
そして突然、幼子は大きな瞳を涙に潤ませた。
「あなたの心の奥で身動きひとつできなくて、苦しくて、痛くて、でも泣くことも出来なくて、どうにかなりそうだったよカミュー」
ぽろぽろと、白い頬に涙がこぼれていく。
幼いカミューは小さな手で次から次に溢れてくる涙を拭いながら、しゃくりあげるように言った。
「どうしてお義母さんみたいにぼくを無視するの。どうしてとうさまみたいにぼくを殺そうとするの。これ以上ぼくを苦しめないでよ」
ひっくひっくと。
幼いカミューが泣いている。
その姿に、マイクロトフは堪らない胸の痛みを覚える。
烈火の紋章が見せてくれた過去のカミューは、常に人形のような瞳をしていて、どんな目に合っても泣きも喚きもしていなかった。だからこそ余計に、こうして泣く姿を見てしまうと酷く可哀想に思えた。
これは夢魔だと分かっているのに、しゃくりあげる声が届くたび、胸の痛みは増すばかりだった。
しかしそんなマイクロトフの内情を悟ってか、カミューが真っ青な顔で振り向いた。
「カミュー……?」
「マイクロトフ間違えるな。あれは俺じゃない!」
「ああ、だが、あれもまたカミューなのだろう…?」
カミューがここまで取り乱す理由がきっとそれだ。
愛されなかったが、カミューは彼らを愛していた。
だが、その反面、どんなに願っても愛情を与えてくれなかった彼らに対する憎しみもまた、あったのだ。しかし、そんな幼心に抱いていた密かな憎しみを、カミューは彼らを憎みきれなかったが故に、ずっと押し殺してしまいたかったのだ。
「違う! 俺は誰も憎んだりしていない!! マイクロトフだって、絶対に殺そうだなんて思ってない!」
泣きそうな顔で訴えるカミューの表情が、幼いカミューのそれと奇妙に重なる。マイクロトフは立ち上がろうと喘いだ。札のおかげで傷は癒えたが完全に復活できてはいない身体は少し不安定によろめく。しかし奥歯を噛んで踏ん張ると、自分を凝視するカミューに手を伸ばした。
「分かっているとも、カミュー。……だが、あれもおまえだ」
「マイクロトフ!」
赤く紋章の輝く右手を押さえるが、カミューはユーライアを左手に持ち替えると、それ以上の強さでマイクロトフの手首を握り返した。その必死さが、痛みとなって手首を締め付けてくる。
マイクロトフは、痛みに微かに顔を顰めたがそれでも構わずカミューの目を見つめた。
「カミュー、目を背けるな。あれは確かにおまえ自身なんだ。そうでなければ夢魔があんな姿で出てくるわけがない。夢魔は、おまえの悪夢を元におまえを苦しめようとしているのだからな」
現にカミューは苦しそうに喘いでいる。
忘れたい過去に直面する恐怖は、いったいどれほどのものだろう。
マイクロトフの手首を掴むカミューの右手が熱を持ったように熱くなっていく。烈火の紋章がますます赤く輝いているのだ。その手を見下ろし、マイクロトフはごくりと息を呑む。そして低く問いかけた。
「カミュー。おまえは、子供の頃の自分を殺してしまいたいのか」
途端にひときわ強く手首が締め付けられた。
そしてカミューの瞳は恐ろしいまでに表情をなくしていた。
「―――そうだよ」
短く答える。
カミューはマイクロトフの手首を握り締め、間近から瞳を合わせて吐き出した。
「俺は、あいつを殺して、なかったことにしてしまいたい」
「そうやって、今まであの子供に泣くこともさせずに押し殺してきたんだな」
「……泣いたら、俺が惨めだって認めることになるじゃないか。あんな姿、見るだけで吐き気がする」
まだ、幼いカミューは泣き続けている。
独りで自分で火をつけた家族の側で、しゃくりあげて泣いていた。
「惨め…?」
マイクロトフが怪訝に問い返すと、カミューの無表情だった瞳に一瞬だけ翳りが宿る。
「俺は可哀想なんかじゃない。不幸でもない。もう済んだ過去の事にいつまでも囚われて、挙句に哀れむような目でなんか、どうして見られなくちゃいけないんだ! 俺はそんなに惨めな人間じゃない!!」
「カミュー……」
思いもかけない言葉を聞いたようだった。
しかし激情に駆られたカミューはなおも叫び続けた。
「マチルダに来たのはそんな自分が嫌だったからだ! あそこに居たんじゃ、いつまでも俺は可哀想なまんまだ。忘れてしまえと言われながら、本当は俺があんな風に辛かったと泣くのをずっと期待されて。そんなのは真っ平なんだよ!!」
そしてカミューはまた小さく「俺は可哀想じゃない」と言って俯いた。しかし手首を掴む手の力はきつく、震えてすらいる。マイクロトフは呆然と聞いていたが、ハッと言葉を返そうとした。
「カ―――」
しかし再びカミューの目がそれを阻んだ。
俯いていた彼の瞳がまたも無表情を宿してマイクロトフを見つめる。
「誰も彼も恨んで泣いて、現れもしない救いを求めるしか能がない。そんな俺は認めない。だからあそこで泣いているのは俺じゃない。今の俺にはマイクロトフがいるし、愛されることも知っている。それで俺はもう十分なんだ」
「だがカミュー。それではあまりにも……」
泣けなかった子供のカミューが可哀想だ。
誰かに抱き締めて欲しかったはずなのに泣きもせずに耐えていた幼いカミューを、どうしてそのまま過去の中に埋めてしまえるだろう。今、こうしてやっと表に出てこれたのに。
しかしカミューは言い募ろうとするマイクロトフを、また泣きそうな目をして見た。
「あれが消えれば、可哀想な俺も消える。そうだろう」
そしてカミューは口元に微かな笑みを浮かべると、唐突にマイクロトフの手首を離し、その身体をつき離した。
「カミュー!」
「これは俺自身の問題だ。マイクロトフは黙って見ていてくれ。それにあいつは俺自身だけど、夢魔でもある。だとしたら倒せば良い」
カミューはユーライアを再び右手に持ち替えて、泣きじゃくる幼い自分の元へと足早に歩み寄っていく。
足は次第に速度を増し、緩やかな斜面を駆け上りながらカミューは剣を大きく振り上げた。
すると幼いカミューは涙に濡れた瞳を大きく見開き、己に駆け寄ってくる騎士の自分を凝視して凍りついた。その姿はまさしく、あの夜のカミューそのものだった。
「カミュー! 駄目だ! よせ!!」
マイクロトフは思わず駆け出していた。
どうして二度もこんな場面を見なくてはならない。
たとえそれが自分自身で振り上げた刃だったとしても、どんな姿をしていたとしても、マイクロトフはカミューが傷つけられるところなど見たくなかった。
それが、夢魔が作り出した幻のカミューだったとしても。
「カミュー! やめろ!」
叫びながら全力で追い駆けても、ダンスニーを抜いて食い止める暇がなかった。
だからマイクロトフは、我が身に宿る紋章が発動するに任せるまま、幼いカミューとユーライアの間にその身を投げ出す方法を、咄嗟に選んだ。
* * * * *
小さな身体を腕の中に抱き締めて、マイクロトフは来るべき衝撃に目を閉じた。
だが、その背を襲うはずの刃はいつまで経っても振り下ろされなかった。
マイクロトフはそのあまりの静けさに、恐る恐る目を開く。すると腕の中に囲い込んだままの幼子が身じろぐのを感じた。思わず強い力で抱き締めてしまっていた腕の力を緩めると、何故だか幼子はくたりとマイクロトフの身体に凭れかかる。
呆気に取られながら今度は慌てて後ろを振り返った。
そして、更に呆然と口を開いて固まった。
「カ…ミュー……」
ユーライアを振り上げていたはずのカミューは、今はその腕をだらりと垂らしてマイクロトフを見下ろしていた。しかしその瞳はただ見ているのではなく、透明な涙をするすると流していた。
秀麗な面差しは青褪め、表情もない。
声もなく泣いている姿に目を瞠るマイクロトフに、しかしカミューは静かに瞳を伏せただけだった。
「カミュー?」
ユーライアがゆっくりと鞘に収められる。
その弾みでか、ぱたぱたっと涙が幾粒も零れ落ちた。
「カミュー、カミュー……!」
マイクロトフは、涙に弱い。
殊更、カミューの流す涙にはどうして良いか分からなくなる。滅多に泣かない男なだけに、彼の泣く姿を見てしまうと頭が真っ白になってしまうのだ。
それにカミューはいつも唐突に泣くから、その対処も浮かばない。
今もどうして泣いているのか全く見当がつかなかった。
「どうしたんだカミュー…」
カミューの意思を無視して幼いカミューを守ろうとしたのが、いけなかったのだろうか。また、傷つけてしまったのだろうか。
「カミュー、俺は」
「―――信じられない」
「え……」
カミューは涙を掌で拭うと鼻をすすった。
「なんでだよ。十何年も昔のことでどうして今更俺は泣いてるんだ」
そして、止まらない、と呟いてまた涙を指先で散らせた。
「ああもう、どうしちゃったんだろ」
口だけ笑みの形に歪めて笑う。
そしてカミューが受け皿のように広げた掌に、次から次に涙の粒が落ちていく。みるみるうちに水溜りとなって掌から零れる涙。
「誰が泣いてやるかと思っていたのに、おまえという奴は、人の意地をあっさりと叩き折ってくれるよな」
笑い泣きながらカミューは言い募る。
「はは……結局くだらない意地だったんだ。でも、あの時の俺は泣きたくても泣けなかったんだ。仕方がないよな」
そしてカミューは突然膝を折ると、掌を濡らす涙を振り切ってマイクロトフの腕の中に手を伸ばした。
「ほら、来いよ」
呼びかけは腕の中の小さな存在へ。
「おまえの存在を認めてやる。そうしないときっと泣き止めないだろうしね」
まだぼたぼたと涙を零しながらのカミューの手は、小さな肩にそっと触れた。するとマイクロトフの胸に凭れかかっていた重みがふわりと浮く。思わず腕を解くと、幼いカミューが緩やかにその小さな顔を上げた。
「……カミュー…」
腕の中の幼いカミューが笑っていた。
泣きたいくらいに優しい笑顔で、大人の自分を見上げている。
そして泣きっぱなしの大人のカミューは、そんな幼い自分を見下ろして小さく首を傾げた。
「まったく、嬉しそうな顔してくれるもんだね。そんなに、マイクロトフに庇って貰って嬉しかったかい」
呆れたようなカミューの声に、幼子はこくりと頷いた。そして、マイクロトフの見ている前で、大人のカミューの胸元に飛び込んだ。
それはまるで幻が消えるようだった。
小さな自分の身体を、カミューがぎゅっと抱き締めた途端、まるで融け合うように幼い身体が消えてしまった。
「…な……―――」
目を瞠るマイクロトフに、カミューがにやりと笑う。
「マイクロトフ」
濡れた瞳が笑みに細くなる。途端に我に返った。
「カミュー。あの子供は何処に…っ」
「ここ」
カミューの指先が己の胸元をトンと叩いた。
「俺の中。元に戻ったんだよ」
「…どういうことだ」
あれは夢魔ではなかったのか。いや、しかし。
今にも頭を抱えて唸りたくなるマイクロトフに、カミューが短い溜息をこぼした。そしてやれやれと天を仰ぐ。
「マイクロトフの言う通りだったね。あいつは、俺自身だった」
そしてカミューはまた涙を零した。
「信じられるかい、マイクロトフ。おまえが庇って抱き締めてくれた瞬間、俺も一緒に抱き締められたんだよ。おまえが抱き締めてくれる感触が一緒に伝わってきた―――その途端に、俺の中で張りつめていたものが壊れてしまった……」
「何が、壊れたんだ」
「意地、いや……大きな壁かな。小さい頃に作った壁。誰の悪意も入って来れない代わりに、好意も一緒に撥ね付けて、中にいる俺の声も感情も封じ込めてた」
高く聳えた心の牢獄。
「その壁が一瞬でなくなった途端、何もかもが一気に流れ込んできちゃったよ。全部マイクロトフの所為だな。おかげで、くそ……まだ涙が止まらないよ」
すねた顔で涙を零しながら、文句のように告げられてマイクロトフの強張っていた顔が、ゆるゆると感情を取り戻していく。泣いてはいるけれど、カミューの顔には屈託が無かった。
最後に見た幼いカミューの、ひどく澄んだ笑顔が脳裏に浮かぶ。
泣きたがっていた子供は、本当ならあんな風に笑っていたはずだったのだ。
感情を押し殺していた子供の頃を、あの瞬間にカミューは取り戻した。認めてやると、大人のカミューが幼いカミューを受け入れた時に。
「は……人の所為にする奴があるか。自業自得ではないかこの馬鹿者」
「ひどいなぁ。追い討ちかけること無いだろ」
「その通りではないか、カミュー。俺が、どれだけ胸の潰れる想いを味わったと思っているんだ」
心配をさせて。
なんとかしたくて必死で考えて、こんな幽界くんだりまで出向いて。
殺されそうになって。
しかしカミューはそんなマイクロトフに、全く腹が立つほどに嬉しそうな笑顔を浮かべて言った。
「でもマイクロトフ。それは俺が好きだからだろう?」
「……カミュー」
思わず低い声が出た。しかしカミューは笑いながら、声を震わせて小さく首を振った。
「違うよ、からかってるんじゃない。嬉しいんだよ。本当に、おまえは……俺を好きでいてくれる。俺を愛してくれて……守ろうとして」
また、カミューの瞳が潤んでいく。
だが今度は目の縁から涙が零れ落ちる前に、その腕の中に抱き込まれていた。震える吐息が、耳の直ぐ側で聞こえる。マイクロトフは思わず自分を抱き締めるカミューの背に腕を回してた。
「カミュー」
「うん……嬉しい。ありがとうマイクロトフ」
涙で少し鼻にかかったような声が、密接した場所から響いてくる。そんなカミューの本心からの言葉に、少し面食らうマイクロトフだ。思わずぶっきらぼうな声で返事をしてしまう。
「今更だぞカミュー。俺はずっとカミューを好きだと言っている」
「うん。でもほら、実感したというかね」
喉で笑いながらカミューは、ぎゅうっとマイクロトフにしがみつく。
「ああもう…本当に好きだよマイクロトフ。好きになった相手がおまえで良かった。俺は、おまえを選んだ自分を偉いと思うよ」
「なんだそれは」
「何でも良い。愛してるよマイクロトフ」
「……カミュー」
自分に抱きついている男の背を宥めるように撫でながら、マイクロトフは小さく吐息を零した。どうやらまだ、泣いているらしいカミューに苦笑が漏れる。
ところが、何故だかそこで不意に足元が覚束無くなった。
「ん…?」
「あれ?」
ふわりと浮かび上がるような、感覚。
「カミュー、少し離せっ!」
「え、わあ!」
一瞬離れかけた二人の身体は、しかし直ぐに互いが互いを必死と掴まえて離れない。何故なら二人は浮いていたのだ。
「な!!」
地面が無くなっていたと言った方が正しいだろうか。
見回せば周囲の景色も一変している。町並みが消え去り、空虚な闇が広がっていた。
だがその風景に見覚えがあったマイクロトフは、慌てて周囲を探した。そして見つけた。
「ルック殿!」
小さなルックが中空に浮かんでいる。彼は杖を振り回すと二人を導くように闇の向こうへと消えていこうとする。マイクロトフは自分にしがみついてくるカミューを揺さぶり、同じくルックを見るように促した。
「カミュー! ルック殿について行くんだ。そうすれば目覚められる!」
闇の中、薄く翠色に光るルックの後を追って、マイクロトフは暗闇を進んだ。ところが少しも行かないうちに一緒に進んでいたはずのカミューが虚ろな声をもらす。
「マイクロトフ。何だか変な感じがする」
「おい、ここでまた後戻りなんぞ……」
「違……う…。なんか、目の前が白くなって…き……」
「カミュー!?」
声と共にその存在が何故だか霞んでくる。
「カミュー! ちょっと待て!」
「あ……なんか、この感じは…」
「おいこら!!」
怒鳴ってもカミューの姿は徐々に薄れていってしまう。
突然の変異に焦るマイクロトフに、しかしカミューは何故だかへらへらと笑っていた。
「何を笑っているんだおまえは!」
「……あはは…大丈夫だよ、マイクロトフ。これは、あれだよ……毎朝のお馴染み……―――」
―――目が覚める時と同じ。
声だけ残してカミューが完全にかき消える。
その刹那周囲が真っ白に埋め尽くされた。
* * * * *
大きく息を吸い込んだ途端、激しく咳き込んでマイクロトフは勢い良く起き上がった。
それを、見守っていたのは同盟軍の面々だった。
ぐるりと見回せばそこはマイクロトフに宛がわれていた一室の寝台で、室内には会議室に集っていた全員がぎゅうぎゅうと立ちつくしている。寝台際には軍主の少年が心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「マイクロトフさん、大丈夫?」
「む……」
応じようとするものの、まるで酒にでも酔ったかのような酩酊感にぐらりと敷布に沈んでしまう。しかもやけに眩しくて目を眇めつつ掌で顔を覆った。
「……カミューは…」
夢の中。
目の前で掻き消えたのを覚えている。
だが今見回した室内に、彼の姿は無かった。
「カミューは、どうしました」
今度は自律的に起き上がり、ひどく重く感じる身体を腕をついて支える。おい、と止めるビクトールの声がしたが、焦る気持ちは抑えられない。
すると別の方向から溜息まじりの声がかけられた。
「呆れたね」
振り返れば風使いの少年が杖に寄りかかるようにして立っている。
「ルック殿!」
「いったい、あなたたち幽界でなにをしでかしてきたわけ? 本当に呆れるよ。人の忠告をなんだと思ってるのさ」
どうやら怒っているらしいルックの物言いに、マイクロトフの顔がさーっと青褪めていく。
「ルック殿、教えてください。カミューは!」
腕を伸ばし、緑色の衣の裾を掴んでマイクロトフは問い掛ける。すると、ふっとルックの表情が緩んだ。え、と思うと何故だか少年や傭兵が笑っている。
「な……?」
「安心しなよ。カミューは無事だ―――信じられないけど、夢魔も消えた」
「消えた……」
直ぐには言葉の意味が飲み込めず、マイクロトフは呟く。
すると、そこで唐突に部屋の扉が開かれた。
ノックもなく、マイクロトフの部屋に入ってくる人間は限られている。
「カミュー!」
「あ、起きてる」
お互いに吃驚した目を見交わして、あんぐりとする。
カミューはしかし直ぐに我に返ると、手にしていた盆をさっさと卓上に置いた。そして傭兵を退かして寝台側までずんずんと歩み寄る。
「良かったマイクロトフ……」
ホッとしたような声音のカミューは、間近で見ると何処となく萎れているように見えた。だが顔色は決して悪くはなく、どちらかと言えば晴々とした表情をしている。
「カミュー」
「うん。俺は大丈夫……あれから直ぐに目覚めたんだ」
滲むように微笑んでカミューはマイクロトフのこめかみへと手を伸ばした。少しひやりとした掌が慰撫するようにそこに触れる感触に、マイクロトフは目を伏せる。
「マイクロトフは、でも起きなかったんだ。だから一度部屋まで運んで目覚めるのを待ってた。もう、朝なんだよ」
「なに?」
「そう。丸一日寝ていた計算になるんだって」
カミューがくすりと笑う。しかしその向こうではルックが相変わらずの無表情でむっつりしている。
「呑気にぐうぐう寝てくれてさ。そりゃ、魔力の低い人間が幽界なんかに意識を飛ばすのは大変だよ。すごく消耗したのは分かるけど、このまま目が覚めなかったらどうしてくれようかと思ったね」
そんなルックの憮然とした言葉にぎょっとしたのはビクトールだった。
「でもルック。おまえ疲れて寝てるだけだから朝になりゃ目が覚めるだろって言ってたじゃねえか。あれはおまえ」
「そうでも言わないと皆煩いじゃないか。特にそこの赤い人がさ」
そしてやる気をなくしたかのように、やれやれとそっぽを向いてしまうルックに、カミューはしかし苦笑を浮かべている。
「そんな。私はマイクロトフがちゃんと目覚めてくれるのは分かっていましたよ」
煩くなど言いません。
言ってカミューはマイクロトフのこめかみから手を離した。それに合わせて再び顔を上げると、誰もがホッとしたような目で見ている事に気付く。
どうやら随分心配させてしまったらしい。
「毎朝同じ時間に起きるおまえだから、皆そろそろ目が覚める頃なんじゃないかと言ってね」
朝っぱらから集まっていたのだとカミューが言う。そのカミューは一晩中いたようだったが、ちょうど飲み水を調達に出ていたらしい。
マイクロトフはそれを聞いて部屋の中にいる面々をゆっくりと見回した。そしてぐっと頭を下げる。
「申し訳ない―――俺は、もう大丈夫です」
有難い気持ちと申し訳ない気持ちがせめぎあい、マイクロトフは感謝しつつ詫びた。するとまたカミューが手を伸ばしてくる。ぐい、と顎を掴んで上を向かされた。
「だめ。熱があるんだから全然大丈夫じゃないだろ」
「カ…!」
「良いから、今日は大人しく休んでいろ。大体の事情は昨夜、俺が説明したからね」
「なに?」
そして聞けば、カミューの方は直ぐに覚醒したのだという。
会議室で二日ぶりに目覚めたカミューに、ずっと眠る二人をまんじりともせず見守っていた全員が安堵の笑みを浮かべた。
だが一人、ルックだけが奇妙な顔をしていたのだ。
『……どういうこと?』
実はカミューが目覚める少し前からルックは首を捻っていたのだ。その困惑した声にキリィが振り向いた。
『どうかしたか―――』
『どうもこうも……信じられない。禍々しさがない』
杖を両手で握り締めてそう呟いたルックに、答えたのはカミューだった。
『夢魔、ですか』
目覚めたばかりで本調子ではないのか、掠れた声のカミューをルックが厳しい目で見る。
『僕はあなたの夢を覗いてはいないから、全く事情が掴めていないんだ。教えてくれないかな。夢魔はどうしたの』
それに対して、カミューはふむ、と頷いてからにこりと笑った。
『消えました』
そこまで聞いてマイクロトフもまた剣呑な目をする。
すっかり忘れていたが、そうだったのだ。夢魔の存在があったのだ。
しかし。
「消えた、だと!?」
思わず低い恫喝するような声が出たのだが、カミューは何だかやけに穏やかな目をして、うん、と頷くのだ。
「正確には、存在をひそめた……かな。烈火が前までと少し違うから」
そしてひらひらと己の右手を振って見せる。
今は何の変哲も無いが、魔力を集中させれば途端に炎の陰影が甲に浮かぶ、紋章の宿った右手だ。カミューは左手でその甲をさらりと撫でると首を傾げて苦笑う。
「俺もまだ戸惑っているんだけど、生まれつきのものでも、やっぱり紋章というのは不思議な代物だね」
するとルックが殊更大袈裟に溜息をまた零した。
「僕が思うにあの夢魔はハイランドの連中に作り出された未熟な、紋章に似て非なる存在だったんだろうね。粗悪な封印球の中に納められていたから。それを突然叩き割られて、夢魔は自分の存在意義そのままに人に取り憑いて殺そうとした―――だけど、カミューに取り憑こうとしたところで、思いもよらない攻撃を受けてしまった」
その言葉にカミューが頷く。
「きっと、紋章としてまだまだ形にもなりきれていないものだったのではないか、とね。烈火の攻撃で弱りきって、そこで俺の意識に深く食い込んでなんとか消滅を免れようと足掻いた……」
どうやらその辺りは十分に意見を交わしあった後らしく、ルックもまた頷き返して続けた。
「足掻いた結果、夢魔は居着いてしまったわけさ。普通なら考えられないと思うんだけど、まぁあなたたちに常識を当てはめるのも可笑しな話だしね」
ひょいと肩を竦めたルックに、マイクロトフは咄嗟に頷き損ねた。だいいち、まだ少しよく分からない。
「……居着いた、と言うと。つまり…」
あんな厄介な存在がカミューに、居着いた?
なんだか背中の方から嫌な汗が滲み出てくるような感じがする。しかし当のカミューはあっけらかんとしていて、微笑んでさえいる。
「うん、つまりね、あいつは俺の悪夢に同調し過ぎたんだ―――それで、幼い俺が解放された時、夢魔も一緒に解き放たれた。でもその後にどうしようかとうろうろするわけにもいかなくて、あの夢魔は手近なところで俺の烈火の中に居所を決めたらしい」
納められていた封印球は砕け散ってしまっていたしね、とカミューは言う。
「まぁ、いわゆる紋章の間借りというのかなぁ? 烈火も大して変わらないし、すっかり落ち着いて嫌な感じも全くしないから、それはそれで構わないと思うんだ」
呑気な口調である。
なんだか、すっかり毒気を抜かれてしまったマイクロトフは、眩暈を感じるままに前のめりに身体を倒した。
「……それで良いのか…」
掌で目の前を覆いながら呟くが、何故だか喉奥から笑いが込みあげてくる。
「俺は、それでは夢魔も一緒に抱き締めて守ったということか」
だとすれば、辛い苦しいと泣いていたのは夢魔もまた同じだったのか。
するとカミューが笑み混じりに頷いてそんなマイクロトフの頭を撫でた。
「嬉しそうに笑っていただろう? 俺も嬉しかったけど、きっと奴も嬉しかったんだよ」
「俺は奴に随分と酷い目に合わされた気がするんだが」
「まぁ水に流すしかないよね。なにしろ、あいつはもう俺の一部でもあるわけだし」
唸るマイクロトフをなんだかんだと宥めるカミューだ。その頭を撫でる手を掴んで、むすっと睨んでやった。
「では、この収まりきらん腹立ちはおまえにぶつければ良いのか?」
「え…そ、それはちょっと…」
ひくり、と引き攣ったカミューに、だがマイクロトフは堪え切れず込みあげる笑いを口元に載せた。
「冗談だ。夢魔が脅威でなくなったのならば、それで良い。しかし、今後また問題が起きるような事はないのか?」
「ないと思うよ」
ルックが断言した。
「嫌な感じが綺麗に消え去っているんだ。全く信じられない話だけど」
そこのところがルックには納得しかねるのか、また怒ったような目をする。
「夢魔を退治するでなく、追い出すでなく、逆に取り込んでしまうなんてね。聞いたこともない話だよ」
自分の中の常識から外れるのが腹立たしいのかなんなのか、だがそういうルックの瞳は、気の所為でなければ何処か羨むような色を宿している。
「あなた達は全くさ……突拍子もないことにかけてはこの同盟軍でも随一だよね。ま、あんなにご大層な騎士団から部下の半数を引きつれて離反してくるくらいの無茶をしてくれるんだから、それも当然かな」
まるで、自分にはないものを目の前にしながら、どうしても手を伸ばせない苛立ちを感じているかのような、ルックの言葉。
だがそれに対してなにかを言い返そうとする前に、ルックの纏っていた空気がふっと変わる。俯き加減だった顔がすっと上を向いたときにはもう、その奇妙な苛立ちは払拭されてしまっていた。
「あの夢魔は本当に生まれたばかりの不安定な存在だったんだと思うよ。だけど今は烈火を介してカミューの右手にすっかり落ち着いている。安定しているんだ……安定し過ぎて外せないのがまた難しいところだけど」
「……外れんのか」
「あ、うん。ジーン殿に見てもらったんだけど、烈火と同じでどうしても外れないらしいよ」
あはは、と笑うカミューにマイクロトフはまた唸る。
これがあれだけ大騒ぎした問題の顛末なのかと思うと、あっさり喜んで良いものかどうなのか。だがカミューがこの調子ではマイクロトフがどうこう口を挟めることでもない。
嘆息と共に激しい脱力感にゆるゆると首を振る。
「カミューが、それで構わんのなら俺はそれで良いがな」
「うん」
「……取り敢えず、後で一発殴らせろ」
「え」
と、そこで限界がやってきた。
「マイクロトフ!?」
急速に気が遠くなる。
確かルックが魔力が低い者が幽界に行くと消耗すると言っていなかったか。だがそんな話は聞いていなかった気がするぞ、とマイクロトフは遠ざかる意識の中で考える。
とにかく、全ては人を散々心配させて振り回してくれたカミューに、また後でめいっぱい文句を言ってやろうと心に決めて、マイクロトフはばったりと寝台に沈み込んで意識を手放したのだった。
* * * * *
マイクロトフが次に目覚めた時、辺りはすっかり夜の闇に落ちていた。
朝からまた一日眠っていた事に、思わず愕然としながらマイクロトフはゆっくりと息を吐いた。だがその代わりに身体の重さや意識の酩酊が随分と薄れている。
これなら明日の朝にはもうすっかり元通りになれそうだ。
寝床の中でこぶしを握りこんだマイクロトフは、そこで初めて隣で眠る別の存在に気がついた。
そう広くはない寝台の上で、並んで眠ることにはすっかり慣れてしまった。自分は朝早くに起きるからいつも外側で、カミューは壁際に眠る癖がついている。
しかし今は、自分が壁の方に横たわり、カミューの腕が腰に絡んでまるで何処にも行けないように包み込んでいるような格好になっていた。
「………」
僅かに首をめぐらせば直ぐ目の前にカミューの寝顔があった。
朝に感じた萎れたような印象は相変わらずで、目を閉じているだけにいっそうだった。きっと、マイクロトフだけでなくカミューも随分消耗したに違いなかった。なにしろ夢魔に取り憑かれた当の本人なのだから。
それでも早くに目覚めて、ルックやシュウなどと夢魔について緊急の意見を交わして、一応の決着を確認しあっていたのだろう。自分の中で起きた様々な変化に大騒ぎする事もなく。
涼しい顔をしてやり遂げていったのだろう情景が目に浮かぶ。
優男風な外見に反してカミューの芯は強い。我慢強いと言うよりもなかなか折れない頑なさを持っているのだ。それは彼の称えるべき長所でありながら、一方では彼自身の足元を救う危険性を孕んでいる。その事実を今回嫌と言うほど思い知ったのはマイクロトフだ。
幼い頃からカミューのそんなところは変わっていなかったらしい。
並外れた苦痛を、何年間も押し殺し続けていられる頑なさなど、無い方が良い。
しかも、カミューのこの調子では、まだ他になにか隠していてもおかしくはないはずだ。
宵闇の中でマイクロトフは微かな吐息を零す。
まぁ、そんなカミューだと分かっていながらのこれまでの付き合いなのだから、そんな隠し事も全て受け止めてやれる心構えは出来ている。
まだまだ、先は長い。
一生のうちでどれほどカミューを解き明かすことができるのか、それを探るのもまた遣り甲斐があることだろう。
マイクロトフは握り込んでいたこぶしを開いて、静かに眠るカミューの自分の腰に絡む手に重ねてもう一度目を閉じようとした。
ところが。
不意にカミューの右手が暗闇の中、ぽっと赤く炎をともした。幻影の炎―――『烈火』がと思った瞬間、マイクロトフはその炎の中に、再び意識を取り込まれていた。
またか、と流石に二度目になると落ち着いたもので、マイクロトフはぐるりと周囲を見回した。
何故、『烈火の紋章』は再びマイクロトフを招待したのだろうか。まだ、なにかあるのか……考えを巡らせ始めたところで目の前に広がった情景に考えが止まる。
直ぐ側に幼いカミューが眠っている。
『烈火』がまだ見せたい記憶があるのだろうかと思う。だがいったいどうしてと首を傾げた時、眠るカミューを見下ろす大きな影が在ることに気付いた。
誰だと思った時、小さく掠れた声がした。
「カミュー……」
それはカミューの父の声だった。名と共に伸ばされた手が、眠る幼子の額を撫でてさらりと髪を梳く。それから、小さな肩に触れてそっと右手まで辿り着いた。
そしてマイクロトフの視界が真っ暗になった。それはつまりカミューの父の手がその右手を握っていることに他ならない。
そこで、また声がした。
「カミュー…」
小さな声だ。昼間に彼を怒鳴りつけるそれと、同じ声だとは信じられないほど優しく弱い。いったいこの父は、眠る息子を見て何を考えているのか。
暫く視界は暗いままだったが、不意に遠くから別の声が聞こえた。
「……た…―――あなた。どこにいるの、あなた?」
義母の声だった。
途端にぱっと父の手が離れて、薄闇の中で遠ざかる背中が見える。そして扉が開かれ一瞬光が室内を照らしてまた暗くなる。それから、また声が聞こえた。
「あぁ、あなたどこにいらしたの」
弱く震えた義母の声。
「すまないユリア。俺はちゃんとここにいる」
応じる声は確りとしていて、優しい。
「不安なの、お願いあなた一緒にいて頂戴」
「いるとも。ユリア、今夜は静かな夜だ、良く眠れるだろう」
「でもあの夜に似ているわ、怖いわあなた。また、あんなことになったら」
「大丈夫だ。あの子は厳しく躾けてある。それに俺の子だ……間違ったことは絶対にせんよ」
「ええ、ええでもあなた……」
「さぁもう寝なさい。不安ならずっと手を握っていてやろう」
「あなた。でもね……」
声が遠ざかっていく。
怯えきった声と、それを何度となく宥めて落ち着かせようとする声。
刹那、マイクロトフは知った。
―――カミュー……貴様と言う奴は……っ!
あの火事の日。
カミューの右手に浮かぶ陰影を見て父がうめく様に言ったのは。
―――この悪魔め…! やはりおまえは俺の子ではなく、あの魔女の息子だったのだな!
あれは期待を裏切られたと思った故の言葉だったのだろうか。憎しみから吐き出された言葉ではなく……? 信じていたがための、怒りだったというのか。
父は、息子を信じていたかったのか。
俺の子だからと……。
だが、とマイクロトフは思った。最後の最後で信じられなかったあの男は、やはり自ら墓穴を掘ったのだ。あの時カミューを信じていれば、息子の言葉に耳を傾けていれば、悲劇は起きなかったかもしれない。
しかしそれも今となっては、どうしようもないことだ。
それにしてもなんと悲しい親子だったのだろう。
最初はほんのわずかな歯車の狂いだったのに。
徐々に徐々に大きくずれていく狂いの連鎖。
最終的に誰の心にも大きな傷跡を残して、そして親子の別離をもって収束した。
カミューは未だに父との蟠りを捨て切れずにいるのだろうか。信じてもらえなかった悲しみと、殺されかけた恐怖はまだ鮮明なのか。
本当は父親もおまえを確かに愛していたのだぞ、と今見た情景を彼に教えてやるべきなのだろうか。
ところがそんなマイクロトフの腕を、唐突に掴むものがいた。
「……っ!!」
驚いたのは言うまでもない。なにしろここは『烈火の紋章』の中だ。他に誰がいると思うだろうか。
ぎょっとして振り向いたマイクロトフは、しかしそこに思いがけない人物を見つけてまたあんぐりと口を開いた。
小さな手でマイクロトフの服の袖を握り締めて離さず、足元から見上げるようにしてじっとこちらを見ている、そのあどけない姿。
「……カミュー?」
そこにいたのは、先ほど烈火の記憶が見せたままの、幼いカミューだった。
いや―――これは。
眉根を寄せてマイクロトフは唸る。
違う、これは。
「おまえは『夢魔』か」
すると幼いカミューはこくりと頷いて微笑んだ。
確かにここは『烈火の紋章』の中。そこに居着いてしまったと言う『夢魔』が現れたとして不思議はない。だがしかし、この姿はどうだろうか。
幽界で見た通りのあどけない姿でにこにこと機嫌良くしている。その、まるでマイクロトフを慕っているような表情に戸惑わずにはいられない。
「何故」
だが、かつての空恐ろしさの欠片もない子供は、本当に小さな身体を精一杯に伸ばしてマイクロトフにその場に屈むように手振りで示す。仕方がなく膝をついて目線を合わせると、幼い手が伸びてぎゅうっと首筋に抱きつかれた。
「おい?」
だが耳元からは嬉しそうなくすくすと笑う声がするばかりだ。もしかして、夢魔は口が利けないのだろうか。疑問に思った時、唐突に聞き慣れない声が響いた。
『好き』
幼いカミューの声ではない。だが、甲高い子供の声だった。
マイクロトフは思わず子供の身体を引き離すとその顔を見た。すると小さな口がゆっくりと動いて、またたどたどしい声が響く。
『マイクロトフ、好き』
嬉しそうに、言う。その声は子供の口からではなく直接頭の奥に響いてくるようだった。
マイクロトフは戸惑いながらその子供の肩を掴む。
「おまえか?」
すると子供はこくりと頷いた。そしてまたくしゃりと笑う。
『好き』
全開の笑顔でそう言うものだから、マイクロトフも警戒心を丸出しに出来ずに、恐る恐るながらもう片方の手で小さな頭を撫でてみた。
「おまえは、夢魔なのだな? どうしてカミューの姿をしているんだ」
どうにも外見がカミューなだけに、突き放し難い。可愛くて可愛くて、しかも開け放したような笑顔がまた可愛い。
「もっと別の姿で出て来れば良いものを……」
ところがそんなマイクロトフに、夢魔は少しだけ困ったような顔をして首を傾げた。そして。
『知らない。これか、これしか、ない』
と、そこで不意に小さな姿が霧のように形をおぼろげにしたかと思うと一瞬でその姿を変えた。
「うわ!」
思わず触れていた手を離してしまったマイクロトフに罪はない。そこには幼いカミューではなく、あの死んでしまったハイランドの狂人じみた男が座りこんでいたのだ。
病んだような陰気な顔で、しかしにたにたと笑ってマイクロトフを見ている。
「……なるほど、そういうことか」
恐らくこの夢魔には実体などないのだ。そして何かの形を得るには取り憑いた者の姿を利用するしかないのだ。きっとそうに違いない。
マイクロトフは気不味い思いで、にたにたと自分を見て笑う男に、がっくりと項垂れた。
「すまん。俺がどうこう言える立場ではないのだろうが、さっきのカミューの姿に戻ってくれんか」
どうにもこうにも、気持ち悪い。
これならまだ幼いカミューの方が良い。いや、断然そっちの方が良い。
すると夢魔は再び形を失い、瞬時で可愛らしい姿に戻った。マイクロトフは密かに頷くと、再びその肩に手を置いた。
「それでだな。俺に何か用か?」
もしかしたら、『烈火』の中にマイクロトフを呼んだのは夢魔かもしれない。すると夢魔はこっくりと頷いて、両手を差し伸べてきた。その手を取って握ってやるとふわりと笑う。
「うん?」
『好き』
「ああ」
『カミューと同じ』
「ん?」
『カミューは、マイクロトフが好き』
「……む」
『好き、が、嬉しい。気持ち良くて、嬉しい』
まるで大切な宝物を見つけたような顔をする。その幼い笑顔をマイクロトフは呆然と見つめながら、ルックの言葉を思い出していた。
生まれたばかりの不安定な存在。
ハイランドの研究者によって作り出された存在は、恐らく驚異的な兵器となる事を望まれていたのだろう。だが、一人目の命を非情に奪い去って次の被害者としてカミューを選び、そこでカミューの悪夢に深く食い込んだ。
カミューも言っていた。同調し過ぎて、一緒に解放されたのではないか、と。
もしかしたら、恐怖しか知らなかった夢魔にとって、愛情という感情をカミューの意識を介して知った時、その存在意義が変容してしまったのかもしれない。
好き。
嬉しい。
気持ち良い。
どれもこれも、人を恐怖に陥れる負の感情とは正反対のものだ。
「……そうか」
マイクロトフはその小さな身体を思わず抱き寄せていた。
「それで、おまえはここに居るのだな」
『マイクロトフが、好き』
たどたどしい言葉がとても切なく響いてくる。恐怖の体現としてこの世に生みだされた夢魔が、人を想う感情を必死で学び取ろうとしている。
「ああ」
マイクロトフは頷いてその背を撫でる。すると腕の中で夢魔は、でもと顔を上げてにっこりと告げた。
『でも、カミューも好き』
思わず目を瞠り、それからマイクロトフも笑った。
「そうか。俺もカミューが好きなんだ」
すると夢魔はそこでぎゅっとマイクロトフの腕を掴んで言った。
『だから、ここに居たい』
大きな瞳が揺れて、少しだけ不安そうにマイクロトフを見つめる。
『もう……なにも出来ない。でも、ここに居たい』
「―――カミューはおまえを追い出そうとしたか?」
子供は小さく首を左右に振った。それを見てマイクロトフは笑顔のまま頷いてやる。
「ならば、居ると良い。そしてカミューと共に生きるが良い」
どうやら『烈火の紋章』もそれを容認している。でなければ最初から夢魔がここに居られるわけがない。
夢魔としての力がもうないのならば、ただ存在していたいだけならば、それでも良いということなのだろう。その、考えてみれば哀れな存在を、マイクロトフは優しく抱き締めてやる。
「俺もおまえを認めよう……カミューがおまえを認めたようにな」
『マイクロトフ』
嬉しそうな声が響く。
『好き』
ひときわ大きく、頭に響く。
『ずっと、好き』
温かな気配が周囲を包む。
だが、ふっと腕の中の存在が消えて、辺りがまるで朝焼けのような橙色に染まった。
「なんだ」
突然の変貌にマイクロトフは立ち上がる。
烈火が何かを言おうとしているのか。しかし聞こえてきたのはたどたどしい子供の声だった。
『マイクロトフ。いつか、カミューに教えてあげてね』
「何をだ?」
立ち上がり橙色の周囲を見回しても夢魔は何処にもいない。ただ声だけが響いてくる。
『烈火が見せた過去のこと。カミューの知らないこと。もうカミューは大丈夫だから』
「父親のことか」
『昔話に、できるから』
響く声が徐々に小さくなっていく。
「夢魔!」
『好き』
そして、唐突に景色が白色に輝いた。
「……朝、か」
目を開ければ窓から眩しい朝の光が室内を満たしている。
のっそりと起き上がり、マイクロトフは髪を掻き乱した。
元から夢など滅多に見ないだけに、寝ている間にあれこれあると目覚めた時にやたらと疲れた気分になる。
爽やかな早朝には不似合いな溜息を零して、マイクロトフは首を巡らし傍らに眠る男を見下ろした。
「………」
その右手はもうなんの輝きも発していない。これまでどおり、普通の固定紋章としてそこにあるだけだ。
「持ち主に似て人を振り回すのが得意だな」
呟いてマイクロトフはカミューの額に手を伸ばし、前髪を梳く。それから、白い光の溢れる窓へと視線を移した。
夢が終わる時は、夜が明けた時。
直感でしかないが、おそらく夢魔はもう二度とああして出てくる事はないだろう。『烈火』がマイクロトフを呼ぶことも、無い気がする。
きっとまた、マイクロトフには馴染み深い日常が戻るだけなのだ。
少しだけ変わるのはカミューの事だけで。
これからいくらでも彼の昔話を聞けるに違いない。
『烈火』がマイクロトフに見せなかったものが、まだ沢山あるのだから、今からそれを聞くのが楽しみだ。暫くは酒の上での会話に尽きることがないはずだ。
気がつけば口元に笑みが浮かんでいる。
マイクロトフは掌で触れていたカミューの額をさらりと撫でると、身を屈めてその寝顔に口付けた。それから、柔らかな手触りの髪を撫でて離れる。
そして。
三日ぶりの早朝訓練には、まだ早いだろう時刻。
マイクロトフは寝台から起き上がると、手早く身支度を整え、ダンスニーを手に意気揚々と道場へと向かったのだった。
end
***** ← lost childhood → *****
2003/09/04-2004/04/05