Land of Promise


 約束の地があると信じている者を愚かとは思わないが、そんな楽園を求める者は愚かだと思う。そんなものは在ると思えば在るし、無いと思えば無くなってしまうもので、今いる場所が約束の地なのだと言い切ればそうなってしまうものだと、そんな風に考えるから。

 城の住人がひっそりと寝静まる時刻。カミューは腕の中の汗ばんだ身体を抱き締めて目を閉じていた。マイクロトフも抵抗無く抱き締められてくれている。よほど、疲れたのだろうか、言葉も無い。
 身体の繋がりだけが全てだとは言わないが、こんな時が特に幸せだと感じるカミューであった。目を閉じて好きな人の体温と鼓動だけを全身で感じていられる時が、本当に幸せだと思う。
「マイクロトフ」
「……なんだ」
 少し眠そうな声が返る。どうも疲れているというよりただ単に眠いだけなのかもしれない。相変わらず事後の情緒が無い奴だと思いながらカミューはそんな素っ気無さもマイクロトフの良さだと笑った。そして少しだけ意識を促そうとその背をゆるりと撫でた。
「幸せすぎて怖いと思う時はあるかい?」
「ないな」
 ごそりと腕の中でマイクロトフが身動きしてそんな答えを返す。カミューは目を開けて苦笑した。
「あぁ、そんな即答しなくても。俺とこうしている時がそうだ、とか言ってくれても良いのに」
「下らん事を言うようなら俺は自分の部屋に帰る」
「つれない。俺はこんなにも幸せを噛み締めているのに、それを放って帰るのかおまえは」
「恨みがましい事を言うな。そもそも、何故いきなりそんな話になる」
 今度こそごそりと身体を反転させてマイクロトフはカミューと顔を合わせた。黒い瞳は眠気にか少しぼんやりとしているものの、きちんとカミューの姿を捉えて真直ぐ誠実に見詰めてくる。言葉はぶっきらぼうでも寄せる親愛に揺るぎは無いと、その視線が語っていた。それにカミューは微笑を返して「うん」と頷いた。
「楽園てあるだろう。神話で約束の地なんて言われている場所だね。世界の何処かにあると言われている」
「あぁ」
「そこに住まいたいが為に、人は清く正しく美しく生きるんだよ。神の定めた運命に逆らわず一心にね」
「神話だろう」
「そう。でも基本だよな。幸せになりたいから人は努力するし、精一杯になる……」
 呟いてカミューはふと言葉を途切れさせた。
「カミュー?」
 マイクロトフが覗き込んだ瞳は何処か茫洋として遠くを見ていた。
「カミュー。何か不安でもあるのか」
「不安?」
 ぴくりとカミューの瞼が動いて、マイクロトフを見詰め返す。
「不安ならたくさん―――マイクロトフとこうしていても、いつでも付き纏うから」
「何故だ」
 静かに問いかけられてカミューは目を閉じ、そして逆に問い返した。
「約束の地にいつか行けるのだと信じて日々を生きている者が、ある日突然その約束の地に放り込まれたらどうなると思う、マイクロトフ」
「喜ぶのではないか」
「あぁ、喜んでそして、そこから離れたくなくなるだろうな」
 言ってカミューは顔を顰めた。
「せっかくの楽園から追い出されたい者なんていないだろう。好んで出て行きたい者もいない。だから、今度は楽園から離れたくなくて、いつか追い出される日を恐れて不安になると思わないか」
 問いかけるカミューに、だがマイクロトフは眉を寄せて分からないと言う顔をする。
「その話と、おまえの不安と何の関係がある」
「分からない?」
「カミューの言い方は遠回し過ぎる」
「そう?」
 微笑してカミューは腕の中のマイクロトフを抱き寄せて強くその背を抱いた。
「カミュー?」
「今、すごく、幸せだ」
 マイクロトフの髪に頬を寄せてカミューは囁く。
「だから、幸せすぎて怖くなる。分かるかい?」
 ぎゅっと身を寄せ合いながらカミューはそんな事を言う。すると腕の中でマイクロトフが身じろぎ、腕を突っぱねるとそんなカミューから身を離した。
「カミュー。それは何か? おまえにとっての約束の地は俺で、いつか俺がおまえを追いやるとでも言うのか」
 怒ったように見詰めてくる黒瞳にカミューは困ったような笑みを浮かべて首を振った。
「ちょっと…違うよ」
「ならなんだ! はっきりと言え」
 するとカミューは「良いかい?」と再びマイクロトフを抱き寄せた。
「うん。マイクロトフが俺を追いやるなんて考えてないけど、でもいつか俺とおまえは離れなくてはならないじゃないか」
「カミュー!」
「だって、人はいつか死ぬだろう? それに俺たちは剣を持って生きているから、多分いつか剣によって死ぬ」
「殴ってもいいか」
 マイクロトフの身体が緊張を帯びて行くのを、カミューはのん気に眺めている。
「気を悪くした?」
「悪くしたどころではない。いったいおまえは何を言っている?」
 憤慨も露にマイクロトフはカミューを睨み付ける。
「俺は死ぬ事を考えて生きている奴は嫌いだ」
「マイクロトフ」
 嫌いって酷いなぁと笑う男を、マイクロトフはそのこめかみを両手で挟み込んだ。そして決して目をそらさせないとでも言わんばかりに間近に迫る。
「カミュー。もし今が幸せでも後に来る不幸を考えてしまうのなら、それは今が本当に幸せではないと言うことだ」
「え?」
「本当に幸せなら、不安な翳りは無いはずだ。少なくとも俺は、不安など感じていない」
 憮然とそう言い放ったマイクロトフに、カミューはぽかんとして言葉を無くした。
「え、それって、マイクロトフ」
「なんだ」
「俺といる今が、すごく幸せだって言ってるのか?」
 すると不意にマイクロトフが目を瞠って、それから盛大に顔を赤くした。
「なぁマイクロトフ! それって不安も感じないくらい幸せでたまらないって事だろう?」
「五月蝿い! わざわざ言うな!」
 マイクロトフは喚いて事後の色気も吹き飛ばしてカミューから身を離そうともがく。しかしそんな嬉しい事を言われてカミューが手放すわけが無い。
「あぁ、今ので不安なんてどこかへ行ってしまったよ。マイクロトフ〜〜!」
 抱き潰さんばかりに強く抱き締められてマイクロトフが「離せ〜!」と叫ぶのに、カミューは満面の笑みで益々離すまいとその身に腕を絡ませる。実際、不安など欠片も無く溶けて消えてしまった。
 思いがけずマイクロトフの本心を知ったことこそ、その不安の解消に直結していた。何故なら常にカミューに付き纏うのは、恋人の幸福であるからだった。
 最初に手を引いたのはカミューである。マイクロトフ自身がその手を取ってくれたとはいえ、どうも強引に事を進めた感が否めないカミューである。そんな事をマイクロトフに言えばまた激しく怒るのだろうが、そう感じてしまうのはもうどうしようもなかった。
 それにマイクロトフがあまりカミューに対して素直に愛の言葉を告げてくれないのも、そんな感情に繋がっていた。
 決して疑いもしていないが、もしマイクロトフの心に少しでも翳りがあるのなら、それはカミューの所為なのだと。そしてマイクロトフがカミューを嫌えばカミューには何の引き止める力も無いのだろう事も。だから罪悪感と不安は、ことさらカミューを悩ませていた。
 そして洩れ出た些細な不安の言葉だったのだが。
「マイクロトフ……」
 ありがとうと言うのはおかしい気がするが、それ以外に言いようが無いのでカミューはそう告げてマイクロトフに口付けを贈った。するとそんな声の調子に真剣味を帯びたのに気付いたのか、マイクロトフが抵抗を止めて素直に口付けを受け止めた。
 キスは長かったが、互いに息を弾ませて顔を離した時、真っ先にマイクロトフがカミューの頬に触れて言った。
「カミュー。あんまり俺を見くびるなよ」
「なに…?」
「またくだらない事を考え始めたら、今度は俺に直接聞け。今回のような回りくどいのはいらん」
「マイクロトフ」
 苦笑が洩れてカミューは肩を震わせてマイクロトフに覆いかぶさった。
「分かった、約束する。でもマイクロトフ、いらんなんて物じゃないんだから」
「一緒だ」
 憮然と返してマイクロトフはカミューの背に腕を回す。その自分だけが抱き締めているのではない、自分もまた抱き締められているのだと感じさせてくれる腕の暖かさに、今度こそカミューは本当に幸せを実感して目を閉じたのだった。



end

2002/05/05