spring haze


 春霞が洛帝山の山腹に立っている。そんな景色を、まだ朝焼けの空気がしんと冷えている頃に見ると、もう春なのだなとマイクロトフは思う。



 青騎士団長マイクロトフの朝は早い。それは城下のパン屋の煙突から煙が立ち上り始める頃で、普通の騎士一般の目覚めよりも常識外れに早かった。彼は毎朝冷たい水で顔を洗い、しゃっきりと目を覚ましてから愛剣ダンスニーを手に取る。
 それから太陽がすっかり全容を見せ、明るい日差しがロックアックス中に降り注ぐ頃まで自主鍛錬に励むのである。これはマイクロトフが父親から剣の指南を受け始めた幼少の時分から続けられている習慣であるのだが、騎士団において徐々に位階を駆け上るにつれ、彼を慕う部下たちがそれを倣い始め、団長となった今ではいつの間にか青騎士団において、全騎士参加の早朝訓練と化していた。
 この日の朝もマイクロトフは普段どおりに部下たちと早朝訓練をこなした。だが、常ならばそのまま朝食を摂りに食堂へと向かうのだが、この日その足は全く別の方向へと向かった。
 赤騎士団長、私室。
 見張りの赤騎士に朝の挨拶をしてマイクロトフは扉を開ける。寝室はそうして入った部屋の更に奥にある。その扉の前で立ち止まるとマイクロトフは一呼吸おいてノックをした。
 だが中からは沈黙だけが返る。しかしマイクロトフはそれに焦る様子もなく勝手知ったるなんとかで、懐から鍵を取り出すと鍵穴に鎖し込み無遠慮にがちゃりと回した。それから扉をそっと開く。室内は厚いカーテンによって日光を遮られ、まだ薄暗かった。
 やはり起きていないかと、マイクロトフは小さく溜息を落として寝室へと足を踏み入れた。
 起こしてくれ、とは前日の赤騎士団長カミューの言葉である。別段早朝から何があるわけではない。カミューのいつもの気まぐれであった。そんなものに律儀に付き合うマイクロトフも奇特な人物なのだが、それがこの二人と言うものである。
 そしてマイクロトフは薄暗い室内の中、なんとはなしに足音を忍ばせてベッドへと歩み寄り、そこに寝ているであろう男を覗き込んだ。案の定、カミューはすうすうと寝息を立てて寝ていた。
 くすりと笑みを洩らしてマイクロトフはそんなカミューに手を伸ばす。端正な顔にかかる前髪を掻き揚げると形の良い額が目に映る。秀麗な眉も長い睫毛も、すっきりとした鼻梁も美しい唇も顎の形も。
 黙って立つか座るか寝ているかしていれば、言葉も出ないほどの整った相貌をしているというのに。マイクロトフにとってはいつも何を考えているか真意の掴みにくい言動の男は、一筋縄では行かない厄介な性格をしている。なので、その秀麗な容姿よりもその内面の方がカミューと言う人物を強く印象付ける。それが良い事か悪いことかはマイクロトフには分からないが、常日頃からその厄介な性格に振り回されている身としては、たまにはこうして害の無い様子を見るのも悪くないと思うのだった。
「全く……」
 苦笑してマイクロトフは掻き揚げた前髪から指を解き、一度カミューから離れた。そして窓辺へ寄ると朝陽を遮る厚いカーテンをさっと引くと、途端にベッドからくぐもった呻き声が洩れ出てまた笑う。
「カミュー、朝だ」
 起きろと、マイクロトフは再びカミューの元へ歩み寄った。すると小さな声で「マイクロトフ…?」と聞こえた。
「あぁ、カミュー、俺だ。約束どおり起こしに来たぞ」
 声をかけるとカミューが眩しいのか顔の向きを変えて、反動でその髪がぱさりとシーツを打った。
「な……朝?」
 蚊の鳴くような声である。
「そうだ、朝だ。ほら起きろ」
 ベッドに身を乗り出してマイクロトフは壁の方に向いてしまったカミューの顔を覗き込む。するとまたごろりと転がって起きようと目を瞬かせる顔がマイクロトフを見た。
「おはよう……マイクロトフ」
「あぁ、おはよう」
 かけられた朝の挨拶に、起きたかと思ってマイクロトフは身を引こうとした。しかしその袖を取られて阻まれる。
「待ってマイクロトフ。今、行かれたら、また……寝る」
「なんだと?」
「つい……夜更かしを……」
 したんだと、言ってカミューはすうっと目を閉じる。
「おい、こら」
 そしてまた眠りに落ちようとする男の肩をマイクロトフは慌てて揺さぶった。するとまた目が開いて、潤んで霞んだ瞳が瞼の下から覗いた。そこに昼間には感じない色気を見て、不意にマイクロトフは息を呑んだ。そこへ滑り込むようにカミューの密やかな声が重なる。
「マイクロトフ……キスしてくれ……」
 ねだるように腕を重たげに持ち上げてマイクロトフの首に絡めようとする。
「朝っぱらから、何を、おまえは……っ」
「なんだ。朝じゃなかったらしてくれるのかぁ…?」
 夜中だって滅多にしてくれないのに。そう言ってカミューは喉の奥で可笑しそうに笑った。その様子にマイクロトフはかぁっと顔を赤らめて閉口した。だがまだ寝惚けているらしいカミューはそれに気付かずぼんやりとしたまま続ける。
「目覚めに、くれないか。それで起きるから……ね、マイクロトフ」
 そして薄く開いた瞳でじっと見上げてくる。それをマイクロトフは熱る頬を自覚しながら憮然と見下ろした。
「昨日俺に起こしてくれと言ったのは、そういうつもりがあったからなのか?」
「別にそんなつもりは無かったよ……でもおまえの顔を見たら、欲しくなった」
「な、何がだ!」
「キスだよ……。何だと思ったんだ?」
「カミュー!」
「分かってる、ごめん。そんなに大きな声を出すものじゃない」
 くすくすと笑ってカミューは漸く身を起こした。いつの間にかその瞳は大きく開かれていて、ぼんやりと漂っていた眠気は何処かへ行ってしまっている。そしてそれまで無防備だったものが、いつもの油断のならない男の空気へと変わっていた。
「―――起きたのならさっさと支度をしろ。俺はもう行くぞ」
「駄目だよマイクロトフ、キスがまだじゃないか」
 なおも言い募る男にマイクロトフは目を剥く。
「ほら、マイクロトフ。起こしてくれるって約束してくれたじゃないか。キスしてくれないとまた寝るよ?」
「おまえは………」
 嬉しそうにニコニコと微笑みながら自分の唇を指すカミューに、マイクロトフはがっくりと肩を落として項垂れた。だがマイクロトフはゆらりと腕をあげるとがしっとカミューの肩を掴んだ。
「あれ、マイクロトフ?」
「したら起きるんだろう」
 言うなりマイクロトフは素早くカミューの頭を掴んで引き寄せると、さっと唇を掠めて離れた。
「さぁ、起きろ」
「………」
「カミュー?」
 さっさとベッドから離れてマイクロトフはカミューの手の届かない場所まで下がってから振り返る。だがカミューは呆気に取られた顔でそこにいた。
「マイクロトフ……」
「なんだ」
「もう一回!!」
「却下だ」
「あんな不意打ちは無効だ。もう一回要求する!!」
「約束不履行か? 俺はちゃんとこうして起こしに来てやったし、キスだってしてやっただろう」
「情緒が無い〜」
「そんなものを俺に求めるな、馬鹿者」
 にやりと笑ってマイクロトフはそのまま扉へと向かう。
「先に朝食を摂っている。おまえも早く支度をしてこい」
「ま、待ってよマイクロトフ!」
「それではな」
「あ、あぁぁぁ〜〜〜〜」
 カミューの嘆きを背中に聞いてマイクロトフは扉を閉める。するとその向こうからどたばたと賑やかな音が聞こえてきた。その音に愉快な気分を掻き立てられてマイクロトフは可笑しくて笑い声をたてた。
 さても、カミューが追いついてくるのはいつ頃だろうか。もし食堂に着く前に合流できたらまた不意打ちのキスでもしてやろう。
 そんな事を考えて無意識のうちに歩調を遅らせつつ、マイクロトフは瞼の裏に先程焼きついてしまったカミューの霞んだ瞳を思い浮かべた。
 もう春なのだなと、何気なく思った朝の事だった。



end

2002/05/19