まだ見ぬ君へ
ガツンとした衝撃と共に目の前で火花が散った時、マイクロトフはカミューの驚いたような顔を最後に意識を失った。
ぴちゃん、と濡れた感触に首筋がぞっとした。
途端にズキズキと痛む頭に、マイクロトフは唸る。
そうだ……確か、カミューと外を歩いていたらムクムク殿が降って来たのだ。しかしマイクロトフはそれに気付かず、カミューの声も遅くて後頭部にムクムクが直撃したのだ。
ならばこの頭痛はきっと大きなこぶでも出来たに違いない。
不覚だ、とマイクロトフは更に唸った。すると。
「ああ、マイクロトフ。気がついたんだね」
ホッとしたようなカミューの声が聞こえ、そして再び冷たく濡れた何かが頭に宛てられた。
「…カミュー?」
「うん、動かない方が良いよ。強くぶつけたようだから」
苦笑じみた声音にマイクロトフは首筋が赤くなるような羞恥にとらわれた。いくらなんでも間抜けすぎる。
「痛む? 大丈夫かい?」
黙り込んで返事をしないマイクロトフに、カミューは心配そうな声を出す。慌ててそれを振り切るようにマイクロトフは目を開けて起き上がった。
「大丈夫だ! ……っつ」
しかしやはり痛みは強く、マイクロトフは直ぐに頭を押さえて蹲ってしまった。そこへカミューの手が降りる。
「ったく、いつまで経ってもおまえは慌て者だね。少しは落ち着いて俺のいうことを聞けよ」
笑いながらマイクロトフの手を外し、再び濡れた―――恐らくはタオルを、こぶのある場所にあててくれる。それがまたどうしようもなく恥ずかしくて、カミューの顔を見ずにふいっと視線を逸らした。
ところが。
「……ここは何処だ」
まったく見慣れない室内の風景に首を傾げる。
そこは、同盟軍の自分たちの私室ではなく、当然ロックアックスの城でもなかった。視線の先にある開いた扉の向こうには小さなテーブルが見えるが、まるで見覚えのない部屋だった。しかも自分が居る場所は寝室らしく、やはり見たこともない寝台の上に座っていた。
知らないうちに遠征にでも出ていて、何処かの家に厄介になっているのか。しかしさっきまでカミューと歩いていたのは同盟軍の本拠地だったはずだ。
「おいおいマイクロトフ。ぶつけた衝撃で馬鹿になってしまったのか?」
頭の後ろにタオルを押し当てながら、カミューのもう一方の手がマイクロトフの額に伸びる。
「確りしてくれよ。おまえがどうにかなったら、俺は一人でどうすれば良いんだ」
そしてひょいと目の前に現れたのは、苦笑を浮かべたカミュー……に良く似た男だった。
「………誰だ」
声はカミューだ。
しかしマイクロトフの知るカミューとは明らかに年が違うのだ。
「俺はいったい…!?」
何故見知らぬ場所で見知らぬ男と居るのかまったく分からない。途端に頭が混乱してどっと汗が吹き出た。ところが、そんなマイクロトフに目の前の―――恐らくは四十代くらいだろう、カミュー似の男はひどく心配そうな表情で間近に顔を寄せてきた。
「おいマイクロトフ? 本当にどうにかなったのかい。これ、何本だ」
顔と顔の間に指を二本立ててゆらゆらと揺らす。
「二本だ。離れろ、おまえは誰だ!?」
律儀に答えてからマイクロトフは腕を突っ張って男を押し退けた。しかし男は思いのほか強い力で肩を掴んでくると、険しい顔をして睨む。その表情がやっぱりカミューに似ている、と思いながらもしかしてグラスランドに居るという兄なのかとぼんやり考えた。それにしては年が離れているようだが―――。
「マイクロトフ馬鹿なことを言わないでくれ。まさか俺のことが分からないなんて冗談は言わないよな」
厳しい顔のなかに、僅かだけ泣きそうに切ない表情が見え隠れしている。本当にカミューに良く似ているが、やはり明らかに年齢が違うので別人なのだ。しかし似た顔がそんな切ない顔をしていると、マイクロトフも強く出れずに申し訳ない気持ちになってくる。
とりあえず押し退けるのを諦め、まじまじとカミューに似た顔をみつめた。
「分からん……すまんがここは何処で、あなたは誰だろうか」
途端に肩に置いた手をそのままに、男はガックリと項垂れる。
「本気なのかいマイクロトフ。ああなんだってこんな事に! 昼間から押し倒した俺が悪いのかい。でも往生際悪く逃げようとしたおまえだってどじなんだよ。寝台の柱に頭なんぞぶつけて失神なんて! おまけに全然目を覚まさなくて人を心配させた挙句に、これだよ!」
「………っ!」
そこで初めてマイクロトフは自分の格好に気がついた。
シャツの釦は全て外れ胸元は露わになり、あろう事か下衣まで脱がされかかっている。
「な! なんだこれは!!」
叫んでマイクロトフは今度こそ男を蹴り飛ばす勢いで押し退けると、寝台から飛び降りて部屋から逃げ出した。しかし続きの部屋に出た途端、真横にある鏡に気付いて足が止まる。
「う、うわぁぁああ!!!!」
更なる絶叫に、背後から慌てた足音が聞こえる。
「マイクロトフ!? どうしたんだ!」
「俺が…! 俺が父上になっている!!」
鏡に映っていたのは、マイクロトフの記憶に残る父の姿だった。マイクロトフがまだ十代の半ばだった頃に戦死してしまった父の亡き思い出の姿そのものである。
ところが追ってきた男は、そんなマイクロトフの肩を再び掴むと、強引に振り向かせて額をこつんと合わせてきた。
「ああマイクロトフ、本当に本当に大丈夫かい。熱はないね、もう若くないんだから無理をしてはいけないよ」
そして男はマイクロトフの身体を抱き締めると、深々と溜息を落とした。
「冗談ならもう止めてくれよ? そんなに嫌ならもう今日は押し倒したりなんかしないからゆっくり寝ていると良いよ。夕飯は俺が作るしね」
そして男は身体を離してマイクロトフの髪を優しく撫でると、カミューと本当に良く似た顔で、ね? と苦笑を浮かべて首を傾げた。
そこで漸くマイクロトフは、もしかして、と目を瞠る。
「……カミュー…?」
「うん?」
ニコッと、男は笑って応える。
「カミュー……」
「なに、マイクロトフ。大丈夫だよ、夕飯はちゃんと肉を出してあげるから」
そして、戻ろうとマイクロトフの腰を抱いて寝室へと促す。その横顔を見詰めて確信した。
「カミュー、今は何年だ」
「まだ冗談の続きかい。今は太陽暦四七四年、あの戦争からもう十四年経ってるじゃないか」
「十四年……」
という事は、カミューが四一才で、自分は四十才なのか?
だがどうしてその十四年間の記憶が飛んでいるのだろう。もしかして記憶喪失とかになってしまって、二六才まで記憶が後退しているのか。
「カミュー……俺は」
「どうしたの、もしかしてまだ痛むのかい」
そしてまた心配そうな顔をして、カミューがそっとマイクロトフの頭に指先で触れた。
その顔は、先程と違って良く見れば確かにカミューの顔だった。年を重ねただけでその浮かぶ表情も目の色も、まったく彼そのものなのだ。しかも、四十代なりの落ち着きと渋みがあって、しかし老け込んでいるわけでは決してなく、二十代の頃そのままの魅力があった。
いや、もしかしたらもっとずっと魅力的になってはいないだろうか。
「カミュー」
「うん?」
優しく微笑む、その温かな心を、十四年経っても自分は相変わらず贈り続けてもらえている。その事実になんだか泣きたくなるような幸せを感じた。
「俺は、おまえが好きだぞ」
「マイクロトフ?」
カミューが吃驚したように目を見開く。その頬にマイクロトフは手を伸ばして、強張ったような顔に笑みを浮かべた。
「まだ良く分からんが、きっと俺はずっとカミューが好きなんだろうな」
十四年の間に何があったのか分からないが、二六才の自分が四一才のカミューに出会っても、こんなにも胸が高鳴る。その笑顔を向けられる事がこんなにも嬉しくてならない。だから多分、四十才の自分もカミューが好きに違いない。
「俺は幸せ者だな」
そう呟いてマイクロトフはカミューの頬を掌で撫ぜると、唇を寄せた。
なんだか可笑しい。
きっと見た目は四十代のいい年をした男が、こんなふうに口づけているなど。
だがどんな年齢だろうと、想いは変わらないのだ。
マイクロトフは今、四一才のカミューに口づけをしたかった。
だが。
ぐい、と肩を押された。
え、と思った時には体がぐらりと傾いで、背中から床に倒れ込むところだった。そして圧し掛かってくるのはカミュー。その目が見知った欲望を宿しているのに気付いた瞬間、再びマイクロトフの目前に火花が散ったのだった。
ぺちぺちと頬を叩かれる感触にマイクロトフは呻く。
今度こそ、本当に頭がズキズキと痛んで、直ぐに意識が戻った。途端、がばりと起き上がりマイクロトフは怒鳴った。
「ところ構わず押し倒す馬鹿があるか!」
床に直撃したに違いない己の後頭部を思ってマイクロトフはカミューを叱る。ところが、そこにいたのはしゅんと項垂れたムササビの姿だった。
「……っ、ムクムク殿…?」
それでは、ここは同盟軍なのか。
呆然とし、辺りを見回そうとマイクロトフが顔をあげたその時、視界が暗く翳る。
「マイクロトフ…? 何処の馬鹿に押し倒されたんだい?」
にこやかな笑顔がムクムクを押し退けてマイクロトフに迫る。
「カ、カミュー…」
「うん? いったい、誰の夢を見ていたのかな…」
目だけは笑っていない笑顔を浮かべているのは、馴染みのあるカミューの顔で、彼は赤騎士団長の騎士服をまとっていた。
「な……カミューなのか」
「他の誰と間違えたんだい?」
「あ、いや……ではさっきのはいったい…」
目の前にいるのは、これは二七才のカミューに違いなかった。そして自分もまた着慣れた青騎士団長の服を着て居る。記憶喪失などではない、自覚がある通りの状態だ。
「夢、だったのか?」
ポツリと呟く。
夢にしては実に奇妙だった。
とても現実的だったし、何しろカミューが本当に十四年経ったらああなりそうで。
「夢? 誰の夢を見てたか知らないけど、その辺りはきっちりあとで聞かせてもらうとして」
何やら不機嫌そうな声でカミューがぶつぶつと呟いている。
「とにかく今はぶつけたこぶをホウアン殿に診せにいってからだね」
ほら、立って。
どうやら往来に倒れていたらしいマイクロトフに、カミューは手を差し伸べて立たせてくれる。そして服についた土を払いながら、大丈夫かいと、そっと頭に手を伸ばす。
その仕草が、あまりに変わっていなくて思わずマイクロトフは吹き出した。
「マイクロトフ?」
「いや、何でもない。大丈夫だカミュー」
それから、マイクロトフはカミューの頬に手を伸ばした。
ああ、やはり同じ目をしている。
「カミュー」
「うん?」
「あとで面白い話を聞いてくれるか」
カミューはどんな顔をするだろう。
どうにかなったんじゃないかと、同じように心配そうな顔をするだろうか。それとも、笑い飛ばすだろうか。
或いは十四年後に真実が判るかも知れない。
その時には、同じ言葉を言ってやろう。
「カミュー、好きだぞ」
言ってから、驚いたように目を見開いたカミューに苦笑を送り、マイクロトフはまた押し倒されてはかなわないとさっさと一人、歩きだした。
〜 14 years after 〜
懐かしいような匂いに何故だか胸が詰まった。
いったいどうして、と思いつつ身を捩ると途端に頭の後ろに鈍痛を感じた。しかし痛む理由も何も、朦朧として思い出せない。確かカミューと部屋の掃除なんぞをしていた筈だったが……。
ふと、砂利を踏む小さく軽い足音が響き、そちらを見遣れば茶色い毛並みと赤いマントが過ぎる。
これはあの奇妙なムササビなのだろうか。ムクムクと言う名の不思議な仲間の一人、いや一匹だったのだが、彼らとは十四年前のあの時以来会っていない。
これは、夢なのだろうか。
同盟軍時代の夢を見るなど珍しい事だと、マイクロトフは朦朧とした意識の中で考えた。
しかし夢にしては頭の痛みが酷い。ズキズキと響いて涙まで滲みそうだ。と、そこにふっと覆いかぶさる影があった。
「………変な顔だ…」
自分を覗きこんでいるのはカミューだった。
しかも変な顔だ。まるで十歳くらい若返ったような顔だ。
途端に覗きこんでいるカミューが眉を寄せて何かを言っている。しかし頭の痛みが酷くて、良く聞き取れない。
だが視界の方は徐々にハッキリしてきて、良く見ればカミューは懐かしい赤騎士団長の服を着ていた。
「あぁ……懐かしいな…」
そしてマイクロトフは瞳を細めると笑みを目尻に滲ませた。
今でこそカミューは随分丸くなったが、思い返すと当時は落ち着いているようでいて、やはり年相応に若く情熱に満ちていた。もっともマイクロトフ自身はそれ以上に無茶をする若者だったが。
こうして当時の格好の、若い顔立ちのカミューを夢でとはいえ目にすると、なんだか当時の自分たちの若さをそのまま思い出して可笑しい。だがそれと同時に切ない思いもまた甦る。
「…いつも……不安そうな目をして…」
こんな風に、マイクロトフの好きな色をした瞳を不安に曇らせて、いったい何を抱え込んでいるのやら、何も言わずにただじっと見詰めてきていたものだった。
当時のマイクロトフは、カミューのそんな不安を察してはやれても、それを癒して安らがせるまでには至れなかった。それを思うと不甲斐なくも情けない。今の自分なら、腕を伸ばして抱き締めて大丈夫だと言ってやれるだろうに。
しかしそんな衝動のままに伸ばそうとして腕は持ち上がらず、視界が不意にぐらりと揺れた。かと思うと鈍痛が一際強く響いて呻き声が漏れる。
あ、と思ったときには再びマイクロトフは意識を失っていた。
「あ……っ」
びくっと、自分の出した声でマイクロトフの意識は冴えた。
ハッとして起き上がろうとするが、何故だか身体が重い。しかもなんだか背中が痛い。頭も痛い。胸が濡れて冷たい。
濡れて?
「…な! わ、あ……カミュー…っ!」
飛び起きた瞬間に、再び頭が強く痛んでマイクロトフは唸る。しかしそんなことよりも、己を組み敷いて不埒な行為に及んでいた男の方が要注意だった。
しかも場所は寝室ならまだしも、食卓が直ぐ傍にある床の上。
「何をするんだ、この馬鹿が!」
怒鳴りつけると流石にカミューも気まずい顔をして手を引いた。
「ごめん、怒鳴らないでよ。それより頭は大丈夫かい?」
そうっと手を伸ばしてカミューは慎重な手つきでマイクロトフの後頭部に触れた。途端にちりっとした痛みとズキンと響く痛みが一緒になって襲いかかる。
「痛い……」
「ああ本当だ、腫れてる。でも心配したよ、変なことを言うし、突然駆け出して鏡の前で大騒ぎするし。もうあんな冗談はなしだよ」
「何だそれは」
駆け出した覚えもないし、鏡の前で叫んだ覚えも無い。憮然と睨み返すとカミューはキョトンとして首を傾げた。
「何って、父上がどうのこうのと騒いだじゃないか。確かにお父上と良く似てるんだろうけど今更だし。おまけに、突然愛の告白なんてしてくれるから、もう嬉しくなっちゃって」
途端にマイクロトフは思いだした。
そうか。これか。
なるほど、あの時のあれは、現実に起こった不可思議な現象だったのだ。
天啓のように閃いた過去の記憶に、マイクロトフは頭の痛みも忘れて笑みを浮かべる。ああ、そうだったのか。
そして改めて目の前に座りこんで、己を心配そうに見ているカミューの顔を見て、ぽつりと一言呟いた。
「……老けたな」
「な、何さそれ!」
途端に目を瞠って喚くカミューに、マイクロトフは喉の奥から込み上げてくる笑いの衝動に肩を震わせた。
「だが、相変わらずだ。まったくおまえと言う奴は」
笑い声に交えてマイクロトフは、過去のカミューと今のカミューを比べて、たまらない気分に胸を押さえた。
そして突然笑いだした自分を不思議そうに見ているその顔に片手を伸ばす。触れた頬は温かかった。
言ってやろう。
あの時、心に決めた一言を。
「カミュー……―――」
end
2003/11/24-2003/11/30
「赤青de年の差フェスタ」という企画に寄稿させて頂きました