exorcist
「キャアァァアアア!!」
女の布を引き裂くような絶叫が突き抜ける。
ベッドの上でうら若い女性が、世にも恐ろしい形相をしてのた打ち回っている。その身体を腕を捕らえて押さえ込んでいる、金茶の髪の神父は汗びっしょりで、頬には引っ掛かれた痕があり血が滲んでいる。その反対側では、大きな剣をまるでクロスに見立てるように構えた黒髪の神父が祈りの言葉を一心に唱えていた。
星空の美しい田舎の町で、深夜に繰り広げられる異様な光景。
そして黒髪の神父がきつく女性を睨み据えて、高々と言い放った。
「神の御名において―――悪霊よ去れ!」
薄暗い室内。
まるで真っ白な光が全てを飲み込んでしまったかのように、唐突に静寂が訪れた。
* * * * *
とある片田舎。
どこまでも青い空が広がり、緑の野がなだらかな丘陵を描いている。秋の入りの頃には見事な紅葉の広がるこの地方だが、春はただ柔らかな新緑が目を覆うばかりだ。
その村の中央には高い尖塔のある白いペンキ塗りの、その地方独特のスタイルをした教会がある。村人が敬虔なクリスチャンばかりの村にあって、その教会は立地の意味でなくとも村の中心だった。
だが昨年、新しく赴任してきた若い神父の存在が、それまで以上に教会を村人たちにとっての中心的な場所として変えてしまった。
神父の名はマイクロトフ。
年齢はまだ二十六歳。背が高く働き者らしい逞しい体格でありながら、黒い髪と瞳の色と寡黙な性格が、神父のストイックな装いと妙に似合っている。
だが、村人たちはこの一年余りで既に知っていた。
この若い神父は、決して無愛想なわけではなく、ただ単に真面目で純朴で不器用なだけなのだ。村人たちのと他愛のないお喋りにさえ、誠心誠意の言葉を返そうとするが故に、うまく会話が続かない。
だが日も経てば、良い人間か悪い人間かなど、田舎の者にだって区別はついてくるものなのだ。いつしか寡黙な若い神父は村に受け入れられていた。
しかも、これがまた良く見れば目鼻立ちの整った、男前でもある。
若い娘たちの密かな憧れの的となった神父の住まう教会は、毎日誰かしらが訪れる場所となっていったのである。
しかし、たまにそんな賑やかな教会がしんと静まる時があった。
その村から車で二時間ほど走れば大きな街に出る。それこそ大都会と呼べるほどの規模のその街には、その若い神父が神学校時代に恩を受けたという司教がいた。彼は月に一度は必ずその司教を訪ねて、ある時は二日、ある時は一週間ほど、教区を空けるのだ。
村の誰も神父が司教のもとで何をしているのかは深く知らない。だが大切な用を手伝っているのだと言われてしまうと留守を嫌がるわけにもいかない。もっとも、長く留守にするときには必ず代わりの神父が臨時で教区を預かるのだが、やはり慕われる若い黒髪の神父がそこにいないだけで、村の教会は静まり返ってしまうのだ。
そして週初めのこの日も、教会はしんとしていた。
マイクロトフは、大通りに面した大きな教会の正面にあるなだらかな階段に足をかけた。
片田舎の村とは圧倒的に人口の差があるこの街まで、いつもバスを使って訪れる。普段は独特な黒尽くめの神父の衣装だが、司教に呼ばれて来る時は常に私服だ。それでもこの日はグレーのスーツに身を固めている。
たとえ私的な時でも、きっちりしていなければ居心地が悪いのだ。
マイクロトフは古いが立派な教会を見上げて、無意識にネクタイを直した。
前回からまだ二週間半しか経っていなかった。
きっと何か大きな問題が起きたのだ。
表情を曇らせてマイクロトフは階段を大股に上っていった。
「おお、マイクロトフ」
司教のテンコウが相変わらずの穏やかな笑顔でマイクロトフを出迎える。だが通い慣れた部屋に踏み入って直ぐ、そこにいたもう一人の存在に足が止まった。見た事のない男だった。
年齢はマイクロトフと同じくらい。背丈も体格も似た感じだが、少しスレンダーに見えても着痩せするタイプなのかもしれない。同じようにダークスーツを着ているのだがかっちりと見えるマイクロトフと違って微妙に着崩しているように見える。だがそれは決してだらしが無いわけではなく、髪は金茶色でやたらと整った容貌をしているだけにまるで雑誌から抜け出てきたような男だった。
しかし何よりも、男のマイクロトフを見る琥珀の瞳が一番印象的だった。かちり、と視線がぶつかった瞬間、時間が止まった様な錯覚を受ける。
だが司教がにこやかな顔で二人の間に割り込んで視線が途切れた。
「マイクロトフ神父。こちらはカミュー神父ですよ」
「…神父?」
この男が?
思わずそんな心の声が顔に出てしまっていたのだろう。目の前の男は軽く顔を顰めてマイクロトフを冷めた目で見た。だがそれも一瞬の事で彼は直ぐに親しげな笑顔を浮かべると手を差し出してきた。
「初めましてマイクロトフ神父。カミューです」
「あ、ああ初めまして」
慌てて手を差し出し返すと、意外に冷たい掌が握り返してきた。
そしてマイクロトフは、それきりカミューが出て行くのだろうと思っていたのだ。何しろこの時間にこの場所に来るよう指示したのは司教の方で、マイクロトフはそれに従ったまでだ。それも用件はとても秘匿性が高くて部外者には聞かせられるような内容ではない。
しかしカミューは出て行く気配がなかった。
不思議に思って司教の顔を見ると、何故か笑顔で頷き返された。
「あの、司教さま」
「うんうん。二人とも仲良くて結構ですね」
「あの」
「ということで、今回は二人で赴いて頂きたいのです」
「はい!?」
いったい何を言われているのか分からず、失礼にも大声で聞き返してしまった。ところが隣の男はマイクロトフと違った落ち着きのある態度で静かに頷く。
「了解いたしました。では私は部屋を出ておりますので、彼に詳しい話をして差し上げて下さい」
そして男はくるりと背を向けると、あっさり部屋を出て行ってしまった。それを見送りながら、気の所為でなければ振り返り様に何だか馬鹿にしたような視線を向けられた。
―――なんだあいつは。
むかっとするものの司教の前である。それ以前に男が言い残したように詳しい話を聞かなければ全く訳が分からない。
「司教さま。どういうことですか」
しかし司教はそんなマイクロトフに背を向けると、扉とは正反対の壁にある大きな窓の側まで歩み寄ると、木の窓枠を愛しげに撫でた。
「この間、磨いて塗装をし直したのです。綺麗になったとは思いませんか」
「……はい」
確かに、建物同様に古びた窓枠はつやつやと光っている。
だがそんなことを聞いているわけではない。
「テンコウ司教さま」
「うんうん。窓が綺麗だと生活が楽しくなるよ。あなたも教会の窓は毎日磨いていますか」
「はい、それで―――」
「実は緊急かつ困難な問題が起きています。早速赴いて頂きたいのですが、あなた一人では手に余ると判断してもう一人を呼びました。協力して問題の解決に取り組んで頂きます」
「先程の男とですか!」
「彼はカミュー。あなたと同じ優秀な悪霊祓いですよ」
―――悪霊祓い。
悪霊に取り付かれた信者を、神の名の下に救いあげるのが、俗に言う悪霊祓いである。
多くは無いがそれでも大都会ともなれば月に何件か、その手の相談が舞い込んでくる。だが大抵は心に病を抱えた人々のヒステリー状態であったり、自傷行動の一端であったりする。
しかしそうした内容にも教会は誠心誠意対応する。心理学を学んだ神父を派遣し、家族ぐるみで相談に乗るのだ。
だが、その数件の内の更にごく僅か。
本当にあるのだ。
悪霊憑きが。
そんな時にこそ呼ばれるのがマイクロトフのような、実際に悪霊と対峙して神の名の下にそれを祓うエクソシストなのである。
現代になってでさえ漸く映画や小説の中で、広く取り沙汰されるようになったその特殊な役割は、しかし本気で信じる者は少ない。悪霊などと言ってもそれは空想の産物であり、取り憑かれた人間が叫び暴れまわるのは、ただの演技か或いはヒステリー状態かとしか思われない。
無理も無い。
悪霊は滅多に人には憑かない。
憑いたとしてもその人間に多大な悪影響を与えるほどの強い悪霊などそうそういない。悪霊―――悪魔の多くは、ひっそりと人間社会に潜み微かな悪意を緩慢に浸透させていく程度のものなのである。
それでも時に悪霊と相性の良すぎる人間がいるのだ。
肉体と精神が激しい反応を起こし、悪霊の力を意識せずに表層に押し出してしまう。そんな人間が取り憑かれると、悪循環が繰り返されて本人が死に至るまで様々な怪事が引き起こされるのである。
そうなると、本人を救うには憑いた悪霊を祓うしかない。
マイクロトフは十代の頃からこの仕事を始め、二十六歳の現在までにそんな悪霊に憑かれてしまった人間を数多く相手にしてきた。この地区では結構名の知れたエクソシストなのである。
今まで誰かと組んだことなど無かった。
それだけ優秀だったという事だ。
それがどうして今更、他の誰かと組めと言われるのだろう。
「何か言いたそうな顔をしていますね、マイクロトフ」
「……いえ」
「言葉を飲み込む必要はありません。私があなたを軽んじているとでも思ったかな。ですが、それは間違いですよマイクロトフ。あなたを信頼しているからこそ今回の仕事を頼むのです」
テンコウは相変わらず窓を撫でながら、皺深い顔に笑みを浮かべた。
「今回の悪霊憑きは女性です。結婚して三年目の妻である女性です」
「女性の悪霊祓いなら今までに何度か」
「うん。けれどね、今回の女性は実は二度目なんですよ」
「二度目?」
「そう。以前にも悪霊祓いを受けた女性なのです」
「……では」
「ええ。以前よりももっと酷い。一度別のエクソシストを派遣しましたが、全く歯が立ちませんでした。今そのエクソシストは三階から落ちた衝撃で入院中です。危険なのですよマイクロトフ」
「だから、さっきの男と組めと?」
「カミュー神父ですマイクロトフ。彼は北部でずっと活躍をしておられた、優秀なエクソシストなのですよ。きっとあなたを上手く助けてくれるでしょう」
そしてテンコウ司教は有無を言わせぬ眼差しでマイクロトフに命じた。
「相手方の居所や家族構成など詳細は既にカミュー神父に伝えてあります。あなたは道中彼からその辺を詳しく聞くと良いでしょう。頼みますよ」
「ですが司教さま!」
「今回は車を用意してあります。運転ならカミュー神父が得意と聞いています。道案内も彼がしてくれるでしょう。あなたはいつも通り、テッサイから『剣』を受け取って向かいなさい」
良いですね、と。
念を押されてはマイクロトフにはもう頷くしか術は無かった。
「…分かりました……」
* * * * *
マイクロトフが外に出ると、教会の前には黒いクーペがいつの間にか停車していた。ちらりと覗くと運転席には先程の男が億劫そうにハンドルに身体を凭せ掛けている。
マイクロトフは助手席側のドアを開くと無言で乗り込んだ。すると男、カミュー神父は一瞥もせずに車を発進させた。
車高の低い車の座席からはまるで路面が滑るように見える。マイクロトフはそうして暫く車がどの方面に向かうのかを黙って見ていたのだが、不意に信号待ちで止まった時に、トンと何かを叩く硬い音が聞こえた。
何かと目を向けると白い手袋を嵌めた男の指先がハンドルを叩いていた。だがそれを見た時、すうっと息を吸い込む気配がして思わずこちらは息を詰める。
「……それは、何かな」
「それ?」
聞き返して直ぐにマイクロトフは己が抱えているものを思い出す。大きな布でぞんざいに包んだだけの細く長い代物だ。持つとずっしりと重量感のある硬質なそれ。
「ああ、俺の悪霊祓いに使う道具だ」
「へえ……不便だな」
「なに?」
そこで漸くマイクロトフは運転席の男の顔をはっきりと見た。やはり綺麗な整った顔をしている。だがその顔は今はフロントガラスの向こうを見据えてこちらを見向きもしない。しかし、明らかに馬鹿にしたような感じて口元を歪めると、男はハッと笑った。
「毎回そんな大きなものを持ち歩いていたら、不便だろう」
なんだと、と声を上げようとした途端、車が急発進をして危うく舌を噛みそうになった。
「…っ。乱暴な運転をするな!」
「それは失礼。ところでマイクロトフ神父。そろそろ説明させて頂いても宜しいですか?」
思わず、う、と言葉に詰まる。突然に言葉遣いを変えて来られると沸騰しかけた思考が急速に冷えていくのだ。なんとも遣り難い相手だと思った。
「……お願いします」
軽い咳払いと共に頷くと、いつの間にか車は安定したスピードで走っていた。
「今回の哀れな子羊は、二十六歳の女性、名前はリサ・テイラー。三年前に今のご主人であるテイラー氏二十九歳と結婚。子供はいない。テイラー氏は町の薬品会社で研究員として働いていて収入はごく一般的。何も不安要素のない夫婦といえます」
カミュー神父はすらすらと何も見ずにマイクロトフに口早に教えていく。こちらもあえてメモなど取らずにただ頷くばかりだった。
だが途中で何気なく呟く。
「二十六…俺と同じか」
途端にカミューの言葉がぴたりと途切れた。そして一瞬後、ぼそりと聞こえたのは。
「嘘だろう……どう見たって私よりも年上じゃないか」
「なんだと?」
思わず聞き咎めて眉を寄せたマイクロトフだったが、返って来たのは胡散臭いほどに爽やかな笑みだった。
「何でもありませんよ。続けます」
そしていつしか車はなだらかな丘陵地帯を走っている。このままでは東にある少し大きな町に着きそうだと思った。
「レディ・リサが一番最初に救いを求めてきたのは彼女がまだ十八歳の頃です。ポルターガイストが起こり、その身体には聖痕が夥しいほどに刻まれました。ですが当時は対応にあたったエクソシストの尽力により魔は祓われ、以来八年間何事もなく彼女は幸せな結婚をしました」
「それが何故」
「分かりません。それを確かめにいった前任者は強力なポルターガイストに吹き飛ばされてアパートの窓から落ちて右足と肋骨を何本か骨折。ガラスであちこちを切ってそれこそ瀕死の状態で病院に担ぎ込まれました」
「なんだと…?」
本来、ポルターガイストとはそこまでの力はない筈だった。せいぜいが家具をガタガタと揺らし、紙や布などの軽いものを動かす程度だ。成人男子をひとり吹き飛ばすなど聞いた事が無かった。
「今回も彼女はポルターガイストを起こしているらしいですが、聖痕はない。以前とは少し違うようですが、その強力なポルターガイストが厄介です」
カミューはそこでちらりとマイクロトフを見たが、視線は直ぐにそらされて前を向く。
「カミュー神父?」
「……我々の仕事は悪霊祓いだが、無茶はするなと言われている。現状を見て、祓うのが無理なら原因を探るだけで良いらしい」
そこまで言ってカミューは今度こそマイクロトフの顔を見た。車道は真っ直ぐな何もない一本道だ。だからと言って余所見運転はごめんである。そのあまりに整いすぎた嫌味なほどの顔にマイクロトフは不満げに顔を顰めた。
「おい、前を向け」
しかしカミューはまたもにやりと口元に薄っすらと笑みを浮かべて言ったのだ。
「実は無茶をするなと言われているのはおまえの方だ。俺はどうやらおまえの制止役に選ばれたらしいが、今までどんな暴走をやらかしたんだ?」
「なんだと?」
これで今日何度目の憤りか。この短い時間でここまで何度も怒りを感じたのは久しぶりのような気がするマイクロトフである。
「上の連中は、優秀だからこんな事でおまえを再起不能にはしたくないらしいな。だが俺だって良い迷惑だ。頼むから足を引っ張ってくれるなよ」
いつの間にか一人称が「私」から「俺」に変わっているカミュー神父が、くくっと喉を鳴らして笑った。
「なんだと貴様!」
瞬時に激昂したマイクロトフであるが、場所は狭い車内である。咄嗟に立ち上がろうとして天井に強か頭を打ちつけてしまった。
「…馬鹿だろう、おまえ」
痛む頭を押さえているとカミューのあきれたような声が聞こえた。
「まぁ、暴走しやすいのは良く分かったよ。この程度の挑発でこの様とはね。それで優秀な悪霊祓いだなんて信じられないな」
「俺だって貴様が悪霊祓いどころか神父であるなど信じられん!」
売り言葉に買い言葉で、ぶつけた頭の痛みもあってマイクロトフは自棄のように怒鳴り返した。ところが対する男は意外なほど静かな眼差しと声で言った。
「そんなもの、俺だって信じてやしないさ」
「な……?」
「俺が神父になったのは他に選択肢がなかったからだ。じゃなかったら今頃、精神病院で死ぬまで軟禁状態にあっただろうな」
「おい。それはどういう……」
「下らない一族の事情―――」
呟いて、カミューは不意に口を閉ざし、それから自嘲するように笑った。
「まあ、単純そうなおまえに言ったところで意味がないな。どちらにせよ、俺は自分で神父が天職だなんて思ってはいないんでね。敬虔な信仰心だなんて求められても困るからそのつもりでいてくれ。それと悪霊祓いの事だが、俺は俺なりの方法でいつもやっている。それを邪魔しなければこのままついてくれば良い。嫌なら今すぐ降りろ」
降りろ、と言われても四方八方は何もない緑の丘陵地だ。車の通りも少なくて民家など見当たらない。マイクロトフはひたすら唖然として言葉をなくした。
それよりも信仰心のない神父がいるなんて。
「…カミュー神父……」
「カミューで良い。ファーザーなんて呼ばれても居心地が悪い。だいたい俺はおまえと違って教区なんて受け持っていないし、教会に所属しているのはエクソシストとしての仕事を請けるためにだけだ」
「なんだ…と……?」
「皮肉な事に俺にはこっちの才能があるらしいからな―――司祭を辞めるわけにはいかない以上他に生きる術もないしね」
「おまえだったらモデルでも何でも、好きな仕事が選べるだろうに。信仰がないのに司祭だなんてふざけている」
「……ふざけちゃいないさ。言っただろう。神父じゃなければ今頃俺の人生はなかったのさ」
「さっぱり訳が分からん」
「分からなくて良いさ。鈍感な神父様」
それからまたカミューは自嘲気味に笑ってハンドルを片手で操りつつ、己の前髪をかきあげた。それから軽く溜息を零した。
「どうかしているな。会ったばかりのおまえに俺はなにをべらべら喋っているんだか。こんな事よりも依頼者の話に戻ろう」
「あ、ああ」
その表情から笑顔すら消し去ってカミューは前を向いたまま厳しい声で再びリサ・テイラーについて語り出した。マイクロトフはそれに黙って耳を傾けるしかなく、それ以上何も、この今日初めて会った神父自身について聞く事はできなかった。
ただ、最初は綺麗なばかりだと思っていた男の横顔が、少しばかり憂鬱を含んでいるように思えて、マイクロトフは何故だかこのカミューと言う男の事が気になって堪らなくなっていた。
いったいこの不遜な男が何を抱え込んでいるのか―――依頼者の女性よりもそちらの方が気にかかるのが自分でも奇妙に思った。
そして一時間後、黒いクーペは閑静な住宅街に滑り込むようにして停車した。
* * * * *
到着の時刻を逆算でもしていたのか、目的のアパートの前に停まると一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。テイラー氏だった。
彼は気の毒なほどに青褪めた顔色をしていて、酷くやつれていた。しかし薬品会社の研究員と聞いて思い浮かべていた様子とはかなり違う、上背のある体格の良い男だった。
二人はそのテイラー氏に各々名乗ると、まずはと近くのレストランに入った。時刻は昼を随分と過ぎた頃で、店内では買い物帰りの女性たちが好き好きにお茶の時間を楽しんでいた。
そんな中に標準以上の体格に恵まれた男が三人。平日の昼間ではとても目立った。しかもそのうちの一人がモデル並みに容姿の整った男である。
「落ち着かないか?」
座った途端に隣からそう声を掛けられて、マイクロトフは無言で顔を顰めた。カミューはそれに軽く笑って前を向く。
「ところでテイラーさん。奥様は今は?」
「昼はずっと眠っています」
「なるほど、それでは手短に幾つかの確認をさせて下さい」
言うなりカミューはマイクロトフが一瞬言葉を失うほど、優しい微笑を浮かべてテイラーを見た。それに、テイラーは縋るように両手を組み合わせて「ああ…!」と低く叫んだ。
「助けて下さい! リサを、彼女をどうか助けて下さい神父様!」
「大丈夫ですよテイラーさん。神は全てをご存知です。きっとあなたの奥様を救って下さいます」
カミューは手を伸ばし、テイラーの肩を優しく叩いた。それから、まるで勇気付けるように「さあ顔を上げて」と語り掛ける。
マイクロトフは、その自分に対する態度とのあまりの違いに唖然と口を開いたままだった。
こいつはどういう性格をしているんだ。
まるで聖母の微笑みもかくや、と言わんばかりの見事な笑みにマイクロトフでさえうっかりと車内でのやり取りを忘れそうになった。
「それでテイラーさん、あなたに聞きたい事があるのですが、この二三日の事で構わないのですが、奥様はあなたに何か言ったりはしませんでしたか」
「はい、それはもう恐ろしい声で、口汚く罵りの言葉を」
「それは例えばどんなものでしたか」
「例えばだなんて、とても私の口からは言えないような……」
「そうですか。では、それらはあなたに対して向けられた罵りでしたか」
「ええ、そういうものもありました。その……淫売を買う男だと、言われました。でもそんなとんでもありません、私にはリサだけなのです!」
「分かっていますよ、落ち着いて」
興奮するテイラーに対しても、カミューの口調はあくまでも穏やかで優しげで、そして根気良く対応し続けている。
信じられん。
実のところ、マイクロトフはこの家族から話を聞くと言うのが苦手であった。
相手は大切な身内を悪霊に憑かれて心身ともに疲れ果てている。だから、そこへ現れた悪霊祓いの神父に対してそれこそ全力で縋り付いてくる。冷静に話をしようと思ってもこれがかなり難しい。
マイクロトフも担当地区の村の人々から様々な相談事をされて、それにいつも誠実に応えているが、それは教会の中での事だからとても落ち着いて話が出来る。これとそれとは違うのだ。
しかも聖書を読んで説教はできても、マイクロトフの本来の性格は口下手だった。昔から言葉を飲み込む癖があり、そのうえ頭に血が上りやすくてそうなると訳も分からず突っ走ってしまいがちになる。
とてもではないが、今のカミューのような対応など出来はしないのだ。
テンコウ司教が自分にカミューを宛がったのが、なんとなく理解できたマイクロトフであった。
そして、レストランでほぼ一時間ほど。しまいには嗚咽を漏らして切々と妻との色々を語り出したテイラーを相手にカミューとマイクロトフはそれでも聞き出したいことを何とか彼の口から引き出したのだった。
リサ・テイラーは実は三ヶ月ほど前から様子がおかしかったらしかった。
本来の彼女は少し大人しいところもあるが、根は明るくて気持ちの良い優しい女性で、テイラー氏はこんな素晴らしい女性と巡り合って恋に落ち、そして結婚を受け入れてもらえた事を幸福に感じていた。
だがそんな彼女が三ヶ月ほど前からひどく口数少なくなり、外出を嫌うようになって昼間でも遮光カーテンを引いて寝込むようになった。最初は体調でも崩して具合が悪くなったからだと思っていたテイラー氏だったが、それが二ヶ月以上も続いた頃に彼女の様子が一変したのだと言う。
夜中、突然飛び起きた彼女は、この世の全てを呪ってやると、まるで別人のような世にも恐ろしい低い声で呪詛の言葉を大声で喚き出したのである。
驚いて混乱しながらもテイラー氏はそれを宥めて何とか落ち着かせようとしたが、とんでもない怪力で振り払われて壁に強か頭を打ちつけて暫く動けなくなったほどだった。
しかしそれも明け方近くなると徐々に声の調子も弱くなり、窓の外が白み始める頃に彼女は眠りに落ち、青白い顔で夜が更けるまで眠り続けたのである。
そして再びの夜更け、彼女はまたも低い声で喚き出し、明け方までそれが続いた。テイラー氏はそれが三日続いた時に漸く彼女の実家に連絡を入れて、過去を知ったのだ。
だがテイラー氏がそれで妻となった女性を見捨てる事はなかった。
夜中喚いて暴れ続けてそれ以外は深い眠りについてしまう彼女のために医者を呼び、大人しい間に点滴を打ってやり、夜は夜で必死で彼女の話し相手になろうと務めた。そして最初の異変の夜から一週間の後、教会から一人のエクソシストが派遣されてきたのだ。
それからはマイクロトフたちも知っている。
テイラー氏のマイクロトフとカミューに向ける目には複雑なものがある。縋るようなものと、隠し切れない不安と。だがそれにカミューは優しい笑みで答えるのだ。
「大丈夫ですよ」
それこそ聖母のように慈愛溢れる眼差しと微笑みに、マイクロトフはカミューと言う男がますます分からないと思った。
車の中で、皮肉な笑みを見せた男は。
自分には信仰心を求めるな、と冷えた眼差しで吐き捨てた男は。
ところが惑乱のうちにアパートの階段を上るマイクロトフの耳に、再びあの投げ遣りで乱暴な声が聞こえた。
「おい。よもや忘れてはいないだろうがもう一度言っておく。決して俺の邪魔をするな。でなければ俺が窓からお前を叩き出すからな」
ぎょっとして振り向いたが、カミューは既にさっさと階段の上へと足早にのぼっていた。そして先に行っていたテイラー氏に落ち着いた表情で語りかけているのだ。
一瞬、幻聴かと思ったが、言われた言葉の内容が車内で釘を刺されたそれを、わざわざ念押ししたのだと気付いて眉を寄せる。
そうするとどうにも腹の奥が気持ち悪い。
言われなくとも、このカミューと言うエクソシストのお手並みをまずは拝見させてもらおうじゃないかと、マイクロトフは布に包まれた『ダンスニー』を掴む手に力を篭めた。
テイラー夫妻の住むアパートは、まったくもってごく一般的なそれだった。築十年程だろうか比較的新しい作りで、通りから大扉をくぐった先の階段は広い。おそらくは家族向けの間取りになっているのだろう。
明るい日差しが射し込む階段を上っていった三階に夫妻は住んでいる。だが一歩玄関の扉を開いて中に踏み入ると、驚くほど薄暗い。見渡せばあらゆる扉を閉めきり、窓も分厚いカーテンが引かれていた。
「驚かれたでしょう。妻が―――」
「ええ、分かっていますよ」
慣れたものなのかカミューは落ち着いた声で頷いて答えた。マイクロトフもまたこんな情景は良く目にしていたので大して慌てずに彼らの後をついていった。
中に入ればやはり家族向けの広い間取りが掴めた。真っ直ぐ廊下を進むとおそらく広いリビングに出るのだろう。しかし途中に水場のほかにも幾つかの部屋がある。きっと子供が生まれても良いようにとこのアパートに移り住んだのだろうと、マイクロトフは思った。
「妻は、奥の寝室です」
薄暗い室内に似合った押し殺した低い声でテイラー氏が告げる。カミューはそれにマイクロトフを振り返りもせずに、奥へと一人で進んでいく。
「おい」
待て、と慌てて後を追うマイクロトフだったが。扉の前でカミューが立ち止まり唐突に振り向いた。
「ところでマイクロトフ神父―――あなたは、どちらだ?」
「何?」
問い返したマイクロトフにカミューは目を細めて、眇めるような目つきでじっと見詰めてきた。そして。
「鈍くはなさそうだが。見えるのか、見えないのか、どちらだと聞いている」
「だから何がだ」
「悪霊だ」
まるで、それ以外に何があるとでも言うようなカミューの口調にマイクロトフは一瞬、虚をつかれた。その間が良くなかったのか、カミューは近くに居ないと聞こえないような小さな舌打ちを打った。
「なんだ、不感症か」
「な……っ!」
あまりの言葉に面食らったのも束の間、瞬いた次にはカミューの手がドアノブを回し、扉を押し開けていた。
* * * * *
寝室は他の部屋よりもずっと暗かった。まるで夜のようだとマイクロトフは感じつつ、カミューの後ろから室内の様子をぐるりと見回す。
ベッドは随分と奇妙な場所にあった。
壁から斜めに置かれて部屋の中央に、奇妙に迫り出しているのだ。そしてその上に女性が一人、まるで人形のようにひっそりと静かに眠っていた。
不意にカミューがぽつりと呟いた。
「……間違いないね」
「なにが、だ?」
「正真正銘の悪魔憑きに、間違いがないようだ」
「分かるのか」
「残念ながらね……。申し訳ありませんがテイラーさん。部屋を出ていただけますか。暫く我々だけにしてください」
カミューは唐突に振り返ると、家の主人であるテイラー氏にそんな要求を突きつけた。ただ、これはマイクロトフも馴染みの事である。
悪魔悪霊にとってエクソシストは憎むべき対象である。それと対峙した時、憑かれた対象者の変貌は実に恐ろしく、親しい身内には要らない恐怖感を植えつける事となるからだ。
それは前に来たエクソシストの時も同じだったのだろう。テイラー氏は何も言わずにただ縋るような眼差しだけを残して、部屋を出て行くと静かに扉を閉じた。
「さて」
すうっと息を吸い込みながらカミューが囁くような声を出す。それからおもむろに窓辺に向かうと遮光カーテンの布地に手をかけた。
「おいっ!」
止める間もなかった。
室内に眩しい陽の光が差し込む。それまで薄暗く湿った空気の篭っていた場所が、それだけでハッと目が覚めるような刺激に包まれた。
途端。
絶叫が迸った。
「止めんか!」
悪魔憑きに太陽の光はまずい。特にこうやって閉じこもっている相手には絶対にしてはならない行為だ。しかしカミューはカーテンの端を握り締めたまま、軽蔑するように笑った。
「何のために真昼間にやってきたと思っているんだ? 俺のやり方に口出しをするなと言っただろう」
「だが彼女が苦しんでいる!」
ベッドの上、先程まで死人のように静かに横たわっていたリサ・テイラーが陽光が射したただそれだけの事で悲鳴をあげてのた打ち回っている。
それなのにカミューはそんな彼女を一瞥しただけで再びマイクロトフを睨んだ。
「それがどうした。おまえがこれまでどんな祓い方をしてきたかは知らないが、これが俺の方法なんでね」
「こんな無茶なやり方があってたまるか! これでは彼女の身体に負担がかかるばかりではないか!!」
「長引けばな」
その言葉に、マイクロトフは息を詰めた。
元来―――悪霊祓いは時間がかかるものだ。根気強く、悪霊をその人間の身体から追い出していく、それはそれは気力と体力の要る持久戦である。だが。
言葉をなくすマイクロトフを横目に、カミューはくるりと背を向けると他の窓のカーテンも払い除けていく。その度ごとにベッドからこの世のものとも思えない悲鳴があがるのに、カミューは厳しい顔のままカーテンどころか窓さえも開け放った。
「俺のやり方はただひとつ」
室内に涼しげな風が吹き込んで、たまった重苦しい空気を払い流していく。そしてカミューは漸く、ベッドの上で狂犬病患者のように震えているリサ・テイラーに向き合った。
「美しいレディの身体から、一刻も早く連中を追い出すだけだ。さあ出てくるんだ、神に背きし忌むべき者よ」
「うがああああ!!」
唐突に女性の身体がベッドから跳ね起きる。しかしまるでそのタイミングを計っていたかのように、ベッドに向けて真っ直ぐに伸ばされたカミューの右腕の先―――その指が弾けて高い音をたてた、その次の瞬間、彼の右手に炎が生まれていた。
「なっ!!」
良く見ればその手には安物の紙でできたマッチが紙ケースごと握られていた。彼はどうやってか片手だけでそれを折り火をつけたらしい。
「……まどろっこしい真似は嫌いでね。出てこなければ今すぐ貴様は丸焼けだがどうする」
その挑戦的な声は紛れもなくベッドの上に起き上がった女性に向けられていた。だがその言葉の内容にマイクロトフの方が目を剥く。
「馬鹿な真似はよせ!」
「マイクロトフ、おまえには聞いていない、黙れ。俺は、レディを操っている『こいつ』に聞いているんだ」
「……こいつ?」
奇妙な言い回しだった。
だがカミューは苛々とした口調で、マッチの炎越しに女性を眇めるような眼つきで睨んだ。
「見たところ低俗な奴だ。醜くて汚い姿をしている……見ているだけで吐きたくなるが―――どうしてこんな低級が何ヶ月も…」
最後の呟きの意味は分からなかった。だがカミューの言葉にマイクロトフは信じられないと首を振った。
「おまえ、見えるのか」
するとカミューはマイクロトフを振り向きもせず、尊大に頷いた。
「生憎俺は不感症じゃないのでね」
見えるさ、と。
「馬鹿な」
「嘘は、言わない」
マイクロトフは悪魔の姿など見た事がない。また、見たという話も聞かない。いや―――。
「一度死んだ者だけは、見えると……」
無意識に呟いた、その自分の言葉にマイクロトフは再び驚愕した。
「まさかカミュー、おまえは…!」
「話しは後だ。あいつ、よほど太陽の光が嫌いらしい」
カミューが素早く言うなり、じりじりと消えかけていたマッチをまた新しく擦って炎を大きくした。
「しかもレディの裡は随分と居心地が良いようだな」
途端、部屋中の家具がぎしぎしと音をたて始めた。ポルターガイストだ。リサ・テイラーはその間もずっと苦しげに呻き声を上げ続けている。その彼女自身の横たわるベッドもまた激しく揺れていて、なるほどこれが妙な配置の原因かと納得できるほどの強い力だ。
「カミュー! どうするつもりなんだ!」
「黙って見ていろ」
言うなりカミューの右手が動いた。
「があああああ!!!!」
絶叫が迸ったかと思うと、リサ・テイラーが突然それまでの苦しみ方とは違う、もっと酷い悲鳴をあげてのた打ち回り始めた。
「おまえ、何を…っ!」
怒鳴りかけたマイクロトフの目が、有り得ないものを見る。
リサ・テイラーの身体から幻ではない煙が立ち昇り始めた。まるでその身を焼かれているかのように。
「レディは焼いちゃいない。焼いているのは悪魔のほうさ―――この浄化の炎でね」
そしてカミューはまた新たなマッチを折って炎を擦り熾す。
「そろそろ、観念して出てくる」
何が、とはもう聞けるようなマイクロトフではなかった。
「この炎に焼かれるのはさぞかし苦痛だろう。神に背いた者ならば尚更だ。さあ逃れたければ神に赦しを乞うが良い」
おかしい。
大した信仰心などないと言い放った男が、神の名を口にするのは不自然な光景のはずだ。それなのに今、悪魔を追い詰めるカミューの口調は真剣そのもので、生半可な迫力ではない。今のこの男を前にすればどんな悪人だって罪の意識に懺悔したくなるに違いなかった。
「神の名の下に俺はおまえを罰する力がある。それ以上、彼女の裡にしがみ付いていても苦しみが続くだけだ」
ところが、ずっと炎越しにリサ・テイラーに語り続けていたカミューの強い口調が、不意に和らいだ。
「苦しいのは屈辱だろう。何も俺はおまえを苦しめたいわけじゃない。レディを諦めたらそれで許してやるし、追うような真似はしない。神はそれほど暇じゃないさ」
なんという言い様だろうと、マイクロトフは呆気に取られた。
しかし驚愕は一瞬だった。マイクロトフは、カミューが今まさに悪魔に取引を持ち掛けていると理解した時点で、ずっと手に持っていたそれを覆う布を取り払った。
マイクロトフには悪魔の姿を目視する事はできない。そもそも、人間は悪魔の姿を見ることはできない。何故なら、見たその瞬間に魂を抜かれてしまうからだ。だから今でもカミューがまるで悪魔に対して話し掛けているように見える情景も、半信半疑だった。
それでも見逃せない事はある。悪魔や悪霊の類を人間程度が滅する力はない。ただ神の御名において追い払うしかできない。だがそれは取引でもって追い払うものでは決してない。もう二度と悪魔や悪霊が入り込む隙など与えないように、完全なる神への信仰の力によって追い払わねばならないのだ。
「カミュー、おまえのやり方はだいたい分かった。だが俺はそれを認めない」
「ならば出て行け」
カミューは全身から拒絶のオーラを醸し出している。そもそも最初からこの神父はマイクロトフを拒絶していた。口調も態度も視線も。きっと今も早く部屋から出て行けと心底思っているに違いない。
だがそうは行くか。
カミューにカミューのやり方があるように、マイクロトフにもやり方というものがある。今日ここに、自分は見物をするためだけに来たのではなかった。
「そうはいかん。俺は司教さまの信頼を受けてここに立っている」
テンコウ司教は、マイクロトフ一人では手に余ると言った。そしてもう一人を呼んだのだと。それがカミューだ。しかしそれは裏を返せば、カミュー一人でも手に余るという事ではないか。
しかしカミューはそうは思っていないらしい。
「責任感が強いのは結構な事だが、俺は最初に言った筈だ。それ以上まだ何かを言うつもりなら本気で窓から放り出す」
「―――できるものならやってみろ」
「なに…?」
マイクロトフは手にしていたそれが、震えるのを感じていた。
カミューは確かに悪魔の姿が見えて、こうして実際にやりとりまでしてみせて、それは確かにエクソシストとして優秀なのかもしれない。だがマイクロトフとて伊達に何年もこの役目を受けてきたわけではなかった。
「俺の予感は当たる。カミュー、気をつけろ」
「何を言って……」
「来る!!」
刹那、寝室の窓硝子が弾けるように砕け散った。
陽光に粉々に砕けた硝子がキラキラと舞う。そのさなか、マイクロトフは手にしていた鞘から抜き放った『それ』を構えた。瞳は真っ直ぐにベッドの上の女性を見据えて。
「なんだそれは」
カミューの驚いたような声が聞こえる。その視線はきっとマイクロトフが右手に持った長い諸刃の剣へと注がれているのだろう。
「ダンスニー。俺の、剣だ」
「見れば分かる。いったいどうしてそんなものを」
「言っただろう。これが俺の道具だ」
その時、マイクロトフは確かにその力を感じて、ふっと腹に力を込めた。
「カミュー、伏せろ!」
きっとその力が、前任者のエクソシストを窓から吹き飛ばした力なのだ。
ベッドの上のリサ・テイラーから噴き出した、負の感情のかたまり。それは放射状に広がって寝室中の全てを圧迫するように迫り出した。その力に押されて、マイクロトフの声に反射的に身を屈めていたカミューの身体が、それでも耐え切れずに壁へと吹き飛ばされる。
しかしマイクロトフは叩きつける圧迫感の中、迷いもなくその手のダンスニーでその禍々しい気のかたまりを両断するかの如く切り裂いたのである。
一瞬後、破裂するような音が寝室中を震わせて、ポルターガイストが収まった。
「……痛っ」
呻き声がしてちらりと目をやると、硝子の散った床の上でカミューが顔を顰めて身を起こすところだった。
「無事か」
「…なんとかね」
それでもふてぶてしい声が返って来て、マイクロトフは思わず苦笑する。
「怪我がないなら良い。少し休んでいろ。これからは俺の領分だと思うからな」
「マイクロトフ、今、おまえ何をしたんだ」
「ふむ。おまえの言い方を使うと、俺もそう不感症ではないと言う事だ。俺は悪霊は見えんが『力の流れ』が見える性質だ」
だから、とマイクロトフは剣を構えなおして背筋を伸ばした。
「こうした荒っぽい悪霊憑きは俺の専門だ」
覚えておけ、と。
言った視界の端で、出会って初めてぽかんとしたようなカミューの顔を見て、マイクロトフはこんな緊迫した状況だというのに、何故だか笑いたくなる衝動を感じていた。
* * * * *
マイクロトフの目は、幼い頃から不思議なものを見続けていた。物心のつく頃にそれがオーラと呼ばれるものだと聞かされたが、そういうものとは少し違う気もしていた。
オーラとは万物を取り巻く生命エネルギーらしい。だがそれにしては、マイクロトフの目に映るものは、とても稀で滅多に見ないものだった。
そしてある日、唐突に気付いた。
それが『力の流れ』なのだと。
良く見れば確かに流動的なそれは、まさしく流れだった。活火山の噴火口から流れる溶岩。激しく流れ落ち飛沫をあげる滝つぼ。地上に容赦なく落とされる稲妻。
これが不思議と写真やテレビを通すと見えないのだ。しかし現実にマイクロトフ自身の目で見た時、それらはオーロラにも似た美しい色の流動的な流れを纏いつかせて、自然の猛威をマイクロトフに知らしめる。
そして日常の暮らしの中においても、稀にその『力の流れ』は見えた。
最初にそれに気付いたのは、ストリートで歌う青年を見た時だった。自然の風景に見えるそれ程ではなかったが、確かにはっきりと青年の身体から、彼を取り巻く周囲のギャラリーに向かって暖かな色をしたそれが放出されていた。
その青年をテレビ画面に映った何か大きな賞の授賞式で見たのは、それから三年後の事である。やはりテレビのモニター越しには何も見えなかったが、きっと大きな舞台で歌う彼からは聴衆に向かって相変わらずあの素晴らしい暖かな色の流れが放出されているのだろうと思った。
他にも、美術館で見た絵画や彫刻にその『力』の名残が纏わりついていたのも見た。それは弱い力ながらも鑑賞していく人々に何らかの影響を与えていた。
つまりは、おそらく際立って優れたアーティストは、そんな『力』を放出できるのだろうと、マイクロトフは納得していたのだ。ところが、この日常にある『流れ』はそれだけではなかったのだ。
それは悪意の塊りだった。それまで見たこともないような暗い色をしたその力の流れは、まるで汚れて澱んだ川底に溜まる泥のようにわだかまり、近寄り難い気配を発していた。
しかもそれ自体が何らかの意思を持っているかのように、対面したマイクロトフを見つけ、ゆっくりと後を追ってきたのである。当時、まだ十一才だったマイクロトフにとってそれは悪夢の体現であり、下校の最中のこと、泣くのも忘れて混乱のまま逃げ惑った。
そして、とある教会に逃げ込んだのである。
大きく開いた協会の正面扉の向こう。
蝋燭の灯りだけに照らされた薄暗い教会の中と比べて、外の方が昼間の明るさに満ちていた。しかし、その昼日中のさなかでその悪意の塊りは教会の敷地内には決して入って来ようとはせず、その内に諦めたように去っていった。
そして、その教会で出会った神父の導きにより、マイクロトフは神学校への進路を決めたのである。
見定めれば『流れ』はその強さや性質や方向をマイクロトフに教える。そして、かつてあの悪意の塊りが教会に決して入ってこなかったように、それらを忌避するまた別の『力』があることも学んだ。
―――ダンスニー。
古い時代に作られた鉄剣だと教えられた。
手に持った感触はずっしりと重く、両刃の表面は鏡面のように濡れ輝いて触れるだけで切れそうな鋭さを持っている。古城の壁に掛けられていてもおかしくはない意匠の立派な剣だが、刃の潰されたそれらとは違い、ダンスニーは充分に殺傷能力のある正真正銘の武器だった。
だがこれは人を斬る為のものではなかった。
ダンスニーが生み出された理由はただひとつ。この剣は魔を祓うためにだけ打たれ鍛えられた一振りだったのである。
「その剣は」
抜き身の白刃にカミューが驚いたような声を出す。
マイクロトフは今しがた室内を埋め尽くしたその力を真っ二つに裂いた剣を緩やかに構えなおし、カミューをちらりと見る。
「死霊悪霊、魔物の力を祓い清める力がある」
その通りだった。
マイクロトフがそれらの悪しき力の流れを見極める目を持っていることを知ったテンコウが、鍛冶師のテッサイに命じて新たに鍛え直させマイクロトフに持たせた剣であった。
かつては、聖人と崇め尊敬された中世の騎士がこの剣の持ち主だったとも聞く。鉄の十字架を溶かして鍛えたとも言われるダンスニーは何度も何度も聖水で清められ、力の弱い悪霊は見ただけで恐れ戦き退散する。
これまでずっとマイクロトフはエクソシストの仕事をこのダンスニーと共に潜り抜けてきたのだ。それも、こうした乱暴な相手を中心に。
「俺にはポルターガイストの力の動きが気流のように見える」
それらは全て悪霊に憑かれた人物、その本人から発せられる力の流れが引き起こしている。今日のように強力な例は稀だが、それらの力の流れは見極めさえ出来ればダンスニーで断つ事が出来る。
前任者はこの力に押されて窓から落とされ重傷を負ったという。だからこそその力が見えるマイクロトフが後任に推されたのだろう。
「そしてそれをこの剣で断つ事が出来る。つまり、悪霊の力では俺を害する事は出来ない」
そうマイクロトフが断言した途端に、室内を騒がせていたポルターガイスト現象がピタリと止んだ。続いて不自然なほどにしんと静まり返る。
そこへカミューがぽつりと呟きを落とした。
「それは、便利だな」
思わずマイクロトフは気が抜けそうになる。
「……言いたい事がそれなのか」
「ん? ああ、不便だなんて言って悪かった。撤回する」
車内で言われた。そんな大きな物を毎回持ち歩いているのは不便だと、確かに言われた。しかし今問題にするのはそういう事だっただろうか。
何か違うような気がする。
そうだ。違う。これまでマイクロトフが出会ってきた人々と、カミューの反応はあまりにも。
「カミュー、おまえはまったく…! この剣の神聖な力を便利だの不便だなどと言ったのはおまえが初めてだぞ!」
不遜極まりない男である。半分呆れたようにそう言うと、カミューはだってね、と笑み混じりに答えた。
「俺は悪魔の姿が見えても、これまで便利なことなんてなかったからね。逆に不便な事だらけだよ。その点、おまえの力は良い」
そしてゆっくりとした足音がマイクロトフの方へと歩み寄ってきて、直ぐ近くにカミューの気配を感じた。
「教えてやろうマイクロトフ。ベッドのレディを見てごらん。彼女の左側に、とても醜い奴がいる。翼もない下等な悪魔さ―――だが悪魔は悪魔。悪霊より悪知恵も力もあって性質が悪い。そいつがね、今おまえの剣を見てガタガタと震えている」
カミューに指先がすうっと指差した方向に、マイクロトフは陰気な気の流れを見た。
カミューの目に、彼の言う悪魔がどんな姿として映っているのかは分からない。けれど。
「カミュー。俺からもおまえに教えてやろう。今までの経験から、俺の剣の力を見た悪霊や悪魔は、二通りの反応を示している。ひとつは勝機なしとみて退散する。そしてもうひとつは―――逆転を狙って全力で抗ってくるのだ」
そしてマイクロトフの経験が教える。
「今回のこいつは……残念ながら後者だ。カミュー、あんまり相手を煽ってくれるな!」
マイクロトフの目に、陰気な気が翳りを増して徐々に練り固まっていく流れが映る。いまやリサ・テイラーの身体の左側は、その翳りの濃さに後ろの壁が見え難くなっているほどだ。
しかし焦るマイクロトフとは裏腹にカミューは呑気だった。
「なるほど、確かに闇雲な感じだね。けれど、大丈夫だマイクロトフ。今ので俺に見えたものがある」
「なんだ!」
「下等な悪魔がどうしてこれほどまでに強い力を出せるのか、ずっと疑問だったんだ」
確かに、悪霊や悪魔は恐ろしい存在だが、この神が見守る地上においては彼らが人間以上に強くなれる筈はないのだ。どうしたって生きている人間の方が強い。そうでなければ、世の中は悪魔や悪霊に支配されている。
だから普通は前任者のように、たとえ強力なポルターガイスト現象に巻き込まれたとしても、それほどの大怪我を負う事はありえない。それはマイクロトフも引っ掛かっていた。
カミューはもしかしてその原因を知ったのだろうか。しかし、どうやって。
そう思った気持ちがそのまま表情に出ていたのだろう。思わず振り返ったマイクロトフに、意外なほど側近くに立っていたカミューがくすりと笑みを零した。それから、余裕の笑みで口角を吊り上げると意味深な目をして見詰め返してきた。
そして、言ったのだ。
「マイクロトフの脅しで、奴が一瞬怯んだろう。その時に、奴の取り憑いている本当の人間が分かった」
本当の?
一瞬、その意味が分からなかった。
するとカミューは不意にマイクロトフの肩に手を置いた。
「思い出せマイクロトフ。レディ・リサは八年前にも悪魔に憑かれている。その原因は当時、高校卒業を控えた時に付き合っていた男に振られたからだ、とされていた。だが別にあったんだな理由が。誰も知らなかったが―――奴がついさっき零したよ」
奴、とは悪魔の事だろう。そういえばさっきも悪魔に向かって取引めいた言葉を投げていたカミューだ。反対に向こうの言葉も聞き取れるのかもしれない。
「なんだそれは」
マイクロトフは聞きたくないような、聞きたいような、どちらともいえない曖昧な気分で先を促した。悪魔がいったい、何を言ったのだろう。だがそんなマイクロトフにカミューは爆弾を落とした。
「彼女は妊娠していたんだ」
「……おい待て、今おまえは高校卒業前だと言っただろう!」
「別にそんな事は珍しくないよ。それに、医者にかかる前に彼女は流産したらしい。だからきっと親も知らないんだろうな。だからあれから八年間、彼女は平穏に過ごしてきた」
言いながら、カミューは再び掌にマッチを握り締めていた。
「結婚し、幸せな新婚生活。だけどレディにとって思わぬ落とし穴があったんだ」
「……」
「また、妊娠したんだ」
「カミュー! それでは彼女は今……!」
「三ヶ月? 四ヶ月かな。もうそろそろ目立ってくるんじゃないかな。彼女にとって妊娠は恋人との破綻だ。恐ろしくて仕方がない現象だ」
「それが悪魔を呼び寄せたと言うのか! 馬鹿な!! 結婚して子供が出来るのは自然な事だろう。それを恐れるなど……!」
信じられないと首を振るマイクロトフに、しかしカミューは肩に置いた手に力を込めて、くっと喉を鳴らして笑った。
「そう? 子供が嫌いなレディは多いよ。結婚しても子供なんて要らない。セックスは好きだけど妊娠なんて絶対に嫌。そんなレディが世の中にどれだけいると思うんだ。まぁレディ・リサの場合はそんな女とは少し違うけれどね」
皮肉に言ってからカミューは眇めた瞳でリサ・テイラーを見遣った。気付けばその右手が、いつの間にかマッチを折っている。
「そんなわけでここには、俺とおまえと、レディ・リサと、それからもう一人、彼女の子供がいるんだよ。まだ生まれていない、祝福を受けていない無垢な生き物が」
生き物。
その言い方に眉をひそめたマイクロトフだったが、今はそんな事にいちいち目くじらを立てている時ではなかった。
「悪魔は、その胎児に取り憑いているのか!」
「まぁ正確に言うと、レディに憑いていながら、子供の力を掠め取っている状況だ。胎児には神への信仰心もない、祝福も受けていないから神の御手も流石に及ばない。胎児の状態とは言え立派な人間だ。その人間の底知れない生命エネルギーをあの悪魔はまんまと利用しているってわけだ」
マイクロトフは思わず唸った。
「……こんな事は初めてだ!」
「確かに、珍しいね」
「こんな状態では尚更、早く何とかしなければ母子共に危険ではないか!」
先程からリサ・テイラーは叫び声を上げたり、苦しさにのた打ち回ったり、妊婦がやっていいとは思えない激しい動きをしている。
ところがそれに対して、カミューはとんでもないことを言った。
「この際、子供は諦めてもらった方が良いかもね」
「なんだと!」
「そもそも、母親から望まれていないんだ。このまま生まれない方が幸せかもしれないだろう」
「そんな事は―――そんな事はない!」
マイクロトフは怒鳴っていた。
「どんな親であれ、子供が母親の胎内に宿ったからには生まれなくて良いなどと言う事は絶対にない!!」
「―――へえ、言い切るのか」
そう呟いたカミューの声は、驚くほど冷ややかだった。しかし熱くなったマイクロトフにとって、そんな事は些細な変化だった。
「どんな子供でも、きちんと誕生して生きる選択肢が与えられているのだ。どんな困難があろうと、子供は生まれて幸せになるために等しく神から希望を与えられている」
「神がね―――だけど神だって万能じゃない。こうやって悪魔をはびこらせているのがその証拠だろう? もしかしてそれも神がお与えになった試練だとか、おまえも言うのかい」
「馬鹿な。神が意図的に何かをするわけがない。そんなものは俗っぽい人間の思い込みだ。全ては、人間が弱く愛しい生き物だからだ」
「愛しい……」
「誰かを愛するが故に、人は過ちを犯す。怯え悲しみ憎み怒る。その気持ちは時に強く悪魔さえも呼び込むが、それでも人間はその悪魔を追い払い、立ち直る事が出来る。俺は何度もそうやって希望を抱いて新たに歩き始めた者たちを見てきたぞ。カミューは違うのか」
「……え?」
「おまえだってエクソシストとして様々な人々に出会ってきただろう。そうして悪霊を祓って、救われた者の顔を見てきたのではないか」
「………」
「確かにこの世は困難だらけだ。生まれてこなければ良かったと嘆く者も、いる。だが、そう言いながらも幸せを掴む者もいるのだ。俺はその手助けをする為にこうしてこの場にいる。人は弱いからな―――だから救いを求める。俺は神の僕としてその救いの声に応えるために、持てる力を使って全力で手助けをするのだ」
拳を握り固めてカミューを睨むように見詰めながら言ったマイクロトフに、目の前の男は何故だか不満げに顔を顰めさせた。
「……おまえは、それを本心で言っているのだとしたら、とんだ馬鹿だな」
「好きなように言え。俺は俺だ。俺の信じるように生きる。どこかに俺の手を欲する者があれば、駆けつけて貸してやる。だからなカミュー、俺の前で『生まれてこないほうが良い』などと馬鹿げた事は金輪際言ってくれるな」
するとカミューは不満げな顔から、今度は何かを堪えるような顔をした。マイクロトフはてっきりまた、馬鹿だとかなんだとか勢いのままに言い返されるのかと思ったが、違った。
カミューはどうしてだか、酷く悲しそうな顔をして、それから頷いたのだ。
「分かったよ……」
そんなカミューの小さな声が、しんとした室内にぽつりと落ちた。
* * * * *
今回に限ってどうして二人で組まされるのか、目の前の男の言葉に素直に頷いたこの時になってカミューは漸くその理由が理解できた。
自惚れるつもりはなくカミューは己の悪霊祓いの腕に自信を持っていた。そしてその特殊能力故に誰の助けも借りず常に独りで戦ってきたと言う自負もある。
今更誰と手を組めと言うのかと、最初は相手を完全に無視する気でいた。第一カミューの特殊能力を知れば大抵の司祭は怖れ嫌悪する。それならばはじめから嫌っていればいいと思っていた。
悪魔の姿が見える。
それがどれ程の意味を成すのか知らない司祭はいない。
生身の人間は悪魔の姿を見ると魂を抜かれてしまう。過去の事例に、交霊術を行っていた若者四名がいたが、その際に誰かが『テーブルの下に悪魔がいる』と言った。三名の若者はそれを信じず、或いは恐れて動かなかったが、一人の若者だけが無謀にもテーブルの下を覗き込んだ。その若者はそのままショック死し、他の三名も相次いで不幸な死に方をしているとされている。それだけ生身の人間にとって悪魔とは相容れぬ恐ろしい存在であった。
だがとある高名な魔術師が、一度死して冥界を彷徨ったと自らの本に綴ったという伝承がある。そこで彼は名高い悪魔と契約を交わし、息を吹き返して後にその悪魔を使役したという。
どちらの伝承も虚実を確かめる術はない。
第一に悪魔や天使の類は本来生身の人間には見えない次元に存在する、いわゆる高次元素霊である。仮に真横に悪魔が存在していたとしても、人間にはその姿を見ることは愚か触れる事も感じる事もできはしない。
その例外が魔方陣や合わせ鏡やといった場に限るのだ。それ以外にも自然界に偶発的に発生する場があり、運悪くその特殊な場に居合わせた生身の人間だけが悪魔の餌食となってしまうというわけだ。
そして一般的に『悪魔が憑く』というのは、その高次から常世への干渉によって起きる事象だった。交霊術をしていた若者の魂を奪った例はあまりに特殊だが、悪魔は意外なほどすんなりと人間の心に語り掛け操ろうとする。
ひとたび人間が心に抱えた闇を悪魔に付け入られたなら、普通に生きてきた者がそれから逃れるのは難しい。心からじわじわと身体を乗っ取られて最後には魂を奪われてしまう。
それを救うのが、エクソシストだ。
そのエクソシストにとって祓うべき対象の悪魔や悪霊が見えるという事は、悪魔に対してかなり立場が強くなるという事だ。つまりカミューは多くのエクソシストの中でも、極めて優位な立場で常に悪霊祓いを行ってきたというわけである。ほとんどのエクソシストが信仰心だけで悪霊祓いを行う現実にあって、それは非常に珍しい事ではあったのだが。
そんなカミューの前に現れたマイクロトフという男は最初にその顔を見た時、生真面目そうで融通の利かない典型的な信仰の奴隷に見えた。
カミューの信仰心は皆無と言っていい。神への希望も信頼もほぼ無いに等しい。何故ならカミューにとっての神は救いを求めても贖罪を求めても何の返答もしない相手だからだ。無心に信仰に縋る者の姿は、はっきり言って理解できない。
そして同業のエクソシストのほぼ大抵の連中が、純然とした信仰心だけで立ち向かう無謀行為を鼻白む気分で見知っていた。カミューのように特殊な力を持って立ち向かう者は別だが、やはり悪魔に対して造詣を深め、瞬時に相対する悪魔の系統を識別しその対処法を行使するには信仰心以外にもセンスが必要不可欠だ。
だがその抜群のセンスがあっても尚、生身で悪魔と向かい合うのは大変な危険と体力や精神力の浪費を余儀なくされる。酷い時は何ヶ月もかかって祓う例まであるのだ。
能力者が処理した方が遥かに効率的であるのは確かだったが、絶対数が少ないために仕方がない。しかしそれでも持てる武器が信仰心だけで立ち向かうには、悪魔は酷く厄介な相手だった。
そしてカミューは最初このマイクロトフという司祭が信仰心だけのエクソシストの方だと思ったのだ。
ところがひとつの車に同乗して間近にこの男の目を見た時、その印象が変わった。
黒い瞳。
だがそこにある強い光は。
意志を含んだ迷いの無い眼差しと、そこに秘められた不思議な引力にも似た奇妙な感覚。
真っ直ぐに心の奥底を見透かしてくるようなその眼差しにいつの間に毒されたか、カミューはそれまで誰にも語った事の無い自分の真実の過去を吐露しそうになって、驚いた。
そして悪魔と対峙してはじめて明かされた男の力。
『見る』のだと。そういえば司教のテンコウがそんなような事を言っていなかったか。いや、あれは確か『斬る』だったろうか。聞いた時は他人のことなど興味が無かったから聞き流していたが、確かに『斬る』には『見る』力が必要だと今更ながら思った。
古びた重々しい剣を構えた男の立ち姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように、形になっていた。そしてその眼差し、言葉、指の動きさえもカミューの目を惹き付けて止まない。
流石は祭司と言おうか、その声は朗々と響きカミューの胸の奥まで届かんばかりの威力で、見えざるものを見るらしい瞳は不思議な引力で持ってカミューを視透す。
別に自分と同じ特殊能力者だから見る目を変えたわけではなかった。どちらかと言えば逆で、あまりに自分と違ったから、目を引いた。
―――なんて、瑕のない男だろうか。
生まれてからこの方、悪意も傷も穢れも負った事がないのではないかと思わせる男だった。もちろんそんな人間が居る筈はなかったが、それでもそう信じさせてしまうような清廉さが男にはあった。
あまりに自分と隔たった場所に立つエクソシストだった。
同じエクソシストなのに。
短時間でもカミューにはマイクロトフが優秀なエクソシストであるのは分かる。おそらく実力は同等程度だろう。それだけに、自分とこの男とのあまりの差異に気付いた時、目が眩みそうになった。
この男の哀れみはどこまで施されるのだろう。
担当する区域の教会の中でか。それとも懺悔に訪れた全ての人間にか。それとも世界中の罪深き人類全てにか。
誰一人も自分自身でさえ赦せないカミューにしてみれば、マイクロトフと言う男は理解不能すぎる相手で、それなのに何故だろう―――手を、伸ばしたくなった。
その慈悲深い心に手を伸ばしたら、マイクロトフは自分の真っ黒に染まった手を見て弱くて愛しいと言って哀れんでくれるだろうか?
「好きなように言え。俺は俺だ。俺の信じるように生きる。どこかに俺の手を欲する者があれば、駆けつけて貸してやる。だからなカミュー、俺の前で『生まれてこないほうが良い』などと馬鹿げた事は金輪際言ってくれるな」
その瞳の強さでそう言うのなら、少しは信じてみようか。
カミューが、生まれてきて良かったなんて、言える日が来るかもしれないと、少しは希望を託してみようか。
これまでエクソシストとして人を救ってきたばかりの自分が救われる可能性を、探してみようか。
「分かったよ……」
信じる事は不得意で、希望を抱く事を知らず、可能性を見出す努力など考えた事はなかったけれど。
この男はカミューに欠けたものを、確かに持っているのだから。
おそらく今回の仕事は、これまでとまるで違った決着をカミューに見せるだろう。このマイクロトフと言う男の存在ゆえに。
もしかしたら教会はそんな変化を望んで、二人を組ませたのかもしれないと、マイクロトフの言葉に頷いた時にカミューは思った。
* * * * *
「それでこの強すぎるポルターガイストの原因が分かって、何か策はあるのか?」
カミューが頷いた事で納得できたのか、マイクロトフは驚くほどの切り替えの速さでそんな事を聞いてきた。たった今まで憤っていた筈なのに、そんな事もすっかり忘れたような顔をしている。
少々面食らいながらカミューは「ああ」と頷いた。
「力の源が分かれば、あとはそれを断てば良いだけだろう」
こうなれば益々マイクロトフの『斬る力』が都合良くなってくる。
「見えるかマイクロトフ。胎児から悪魔へと力が流れ込んでいるのが」
「ああ」
「おまえがその剣でそれを斬ってくれれば悪魔の力が一瞬でも弱る。そこを突けば後は簡単に祓えるだろうさ」
「ああ……」
こくりと頷いたマイクロトフは、だが、と躊躇ったように口篭る。カミューは振り返った。
「どうした」
「多分今のままでは斬れん。カミュー、悪魔と彼女と両方をほんの一瞬だけで良い、押さえられんか」
「は?」
「カミューに言われてみれば、確かにリサさんの体内から力が流れ出しているのだが、まるで守るようにして彼女の身体と邪悪な気がその流れを取り囲んでいるのだ」
「つまり……斬りやすいようにわたしに押さえつけていろと?」
「そうだ」
「あのね、それがどれだけ大変な事か分かって言っているのかい?」
悪魔だけなら良い。もしくはリサだけなら。だがその両方を押さえ込めとは。
悪魔憑きの人間は通常考えられないほどの怪力を振う事が多い。そんな彼女を押さえ込みながら、なおかつ悪魔に威圧をかけて動かないようにしなくてはならないとは、多大な体力と精神力があっても出来るかどうか。
しかしマイクロトフはいとも容易くカミューにそれをやれと言うのだ。
「カミューならできるだろう?」
「おまえね」
反論しようとした。だが振り返ったマイクロトフの目が、あまりにカミューを信頼するような目で見るから、それ以上何も言えなくなってしまった。
「一瞬で良い、頼む」
じっと、マイクロトフがカミューを見詰める。
それだけの事なのにカミューはどうしても『ノー』とは言えなかった。
「分かった。でも本当に一瞬だからな、三秒……いや一秒くらいしか押さえていられない」
ところが、眉根を寄せながら言い切ったカミューにマイクロトフは少しばかり目を瞠って、それから大輪が咲き綻ぶかの如くの屈託のない笑みを浮かべたのである。
そして剣を構えなおして大きく頷く。
「充分だ」
その姿に、不覚にも見惚れた。
見惚れたと自覚してすぐに我に返ったが、動揺は去ってはくれなかった。何故だろう、胸の奥が熱い。
「……一瞬、だからな」
「ああ分かっている。頼むぞ」
言うなりマイクロトフの気配が唐突に変わる。まるで清流の小川に揺ぎ無くある巌のように、その気配がしんと静まった。それが東洋に伝わる『居合い』の呼吸に似たものだと知ったのは随分と後になってからだ。だが今はその落ち着いた空気にカミューの心もまた凪のように穏やかになった。
助かった。
何がなんだか分からなくても、激しく胸を叩いていた動悸が治まったことだけは有難かった。落ち着いて悪魔を見遣る事が出来る。
カミューは手の中のマッチを握りなおした。
微かな硫黄の匂いがする。
残ったマッチは何本だったか、だがほんの数本あれば充分だ―――。
「主よ―――」
カミューは右手を前に差し出し、左手を胸に押し当てるとすっかり覚えきった聖書の節を諳んじ始めた。
「主よ、私たちをお救い下さい」
びくり、と悪魔と同時にリサも慄く。
聖書にはイエス・キリストが悪魔を退散させたと記されている。深い信仰心を持つ者には事実に近いその出来事を悪魔に突きつける事はすなわち悪魔の力を押さえ込む事となる。
そして右手の指先を擦り合わせた。
ぽうっと小さな明かりが点る。
弱いマッチの炎だ。
「―――は他の神々に従ってはならない。あなたの神エホバの怒りがあなたに向かって燃え、あなたを地の表から滅ぼし尽くすようにならないためである……」
悪魔祓いにおいて、悪魔自身との対話は絶対に行ってはならない禁忌とされている。何故ならそれは人間誰しもにとって危険このうえない行為といえるからだ。ミイラ取りがミイラになるという具合で誰の心にも入り込み取り憑くのが悪魔というものだった。
マイクロトフも認めないと言い切ったそれを、しかしカミューはやる。
「……さあ、エホバの炎に焼かれたくはないだろう」
マッチの炎が不意に勢いを増す。だがすぐに燃え尽きそうになるそれに、すかさずもう一本の指が動いて擦った音が響くと同時に新たな炎が生まれる。
「今、すぐに、レディを離せ。でなくば諸共に焼かれてしまうぞ」
それは、冥府の門をくぐる前からカミューに備わっていたもうひとつの特殊能力だった。
悪魔を視認できる力は後天的なものだ。
しかしこの炎を操る力は先天的な力で、だからこそ蘇生出来たとも言えた、それほどの力。
思うだけで炎が踊る。
「まずはおまえが掴んでいるレディの心臓」
コツ、と一歩踏み出しながら呟くとカミューの目に悪魔の手が炎に包まれる様が見えた。
「それからおまえが足かけているレディの肺」
コツコツと靴音を響かせるごとに炎が生まれ、筆舌に尽くし難い悪魔の悲鳴が響く。
「肋骨、背骨、胃、―――それから」
とうとうベッドの側まで歩み寄ったカミューは、恐ろしい眼差しで悪魔を睨みつけながら、己で起こした燃え盛る炎に向かってその右手を突き出した。
「……子宮!」
掴んだそれは、実際にはリサの喉だった。ぐうっと彼女の身体が仰け反り、呼吸する術を奪われて一瞬だけの硬直に陥る。そこで叫んだ。
「マイクロトフ!!」
呼ぶと同時に伏せられていたマイクロトフの黒い瞳が見開かれた。その刹那、突風が巻き起こったかと思うと、脇を走り抜けた何かがカミューの髪を数本はらりと落として、そして唐突に風は止んだ。
そして。
カミューがはっと目を見遣ったその先に、リサから切り離された悪魔が一匹炎にまかれてもがき苦しんでいた。
「カミュー! 彼女を!」
「分かった!」
喉から手を離し、途端に咳き込む身体を両手で抱え込みカミューはベッドからリサの身体を引き摺り落として悪魔から遠ざける。
そして入れ替わりにマイクロトフが大きく踏み出してベッドの上に飛び乗ると、悶え苦しむ悪魔にそのダンスニーと呼ばれた聖剣の鋭い切っ先の狙いを定める。
「父と子と聖霊の御名において―――」
低い声が室内に響き渡る。
「悪魔よ、去れ!!」
ダンスニーが悪魔の身体を貫いた、と同時に爆発的な風圧がそこから生まれ、室内に絹を引き裂くような絶叫が満ちた。だがそれは一瞬で消え去り、爆風もまたぱたりと消滅する。
そして後には風になぎ倒された室内の小物と、剣先が貫いたシーツとマットだけが残っていた。
悪魔の姿は、もう何処にもなかった。
気を失ってぐったりとしたリサの身体を、引き摺り落とした時の乱暴さを詫びるようにカミューは慎重な手つきでベッドへと戻した。
もう彼女の顔相には悪魔憑きの名残は欠片もない。少しばかり疲労が見られるが、後は回復していくだけだろう。その額にかかった髪を掻き分けてやると、後ろからマイクロトフの溜息が聞こえた。
振り返ればマイクロトフはダンスニーを鞘に収めたところだった。その姿にカミューは僅かな苦笑を浮かべた。
「悪かったよ」
「何がだ」
きょとんと顔を上げたマイクロトフは、カミューの言葉にぱちりと目を瞬かせる。その純真な挙動が何故だか後ろめたさを感じさせて、つい目を逸らしてしまう。
「おまえを役立たず扱いした事だよ。悪かった。今回はおまえがいなければこんなスムーズに解決はしなかっただろうね」
そしてちらりともう一度見やると、マイクロトフはまるで意外だといわんばかりの目をしてカミューを見ていた。すると案の定。
「意外だな」
「何がだい」
「カミューがそんなに素直だと、意外だ」
本当に意外そうに言うものだから思わず笑みが零れた。
「明らかに非があれば当然謝るさ。そこまで捻くれてもいないよ」
「そうか……」
頷き俯いたマイクロトフだったが、それでもまだ何か言いたいことが残っているような顔をしている。カミューは立ち上がり身体ごとそんな彼に向き直って首を傾げた。
「なんだ」
言ってみろと促すと、マイクロトフは困ったような目をしてカミューを見た。そして言った。
「聖書の言葉を……言ったな」
言った。
確かに、悪魔の動きを封じる時に言った。だがそれが何だと言うのだろうか、悪魔祓いの方法としてこれ以上なく正しいではないか。
だがマイクロトフは眉根を寄せて困惑したように言った。
「信仰心を求めるなと俺に言ったおまえが、どうして聖書の言葉を使って悪魔を祓う?」
「いけないかな。だって聖書の言葉は何よりも悪魔に効くじゃないか」
「だが信仰心のない者が唱えても、あれは―――」
なるほど。
言い淀んだマイクロトフにカミューは彼が何を言いたいのかが漸く理解できた。
「ああ、そうか。マイクロトフは俺に信仰心がないと思ったんだな」
「………」
沈黙は肯定だった。カミューはしょうがないなと笑う。
「誤解だマイクロトフ。俺は、信仰心はある。神も信じている―――いや信じたいから、だからこんな事をやっている」
「こんな事?」
「エクソシスト」
他に何がある? とカミューは軽く首を竦めた。それからマイクロトフを見詰めながらゆっくりとその唇を笑みの形に歪めていく。
「いいかい、マイクロトフ」
これは過去、自分を相手に何度となく確認した事だ。
「神がいるのなら、悪魔もいるんだよ」
マイクロトフの唇が「え?」と言った。良く分からなかったようだ。当然だろうとカミューは思った。こんな事を考えてエクソシストになる司祭などそうは居ないはずだ。
「逆転の発想でいけば、悪魔がいれば、それは神がいるということだ」
「カミュー?」
「聖書の言葉によって悪魔を祓う事ができるのなら、そこには確かに神の力がある―――神の姿をそこに垣間見る事ができる」
「おまえは……」
マイクロトフの慄いた顔が見える。けれど、これだけはもうどうしようもない。冥府を覗いたがためのこれは因業なのか、それすらもカミューには分からないが、一度全てに絶望をしたが故に求めずにはいられない飢餓感が、そこにはあるのだ。
カミューは笑ったまま、呟いた。
「神の存在証明。それが俺がエクソシストである理由であり、信仰の支えだ」
カミューは体裁のために首にかけているロザリオを握り込んだ。
「俺の信仰心で悪魔を祓い続ける事が出来る限り、俺は少なくともこの世に対する絶望からは逃れていられる」
救いがあるのだと、そのたった一筋の光明を感じていられるのだ。
ともすれば容易く絶望に陥りやすいこの世界の中で、醜悪で禍々しい悪魔の存在だけが、カミューに安心と生きる術を教えてくれるのだ。
それは哀しいほどにカミューにとっての真実だった。
* * * * *
神の存在証明。
過去、名のある哲学者や科学者がこぞって挑戦したその難題。
だが今だかつてそれを物理的に証明した者はいない。それを求める事は、信仰を持つ人類にとっての永遠に解明される事のない果て無き探求の旅路である。
「カミュー、おまえは……」
マイクロトフが戸惑ったような声を出す。カミューも苦笑を浮かべて俯いた。
「まぁその程度の信仰心はある、ということで理解してくれるかい。生まれつき疑り深くてね」
ともすれば大昔なら宗教裁判にかけられてカミュー自身が悪魔だと罵られそうな告白である。何故そんなことをマイクロトフにわざわざ教えたのか、カミューはその理由が自分でも分からなかった。ただ言ってしまってから、それでこの自分を見る漆黒の瞳が曇るのかと思うと少しだけ後悔の気持ちが沸いた。
だが口に出した言葉は取り戻しがきかないものだ。カミューは苦笑して首をすくめた。
「教区持ちのおまえにとっては俺のような考えを持つ者は不快だろうが見過ごしてくれ。信仰心が全くないでもなし、少なからず悪霊を祓うだけのものは持ち合わせているんだしね」
それで勘弁してくれとカミューは殊更軽い口調で懇願した。ところがてっきりそれでも許さんとでも怒るかと思ったマイクロトフは、予想と違った表情でそこに立っていた。
「そうではないだろう」
あえて言葉にするなら、それは不満げな表情だった。
「そうではないカミュー。俺がおまえを不快に思うなど有り得ない」
何故かどきりとした。しかしそんな事はおくびにも出さずにカミューは黙ってマイクロトフの言葉を聞いた。
「おまえは自分でそう言うがきっと誰よりも神を信じているんだ。もしかしたら俺よりも……。だから苦しいんだ」
言い切ったマイクロトフに漸くふっと息を吐く事が出来たカミューは緩やかに首を振る。
「……何を言っているんだ。俺が、苦しい?」
「自覚がないのか」
マイクロトフは驚きを隠しもせずにそんなことを言った。それが妙に癪に障った。
「馬鹿なことを。俺の信仰心が浅いのは充分自覚しているさ」
「だからそうではない。ああ、もう、どういえば分かるんだおまえは!」
マイクロトフは突然大声を出して己の頭を掻き毟った。
「くそ! 上手い言葉が見つからんではないか!!」
「……司祭のくせに?」
「うるさい! 説教ではないのだから仕方がないだろう!」
「なんだ。意外と口下手かおまえ」
「くっ…!」
マイクロトフは言葉を詰まらせ、それから見る間に白い肌を屈辱に赤く染めた。適当に突っ込んだだけだったが図星だったらしい。その様がカミューの心の琴線に触れた途端、思わず吹き出していた。
「あっはっはっは! 口下手な司祭だなんて……くっくっく」
「笑うな! こら!」
顔を真っ赤にしたマイクロトフが怒鳴っているが、不思議な事にちっとも笑いの衝動が止まない。そんな大した事でもない筈なのに、それなのにこんなに笑ったなんてどれくらいぶりだろうかと思考の隅で考えながらカミューは腹を抱えてとにかく笑った。
「カミュー!」
ところがマイクロトフが更に怒鳴り声をあげた時だった。控えめなノックの音に続いて扉の向こうから「あ、あのう!」と大きな声がかかった。
そこでカミューは笑いの発作を押さえつけてハタと我に返る。そういえば仕事の途中だったのではなかったか。そうして見渡せば室内は割れた硝子が飛び散って散々な状況である。
どうやらマイクロトフもその事実に気付いたのか大慌てで扉に歩み寄ってそれを開いた。すると案の定そこには不安げな表情のテイラー氏が立っている。
「神父様、リサは……彼女はどうなって―――」
「ああ、もう大丈夫だ」
何処か引き攣ったようなマイクロトフの態度だったが、テイラー氏はそれに気付いた風もなく言葉の額面だけを受け取って表情を一変させた。
「ああリサ!」
マイクロトフの傍らをすり抜けてテイラー氏はベッドに駆け寄ると彼女の手を取り握り締めた。その様子からして室内の惨状など目に入っていないようだ。
その後ろではマイクロトフが口元を拳で隠して必死で戸惑いを抑え込もうと頑張っている。どうやらマイクロトフもついさっきまでの悪魔との闘いをすっかり失念していたようだった。そしてそんな自分に驚いているらしい。
カミューだって充分に驚いている。仕事の直後に馬鹿笑いしたなんて始めての事だ。しかも依頼者を傍にしてすっかりその存在を忘れていた。
だがその依頼者が目覚めた気配に、緩みかけていた意識がふと引き締まる。視線を向ければベッドの上でリサが小さく唸っていた。
「リサ? 大丈夫かいリサ!」
「んん……あなた…?」
夫の呼び掛けに応えた声は掠れて弱々しくはあったが、優しい女性特有の声音だった。そこには悪魔に憑かれた時の恐ろしい悲鳴の名残は微塵もなかった。
そんな妻の姿に感激してかテイラー氏はその頬を撫でこめかみを包み、涙に瞳を潤ませてキスを贈っている。その様子を見守るマイクロトフの目は安堵に安らいでいた。
「有難うございます神父様。神父様がたのおかげです」
「いや、全ては神のお力だ」
「でもまだ、終わったわけじゃない」
妻の手を握り締めて感謝の言葉を告げるテイラー氏とそれに謙虚に返すマイクロトフだったが、カミューは引き締めた気持ちのまま一人冷めた声を挟む。
「カミュー?」
不思議そうなマイクロトフの声を聞き流して、カミューは厳しい面持ちのままベッドの上のリサを見下ろす。
「奥さん、意識は確りしていますか。吐き気は?」
質問にリサは躊躇いがちに首を振った。おそらくまだ意識が戻ったばかりで感覚が鈍いのだろう。だがきっとこの後の揺り返しに少なからず苦しむに違いなかった。
だがカミューはリサを安心させるように微笑むと、テイラー氏の反対側に回って静かに膝をついた。
言わなければいけない事がある。
「さぞ不安だったでしょう」
リサの呆然とした瞳の奥に見え隠れしているものは失意。その更に奥には後悔と懺悔が確かにあった。カミューはそんな彼女にことさら優しい声をかけた。
もう二度と、彼女が悪魔の餌食にならないように願って。
「でも、大丈夫ですよリサさん……あなたの可愛い赤ちゃんは、ちゃんと天国に召されている」
―――可愛い赤ちゃん。
それは今彼女の胎内に宿っているこどもを指してではなかった。
そう。八年前のこどもだ。
マイクロトフとテイラー氏が揃って息を呑む気配がしたが、唯一リサの瞳だけはカミューの言葉の意味をゆっくりと理解しているのか、ゆるゆると見開かれていく。
「……私の、赤ちゃん…」
「心配しなくても良い。八年前、あなたのお子さんは確かに神の御許に召されていますよ。そうでなければ、神は二人目のお子さんをあなた方にお与えになるわけがない」
リサの目に、涙が浮かんだ。
「ほんと……に…?」
「ええ。だから安心して八年前のように愛せば良いんです」
カミューの言葉に、リサが笑みを浮かべた。
その笑みを見て、カミューの中で推測が確信に変わった。
彼女は妊娠を怖れて悪魔に憑かれたわけではなかったのだ。彼女はただ、胎内に宿った子の行く末を哀しんで、そしてその深い悲しみを悪魔に突かれただけだったのだ。
今回も八年前のように生まれる前に流れてしまうのではないかと流産の危険に怯えてしまっていただけなのだ。一度体験した事だけに、繰り返す悲劇を恐れていた。そして産めずに愛してやれなかった後悔が蘇って悪魔を呼び寄せた。
自分に果たして子供を産む資格が神に与えられているのか。この手で慈しみ育てる未来がきちんと用意されているのか。
子供を厭うてではなく、愛しいからこその悩みだった。
―――愛しい。
そんな感情を、カミューは考えた事もなかった。
大抵の人間なら産まれる前に母親から無条件に与えられるはずのそんな感情を。
だがその事に思い至った時、自然に胸に落ちた。
なるほど、そうだったのかと。
ならそれをリサに伝えておくべきだと判断したのだ。そうすることでもう本当に二度と彼女は悪魔を呼び寄せる事がなくなるだろうからと。
思ったとおり、彼女の浮かべた笑顔はとても綺麗で、カミューは「お大事に」と一言告げて立ち上がった。
「さて、これで本当にお終いだ」
破れた窓の外はまだ日暮れてもいない。
通常なら何時間とかかる悪霊祓いをこんな短時間で終わらせたのは初めてだった。だが妊婦であるリサにとってはそれが何よりだった。
司教のテンコウが何処まで知っていたかは分からないが、やはりマイクロトフと組んだ事がプラスに働いたのはもう疑いようがなかった。
「マイクロトフ、帰るぞ」
もうエクソシストとしての自分たちの仕事は終わった。今後の成り行きがどうなるかは、もうこの夫婦の前向きな努力次第で、特殊な舞台の出演者であるカミューたちは一刻も早く退散するべき存在だった。
カミューはそう考えてこれまで現場に長居した事はない。おそらくマイクロトフも同じだろう。事実、夫のテイラー氏が二人を引き止めるような素振りを見せたが、それに気付かぬふりでマイクロトフは剣を包んでいた広い布を床から拾い上げていた。
カミューも床に散ったガラスの間に落ちたマッチの燃え滓を拾って帰ろうかと思ったが、指先が破片で傷付きそうなのでやめておいた。
「室内を散らかしてしまって申し訳ないが、その分を寄付金から差し引いて頂ければそれで構わないので宜しく頼みます」
にこりと微笑んでカミューはゆっくりとした足取りで破片を踏み分けながらマイクロトフの横を通り過ぎる。
「………出よう」
「ああ」
カミューを追うように振り返ったマイクロトフの足音を聞きながら、カミューは若い夫婦の住まいを早々に後にした。
表に停めてあった車に乗り込むと、途端に大きな溜息が漏れた。そして間を置かずに助手席側の扉が開いてマイクロトフが乗り込んでくる。だがカミューはすぐにはエンジンをかけなかった。
シートに深く凭れて目を閉じる。
だがどうやら沈黙に耐え切れなかったらしい男が、わざとらしく咳払いをしたものだから、渋々と片目を開けた。
「何か言いたい事でも?」
もしや今日の反省点など述べるつもりだろうか。それも有り得ない話じゃないと思わせる男だ。しかしマイクロトフはカミューの予想外のことを口にした。
「カミューみたいな奴は、初めてだ」
「ああ、そう」
まぁ確かに悪魔を見るなんて芸当が出来る人間はそうそういないだろう。
「俺も、俺みたいな奴が他にいるとも思えないね」
「そうだとも。こんな裏表のある奴は他に知らんぞ」
「………」
いつの間にか助手席のマイクロトフは握り拳を固めて力説している。
「テンコウ司教様やテイラーさんには人当たりのいい振りをするくせに、俺には最初から傍若無人に振舞って好きな事を言ってくれて」
「……ええと、そっち?」
「何がだ」
「いや、なんでもないよ」
思わず笑みが零れた。
ハンドルに手を置いて肩を震わせてしまう。なんて愉快なんだろう。
カミューはそのままキーを取り出してエンジンをかけた。
こんな気分で帰途に着くのは初めてだ。
それがまた、悪くない気分だから参った。
「邪魔するなとか窓から放り出すとか散々な事を言ったし」
車がスムーズに走り出してもマイクロトフはまだ握り拳を固めたままだ。カミューは笑いながらそれらを聞き流していた。ところが。
「だが、それでもひとつだけ分かった事がある」
「なんだい」
カミューは笑みを浮かべながら、軽い調子で聞き返しただけだったのだが、返ってきた答えに思わず噴いた。
「カミューが意外に優しくて良い奴だと言う事だ」
「な、何言って……」
咳き込みながら横目に覗い見たマイクロトフの横顔は、穏やかな微笑に彩られていた。
「最後にリサさんに微笑みかけたおまえの笑顔に、偽りはなかった。俺はそれを見てなにやらとても嬉しくなってしまったぞ」
そして本当に嬉しげに笑うものだから、カミューは真っ直ぐ続く路面に視線を戻しながら、不可思議な感情が胸の奥に住み着くのを認めざるを得なかった。
「降参だよ、まったく」
内心で白旗を盛大に振ってみせるが、マイクロトフは何の事だと首を傾げている。カミューは、まあ良いさと肩を竦めた。
きっと今回だけでは終わらないはずだ。
今日の事でカミューとマイクロトフが組んだ成果は評価されるだろう。ならばまた次回があるに決まっている。
さしずめ今日の別れの言葉は決まった。
カミューは帰路を見据えてその時のマイクロトフの応えを想像してみた。きっとこの男は何の含みもなく自然にこう返すに違いない。
―――ああ、またな。
その時の事を思ってカミューはにんまりと笑った。
end
2005/04/13-2005/07/08
web拍手の小ネタ
二人で組んで仕事を幾つかこなした後の出来事
「突然尋ねて来るとはどうした了見だ」
「なに、普段のマイクロトフを見てみたくなっただけさ」
「こんな夜更けにか。仕方がないから泊めてやるが」
「実はお腹も減っているんだけど」
「……良いだろう夕飯に招待しよう」
「さすがお優しいマイクロトフ神父様、村人に慕われるわけだ」
「余計な世辞は無用だ、早く入れ、さあ」
「本当に誰にでも優しい……誰にでも」