秋の憂い
初秋の頃、徐々に日暮れが早くなり気付けばもう辺りが薄闇になって、人々はその変化に時折ついて行けずに惑う。
「なんだよ…もう真っ暗じゃねえか」
横に並んで歩いていたビクトールが不意に覗いた窓の外を見てそんな風にぼやく。
「そのようですね。最近は日が落ちると少し肌寒い」
頷いてカミューは白い手袋を嵌めた両手を擦り合わせた。
「確かにな。おめえらのその格好が、いつのまにか暑っ苦しく感じねえんだもんなぁ」
まるで悪気の感じられない文句にカミューもつい苦笑を誘われる。
「これでも着心地は良いんですが」
「ああ、気にすんなよ。で、どうだ?」
突然真面目な声音をしてビクトールが片眉を上げた。それを横目で見てカミューが軽く瞠目して首を左右に振って見せた。
「相変わらずですよ。昨日と変わりありません」
「ほう…おめえらにしちゃ、随分と長引くじゃねえか? なんだ、もしかして何か腹積もりでもあんのか」
「さあ、どうでしょうか」
にっこり笑ってカミューは頷いた。その口の端が薄く持ち上がり、琥珀の瞳が遠くを見つめて眇められる。
「わたしはただ黙って向こうの出方を待つしかありませんからね」
「…つくづく、おめえの愛想ってのは信用できねえな」
カミューの油断のならない笑顔にビクトールは肩をそびやかして苦笑いを浮かべた。
そして場所を移してレオナの酒場である。夕方頃からの慣れない冷え込みのためか、ここ数日盛況である。そんな中、いつもの傭兵たちの指定席にカミューも誘われ加わっていた。
「つまり、カミューの方には心当たりがないんだろう?」
「ええ」
先に酒場に来ていたフリックが、やはり「どうなっているんだ?」とカミューに切り出し、どうやらこの日の話題はそれに絞られてしまったようだ。微かに参ったなと呟いてカミューはそれでも愛想良く頷き返した。
「あれがわたしをあれほど完全無視する理由となると、すぐに分かりそうなものなのですが。それでもマイクロトフの事ですから何が引き金になるか、こればかりは流石に見当がつかない」
「マイクロトフもなぁ……なぁに考えてんだか」
「…まったくです」
ビクトールが卓上に突っ伏してだらしなくしながら呟いた声に、カミューは顎に指をかけて頷く。
ここ数日、マイクロトフがカミューを見事に避けているのだ。それは傍目にも分かるほどあからさまな行動であり、カミューが首を傾げる前にお節介な同盟軍の面々が声をかけてきたのだ。おかげで毎日のようにカミューは状況を説明する羽目に陥っていた。もっとも、説明するほど事態は進展も変化も見せないので、毎度「相変わらずだ」と肩を竦めてそれで終わるのだが。
それでも、馴染み深い傭兵とはこうして立ち入った話もする。決して何もかも打ち明ける事はしないが、こんな風に首を傾げてぼやく程度はしているのだった。
「何かに怒っているわけでも無さそうですが……ああ見えてマイクロトフは一度何かを決めると頑固ですからね。誰にも何も悟らせないと決めればわたしにもその胸の内を窺い知る事は出来ません」
「そんなもんか」
結構単純で分かりやすそうに見えっけどなぁ、とビクトールが身を起こして今度は天井を見上げて呟く。それをちらりと見やってからフリックが「うーん」と唸った。
「それにしたって、何だってカミューを避けなきゃならないんだよ。喧嘩したわけじゃないんだろ?」
「ええ」
「ともかくだなぁ、このままじゃ俺たちも気になってしょうがねえし、他の奴らだっておんなじだ。何より騎士連中だって不安だろ。さっきは意地の悪そうな事を言ってたが、ここら辺りでマイクロトフの方に何があったか聞いてこねえか」
がばりと卓上に肘をついて前かがみになり、睨むように言うビクトールに、カミューは目を軽く見開いてそのしなやかな指先で自分の胸を押さえた。
「わたしがですか?」
「他に誰がいんだ」
「構いませんが、当のマイクロトフに避けられているのはこのわたしですよ?」
なかなか捕まってくれないんです、としれっとして言う。そんなカミューにビクトールは大袈裟にため息を吐いてみせた。
「そんなもん。おめえが本気になりゃ直ぐとっ捕まるだろうがよ」
手え抜いてやがる癖に何を、と早口に吐き捨ててビクトールは「けっ」と杯に残っていた酒を飲み干した。
「おいレオナ、お代わりだ! ほら、おめえはとっとと行きやがれ!」
犬でも追い払うかのような仕草でビクトールはカミューを急き立てる。それに苦笑しながらも青年は大人しく立ち上がると、やれやれと言わんばかりのやる気の無さそうな歩調で酒場を出ていった。
そしてそれを見送ってから、その追い立てたような真似にフリックがやや咎めるような声を出した。
「おいビクトール」
だがそれにビクトールは手を振って応えた。
「良いんだよ。どうせ俺に言われなくても奴ぁ直ぐに行動をおこしてたさ」
「…そうか?」
「あぁ、見ろっつぅんだ。カミューの奴ほとんど飲んでやがらねぇ」
そうしてビクトールが指差した先には、カミューが残していった杯がある。それにはまだ半分ほど酒が残っていた。
「どうせそろそろ余裕がなくなってきてんだろ。なんせずっとマイクロトフと口きいてねえらしいからな」
そこでフリックは指折り数えて眉根を寄せた。
「もうそんなに経つか?」
「ああ……ったく、どっちも頑固でしょうがねえな」
結局、誰よりもお節介なビクトールであった。
さて、マイクロトフを捕まえようと思えば、実はその部屋で待ち伏せをすれば事は簡単だった。ただカミューにとって待つと言う行為に気が進まなかっただけなのだ。本来なら合鍵も持っているのだし中に入って暇を潰す事など造作もない。
だがてっきり留守かと思ってドアノブに手をかけると、それはなんの抵抗もなくカチャリと音を立てて回った。慌てて一方の手で扉をノックすると、中から人の動く気配がした。
「誰だ?」
低い声と共に響いたこの軋むような音からすると、どうやらマイクロトフはベッドに寝転がっていたらしい。
「わたしだ。入るぞ」
有無を言わさず扉を開ける。ここでいちいち許可を取っていたらたちまち入ってくれるなと待ったが入りそうに思えたからであり、そしてそれは正しかった。
半身を部屋の中に置いたカミューに、マイクロトフの遅い制止がかかる。
「まっ…! かっカミュー!!」
その刹那、カミューはつい顔をしかめた。
―――いったい何日振りに名を呼ばれたのかな。
そしてそんな事をつい考えてしまった自身に苦笑をもらして軽く吐息をつくと、構わず部屋の中に入り込んで扉を閉めた。顔を上げるとマイクロトフはベッドから今まさに立ち上がったところらしく、中途半端な態勢で彫像のように固まっている。
「何を待てと? あぁ、勝手に部屋に入ってすまないな。マイクロトフ」
面と向かって名を呼ぶのも何日振りのことか。
カミューは軽く頭を振ると、そんな雑念を追い払う。そしてにっこりと常の笑みを浮かべるとマイクロトフと視線を絡めた。
「だが、わたしが何の用で来たか分からないおまえでは無いな?」
「……あぁ」
存外にすんなりと素直な肯定が返ってきた事に、カミューは軽く眉を持ち上げた。だがマイクロトフからは相変わらず頑なな空気が漂ってきており、簡単に事は済みそうに無いと思わせる。
「説明してもらおうか」
カミューはわざと尊大に腕まで組んで見せてそう言い放った。するとマイクロトフはまるで少年のように俯き黙り込んで、返事も返さない。
「マイクロトフ」
息を吐き出して組んでいた腕を解くと、静かに歩を進めるて固まったまま動かないマイクロトフにそっと手を伸ばす。
「何を抱え込んでいる?」
その頬に手を触れさせて、覗き込むように語り掛けた。すると微かにマイクロトフの頬に朱が上り、その口が喘ぐように戦慄いた。
「俺は……俺は…おまえに酷い事をしている」
「―――そうだな。ここ数日、わたしは少なからず落ち込まされた」
「あ…あぁ、すまん。だがそう言う事ではないんだ。俺が言うのはもっと別の事だ」
深刻な表情でそう告げる男に、カミューは眉をひそめて首を傾げた。
「わたしはこれまで、おまえに酷い目に合わされたと思った事は一度も無いが」
するとマイクロトフは意外なほど穏やかで優しい笑みを浮かべた。そして頬に触れていたカミューの手をやんわりと押しのけて一歩離れた。
「カミュー、おまえは好い男だな」
「…え?」
唐突な誉め言葉についカミューは言葉を無くして瞬く。
「俺の人生で、おまえと出会えた事が何よりの僥倖だろう。それを感謝しこそすれ恨むなど筋違いだ」
「恨む……?」
その不穏な響きを直ぐには理解できず、カミューはただ繰り返した。
「あぁ、そうだ。俺はおまえとの出会いを時に恨む。―――何故だろうな」
何故、と問おうとした先手を取られて、カミューはただ呆然とマイクロトフを見るしかなかった。
「マイクロトフ、何を―――」
嫌な気配がそろそろとマイクロトフから漂ってくる。そしてつま先から冷えて行く感触に、カミューの声が震えた。だがそれに気付く様子もなく、尚もマイクロトフは言葉を続けた。
「俺が僥倖と思うその逆に、おまえにとって俺との出会いは不幸ではないかと思う。俺に出会わなければ……おまえほどの男が………」
マイクロトフの声が遠く聞こえた。
出会わなければ、などとそんな仮定は考えたくも無い。ぎゅっと目を瞑ると途端にくらりと足元が危うくふらついた。
「―――カミュー」
驚いたようなマイクロトフの声。だがカミューはそれを振り払ってマイクロトフから一歩身を引いた。
「馬鹿を……馬鹿を言うなマイクロトフ。それ以上を言ったらわたしは本気で怒るぞ」
怒りと呼ぶよりは別の感情の方が当て嵌まるだろう。だが、カミューは怒気も激しく荒い口調で叩き付けた。
「不幸かそうでないかなどわたし自身が決める事だ」
青ざめた顔で、ぐっと拳を握り締めてカミューは吐き捨てると、さっと踵を返した。
「二度とわたしを不幸呼ばわりするな」
そして足早に扉へ手をかけると、最後に一度振り向いて白くなった唇で何かを言おうとしたが、結局何も言わずに扉を開けて出て行ったのだった。
赤さんが怒ってしまいました
2000/10/15
秋の憂い2
目の前で閉じられた扉を見て、マイクロトフはしくじったと頭を抱えてベッドに座り込んだ。
「カミューの言う通り、馬鹿だな」
しかし、言葉に偽りは無かった。マイクロトフがカミューに語る言葉の全ては真実以外にないのだ。いつだって真っ正直な言葉を投げ続けていた。
深く瞠目してマイクロトフは息を吐き出す。
ここ数日の自分の不自然な態度を思えば、カミューがそのうち訪ねてくるだろう事は予測していた。そして、今のように怒らせるかもしれないとも。
カミューの怒りは当然だ。しかし、マイクロトフは不意に思い当たってしまったのだ。
―――俺は、カミューの自由を不当に奪っている。
気付けばどんな時もカミューはマイクロトフと行動を共にしているのだ。同盟軍に加わってからは殊更に。
騎士団を離反した事に後悔は無いし、志しを同じくついて来てくれたカミューや他の騎士たちには心強さを受け感謝もしている。だが、そんな周囲の好意にただひたすら甘えていたのではないか。
同盟軍に加わって随分と経った。そして感じるのはここに集う者たちの作り出す自由な気風。戒律に固められた騎士団での暮らしとはおよそかけ離れたそれに、カミューが馴染むのはそう遅くなかった。そしてなかなか馴染めずにいる己がいた。
元々、カミューは自由な精神の男だ。
まるで自分と正反対の。
今までは騎士団と言う絆に守られ覆い隠されていた互いの真実に、ここに来てマイクロトフは気付いてしまったのだ。まるで相容れない水と油のような二人の性質の違いは、環境が変わればあっさりとその本質に従って別離を望むのではないか。
カミューはもっと自由であるべき男だ。
誰からも慕われ、男ばかりの騎士団にあって尚城下の女性の思慕を一身に受けていた優美な青年が、この同盟軍に身を置く今、以前と同じ状況を強いられるなど不当以外のなんであろうか。
おまえは前だけを向いていろと、良く言われた。
後ろを振り向く事は無いと。信じる道を一心に突き進むが良いと。何かあれば補佐してやるからとカミューは言った。
その一方的な約束は、騎士団を離反した折に最大限に果たされたではないか。彼の好意に甘えるだけ甘えて、何も返せてはいない。それどころか、束縛さえしている。
時に想いのままに抱き締めて口付けをおくり、その身体を貪る。そんな何もかもを手中にしていながらの限りない束縛を今はただ嫌悪するばかりだった。
気付けばカミューから距離を置こうとする己があったのだった。
何も告げずに別離を望むのは随分と身勝手かもしれない。だが、うまく説き伏せるための手段がマイクロトフには無かった。まずは行動あるのみだろうと、徹底的にカミューからの一人立ちを図ってみた。
そのうち、身を離す距離と同じように心が離れていくだろうとそう思って。
翌日、絶対に何かあったに違いないのだが、その不穏な気配にそれまでのように気軽に話し掛ける事も憚られて立ち尽くす傭兵が二人。
「どうするんだ。悪化したぞ」
「…俺のせいだってか」
「誰のせいでも無いだろ。ただ、マイクロトフが原因を作ったって事は確かだろうけどな」
「なら、奴にちょっと聞いてみっか」
「また悪化したらどうする」
「そん時はそん時だろ。いっそドカーンとぶつかってくれた方がすっきりするってもんだ」
「まあな。今みたいに暗いのは俺もちょっとな」
まぁおまえの好きにしてみろよ、とフリックはビクトールの肩を叩いた。
「俺はちょっとカミューの方にあたってみる」
「お? なんだか協力的じゃねえか」
するとフリックの身体がびしりと強張った。
「……おまえも一度赤騎士に泣き縋られてみたら良いんだ」
「げ……」
引き攣ってつい一歩退くビクトールに、フリックはげんなりとした顔を向けて俯いた。
「あぁ、思い出しちまった」
ぼそりと呟いて片手で顔を覆うフリックだ。それにビクトールは乾いた笑みを漏らす。
「泣き縋られたって…」
「………男泣きにな」
ふ、と儚く笑ってフリックは顔を背けると「じゃあな」と弱々しく手を振って歩き出す。その後姿にビクトールは限りない哀悼の意を込めた眼差しを向けたのだった。
ところが。
「勘弁してくれ」
とビクトールは天井を仰いでそう言い放つ。だが両腕をしっかりと掴む手は緩まない。
「この通り。もう頼るはビクトール殿しかおられん」
両腕を掴みながら頭を下げる青騎士団の元副長は、何かに耐え抜いた挙句、神経が擦り切れてしまう寸前のような悲壮な顔をしている。
「何卒、マイクロトフ様を説得していただきたい」
「おめえらの大将だろうが、俺なんかが口出しする事か?」
元々、何とかマイクロトフと話でもと思って訪れた青騎士たちの執務室。だが扉の前で迷子の子供のように座り込んで青い顔でぼんやりとしている元副長に声をかけたが最後。ものすごい勢いで腕に縋られて頼み込まれているのだ。フリックの言葉が他人事でなくなってしまい、それが目的で来たとしてもつい回れ右をしたくなる。
「我らではどうにも出来ないのです。何しろ訓練も執務も振る舞いも通常通り変わらんのです」
「変わらねぇ? 何だよ、俺ぁてっきり仕事も何も出来てやがらねぇのかと…」
「そうだったなら、まだ我らも進言のしようもあるのです。が、不気味なほど通常通りでもうどうすれば良いやら……っ」
最後には極まって言葉を繋げられない副長は、口惜しげに歯を食いしばると俯いて呻き声を漏らす。
「まったくもって始末の悪い方でおられるんだ。普段は阿呆ほど解かり易い言動をなさるくせに、事が深刻であればあるほど不可解で難解になって、たちの悪い事この上ない……」
呻き声に混じって小さく聞こえてくる呟きはそんな内容だった。両腕を掴まれて呪詛のようなそれを間近で聞かされているビクトールにしてみればたまったものではない。ごほんと咳払いをすると憔悴の副団長の名を呼んで意識を現実に引き戻す。
「あー…なんだ。大体はわかったからよ、さっさとそのたちの悪ぃ団長さんに会わせてくんねぇかな」
「説得してくださるのですかっ」
「説得っつうか……」
首を傾げかけたところで掴まれていたままの両腕を更に力強い握力で締め上げられた。
「有り難い! 一刻も早くカミュー様と仲直りをして下さるようマイクロトフ様をお願い致しますぞ」
ビクトールは痛みに僅かに頬をしかめつつも乾いた笑い声を漏らしたのだった。
しかし実際副長によってマイクロトフとの面会を果たしたビクトールは、その青年騎士の顔を一瞥するなり密かに舌打ちした。やばいな、と声なく呟く。だが実際は軽く片眉を器用に持ち上げて口笛を吹いてみせたのだが。
「ご機嫌だなマイクロトフ」
途端にじろりと迫力のある眼力で真っ向から見据えられる。だがそれで怯むようなビクトールでもない。にやりと口の端を上げて皮肉に笑うと扉を閉めて部屋の中央に進み出る。
「冗談はまぁ置いとけや。なぁマイクロトフ、いったいおまえカミューに何をしでかした?」
「…貴殿には関係の無い事だ」
低い応えに、ビクトールは更に笑みを深める。
「そうこなくっちゃな」
そして傭兵は中央にある卓の椅子を引っ張り出すと、跨るように座って背に腕を組んで乗せるとマイクロトフをじっと見上げた。
「別に詳しい事情を打ち明けろなんざ野暮な事はいわねぇ。だがこのままじゃ駄目だってのはわかってんだろ。俺が相手してやるから何でも吐き出して良いぜ」
「ビクトール殿」
ん? とビクトールは馴染み深い笑みを向けた。するとマイクロトフは眉をきつく寄せた表情になって黙り込んだ。だが、一度瞬くとその淀みの無い黒瞳で真っ直ぐにビクトールを見詰め返してきた。
「ならばうかがいたい。ビクトール殿はカミューを良く酒の席に誘うと聞いているが、それはなにゆえですか」
「そりゃあ飲む相手として不足はねえからだ」
カミューは底無しだから厄介な酔っ払いの癖が無いし、会話が巧みで酒の肴にはいつも面白い話を持ち出してくる。何よりは一緒に居て愉快な男だ。
そんな事をつらつらと思うまま並べると、マイクロトフは黙って頷き返してきた。
「カミューは…好い男でしょう」
「あぁ、まぁあいつが部下に慕われてる理由は良く解かるなぁ」
言いながらビクトールは内心で首を傾げる。
「おい。おめえら喧嘩してるんじゃねえのか?」
「喧嘩…などではありません」
ふ、とマイクロトフの唇が自嘲に歪められる。それを見てビクトールは益々首を傾げた。
「おいおい、こりゃまた随分と複雑そうだな?」
「………俺が不甲斐ないのが全ての原因なのです。カミューは、ただ……―――」
と、そこで固唾を飲んだビクトールだったが、背後の扉の向こうで迫り来る乱暴な足音に、飲み込んだはずのそれをつい戻しかけた。
「失礼致しますマイクロトフ団長!!」
ノックも無しに盛大に扉を押し開けて入ってきたのは、狼狽も露わな赤騎士団の元副長。こちらも青ざめた顔が痛ましく、ぜいぜいと肩を揺らして息つくさまがなんともやつれて気の毒に見える。
「どうされた」
そのただならぬ様子にマイクロトフも顔色を変えて副長をうかがった。
「マイクロトフ団長―――か、カミュー様が……」
「カミューがどうかしたのですか!?」
「ら………乱心されましたっ」
なんじゃそりゃ、とビクトールが呟いてその場は凍り付いたが一瞬後、書類をかなぐり捨てて「カミューはどこです」とマイクロトフは副長に叫ぶなり閉じかけていた扉を再び開いたのだった。
乱心ってなんすか(笑)
シリアスモードの持続はなりませんでした
2000/10/30
秋の憂い3
ひゅるると冷たい風が吹きすさぶそこは、フリックが時折一人で訪れる憩いの場所だった。夜など月や星を眺めて遥か遠方のトランへ思いをはせたりしている。たまにニナなどがやってきて邪魔をするのだが、それも時に悪くないなと思ったりするのだが。
「フリック!」
馴染みのある声にフリックが慌てて振り向くと、ビクトールと赤騎士団の元副長、そしてマイクロトフが階段を上ってきたところだった。
「カミュー様はまだご無事ですか?」
副長が相変わらず青ざめた顔で駆け寄ってくるのに、フリックは頷きそして見上げた。
本拠地居城のその一番の高所。本来ならムクムクが陣取っているはずのその場所に、何故か赤い騎士服の青年が深紅のマントをたなびかせて座り込んでいる。その琥珀色の瞳が見上げている先は高い高い青空である。
そんなカミューから視線を逸らせて小さく首を振るフリックの背後で、ビクトールの呻き声とマイクロトフのくぐもった苦鳴が響いた。
「何を…やってやがんだカミューの奴は」
唖然とした様子でビクトールが呟くと、それまで空を見つめて微動だにしなかった青年がくるりと振り向いた。
「見て分かりませんか。風にあたっているんですよ」
カミューの唇が弧を描いて笑みを形作る。だが、それは直ぐに不機嫌な形へと変貌した。
「なんだマイクロトフ。何か用か?」
高所から居丈高に見下ろしてカミューはぞんざいに言い放つ。それに答えるマイクロトフの声は、しかし潰れて声になっていない。
「カミュー…?」
惑う視線の先にあるカミューの足は、ぶらぶらと屋根の瓦の上を滑るように揺れている。そこまで昇るための足がかりが予め設けてあるとはいえ、好き好んでそこに立ったり座ったりしようとする者は滅多にいない、その屋根の突端。
「何をしているんだ」
誰でもついそう聞かずにはおれない。
「さっき言ったろう? 風にあたっている」
屋外の強風吹きすさぶさなかでも良く通る青年の声に、マイクロトフはごくりと唾を飲みこんだ。その傍らではフリックが事情を説明し始めるのに、ビクトールががしがしと頭を掻きながら聞いている。
「カミューの奴酒場にいたんだ。そしたら酔い冷ましとか言ってここに来てあっという間にあそこに昇って行っちまったんだよ」
「止めらんなかったのかおまえよ」
「俺だって命は惜しい」
「どーいうこった」
「一度フェザーに頼んで無理に下ろさせようとしたんだが、野生の本能ってのは確実らしいな。怖がって近寄りたがらないんだ」
そしてそんな騒ぎに、今や見下ろす下界には物見高い城の住人たちが、いったい何事かと見上げてきている。実際に、赤騎士の副長に連れられてここまで来るのに、必死で騎士や兵士が野次馬を押し留めるのを掻き分けて大変だった。
「酒が入ってるし、危ないって何度も言ってんだけど」
「別に危なくありませんよ」
上から降ってきた声にフリックが肩を竦めてみせる。
「どう考えたって危ないだろカミュー。酔ってるだろおまえ」
「酔ってなどいませんよ……酔えるわけが無い」
徹底的に聞き分けの無い様子に、フリックもビクトールも言葉を無くしてただ首を振る。その側で一人マイクロトフがこれ以上は無いと言うほど不機嫌な表情を浮かべた。息を深く吸い込むと、見上げて大きく口を開く。
「降りないかカミュー!」
大声が響いて流石にカミューもちらりと一瞥を寄越した。
「おまえに指図を受けたくは無いな。今風が気持ち良いんだから放っておいてくれ」
「子供のような真似をするな。皆に迷惑だろう!」
「怒鳴るなよ。相変わらずうるさい声だ」
投げやりに手を振ってカミューはマイクロトフの叱りを受け流した。そしてその手がやんわりと自らの金茶の髪を掻き揚げる。風に煽られたそれは昼日中の明るい日差しを受けてきらきらと輝いた。
「カミュー!」
だが騒ぎの張本人ほど冷静さの欠片も無いようなマイクロトフの切羽詰った声に、そんな優雅な動作も中断を余儀なくされる。
「……マイクロトフ。おまえ何をそんなに必死な顔をしているんだ?」
「せんわけが無いだろうっ!」
「何故だ? 出会いさえ拒否するような事を言っておきながら、今更わたしの存在が希薄だからと心配してみせるのか」
静かなカミューの言葉は鋭利な刃物のようにマイクロトフの胸を貫いたらしい。一瞬で顔色を失った男に、カミューは更なる言葉を投げかけた。
「不幸なんだろう……? だったら世を儚んだっておかしくは無いと思うが」
「………っ」
「―――冗談だ。別に恨み言を残して飛び降りるつもりは無い」
力無く呟いてカミューは屋根の瓦に両手で触れると大袈裟に溜め息をついた。
別に酒に酔って理性を失っているわけでも、身を危うくして飛び降りようとしているわけでもない。ただあまりの遣る瀬無さに身の置き所を探して探して、そこに行きついただけだ。
「本当に放っておいてくれ。なんだってこんな大騒ぎになるんですか全く……」
屋根の先端でがっくり項垂れてカミューはさしずめフリック辺りに向けたのだろう言葉を吐き出す。
「確かに酒は飲みましたよ。ええ真昼間から仕事を放棄してね。あぁ、だから小言は後で幾らでも聞く―――」
泣き言を口にしかけた副長が、カミューの一瞥を受けて背を強張らせて口を噤んだ。
「少し酒でも飲んで考え事をしたかっただけだ。ついでに風にでもあたって気持ちを浮上させたかった。それだけなんだが……」
少し前に盟主である少年が考え事をするには最適の場所があるとこっそり教えてくれたのだ。遠くを見渡せて気分が良いし、何より最高の風が吹く場所だからと。ただ当の少年が密かに昇るならいざ知らず、いい年をした青年が昇るには目立ち過ぎた。
「騒ぎになっちまったもんはしょうがねえだろ。フリックだっておめえを心配してんじゃねえか」
ビクトールのうんざりしたような声音に、カミューもまたうんざりして返す。
「ご心配はありがたくお受けしますが、それ以上の余計な世話は要りません」
「可愛くねえなぁっ。いい加減野次馬も増えてんだから、さっさと降りてこいってんだよ! 大人のくせにガキみてえにふて腐れてんじゃねえ」
「大人のくせに可愛くないのは当たり前でしょう……それに普段から傍若無人の熊男にどうこうと言われたくありませんよ」
「カミューよ、おめえなぁ」
「ビクトール殿」
熊が唸り声をあげたところでマイクロトフが慌てたように割って入った。
そこでビクトールはハッと我に返り、気を揉んでいたフリックも取り敢えず息をつく。しかし今まさに熾烈な舌戦が繰り広げられるかと期待していた野次馬たちは、つまらなさそうに小声で野次を飛ばしている。それを背後に受けつつ聞こえているのかいないのか、マイクロトフは再びカミューを見上げると息を吸い込んだ。
「カミュー」
明瞭な呼びかけはだが、普段に比べると薄弱そのものだ。その情けないさまについほだされかけるが、しかしカミューは返事を返す気にはなれない。そこへ、マイクロトフの更なる言葉が重なった。
「昨日の事を怒っているのだろうが、こんな人に迷惑をかけたりするのはおまえらしくないぞ…?」
「……わたしらしくない? マイクロトフ。おまえがわたしの何をわかっていると言うんだ」
鼻で笑ってカミューは吐き捨てた。苛立ちが胸へと募る。
「俺は、おまえの事ならば」
そこでカミューの中の何かがブツっと切れた。唇を噛むと不機嫌も露わにマイクロトフを見下ろし睨みつける。
「分かっていない。全くわかってなどいないな」
「カミュー、俺は」
「わたしが不幸だと、全く心得違いも甚だしい」
と、そこでカミューの言い捨てた言葉に傭兵も含めた観客たちが首を傾げる。
「おい、カミューが不幸ってなぁどういうこった?」
「さあな。確かさっきもそんな事を言っていたけど」
しかし当人たちにはそんな外野の声などもうまるで耳に入っていなかった。
「だが俺は! カミューおまえが……!」
「わたしがなんだと言うんだ、この馬鹿! 分からないのか? わたしがどれだけ幸せか言わなければ分からないのか!」
「カミュー…」
呆然とするマイクロトフに、カミューはそれまでの勢いも突然失せて、ふ、と気弱に笑った。
「ずっと前だけを向いて歩んできたおまえだ。時折振り返って悩まない方がおかしいのかもしれない。でもマイクロトフ……だからといって、わたしとの事を疑うのはあまりにも薄情だよ」
俯いて囁くような声音で吐き出すカミューを、マイクロトフは苦渋に満ちた目で息を殺して見つめていた。そして俯いたカミューの唇が僅かに開く。
「おまえとの出会いは、決して不幸などではなかったよ」
そしてカミューの伏せられていた睫毛が震えて、そっと琥珀の瞳がマイクロトフをとらえる。薄くけぶった瞳の表面は酒精にか、それとも別の感情ゆえにかゆらゆらと潤んで揺れていた。
「なんなら、今ここで宣言したって構わない……おまえがそれを望むならね……恥も外聞もありはしないよ。まぁ多少酔いにまかせているのは仕方のないことだが」
「いや、カミュー。もう良い。俺が悪かった」
そこで漸くマイクロトフの低い声が響いた。
「もう、疑いも迷いもしない。済まなかった」
真摯な謝罪に、カミューは顔を歪めて無理に微笑んでみせた。そして再び力無く項垂れると屋根の上で大きく息を吐き出した。
「なんだか疲れたな」
そう言い置いて―――。
「…っておいカミュー!」
ビクトールが慌てて叫ぶその視線の先で、カミューの上体がぐらりと傾いだ。
しかし下界の野次馬たちから悲鳴が上がるより早く、屋根の足がかりを駆け上ったマイクロトフの腕が伸び、カミューの腕を鷲掴んだ。周囲一帯から安堵の息が零れ落ちる。
「だ…大丈夫かおい」
目を見開いてその全てを見ていたビクトールが恐る恐る声をかける中、力任せにカミューの身体をその肩に担ぎ上げたマイクロトフが、眉根を寄せて頷いた。
「寝ているようだ」
なんだとぅ! と叫ぶビクトールの脇で、赤騎士団の副長が今にも座り込みそうな脱力の気配で「ここ数日眠りが浅いご様子でしたからな」と補足した。
健やかな寝息を立てるカミューをベッドに横たえマイクロトフは深く瞠目する。その傍らフリックがやれやれと首を回して肩を叩いた。
「まぁ、理由は良くわかんねえけど、カミューは別に不幸じゃねえって宣言したも同然だよな」
ほんっとうに良くわからねえけどな、とビクトールが唸った。
すると薄く目を開いたマイクロトフが困ったように微笑んだ。
「俺は随分と愚かな思い違いをしていたようです」
「ああん?」
「自由なカミューが、何故俺の傍にいるのか……それこそカミューが自由だからに他ならなかった」
吹く風のように自由な青年が、その自由意思によって選んだのがマイクロトフの傍らなのだ。カミューが束縛によって何かを強いられるなど有り得ない。何しろ―――。
「聞き分けがないのはいつもの事なのに」
苦笑交じりに呟いたマイクロトフに、ビクトールが「何を今更」と吐き捨てた。
「人を高見から傍若無人の熊男とか言いやがって……」
どうやら根に持っているらしいビクトールにフリックが「その通りだと思うけどな」と呟いたが黙殺された。
「とにかく、二度とあんな馬鹿騒ぎはごめんだかんな」
確り見張っとけよ、と指差してビクトールはフリックを促して部屋を出て行く。その背中にマイクロトフは「申し訳ない」と頭を下げた。
そして。
「カミュー」
静かに情を込めて名を呼ぶと、恐る恐るその髪に触れた。さっきまで昼の日差しを浴びて、風を受け輝いていたそれは、屋内の落ちついた光彩のもとでは落ちついた色合いを放っている。その指の間を滑るなめらかな手触りに、知らず頬が綻ぶマイクロトフだった。
「はらはらさせてくれる」
囁いて慎重にベッドの縁に手をつくと身を屈めた。
「我が騎士の名と誇りにかけて、二度と疑いはしない」
誓約は密かになされた。
だが、ほんの微かに眠っているはずのカミューの口唇が笑みに震えるのを、マイクロトフは気付かなかった。無論、その後に施された誓いの口付けにはなんら支障はおきなかった。
END
キリリクなのにまたもや長い
リクエストに適っているかどうかまたもや不安ですが
お待たせしました なみる様
2000/11/02