安定と調和


 ある日の午後の事だった。
 連日暑さの続くなか、この日だけは穏やかではあるが涼しい風が絶え間無く吹く、気持ちの良い過ごしやすい日だった。



「マイクロトフに触りたい…」

 赤騎士団副長の役目を拝命して幾年。若く、さりとて団内の誰よりも強く優秀で、そして気高い団長を常に支え続けてきたオブライエンは、その敬愛する団長から出たはずの言葉を疑った。いやまず始めに我が耳を疑ったのだが、騎士の中では年長の部類に入ろうともまだボケるには早いはずだと首を振った。とすると、今聞こえてきた言葉は間違いなくこの室内にいるもう一人から発せられたのだ。
 オブライエンは動揺のあまり釘付けになっていた書類から視線を無理やり引き剥がし、久しく油をさしていない扉の蝶番のような硬さで首を捻じ曲げ、窓際に居るであろう団長を見た。

「……カミュー様、今なんと仰いましたか」

 窓から射し込む淡い外の陽光を背に、青年はぼうっとしていた。相変わらず手元は正確にペンを動かし視線は書類の文字を追っているが、それでもどこと無く焦点の定まっていない眼差しが色々と物語っている。
 その様子から鑑みるに、どうやら自分が何を言葉にしたか、オブライエンが何を問うたかまるで意識の外にあるようである。滅多な事では取り乱さない沈着と定評のある副長は、じわりと諦念の笑みを浮かべた。
 確かに、こんな和やかで暢気な陽気ではあるが、現在赤騎士団長を取り巻く全ては多忙に彩られている。そのスケジュールを埋める執務の概ねが他団の皺寄せ、と言うのがこの優秀であるが故の青年団長の気の毒な所だ。しかし流石にいくら優秀ではあっても彼とて人の子である。オブライエンもそろそろ飽和状態に達するかと案じてはいたが――― そう来たか。

 ―――触りたい……触りたいか…。

 その赤い顎鬚が渋いわ、と密かに城内のメイド達に好評を頂いているそこに触れながらオブライエンは苦渋に満ちた表情で唸った。
 見たいならまだ良い。青騎士に頼んでマイクロトフを窓下にでも通らせれば済む。会いたいなら何だかんだと理由をつけて小さな連絡会議でも設ければ或いは。しかし触りたいとは……。
 日頃からいつも部下たちの全てに目を配り、どんなに忙しくて疲れが蓄積されても愚痴のひとつも言わない、それどころかそんな疲労や不満の一切をまるで無いかのように見せない団長の、そんなささやかな願いを叶えてやりたいのは山々である。しかし触りたいと来たか……―――。

 ――― 向こうだって相当溜め込んでいるはずだ。

 オブライエンの言う「向こう」とは言わずもがなの青騎士団長マイクロトフの事である。
 カミューとマイクロトフは騎士団入団試験の頃からの言わば親友同士である。お互いを切磋琢磨しながらついにはそれぞれ団の頂点にまで昇りつめた、実に優秀な若者二人。そんな二人が実は友情以外に愛情をも交わしているのはオブライエンだって知っている。
 騎士団の誰もが知っているわけではない。極一部、敏い者だけが気付く程度の付き合い方をしているのだ。別に隠す事でもないが公にする事でもない。幸いこの二人を取り巻く者たちは皆一様に心得ている者ばかりなので、気付いたからと言って吹聴して回る馬鹿もいないし、反対する者もいない。実際彼らがそんな仲だと知っても、今更嫌悪するとか言った次元の問題では無いのだ。
 確かに常に命の危機を持って闘う定めにある騎士が、同じ騎士に愛情を見出すのは誉められたものではない。戦場において心弱くなるやも知れず、また相手を思うが故に無茶な行動に出たり愚かに走ったりするかもしれないのだ。だが、この二人ときたら弱くなるどころか互いを得た事によって信じられないほど強いのだ。
 互いがあるからこそ強く雄々しく、剣を取り闘えるらしい。
 友情だけでは成し得ない。また愛情だけでも有り得ないその不思議な関係は、周囲の目から見てとても心地良いものだった。ただ時に愛情が深過ぎて後先を考えないマイクロトフの暴走が厄介なだけで。

 ――― 今、一緒にさせたらどうなる?

 オブライエンは推測してみた。
 飽和状態に陥って、常ならば考えられないような事を無意識に口走ってしまっているカミューと、恐らく同じくらいには煮詰まっているだろうマイクロトフとを、今ここで、さぁ触っても良いぞと一緒にさせたらならば……………。

 ――― 考えたくない。

 そっと斜め下を向いてオブライエンは眉を顰めた。
 結果は目に見えるようだが、見たくなかった。更にその結果どうなるかも想像がつくが、想像したくなかった。

 ――― 今暫し、耐えて頂こう。

 後僅かなのだ。それを乗り切れば何をしてもらおうが騎士団の運営にそれほどの支障は出ない。オブライエンは即座にそう判断すると、先程のカミューの無意識の独白を聞かなかった事に決め込んだ。今だけは仕方がないのだ。今だけは―――。

 そうしてオブライエンが視線をカミューから離し、再び手元の書類へと目を移した矢先だった。
 ゴン! とノックか殴ったかその違いが分からない音がして、赤騎士団長執務室の扉が大きく開かれた。その音に驚き腰を浮かせたオブライエンは喉が詰まるほどの驚愕を覚え、一時失語症に陥った。
 その傍ら、ふわりと深紅のマントがひらめいた。

「…マイクロトフ……」

 陶然とした赤騎士団長の囁きに、オブライエンは目を剥いた。

 ――― いかん! いけませんカミュー様!!

 彼の叫びは声になってはくれなかった。もっとも声として発せられても果たしてそれが相手の耳に入ったかどうかは疑わしい。
 そしてわなわなと震える赤騎士団副長の目の前を、まるで夢遊病者のようにフラフラと過ぎ行くカミューの姿。その行きつく先には疲労の色濃いマイクロトフが居る。

「カミュー…」

 掠れ気味の熱を孕んだ男の声に、ぴくりとカミューの身が震えた。

 ――― お止め下さいカミュー様〜〜〜!!!

 沈着なはずの赤騎士団副長は、慌てふためくあまりただ両腕をバタバタと振りまわすしか出来なかった。その彼の目の前で、赤い騎士服の袖が伸び、それを受け止める青い騎士服が広がった。

 ――― あああぁぁぁ〜〜〜〜〜。

 その二つの色が触れ合った途端、室内の飽和状態が一気に弾けとんだ。

「マイクロトフ…」
「カミュー」

 確りと互いを抱き締め合う二人は、オブライエンの存在などすっかり忘れて熱い口吻けを交わす。それを見てオブライエンはがっくりと自分の執務机に両手をついて項垂れた。

「会いたかったぞカミュー」
「うん……わたしもだ…こうして触れたかった……」
「あぁ俺もだ。こうして抱き締めたかった」
「うんマイクロトフ……もっと強く抱いてくれ」
「――― なぁカミュー、俺の部屋に行かないか?」
「……良いよ…」

 そんな会話の後、ぱたりと部屋の扉が閉じられ赤騎士団長の執務室には穏やかな静寂が戻った。
 だがそれから直ぐに青騎士団のオニール隊長が現れた。彼は息を切らして室内に駆け込んで来ると慌てて室内を見回し、そこに目当ての人物どころかこの部屋の主の姿も無いのを知ってがくりとその場に膝をついた。

「遅かったか……」

 頭を抱えオニールはそう呻いた。



 後日、赤青両騎士団長の現在のスケジュールを調整及び見直しをすべく、両団の副長以下幹部の夜を徹しての会議が連日に渡って執り行われたと言う。


おしまい



ちょっと騎士団のオリキャラ続出です
オブライエン副長は「桜色の風」にて居眠りしてます
オニール隊長は「追跡」にて登場
他の目から見た二人〜〜楽しく書けました〜〜

2001/08/17