触れたいという願いT


 その瞬間は何度しても、どうしても慣れない。
 性急に事を運ぼうとするのを自制して、出来るだけ優しくしようと気遣う恋人の気持は嬉しいが、身体を割かれる痛みと異物感から、自然と逃れようとしてしまう。受け入れたい気持はあるが、生理的な反応だけはどうにもならない。
「……ぁ…………!」
 夢中で掴んだシーツに縋って、ずり上がろうとするのを、背後から伸びた恋人の大きな手が肩を押さえてとどめる。
「カミュー……!」
 四肢の先から血が引けて全身が強張る。だが徐々に身の内に押し進められてゆく恋人の熱さに、意識を奪われていくのも事実だ。そしてすっかりと全てを収めた恋人が、カミューの身体を抱き締めていったん静止すると、耳元に男の低い声で静かに囁いた。
「平気か?」
 それだけでゾクリとして、ずっと止めていた息が緩々と吐き出された。
 抱き締められた体が僅かながら弛緩する。
「良いか、カミュー」
 微かに頷くと、律動が始まった。途端にカミューは鋭い痛みに襲われて息を呑む。だが男の欲望は容赦なくカミューの内を抉る。
「……ぅあ」
 つい漏れた叫びに、ふと男の勢いが弱まる。
「す、済まない」
 そしてその大きな手がカミューの身体の下へと潜りこんで、快感を促すように動いた。行為に全意識を奪われているカミューにとって、それは更なる混乱を呼ぶもので、反射的に拒否を示す。
「……マイクロトフ……よ、せ……」
「カミューが辛いだろう」
「わ、たしは……いいか……らっ」
 強く瞑った目尻から涙が溢れる。徐々に呼び起こされる官能に、息が弾むのがたまらなく恥ずかしい。
「カミュー、声を聞かせてくれ」
「い……嫌だ…っ」
 顔をシーツに埋めてカミューは吐息に漏れる声を押し殺した。すると再び男の律動が開始される。だがそれはいつしか、痛みだけではない別の感覚を与える動きに変わっていた。
 全てを奪われながら、全てを与えられているその行為に、カミューは押さえきれない叫びを漏らす。
「カミュー……」
 宥めるように背に落とされるマイクロトフのくちづけが熱い。
「あっ…………」
 だが次第に余裕をなくしていく恋人は、追い上げていくと最後には力づくでカミューの腰を抱き締め、欲望を内に吐き出した。と、それを追うようにカミューも全てを解放させる。
 そして糸が切れるように弛緩する身体が広い胸に包まれた。寒い季節―――その温もりは熱いほどだった。
 カミューは大きく上下する胸の鼓動を背に感じつつ、ぐったりと目を瞑る。だが恋人の優しいくちづけを間近に感じると、緩やかに口許を綻ばせた。
「愛してるぞ……」
 くちづけの寸前に囁かれた言葉が、倦怠に覆われたカミューの心を限りなく軽くさせるのを、恋人は知らない。



 さて翌朝である。
 同盟軍の居城。その自室の前の廊下で早朝訓練から戻ってきたマイクロトフの頭を、カミューは突然殴りつけた。何事かと警護の騎士たちが遠くから密かに窺う。
「い、痛いぞ」
「痛いように殴ったんだよ。マイクロトフ」
 そしてカミューはさっさと歩き出すが、それを慌てて追いかけたマイクロトフに阻まれる。
「退け」
「カミュー」
「わたしはこれから軍師殿のところへ行くんだ。おまえが戻るのを待っていて時間を取られたんだ。今すぐ行かねばまた例の嫌味を言われる!」
 早口でまくし立てるうちに怒りが再沸騰してくる。
「だから退け」
「何を怒っているんだ?」
 マイクロトフは顔に困惑を浮かべながら馬鹿力でカミューの腕を掴む。
「…………マイクロトフ」
 苛立ちがカミューの冷静さを奪う。他の誰を相手にしてもこうはならないが、マイクロトフが相手だとカミューの感情はストレートに出てしまうのだ。
「知りたいか?」
 横目で見やるとマイクロトフはこくこくと頷いた。
「マイクロトフ。わたしは常々おまえに言ってきたはずだよ」
 やんわりと男の五指を引き剥がしながらカミューは小声で言った。
「おまえとのキスは好きだし、おまえとするのも嫌いじゃない。だが、翌日の仕事に支障が出るのは絶対にご免だ!」
 そしてカミューは自分の襟元を指差した。
「こんな所に痕を残されてわたしが怒らないと思うか」
 マイクロトフが覗き込むと、顎の側面、その下に紛れもない情事の痕が刻まれていた。今朝鏡でそれを見つけたカミューが、どうやっても服で隠せない場所だと知って、マイクロトフに怒りを向けたのは無理もない。それは、カミューよりも背の低い者の目からなら容易に発見できるのだ。
「分かったら退け」
 言葉もなくマイクロトフは道を開ける。だがそこをカミューが通りすぎようとしたとき、再び腕を強く掴まれた。カミューは殊更、冷ややかな視線で恋人を見た。
「マイクロトフ」
「その、済まない」
 頭を垂れて謝るが、それで腕を放すかと思えば、放さない。無言で強く握り締めている。
 カミューは服に皺が付きそうだ、と考えながら腕を引いた。しかしマイクロトフの手はしっかりと掴んで離れない。
「急いでいるんだが」
「その、カミュー」
「なんだ」
「そ、そのまま行くのか?」
 マイクロトフが言うのは、その痕の事だ。認めたくはないがまる見えである。
「隠せないのか?」
「隠せない場所につけたのはおまえだよ」
「う……それは……何か貼るとか巻く、とか」
「その方が余計に目立つな」
「…………」
「マイクロトフ」
 そして浮かべた微笑は、自分でも分かるが目が笑っていない。
「は、な、せ」
 噛んで含めるように言うと、すぐさま指は解かれた。自失の態で立ち尽くすマイクロトフに、冷たい一瞥をくれてから、カミューは密かにふたりの様子を窺っていた騎士たちにも、目の笑っていない微笑を向けた。
 元赤騎士団長の恐ろしさを知っている騎士たちは、恐々と震えあがり慌てて視線を逸らした。
 カミューが去った後、騎士たちがいつまでも微動だにしない元青騎士団長に、事情は分からずとも気の毒な視線を送ったのは、カミューの知らぬ事だ。


 軍師の自室に着くと少し憂鬱になる。それでも意を決してノックをすると、中から応えがあった。
 断りを入れて室内に入ると、軍師は顔も上げずにカミューを迎え入れた。
「やっと来たか」
 そんなに遅れてはいない、だが一秒でも待たせればこの軍師はこう言うのだ。それもこれも全てマイクロトフのせいかと思うと、またもや怒りが再燃するが、かろうじて耐える。
「申し訳ありません」と上っ面だけで謝辞を述べた。
 この軍師相手ではこういった態度が一番良い。案の定、そんなカミューの態度に軍師はニヤリと口許を歪めた。
「まあ良い。用件を言おう」
 シュウはパラパラと手許の書類を繰りながらカミューを手招きする。
「これを見てもらいたい。ここ一ヶ月の間にこの城に移住してきた者の氏名と素性だ」
 紙面にはびっしりと名前と備考が書き込まれている。その紙束の厚みは親指の幅ほどもあるが、その中のいくつかの名をシュウは指差した。
「元マチルダ騎士の名がいくつかある」
「はい」
「こうして名乗っている者はまだ良い。君らを追って後から騎士団を離反したのだろう。元白騎士団の者もちらほらいる。だがこうして何人かがこの城に来ているということは―――言いたい事は分かるな?」
「ええ……元マチルダ騎士であるのに名乗らずに潜り込んでいる者もいるかもしれません」
「そうだ」
 そこでシュウは別の紙束を持ち出した。
「この中から元マチルダ騎士と名乗っている者の名だけを抜き出してある。これを使って今この城にいる元マチルダ騎士の把握をしなおしてもらいたい」
「分かりました」
「それだけだ」
 そしてシュウはそれきり手許の別の書類に目を落とす。カミューは一礼して部屋を辞した。

 こういった指示にマイクロトフが呼び出されることはあまりない。
 この同盟軍で彼が割り当てられている役目は、兵への実技指導が主で、雑務は少ない。代わりにカミューが実技指導をする事は少ないわけだが、まあ適材適所と言った所だろうか。

 騎士団を離反した折り、付いて来た騎士団の連中で、隊長格だった者たちはそのまま同じ職務をこの同盟軍でも果たしている。彼らたちを集めて、これから簡単な会議をしなければならない。それ以前に渡された書類をその人数分の部数を複製しなければ―――。
 外回りで兵舎に向かって歩きながら、そんな事を考えていたカミューだった。だが、不意に嫌な気配を感じて立ち止まった、その瞬間。目の前を上から降って来た物体が通りすぎた。

 ―――がしゃん。

 背筋を冷やりとした感触が伝う。足元には落ちて割れた植木鉢の無残な姿があった。気付けば周囲に人影は無い。見上げると建物の壁の窓が幾つか見える。
「誰かいるのか?」
 返事はない。カミューはもう一度、壊れた植木鉢を見た。
「これは……冗談にもならない」
 呟いてカミューはひっそりと眉をひそめた。



 翌日、マルロに手伝ってもらって書類の複製を作成したカミューは、部下を集めて指示を出していた。
 例の植木鉢については、調べた結果落ちてきた場所の上にある窓に、元からあったものらしい。自然に落ちてきたのか人為的に落とされたのかは不明で、気にはなるが今はそんな瑣末事に手を煩わせる暇はなかった。
 元マチルダ騎士の把握作業は、ひどく手間と時間がかかる仕事だろう。
「……手分けしてそれぞれ確認作業をすること。以上だ、何か質問はあるか?」
 赤騎士がひとり挙手した。
「元白騎士についてはどうされますか」
「それはわたしが直にあたる。―――他には?」
 一同を見回すと皆、ありませんと首を振る。だがひとり、カミューの隣に義務として鎮座しているマイクロトフだけが何の反応も示していない。
「マイクロトフ。おまえは何も無いのか」
「……無い」
「ならばこれで終わる」
 解散、の一言で皆席を立って去ってゆく。カミューも書類をまとめて立ち去ろうとした。だがその腕を、昨日と同じくまたもや強く掴まれた。振り返ると捨てられた犬のように情けない目をしている。
 一瞬、そのあまりの情けなさにほだされそうになったカミューだったが、直ぐに怒りが蘇る。
「触るな」
 低い声で言い放ち、男の手を振り解いた。
「カ、カミュー」
 放つ声も弱々しい。こんな姿をマイクロトフの部下が見たら驚愕のあまり憤死するかもしれない。

 ―――痕が消えるまでわたしに触れるな。

 これが昨日、あれからカミューがマイクロトフに言い渡した言葉だ。
 その瞬間のマイクロトフといえば、今よりも更に情けない顔をしていた。それはまるで、被害者のはずのカミューが悪者になったかのような状態だった。
 だが実際あの時、何も言わなかったが軍師は紛れも無く、その一点を見て含みある視線を一瞬だが寄越して来たし。熊のような傭兵のビクトールはすれ違い様ニヤニヤ笑って肩を叩いていったし。誰がそんなカミューを責められようか。
「ではな」
 一言残してカミューはその場を後にする。
「カミュー……」

 ―――誰が触れさせてやるものか。

 甘い顔をすれば、絶対同じ事を繰り返すに違いない。今のカミューにとって、元青騎士団長の信用は地の底を這っているのだった。





「他に申告漏れの奴はいないか?」
 元白騎士で、現在交易所で働いている男を傍らに、カミューは城内を巡っていた。
「あ、いましたいました。あの隅にいる男です。元白騎士なんですが、恋人を亡くしたらしくて、以来剣は捨てたそうです」
「恋人を?」
 そう言われればカミューにも見覚えのある男だった。白い騎士服を着てきびきびと歩いていた様子を知っている。何度か言葉を交わした覚えもある。
「婚約者だったらしいですよ。それで騎士団にいられなくなったと聞きます」
「そうか、他には? もういないか?」
「えっと……そうだ! やっぱり腕に怪我をして剣を握れなくなった奴が、確か〜〜図書館にいたような……?」
 元騎士、といってもカミューたちのように今も騎士同然と過ごしている者ならば、訓練にも参加するし把握は容易い。だが言葉通り元騎士で、今は剣を捨て別の職に就いている者の把握は難しかった。そういった者たちは当然騎士服を着用していない。着ている服で人の印象は随分と変わるものだ。例え見覚えがあっても気付かない場合が多いだろう。
「これでは埒があかないな」
「申し訳ありません」
 剣を捨てたとはいえ、元赤騎士団長に敬意を払い続ける男に、カミューは笑顔で答えて首を振る。
「おまえのせいではない」
 カミューの考えが甘かったのだ。これまでに把握できただけでも、元白騎士の数は驚くほど多い。リストにして十数枚もある。しかも白騎士団に所属していた者たちは、赤青騎士団と違ってどうやら肩身が狭いようで、騎士としてではなく同盟軍の雑兵として加わる者がほとんどだ。何にせよ、白騎士の把握には予想以上に時間がかかりそうだ。
「方法を別に考えよう」
「そうですね」
「今日は付き合わせて済まなかった。また、手を貸してくれるか」
「喜んで。カミュー様」
 騎士より商売人の方が性に合っていたと見える元白騎士は、立ち去り際に、ああそうだ、と振り返った。
「頼まれていた品物が届いたとゴードンさんが言ってましたよ。あとで来てください。お渡しします」
「そうか、ありがとう。後で行こう」

 そして数刻後、一日の仕事を済ませたカミューは交易所に赴いて、ゴードンから品物を受け取った。装飾用の小さなナイフで、以前トランに出向いたときに気に入りはしたが、諸々の都合で入手できなかったものだ。
 代金を支払ってそれを懐に仕舞うと、カミューはそのままレストランに向かう為に堀のある城の正面口に向かった。
 ところが、いつもなら外と中にふたりずついるはずの見張りが、中にひとりしかいない。不審を隠さず立ち止まったカミューに、見張りは背を正しつつ気まずい表情を作った。
「何かあったのか?」
「それが、風呂場の方でお湯を通している管が破裂したとかで、じゃんじゃんお湯が溢れてるらしいんです」
 それで騒ぎの収拾に呼ばれて、と見張りは答えた。
 耳を澄ませばなるほど、喧騒が聞こえる。
「それは大変だな」
 はい、と見張りは苦い顔をした。
「それに、交代時間なのに次の奴らが来ないんですよ。おかげでひとりでずっと立ちっぱなしです」
「ずっとか?」
「ええ、もう腹減ってたまりません」
 見張りは笑って自分の腹を押さえた。
 こんな時、カミューが「大変だな」と手を振って去って行くようなら、赤騎士の連中に慕われてはいない。カミューは「そうだな」と呟いた。
「君が次の者を呼んでくる間、わたしが見張りをしておこうか?」
 実に自然でさりげない口調でそう言うカミューに、見張りは「え?」と聞き返した。彼は別にそうなる事を望んで話していたわけではないのだ。
 見張りは慌てて首を横に振った。
「とんでもありませんよ! じ、じきに次の奴らも来ますからっ」
「だが腹が減っているんだろう?」
「そ、それは」
 彼は口篭もって腹を押さえると、暫らく黙り込んだ。そしてそれからそっと呟いた。
「い、いいんですか?」
「良いよ」
 にっこりと微笑んだカミューに、見張りは目を潤ませて頭を下げに下げた。
「あっありがとうございますっ」
 そして全力で駆けて行った。

 ひとりになると辺りは途端に静まりかえり、向こうの風呂場の騒ぎが良く聞こえた。
 バシャバシャと盛大な水音とテツの声が響いてくる。
 これだけ多くの者が集い暮していれば、騒ぎの起こらない日は無い。だがそれで見張りに不備が出来るとなるとこれは問題ではないか。
 機会があればあの軍師に嫌味のひとつも返してやろうと、カミューはそんな他愛も無いことを考えていた。
 それは油断していたと言える。足元で突如ものの弾ける音が炸裂し、一瞬遅れてユーライアに手をかけ身構えようとしたカミューのその背が、強く押された。

 何か思うよりも先にカミューは水の中に突き落とされていた。
 堀に引きこまれているのは真冬の湖の水―――その水温は凍る一歩手前の冷たさだ。温度を感じるよりも痛覚が反応する。肌に針が突き刺さるような感覚と、視界を覆う水泡の膜にカミューは刹那の思考を奪われた。
 だが直ぐに水面から顔を上げなければ、と手で水を掻いた。だが間髪入れず間近で大きな水音がしたかと思うと、後頭部を強い力で押さえ込まれ、カミューは堀の更なる低部へと潜り込まされた。
「―――!!」
 肩当てとマントをまとった騎士服が重く、もがくカミューの動きに制限を与えている。
 信じられないほどの息苦しさにカミューはただ酸素を求めて滅茶苦茶に暴れまわった。
 だが渾身の力を振り絞っているにも関わらず、カミューを押さえつけるその怪力は、緩まることがない。次第に朦朧としてくる思考の中でカミューは彼の者の名を強く思った。

 ―――マイクロトフ……!




2000/03/07


触れたいと言う願いU


 遠くで聞こえる聞き慣れた声に、まず意識が呼び起こされた。

 ―――カミュー……。

 次に掌に温もりを感じた。

 ―――カミュー。

 そして、ぼんやりとした視界に飛び込んできた見慣れた顔。それがひどく真剣な顔をしているのがなんだかおかしくて、そしていったい自分の身体はどうしてしまったのだろうと考えた途端、カミューは堀に突き落とされた一件を思い出した。

「カミュー!!」
 意識が鮮明になるなり、ぐわーん、とマイクロトフの大声が頭に響いた。そして身体中の節々が軋む感覚と、鉛のように重い四肢を自覚する。熱っぽい頭で、どうやら自分は今高熱を発しているらしいと考えた。
「……わたしは……いったいどうしたんだ?」
「こっちが聞きたいぞカミュー」
 低い声で答えるとマイクロトフはカミューの手を握る手に力を込めた。
「正面口で兵士が騒ぐから駆けつけてみれば、全身水に濡れたおまえが倒れていた。水を飲んで息をしていないおまえに触れた時、血が凍る気がした」
 俯くマイクロトフの目が見えない。だが、低い感情を押し殺したような声が、何よりもマイクロトフの心情を表していた。
「カミュー……良かった」
 痛いぐらい握り締められた手から、マイクロトフの震えが伝わってくる。
「本当に、良かった」
 ぽつりと呟いてその大きな背を丸めた男は、暫らくそうしてカミューの手を握り締めていた。その手触りを確かめるように、両手で包み込むようにしている。
「何があった、カミュー」
 顔を上げたマイクロトフの、眼差しも口調も真剣だ。厳しい騎士の顔がそこにある。
「堀の周辺一帯は水びたしだった。一目で争った形跡と分かるものだぞ。風呂場の方では騒いでいてテツ殿は何も聞こえなかったと言っておられたが。―――兵士に聞けば、おまえは堀の傍でぐったりと倒れていたというではないか」
 そこでカミューは目を見開いた。
 ―――倒れていた?
「そんな馬鹿な」
「カミュー?」
「……わたしは水の中に突き落とされたんだ」
 それで押さえ込まれて、情けない話だがカミューはあれきり水の中で完全に意識を失ったのだ。自力で這い上がったとは思えない。
「カミューを狙ってきたのか?」
「どうかな」
 カミューは植木鉢の事を思い出していた。だがマイクロトフはそれを知らない。事故かと思っていたが、もしかしたらそうではないかもしれない。何しろ堀でカミューは殺気を感じたのだ。
 理由は不明だが、マイクロトフの言う通り狙われているのかもしれない。しかしどちらにしろ、今回の事は深刻に受け止めなければならないだろう。
「ともかく城の警備に不備があったのは確かだ。軍師殿に報告をしなければ」
 カミューは発熱による倦怠を感じながら、軍師にまた嫌味を言われるかと思うとうんざりした。ところがマイクロトフは、ああそれなら、と頷いて見せた。
「もうしてある」
「もう?」
「おまえは丸一日寝込んでいたんだ。意識が戻らなくて、高熱で死んでしまうかと思った」
 カミューはそれを聞いて、身体が一段と重くなった気がした。
 なんと言う不甲斐なさか。これでは鍛え直さなければ同盟軍の一角を担う資格など無い。そう呟くとマイクロトフは静かに否定した。
「おまえは死にかけたんだ」
 今、こうして喋っていることが奇跡だ、と。
 そう言ったあと、マイクロトフは不意に立ち上がった。
「そうだ。意識が戻れば呼ぶようにとホウアン殿が言っていた」
 そして慌てて扉に向かう。
「呼んで来るから大人しくしているんだぞ」
「あぁ」
 閉じられた戸の向こうで、足音が遠ざかる。
 目を閉じると流石に、どっと疲労が襲ってきた。

 何故、水から引き上げられていたのだろうか。兵士が駆け付けた時にそうだったのなら、引き上げたのは当然犯人である可能性が高い。
 殺すつもりならそのまま水の中に放置していれば良いのだ。そのまま真冬の水の中で溺死か凍死していた。これでは犯人の意図が見えない。
 困惑の中、カミューは犯行の裏に見える真意を探ろうとする。だが、熱でぼうっとした頭ではいつものように明確な思考が出来ない。それに、一時とは言え息が止まっていたのだと聞かされて、今更震えがおこった。
 マイクロトフを置いて死ぬところだった。
 油断が、今回の事件を引き起こした。
 カミューは唇を噛むと、握力の抜けた手で拳を握る。

 ―――絶対に犯人を捕まえてやる。

 自分の犯した過失は自分で始末をつける。カミューは優しく穏やかに見られがちだが、実は内面に静かに燃える炎を抱いている。握り締めた右手に宿る紋章は、何より正確にカミューの本質を現しているのだった。

 理由がどうあれ、決して犯人を許しはしない。





 ホウアンは解熱の薬を置いて出ていった。もう、後は熱が下がれば問題無いらしい。
 安堵の息を漏らしたマイクロトフは、夜通し付きっきりで看病すると言い張ったが、この一日で溜まった書類を片付けろと恨みがましい目で言う部下に連れられて行った。
 そうして独りになると、カミューは薬の中に含まれていたらしい催眠の成分でいつの間にか眠り込んでいた。



 目を開けたとき、室内は暗かった。だがそれを確認するより先に、間近に感じた不穏な気配に騎士の自衛本能が瞬時に反応する。

 反射的に横にずらせた首の真横に、何かが刺さった。
 熱で重い身体は反動でベッドから転げ落ちる。
 そして潤んだ目が暴漢の姿をとらえる。だが、闇夜にぼんやりとその輪郭が浮かんだのみで、その面相が見えない。
「―――誰だ……!?」
 だがその気配は、堀で襲ってきたものと一致していた。
 ―――昨日の今日で……!
 まさか今夜襲ってくるとは思わなかった。
 カミューは熱で痺れたように動かない自分の身体を呪う。
「くっそ……!」
 視界の端に、小さなナイフがあった。
 ゴードンから買い求めた品だ。夢中でそれに手を伸ばすと、掴んで握り込んだ。
 だが、手に力が入らない。身構えたところで、圧し掛かってきた暴漢にあっさりとそれを弾き飛ばされた。
 驚くほどの怪力に、カミューの抵抗は簡単に封じられた。両手を頭上で纏め上げられると、もうそれだけで動けなくなる。助けを呼ぶ声も、叫ぼうとする前にその頬を容赦なく殴られた。
「ぐ……!」
 口内に血の味が広がったが、それよりも叩き付けられる殺気に全身の肌が泡立つ。
 そして恐慌の最中カミューが暴漢の手に見たものは、鋭く光る千枚通し。それがカミューの掌に躊躇なく振り下ろされた。
「……っ!!」
 重ね合わせた両手が、怪力で難なく床に縫いとめられた。その突き刺す痛みは、鋭い熱となって掌の感覚を奪い去り、ただ、袖口が血に濡れて重く貼り付く感触だけが生々しい。
 容易に動きを制限されたカミューの、荒い息遣いが闇に響く。暴漢は握り締めていた千枚通しから手を離すと、カミューの上から退いた。その足が、弾き飛ばされたナイフの転がる方へと伸びた。
「……わたしを……殺すつもりか」
 応えは無い。
 暴漢は音もなくナイフを拾い上げると、カミューの元へまた戻ってくる。
「何の目的が……」
 ナイフの切っ先が喉に当てられカミューは押し黙った。が、ナイフは喉を降りて左肩へ伝うと、その刃は腕の付け根に当てられた。
 一瞬の冷たさを感じた後、切られたのだと知った。即座にその場所に熱が集まってゆく。と、暴漢の手が何気なくカミューの髪に触れた。
「髪が……血に塗れたな……」
 初めて聞いた暴漢の声だった。
 騎士として拷問に耐える訓練も受けているカミューだ。激痛の最中でも意識は冴えている。そしてカミューの記憶の中で、今の声が聞き覚えのある声がどうかの判別が瞬時になされた。
 結果は、該当者あり―――。
 かつてカミューは、そのその声が別の言葉を吐いたのを聞いた。
 だが、カミューが次を考える前に、そのこめかみを強烈に殴打された。その衝撃に脳が揺さぶられ意識が酩酊する。
 酔ったような状態に落ちたカミューは、今度こそ殺されると感じながら意識を失った。



















 確りと閉めたはずの扉が僅かに開いていた。
 懸念がマイクロトフの胸中に広がる。
 絶対安静のカミューの私室には今、医師のホウアン以外の入室は禁じられている。
 眉を顰めマイクロトフは扉を開いた。
 室内は暗い。
 窓から差し込む、ぼうとした月明かりが室内を薄く照らしている。



 靴底のぬめる感触に、ふと下を見た。
 黒々とした液体が一筋、床に線を描いている。



 途端に嗅ぎ取った鉄の匂い。
 いや、これは――― 血臭。



 黒く見えたのは血溜まり。
 室内の奥。ベッドの傍で月光を受けて光る金属の鋭利な煌き。
 縫いとめられた青年の姿。



 まるで生い茂った芝の上を歩くような感覚。
 事務的に青年の、血に塗れた首筋に指の腹を当てた。
 弱々しい反応。



 詰めていた息を吐き出した。
 途端に世界に音と色が戻る。
 掌に濡れた感触を感じて、マイクロトフは歯を食いしばった。



 じっとりと濡れた青年の服を寛げると、肩の付け根からじくじくと血が流れ続けていた。
 だが、何よりも縫いとめられているその両手が――― 白い手が。
 急にわけの分からぬ痛みで胸が締め上げられた。



「今直ぐ……」
 呟いて青年の両手を縫いとめるそれに指をからませる。
「今直ぐ、抜いてやるからな」
 グッと力を込めてまず床からその先端を抜く。
 と、引っ張られて浮いた青年の手の指がびくりと動いた。
「カミュー……? カミュー?」
 痛いだろう。
 どんなにか痛いだろう。
 その指を包みこむと、今度はその手から慎重に細い刃を引き抜いた。
 もう、これ以上傷付けない様に。



 抜いたものは、カランと音を立てて転がった。
 そしてずっと頭上に固定されていた青年の腕を、楽な姿勢に戻してやる。
 だが、そうして触れた手や腕が―――。
「おまえ――― どうしてこんなに冷たいんだ?」
 信じられないほど冷え切った青年の肌に掌を這わせた。
 だが触れた肌はどこも血に濡れている。
「カミュー……」
 夢中で抱き上げる。
 ぴちゃっと音を立てて血が滴り落ちた。その音が何故か耳に響く。
「なんでこんなに血が……っ」
 早く。
 早く止めてくれ。
 その命の流れをこれ以上、零さないでくれ。




















 何も見えない。

 ただふわふわとした浮遊感に包まれていた。

 そんな中で、マイクロトフの震えた声が聞こえる。

 ああ、泣いているのか? マイクロトフ。

 何故泣いている?


「今直ぐ、抜いてやるからな………カミュー? カミュー?

  おまえ―――どうしてこんなに冷たいんだ?」


 冷たい? 何が…………。


「カミュー……なんでこんなに血が……っ」


 泣かないでくれマイクロトフ。

 そんな声を出さないでくれマイクロトフ。


 おかしいな。

 おまえを慰めてやりたいのに、わたしの手も足もどこにあるのか分からない。

 どうすれば声が出るのか分からないよ。

 済まないマイクロトフ。

 おまえに触れたいのに、どうすれば良いのか分からない―――。




2000/03/09


触れたいと言う願いV


「ここを……」
 と、ホウアンは腕の付け根を指した。
「この辺りに動脈があるんです。そこをナイフで切られていました。傷はそんなに深く無かったので、一度に流れる量は少なかったようですが、発見が遅ければ失血で手遅れになっていたでしょう」
 でも、と医師は続ける。
「処置はもう済んだのでそちらの方は問題ありません。それよりも貫かれた手の方が重傷です。運良く骨や血管や神経を外して貫通していますが、暫らくは引き攣って上手く動かないと思いますよ。あ、ちゃんと元通り治りますけどね」
 深夜、寝入っているところを叩き起こされたにも拘わらず、ホウアンは適切な処置を施した。朝の明るい光に満ちた医務室での親切な説明に、カミューは黙って頷いた。その傍でフリックが微かに笑う。
「元通り治るのか……良かったなカミュー」
 意識が戻った時からずっと傍にいてくれたフリック。
 カミューは起き上がれなくとも、なんとか微笑み返そうとした。だが、笑えない。
「カミュー?」
 彼が、いない。
 マイクロトフの姿が―――無い。
 あれは夢だったのだろうか?
 泣いていた男の姿は、死の淵で見た幻だったのだろうか。
 だが、フリックは教えてくれた。
 カミューを発見し、医務室に運び込んだのはマイクロトフだったと。
 しかしカミューが目覚めた時、彼はそこにいなかった。

 カミューは、常に無い自嘲の笑みを薄らと浮かべていた。
 二度もの不覚はさぞかし、あの騎士を失望させたに違いない。こんな、為す術も無く包帯に巻かれている姿など―――見たくもないに違いない。
 自身に対する怒りが胸の内で渦巻く。
 元通りに動けるようになっても、もうあの騎士の隣に立つ事は許されない。誰が許しても自分が許さない。

 ―――もう、触れることは出来ない。





 なんとか起き上がれるようになった頃になっても、やはりマイクロトフは現れなかった。
 フリックなどは眉を顰めてマイクロトフの薄情さを責めていたが、カミューはそれに無言で応えるしかなかった。
 何しろ自分には彼に案じてもらう資格は無いのだ。
 ついこの間までは誰よりも近しい存在だった。だが今は酷く遠く感じる。それはカミューが男の傍にある資格を失った事実を物語っていた。
 甘える己が何処かに男の姿を求めても、その気配すら見せない態度に強い拒否を思い知る。
 もう良い。
 全ての決着を着けて、後は結末を確認すれば良い。
 カミューはユーライアを持って、ある男の姿を探した。



 男は直ぐに見つかった。
 道場の隅に、以前見た時のように座り込んでいた。
 近付いて行くと、男は顔を上げカミューを見て微笑む。そしてゆっくりと立ち上がった。
「白騎士の……確かノックスだったな?」
「はい」
 男―――ノックスは素直に答えると、いっそう笑みを深めた。
「わたしを何度か狙ったのは、おまえか?」
「はい。カミュー様」
 微笑んだままノックスは頷いた。
 無謀だ、と自分でも思っていた。だがどうしても自分一人でけりを着けたかった。
 何度か言葉を交わしたことがあった。
 真面目で無口な白騎士だった男。強い騎士だった。それが、婚約者を亡くして剣を捨てたと言っていたのは誰だったか。
 目の前の男の立つ気配は、とても剣を捨てたとは思えない。
「理由を、教えてくれないか?」
 身分を偽ってカミューを殺す為に同盟に潜りこんだのか。だが、不思議と目前の男には暗殺者特有の冷徹さも厳しさも無い。他に、理由があってこうしているとしか思えない、何か激しい感情が男の瞳には宿っていた。
「わたしを狙う理由はなんだ」
 重ねて訊ねると、ノックスはひどく優しい目をした。
「恋人を、亡くしました」
「あぁ」
「婚約者で、わたしのかけがえのない女性でした」
 そしてノックスは突然動いた。身を低くしてカミューの横をすり抜けると、そこにいた兵を殴り倒しその手の真剣を奪う。
 だがカミューも素早くユーライアを抜くと、男にその切っ先を向けた。

 突如始まった戦いに、道場にいた雑兵がざわめく。
「理由を言えノックス……おまえが、ただ恋人を亡くしたからと言ってわたしの命を狙うはずが無いだろう」
「同じなんですよ。その手触りも色も……」
 ノックスは間合いを詰めつつ、カミューの髪を見た。
 その懐かしげな眼差しと、発せられる殺気の相違があまりにも異質だった。
「ですがその痣が、一番驚きました。同じ場所にある……そっくりそのまま」
「痣?」
「ええ、顎の横の……」
 ノックスがくすりと笑う。
 そこでカミューの冷静さが突然失われた。
 本来ならとっくに消えていてもおかしくないのに、発熱や失血のためか治りが遅い。そこを、男の視線が撫でた。途端に背筋をぞっとした感触が駆け抜ける。
「本当に驚きましたよ。カミュー様、あなたなら、わたしの………」
 ノックスの声が遠く聞こえる。

 ―――マイクロトフ。

 彼の息遣いが蘇る。
 離れることなど出来ない。
 資格の有無など関係無い。ただ、傍にいたい。
 なのに、いない。

 はっと気付いた時、手の中のユーライアは弾き飛ばされていた。
 ノックスはそして自らも剣を捨てると、カミューに飛びかかりその首に指をきつくからませた。
「ぐ………ぅ」
 喉を潰される力にカミューはうめいた。
 内心で声にならない叫び声を上げた時、ふっと男の力が緩んだ。刹那男の身体は宙に吊り上がり、後方へと吹っ飛んだ。
「貴様……また、俺からカミューを奪おうとするのか!」
「え……?」
 咳き込みながら見上げた長身は、元青騎士団長。いったい今まで何処にいたのか、マイクロトフは双眸に怒りを湛え、白騎士を睨みつけていた。
 そしてその手のダンスニーが大きくひらめいた。
 カミューは瞬間青ざめる。相手は丸腰だ。そんな相手に剣を振るうなどとんでもない。
「よせ、マイクロトフ! やめろ!!」
 素早く立ち上がるとマイクロトフの腕に縋り付いた。
「離せカミュー! こいつを殺してやるっ!!」
「落ちつけ!」
 そこで漸く、おかしいと気付いて困惑している兵に、カミューは呼びかけた。
「頼む、そこの男を取り押さえてくれ」
「は、はい」
 兵たちは反射的にカミューの言葉にしたがって、慌ててノックスを取り押さえた。
 そうなるとマイクロトフも剣を下すしかない。
「カミュー、何故止める!」
「何故って……相手は丸腰ではないか」
「おまえの首を絞めたんだぞ!?」
 殺しても足りん―――。

 ―――何故だ。

 カミューはそこで呆然とする。
 怒りに全身を緊張させてそこに立つマイクロトフの姿が、信じられない。
 彼は別離を望んでいるのではないのか?



 そこへ兵のひとりが手に小さなものを持って駆け付け、カミューの思考は中断された。
「こんなものを、身につけていました」
 差し出されたそれは、形見として遺髪を残すときにそうするように束ねられたひと房の髪で、その色合いはカミューのそれと酷似していた。不審に思って押さえつけられた男を見ると、鋭い眼差しで射返された。
「返してください。それがないとわたしの恋人が蘇れない」
 何を、と言い募ろうとするマイクロトフを、カミューは押さえ込んだ。
「蘇る……?」
 そうです、と白騎士は頷いた。その瞳は紛れなく正気を宿しているのに、発する言葉が微妙な歪みを醸し出している。
「彼女の髪を持って、あなたを何度も死の淵に近づければ、彼女は死の国から徐々に引き戻される。―――そうしてあなたを殺せば、引き換えに彼女が蘇る……。ゴルドー様がそう教えてくださったんです」
 激しい衝撃と怒りがカミューの全身を打った。

 ―――ゴルドー……!!

 全てを理解したその瞬間、同時にこの白騎士の心が痛いほど分かった。
 彼が悲しいほど一筋に亡くした恋人を想うのが分かる。それゆえに、ゴルドーのたわ言を真実そう信じているのだとも分かった。
 だから余計に、ゴルドーへの怒りが灼熱となってカミューの思考を焼いた。
 カミューは声が震えているのを自覚した。だが、言わずにはおれない。

「わたしを殺しても、おまえの恋人は戻らない」
「そんな事はありません」

「おまえの恋人は、もう戻ってこないんだ」
「嘘です」
 白騎士は頑なに首を振る。
「ゴルドー様は真面目にわたしの話を聞いてくださった。親身になって聞いてくださった。そしてそう教えてくださったんです!!」
 カミューの顔が歪み、その目頭が熱く痺れる。
「それこそが……嘘なんだ……」
「どうして! どうして嘘だと言いきれる!? やってみなければ分からないじゃないかっ!!」
 白騎士の叫びにカミューは耳を塞ぎたくなる。こんな不幸は聞きたくない。
「あなたを殺して! 彼女が蘇らないなんて保証はどこにもないじゃないかっ!!」
 全身で叫ぶ白騎士を、多くの手が押さえ込む。だが男は感情の吐露を止めない。
「彼女を、取り戻したいんだ……!!」
 だからあなたを―――そう吐き出した男は泣いていた。
「彼女にもう一度……触れたいんだ……!」
 白騎士の痛切な声は、カミューの胸を鋭く貫く。
 こんな不幸は見たくない。そしてギュッと目を閉じた時、男の大声が鼓膜を震わせた。

「貴様、そんな理由でカミューを殺そうとしたのか!!」
「マイクロトフ」
 男は全身怒りのオーラをまとっていた。その右手の騎士の紋章が手袋を透けて輝いている。
「ゴルドー如き卑怯者の言葉に乗せられて! 俺からカミューを奪おうとしたのか!!」
 戦闘時もかくやと言うほどの赤いオーラは、マイクロトフが切れたことを教えている。
「それほど逢いたいのなら、自分で行けば良い。カミューを巻き込むのではなく、自分で恋人を死の淵まで迎えに行けば良い!」
「自分で?」
 ノックスが呟いた。その目にふと狂気が宿るのをカミューは見た。
 ゆっくりとした動作で、白騎士を押さえ込んでいた兵士達が弾き飛ばされる。
 いつの間にかノックスの手に握られていた一本のナイフ。

 ―――駄目だ。

 その切っ先が白騎士の喉を貫くより先に、飛び出したカミューの背に突き立った。




2000/03/10


触れたいと言う願いW


 耳元でノックスが誰かの名を呼んだ。
 女性のものらしきその名は、彼の婚約者だった人のものだろうか。見るとノックスは酷く傷付いた目でカミューを見ていた。
「カミュー!」
 瞬間、消え去っていた周囲の騒がしさが蘇った。同時に背中の痛みに顔が歪む。それほどの激痛ではないが流石に息が詰まり、げほんと咳き込んだ。
 失敗したなと漠然と思った時、ふと足元から掬われて身体が浮き上がり、マイクロトフの肩に担ぎ上げられていた。
「痛い……」
「当たり前だ!」
 触れた背中から声が響く。
「どうしてあんな男を庇うんだ!」
 カミューを抱えて走り出し、マイクロトフは怒鳴る。
 だって、とカミューは声も無く呟いた。
 小さい装飾用のナイフだが、あのままノックスの喉に刺されば命はなかっただろう。
 あのままではマイクロトフが男を追い詰めたことになる。
 それは駄目だ。
 そう考えたら反射的に動いていた。だがそれらを今説明する気力は無い。
「……勝手に……動いていたんだ」
「だったらナイフを払い落とせば良かったんだ」
「あぁ……そう言えばそうだな」
 そうして背中の痛みを堪えて密やかに笑うと、マイクロトフは低い声でむっつりと答えた。
「笑ってる場合か」
「うん………でも、マイクロトフ……」
 ―――おまえいったい何処から現れたんだ?
 聞く前にマイクロトフは医務室に辿り着いていた。



 短い刃渡りのナイフは、やはりそれほど深く刺さってはいなかった。
「運の良い方です」
 とホウアンなどは先日の件も含めて呆れ顔で笑う。二度も死にかけて、三度も凶刃に見舞われたと言うのに何処にも障害が残らないとは、運が良いと言う他ない。
「全くだ」
 満身創痍のカミューをマイクロトフが見下ろす。それを正面から受けて、カミューはずっと言う間が無かった言葉を漸く口に出すことが出来た。
「マイクロトフ……おまえいったい今まで何処にいたんだ」
 ずっと姿を見せなかったと思っていたら、それまでと変わりない態度で突然現れた。マイクロトフは自分に失望していたのではなかったのか。
「ああ……うむ、軍師殿に相談して、な……」
「……相談?」
 刹那カミューの脳裏に、シュウの無責任な顔が浮かんだ。
「ああ」
 そしてマイクロトフはシュウが彼に与えた指示をカミューに教えた。
 つまり、犯人は再びカミューを狙うであろうから、出来るだけカミューを一人にして見張っていれば良い、と。
 カミューは理解したくない気持ちで理解した。あの厚顔軍師の適当な指示にこの単純馬鹿男は忠実に従った、そう言うのか?
「―――カミュー?」
 この数日間の不安は一体なんだったんだ。
 カミューは今更ながら、マイクロトフの絡んだ時の自分の思考が信用ならないものだと自覚する。恋人が姿を見せないだけで人間ああも暗くなれるものだったんだな、と今はすっかり浮上した思考で数分前の自分を笑う。
 突然笑い出したカミューに、当然ながらマイクロトフは驚いて眉をひそめる。
「カミュー」
「なんでも無い」
 ピタリと笑いを止めてカミューは思考回路を切り替えた。
 もう大丈夫だ、不安は何処にもない。
「そう言う事情なら、おまえは軍師殿に犯人を捕らえたと報告に行け」
 遠ざけないと、人目も憚らずにその胸に抱きついてしまいそうだ。しかしマイクロトフはそんなカミューの心情を知らない。
「だがカミュー」
「いいから」
 わたしはもう大丈夫だから。
 そこでカミューは漸く心から微笑むことが出来た。恐らくは、触れ合ったあの夜以来―――。





 カミューが医務室から自室に移れるようになった頃、ノックスの処分は決まった。
 追放―――それは殺人未遂者に与えられた罰としては、軽いものと言える。だが、断罪者である軍師に寛大に頼むと言ったのは誰あろうカミューだった。
 当然ながらマイクロトフはそんなカミューに何故だ、と憤った。
「いくら利用されていたとはいえ、あんな自分勝手な都合でおまえを殺そうとしたんだぞ?」
 確かに命を狙われ殺されかけたのだが、カミューの中ではあの白騎士に対する怒りは霧散していた。憎めない。ただ、哀しくてならなかった。
 そんな胸の内をどう伝えれば良いのか直ぐには分からない。カミューは黙ってマイクロトフに抱きついた。
「カミュー?」
「もし……」
 もう一度、と叫んだノックスの痛切な声が耳に蘇る。
「もしおまえを失って、二度と触れられないとなったら……わたしはあの白騎士と同じ事をするかもしれない。手があるのならどんな事でもするかもしれない」
 今は、こうして触れられる。
 だがノックスは―――あの姿が未来の自分に有り得ないとどうして言える?
 考えるだけで心がこんなにも冷えていくのに、これ以上の苦しみを味わったはずの男に、更なる苦しみを与えても意味など無い。

 と、突然マイクロトフがカミューの背を軽く叩いた。
 小さい児をあやすようなその所作に、カミューはぱちりと瞬きする。
「マイクロトフ?」
「なぁカミュー。おまえは俺に死んで欲しいと思うのか?」
 違うだろう? と聞かれ、慌てて肯定する。
「そんな事を思っているわけではないよ」
「ならば、そんな不吉なことを考えるな。それよりも、もっと幸せになることを考えろ」
 幸せ、とカミューは呟いた。
 今幸せになること―――。
「……マイクロトフ、に触れたい」
 呟くと、男のギョッとする気配が伝わった。
「カミュー……だが、それは」
 自室に戻れたとはいえ、まだ包帯は取れていない。背中の傷は抜糸すら済んでいない。
 だが―――。
「マイクロトフ……抱いてくれ」
「良いのか?」
「二度も、言わせるな」
「う……済まん」
 触れられるだけ触れたいと、そう願う。
 暖かさや優しさを触れることで感じたい。生者だけに許された特権を、この身で味わいつくしたいのだ。

「だがマイクロトフ……痕だけは付けるなよ?」
「う……」
 ノックスがカミューを狙った理由は、ゴルドーの企みのせいであったのだが、実際に手を下す決意を男にさせたのは、その痕だったと後で知った。
「済まんカミュー……」
 途端に情けない顔に戻る男が愛しい。
「―――良いよ」
「カミュー?」
 本当は痕なんていくらでも付けてくれて構わない。触れたいし触れられたい。その切なる思いに、カミューはゆっくりとその首に縋り付いた。

 触れると互いの温もりに命の鼓動を感じる。
 願わくば、この幸せな実感を出来るだけ長く―――マイクロトフと共に。


END



あぅ〜〜〜何も申せません
なんちゅう終わり方やねん こらぁ
いつか書き直せるのかなぁぁぁ〜〜〜(泣)

しかしこのカミューさんは偽者かもしれない
マイクロトフが絡むと思考回路が妙になるみたいですね

2000/03/11