月の呼び名―祈り―
闇の中、浅い眠りから目覚めた彼は、ゆっくり起き上がると祈るように目を伏せた。
「……嫌な……夢だ」
呟いた言葉に応えるように、その頬に哀しみから一筋の流れが浮く。だが瞼がゆっくりと開かれた時、濡れた瞳が傍らに眠る存在を見とめた。その刹那、全ての哀しみが魔法のように掻き消えたのだった。
盟主たる少年に付き従って城を出発した朝はどんよりと曇っていた。
日が落ち、薄暗くなるにしたがって雲は消えてゆき、今はうっすらと紗幕を降ろしたような薄雲が夜空に残っている。そして東から上がった月は満月であるのに、その薄い紗幕に阻まれてその光を充分に下界に降り注ぐことが出来ずにいた。
夜営地で、マイクロトフとカミューは二人して眠れず夜の散歩に出ていた。そして木立が途切れ、見晴らしの良い崖の手前まで来ると、何気なく無言で空を見上げて、マイクロトフは明日は晴れるかなどと埒もないことを考えていた。
「朧月と、マイクロトフ。言うんだよ」
不意に隣に立っていたカミューが天空を指差してそんな事を言った。
「なんだって?」
マイクロトフは突然の言葉に驚いてカミューを見た。すると青年はにこりと微笑んで、ぐいと首を仰け反らせて天を見上げた。
「朧月と言うんだよ」
同じ言葉をもう一度繰り返す青年に、マイクロトフは頷いた。
「ああ、そうだな」
それがどうしたんだと、思った事がそのまま顔に出ていたらしい。カミューはくすりと笑みを漏らした。
「ものには色々呼び名があるからね。月にしたって、何にしたって」
「カミュー?」
普段の彼らしくない、真意の掴めぬ物言いにマイクロトフは首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「どうもしないさ」
青年は月光の下、薄らと微笑を浮かべて即答した。だが直ぐに軽く首を振るう。そして「いや」と呟いて前髪に指を指し込んでくしゃりと握った。
「なんとなくだが、言葉は嫌になるほど多くあるなと、不意にそんな事を考えてしまったんだ」
「ああ」
「でも言葉は多くあるのに、使っているものは限られている。こうして会話をしていても、いつだってうまい言葉が見つからないでいる」
「カミューが?」
人並み以上に言葉を巧みに操るこの青年がそんな事を言うなら、自分などはどうなるのだ。
「マイクロトフは、おまえはそれで良い。それでね」
まるで心を読まれたかのようなカミューの言葉にギョッとする。
「な、カミュー?」
「顔に出ている―――そんな風に、おまえは心がそのまま表情や声に映るから、言葉をどれほど尽くすよりも充分雄弁だよ」
カミューは目を瞑る。
「わたしは―――駄目だ。言葉を尽くせば尽くすほど、虚言じみてくる」
「………」
何かあったに違いない。
「カミュー。どうした」
低い声で訪ねると、青年はぱちりと目を開いて、苦笑する。
「おまえこそどうしたマイクロトフ。気弱な声を出して」
「カミュー」
「うん。分かっている。気弱なのはわたしの方だな……」
そしてカミューは困ったような笑みを浮かべて俯いた。
「マイクロトフ」
囁きのような呼び声。
「なんだ?」
「何故だろう、横にいるのにおまえが遠い気がする」
「カミュー?」
見るとカミューは無表情で、微笑みの消えた彼は今にも消えそうなほど、存在が希薄だった。
不意に手が伸びた。意識もせずにカミューの視界を覆うように掌でその目許を覆っていた。青年はマイクロトフのそんな突然の動きに理解が追いつかないようで、驚きの声をあげる。
「マイクロトフ?」
「確かにいつも言葉は足りないが、こうして触れば補える事もあるだろう」
低い声でそう告げると、マイクロトフは両手でカミューの顔を覆うと、頬やらこめかみやらを這わせ、指先で鼻筋や目許などを遠慮なく撫でた。そして指を髪に指し込み、両手で挟むようにすると緩やかに引き寄せた。
「――な……?」
「………」
すると抱き込んだ肩口から、ぐいっとカミューが顔を上げた。
「だからおまえはいつもわたしに触りたがるのか?」
そんな軽口を言う青年の表情は、先程までの気弱な陰は微塵もなかった。それどころか暗にマイクロトフの口下手を揶揄するような言葉で、笑みさえ浮かべている。
「カミュー…」
その打って変わった態度に力が抜けて、マイクロトフは青年の肩に顎を載せると倒れ込むように抱き込んだ。すると「うわっ」と慌てたようなカミューの声が上がり、それが愉快でくすくすと笑いつつも、その背に手を回して重心を戻してやった。
「おまえなぁ……」
カミューからそんな呟きが漏れ、胸を強く叩かれたが笑いは引っ込まず、マイクロトフはますます強くその背を抱き寄せたのだった。
そしてマイクロトフはカミューを抱き締めながら、ふと空を仰いだ。
いつの間にか雲がすっきりと取り払われていた。銀に輝く真円の月が頂点にあり、銀糸の光りを下界に惜しげもなく浴びせている。
「明月……だな」
「ん?」
ぽつりと零れたマイクロトフの言葉に、カミューは腕を突っ張って身を放しつつ空に月の姿を探した。そして背後に清涼に輝くそれを見付けると、首を捻じ曲げた体勢で固まったように見入る。その身体を今度はゆるりと抱いてマイクロトフは月から腕の中の恋人へと視線を移した。
月光を受けて、カミューの栗色の髪は淡く白金がかった色になっている。その白皙の面も普段よりも遥かに蒼白く映って、まるで人形のような生命感の無さだった。だが唯一、見開かれ月を凝視する琥珀の瞳だけが燃えるように躍動感を宿していた。
その瞳につい見惚れ、その視線の先が自分に移っていたのをマイクロトフは暫らく気付かなかった。
「おい」
「………」
呼ばれて数秒。ハッとして我に返ると、目の前にある青年の口許が次第に悪戯な笑みの形に変化する。
「月見の最中にそんな熱い視線を寄越すなよ」
「…カミュー」
またもやがくりと肩を落としたマイクロトフの後首に、カミューの手が置かれた。促されるように顔を上げると青年はまた月を見上げている。暫らくしてその唇が涼やかな声で言葉を紡いだ。
「グラスランドの、ある部族では月はひとつのものが満ち欠けるのではなくて、それぞれの形で十六個あると信じられている。そう聞いたことがある」
「十六も?」
マイクロトフの驚きの声にカミューはにこりと微笑んで頷く。
「あぁ。それが順番に空に現れるんだそうだ」
一の月、二の月、三の月と呟きながらカミューは折っていた指を立てて行く。それを眺めながらマイクロトフはふと首を傾げた。
「どちらが正しい月の姿なんだ」
するとカミューは一瞬、その瞳を見開いたがすぐにそれを笑みに細めた。
「さあね。……月まで行ってみなければ分からないさ」
そしてくつくつと密やかな笑い声を立てた。それを憮然と聞き流したマイクロトフだったが、不意に連想された想いに対して、忠実に口を開いた。
「でも、カミューはどんなカミューでもたった一人のカミューだな」
カミューはまたもや目を見開いたが、今度はそれを不審な眼差しに変えた。
「何故そこでわたしが出てくるんだ」
そんな言葉にマイクロトフは「うん?」と答えて、流石に言葉が足りなかったなと改めて語り直す。
「似ているだろう、おまえと月は。多くの顔を持っていて多くの呼ばれ方をする」
そしてマイクロトフは指を折り曲げて一本づつ立てながら、カミューの肩書きや愛称を列挙していった。だが途中でそれを止めると、その手で青年の髪を撫でた。
「どんな名で呼ばれていても、どんな表情をしていても。見える姿がどう変わろうと、俺にしてみればカミューはカミューだ」
「あぁ……」
なんとなくはマイクロトフの言わんとしていることが伝わったのだろう。カミューは頷くと目を逸らして困ったように微笑んだ。
マイクロトフの言葉は、ともすればカミューがどう変わろうとその本質を見失う事無く、どうなろうと決して間違えはしないと、言っているようなものである。しかしどうやら言外に感じるそれは無意識に発せられているらしい。まさしくマイクロトフだけがなせる、言葉が足り無くとも雄弁に、気持ちを伝えられるわざだった。
しかしマイクロトフ本人に自覚は全く無い。カミューが視線を逸らす理由も不明だ。それでも己の気持ちに正直な言葉を告げただけなので、何恥じる事は無い。
「カミュー?」
髪を撫でていた手を頬に移すと、こちらを見るように促した。そこにある琥珀の瞳はゆらゆらと揺らめいている。それが羞恥から潤んでいるのだとは知らないマイクロトフだが、そこから漂う色気は敏感に感じ取れる。
何を思うよりも先に唇を合わせると、腕の中でカミューの身体から力が抜けていくのが分かった。
唇が離れると、ところでとマイクロトフは疑問に思った事をまたも素直に訪ねた。
「さっきは何を落ち込んでいたんだ?」
カミューは視線だけを向けてきた。
「落ち込んでいるように見えたか」
「ああ」
頷いてみせるとカミューは目を伏せた。月光によってその頬に睫の陰が浮かぶのをマイクロトフはぼんやりと見る。するとその耳に消え入りそうな囁きが届いた。
「なに……今朝見た嫌な夢を思い出しただけだ」
「どんな夢だ」
「忘れた。だが―――」
言葉を切ってカミューは月を見上げた。そして、
―――月が出てきた夢だった……、と繋げ透明な笑みを浮かべた。その顔がゆっくりと月からマイクロトフに向き直ると、浮かべられていた笑みがいつもの華やかなものに変わった。
「とても哀しい嫌な夢だった事は覚えている。でも目が覚めておまえの顔を見たら内容をすっぱりと忘れてしまった。マイクロトフ……おまえがいると落ち込みも気鬱も長続きしない」
その口調にどこか残念なような響きを感じて、マイクロトフは眉をひそめた。
「長続きしない方が、良いだろう」
するとカミューはにやりと笑った。
「そこはかとなく漂う哀愁があってこそ、レディにも熱い眼差しで見つめられると言うのに、これではまるで能天気馬鹿じゃないか」
「…おまえ…―――それは俺に抱き締められながら言う言葉か?」
軽口だとは分かっているが全身を襲う脱力感は否めない。マイクロトフはまたもや抱き付いているカミューの肩に、ずしりと体重をかけた。すると当然ながら直ぐに腕の中から文句の声があがる。
「……マイクロトフ、重い!」
だがカミューも簡単に押し潰されるほどやわではなく、そんな抗議の声もどこか楽しげで、マイクロトフの身体を支えながらも小さく笑い声を漏らした。まるで、こうして他愛なくじゃれ合うのが楽しいような、そんな響きを持っていた笑い声だった。
そして暫らくそんなふうに、月を眺めたり夜風を感じたりして過ごしていた。
頂点にあった満月が、西の方角にだいぶ傾いてしまった頃、相変わらずマイクロトフに抱きすくめられたままのカミューが、静かにそっと切り出した。
「―――そろそろ帰ろうかマイクロトフ」
「ああ。そうだな」
こっそりと夜営を抜け出してきたのだ。ちょっとした散歩のつもりだったが流石に時間を潰し過ぎた。
マイクロトフは名残惜しげに抱き締めていたカミューの身体を解放した。そして踵を返して木立ちの方へと向きを変える。その背を追うように見ていたカミューだったが、その耳に、ふと低い声が届いた。
「また、嫌な夢を見たら俺の顔を見るといい」
忘れてしまうんだろう? と振り返った男をカミューはハッとして見上げた。その目に男の穏やかな微笑みが映った。
「マイクロトフ……」
カミューはぽつりと小さな声で「参ったな……」と呟いた。
「そんなに……わたしは落ち込んでいたのかな」
掌で額を覆うと青年は首を傾げてみせた。だが直ぐにその口許を綻ばせて深く頷いた。
「あぁ、その時はよろしく―――でも、もう二度とあんな夢は見ない」
「カミュー…?」
最後の呟きは夜陰に紛れて、マイクロトフの耳には届かなかった。カミューは「何でも無いよ」と微笑むと、男の手を取ってゆっくりと草を踏む。
「さぁ帰ろう」
月がまた翳らぬうちに―――。
朧夜は春の夜に多い。既に季節は初夏―――再び二人で朧月にまみえることを祈って、カミューは軽く目を伏せた。
END
実はもうひとつのものと同時に書き始めて
同時アップを狙っていたのですが中途挫折したもの
でも掲示板で色々お言葉を頂いたのでやる気が出た模様
赤バージョンとはまた違うのですが、こんなのもまた良いのでは無いかな、と
ちなみに文中の「明月」は「名月」の誤字ではなくきちんと「明月」です
2000/05/17