誓 い の 夜



 忘れてくれ。

 だが、必ず誓おう。

 これだけが今の俺の全てだ。


+ + +


 西空に浮かぶ雲が真っ赤に染まっている。
 馬上から、連なる山々から湧き出たようなそんな赤い雲の帯をみつめて、カミューはやれやれと吐息をついた。
 デュナン湖の城までまだ遠い。流石にサウスウィンドウを出るのが遅過ぎたようだ。決戦を控え、同盟軍領地は概ね安全とは言え緊張感は残る現在。日が暮れると当然他に街道を行く人影など見えない。緊迫を増す時期、それこそこんな時間に街道を一人行く方がおかしい。
「しまったな…」
 誰ともなしに呟いてカミューは山の端に沈み込もうとする夕日を見詰めた。
 雄大な広い視野一面を赤く染め上げる落陽は、じりじりと形を横に歪めながら山の向こうへと姿を隠して行く。そうして馬の歩を進めながら見詰めているうちに、すっかり沈み切ってしまった。
 静かな地を這う木枯らしが足元を吹き抜けて行く。はや冷えこみ始めたその気配に腕を擦るとカミューは細く息を吸い込んだ。
 日暮れまでに帰ると約束していた。
 なんだか送り出してくれる時に必死な様子で「絶対だからな」と言っていた男の顔を思い出す。口許に微笑を浮かべると、カミューは薄暗く青がかりはじめた空を見上げて、その色合いに良く似た男の瞳を思い出し、声なき謝罪を送った。
 日暮れは過ぎてしまった。待っているだろう男にこの謝罪は届くだろうか。
 カミューは手綱を握り締めると上体を傾けて愛馬の首を軽く叩くように撫でた。
「少し、急ごうか」
 ほんの少し馬の歩みを早めて、カミューは再び空を仰いだ。
 周辺に人工的な明かりのない侘しい街道では、日没後の暮れ方は急速だった。もう、星が幾つか瞬き始めている。喉を反らしたままそんな墨を流したような空を見上げていたカミューだったが、ふと何事かが記憶の戸を叩いた。
 そう言えば、と唇を微かに動かす。
 こんな暮れなずむ空を見上げた事が以前にあった気がする。
 やはりこんな肌寒い風が吹く季節に、マイクロトフと共に夕闇の中淡い光を放ちはじめる星々を仰いだ。何故だかいつからかこんな空を見上げると切ない気持ちになる。胸に穴が穿たれるような気分になるのだ。
 あれは、いったいいつの頃だったろうか。
 カミューは俯くと、記憶の糸を手繰り寄せた。しかし思い出されるのはマイクロトフの言葉や表情や仕草ばかりで、一向にその背景が思い出せない。物覚えは良い筈だったがこれはどうにもおかしいな、とカミューは軽く首を傾げた。
 それでも鮮明に蘇る男の声音は―――。

『必ず誓おう』

 つい目を瞑って記憶にある宣誓の低い声を思い出してしまう。
「誓おう…か」
 揺れる馬上、あるかなしか呟いてカミューは瞬く。
 図体ばかり大きくて不器用な、だが誰にも負けない強さと真実を持つ男。その宣誓には何も疑う必要の無い信用がある。
 あの時、カミュー自身はどう応えたのだったろう。
 何処か必死なマイクロトフの様子に、笑って応えただろうか、それとも神妙に応えたろうか。そもそも、宣誓の内容はなんだっただろうか。
「………?」
 やはり所々記憶が切れている。
 まるで途切れ途切れのその曖昧な覚え方に、流石に違和感を覚えてカミューは眉を寄せた。
 確か今と同じように馬に乗って進みながら、こんな暮れ時の空を見上げていたのだ。隣にマイクロトフがいて、言葉を交わしながら―――。
 何か、大切な何かを忘れている気がする。
 なんだったろう。

 刹那、息が詰まって暫く喘いだ。
「あ、れ……?」
 胸が痛い。
 カミューは揺れる馬の背で俯いた。そのまま前に傾いでうまく呼吸できない身を震わせる。いつしか手綱を握る指先は白く冷えて、馬の腹に固定していた両足から力が抜ける。
 突然襲ってきた混乱と胸の痛みは、カミューの中に焦燥を生み冷静さを奪った。
 痛い。
 ずきずきと、喉の奥が焼けてこめかみに鈍痛が走る。
 思い出せない大切な何かが、この痛みを与えているのだろう。だが、それがいったいなんだったのか記憶の欠片すら呼び出せない。
「…い…たい……」
 浅い呼吸に交えて落とした呟きは、冷たい風にさらわれて。それを追うかのようにぐらりとカミューの上体が大きく揺れた。
 落馬するかと、思った時だった。

「カミュー!」
 幻聴ではない。
 低いのに良く通るその声がカミューの意識を明瞭に呼び覚ました。
 はっとして手綱を握り直し馬上で姿勢を正すと、顎を上げて周囲に視線を巡らせる。と、城のある方向から馬の駆けてくる音がして、薄暗い景色の中に突如その人馬の影が浮き上がった。
「マイクロトフ」
 呆然と呟いてカミューはその馬を繰る男を見詰めた。
 目の前で男を乗せた黒馬は、綺麗に歩みを止めるとくるりとその大きな身体を反転させ、うまくカミューの乗る馬に並ぶ。
「迎えに…きたのか?」
 まだ喉の奥にわだかまる痛みに、声が掠れた。だが、マイクロトフはまるで気にした様子も無く普段通りの生真面目な顔をして「あぁ」と頷いた。
「おまえがあんまり遅いからな」
 日暮れ前には絶対に戻れと言ったのに。そう言ってマイクロトフは少し怒ったような声を出した。
「すまない…」
 カミューは悄然と項垂れて謝ったが、マイクロトフは「かまわん」と即答して馬を進ませた。
「帰るぞ」
 早く、と急かす。
 カミューは慌ててそれを追った。

 すっかりと暮れた街道に、二頭の馬の歩む音だけが聞こえる。
 いつの間にかカミューの胸の痛みは消えている。だが相変わらず混乱は続き、言葉は何も出てこない。それでもマイクロトフとの間にある沈黙は苦痛ではなく、暗い街道を無言で進み続けていた。
 ところが不意に隣を見ると、マイクロトフがぼんやりと空を見上げていた。そして。
「カミュー」
 呼ばれた。
 はっとして視線を定めると、首を傾げたマイクロトフと目が合った。黒い目は、カミューを見詰めると柔らかい笑みを浮かべた。それは、瞬き始めた星の仄かな明るさのもとで淡く見て取れる。
 そしてじっとカミューと視線を絡ませたまま、マイクロトフの唇が動いた。

「誓いを、果たそう」

 え? と声に出たかどうか。
 ただ重なった記憶の声と、今耳に届いた生身の声にひたすら呆然とした。
「誓い……?」
 掠れた声が喉をついて漏れ出た。すると目の前でマイクロトフが頷く。優しい眼差しは変わらない。
「やはりカミュー、すっかり忘れてくれているんだな」
 穏やかな声音がじわりと胸に響く。だがカミューの胸中は混乱に渦巻いていた。
 忘れてくれている、とはどういう意味だ。
 そんな疑問を浮かべたとき、胸の痛みが蘇ってずきりと痛んだ。
「………」
 微かに喘ぐとカミューは目を閉じる。そうすると、自分の心拍音が煩いほど耳を叩く。と、そこへ覆い被さるようにマイクロトフの低い声が浸透してきた。
「おまえは約束を守ってくれた。だから、俺も今漸く誓いを果たせる。いや、再び誓える」
 言い直したところをやけに強調してマイクロトフは言う。そしてそれから、いかにも可笑しそうにくつくつと笑った。その様子に、再び胸の痛みが遠ざかる。
「マイクロトフ?」
 疑問だけが頭を占める。
 誓いとはいったい何で、自分はいったい何を忘れてしまっているのだろうか。妙な焦りに思考の全てが覆い尽くされようとしていた。しかしその寸前、マイクロトフの声が胸に落ちた。
「俺はおまえを愛している」
 カミューは一時、頭が真白になった。
「いきなり、何を……」
「む…いきなりだったか」
 そうか、とマイクロトフは苦笑する。しかし直ぐに唇を真一文字に引き締めると、真摯な眼差しでカミューを見詰めてきた。
「だが、真実だ。俺はおまえを愛しているぞ、カミュー」
「それは…どうもありがとう」
 呆気にとられてカミューは随分と間の抜けた返答をした事さえ気付いていない。余裕のある普段ならば「わたしもだよ」とか「マイクロトフのくせに」とか答えたに違いないだろうに、今はただ呆然とするばかりだ。
「カミュー。だから誓う」
「……」
 瞬いたカミューに、マイクロトフは最上の親しみを込めた眼差しを送ってきた。それはこれまで見たどんな表情よりも慕わしく、カミューが思考の片隅で、こんな薄暗いところではなくもっと明るい場所で見たかったのにと思えたほど、良い表情だった。
「マイクロトフ…?」
 だからいったい何を誓うんだと、眉を寄せた時マイクロトフの片手が持ちあがり天を指した。
「あの時もこうして暮れた空を見た」
 つられて空を見上げてカミューは「あの時…」と呟いた。
「おまえはそして俺のつたない言葉を聞いていてくれた」
 感謝している、とマイクロトフは囁き、そして馬の歩みを唐突に止めた。カミューは半馬身進んで慌てて手綱を引くと振り返る。するとマイクロトフは腰の鞘止めを弾くとダンスニーをゆっくりと引き抜いた。
「マ……」
「誓う」
 カミューの驚きを遮ってマイクロトフは明瞭な声で言い放った。ダンスニーを額の前に、恭しく掲げて、そして宣誓する。
「カミュー。俺は、おまえと共にあろう」
「………」
「常に、この身も魂も全ておまえと共に。名も地位も名誉も誇りもおまえに捧げる」
 そしてダンスニーを下ろすと、ひたとカミューを見詰めた。
「全て…捧げる。カミュー」
 突如。
 封印されていた記憶が奔流となってカミューの全身を突き抜けた。


+ + +


 負け戦。多くの騎士の命が消えた。
 マイクロトフとカミューは、上官が優秀だったのか運が良かったのか、それとも己の力量ゆえか、幸いながらも生き残った。だが、だからと言って喜ぶ気には到底なれない。失われたものはそれだけ二人の若い騎士を打ちのめしていた。
「俺もいつ果てるともしれんな」
 ぽつりとマイクロトフが呟いた。
 葬祭からの帰途。参列した他の騎士たちからわざと遅れて別の道を二人で選んだ、寂しい道程。ゆるゆると山際に落ちていった夕日を眺めていたのはさっきまでの事。今は真上に星が薄く瞬きを始めている。
「マイクロトフ」
 そっと名を呼ぶ。
「わたしは、おまえと生死について語り合う気はないよ」
 少しどきりとした。今、これほど死を間近に感じている状態で不吉な事を言わないでくれと思い牽制する。だがマイクロトフはふとカミューを真っ直ぐに見返すと、顔を顰めるようにして笑みを作った。
「あぁ、無論だからといってそう簡単に果てるつもりはない」
「当たり前だ」
 つい、少し怒ったような口調になる。
「だが何故だろうな。今、俺は自分がすごく不安定に思える」
 数日前までは共に訓練に勤しみ、剣を振るっていた者が、たった少しの運の良さと身動きの違いで生死の別に隔たれている。それを実感しているのだから、それは当然だろう。
「俺が俺たる重しが無いとでも言うのだろうか。まるで足元が浮ついているようでな……なんだか自分が薄っぺらに感じる」
「………」
「今、俺が死んでも何も残らない気がする」
「マイクロトフ。語り合う気は無いと言ったはずだ」
 マイクロトフの言葉のひとつひとつがカミューの胸に小さな棘となって突き刺さる。そして徐々に増す痛みにカミューは鋭く言い放った。
「これ以上馬鹿な事を言うなら、わたしは先に帰る。おまえは一人で頭を冷やせ」
「待てカミュー。俺が言いたい事は別にある」
「なんだ」
 苛立つような険のある眼差しでマイクロトフを睨むと「すまん」と小さく呟いて男は頭を掻いた。
「俺はもっと、そうだな……おまえに何かを誓えるほど確たるものを持てる者になりたいんだ」
「何か…?」
「ああ、自信を持って誓約できる強さを持つ者に」
 だが今の俺はこんなに弱くて、とマイクロトフは苦笑した。
「死を身近に感じただけでこんなに参っている。彼らを悼み、惜しむだけでなく、自分の死を思って怯えている」
「マイクロトフ……」
「あきれるだろう。騎士なのに、死を怖がっている」
 そんなのは、誰だって怖いだろうとカミューは思った。だがマイクロトフはそれを否と言うのだ。おまえは、と声なく唸ってカミューは唇を噛むが、その耳に続けざま低い声が届く。
「だから誓う。いつか、カミュー、おまえに」
 途切れがちのぎこちない言葉。
「それまで今日の俺の弱音は忘れてくれ」
「なに?」
「必ず誓おう。それしか言えないが、これだけが今の俺の全てだ。だから、忘れてくれないか」
「おまえ…」
 いきなり何を相変わらずわけの分からない事をと、カミューは呆れた声をあげた。それに低い苦笑が被さって、突然に馬のひづめの音が蘇った。気付けば他の何も耳に入らないほど緊張していたらしい。
 そう言えば今は葬祭の帰りで、馬で帰城する最中だった。途端に肌を撫でる寒さを感じてカミューは短く息を吸い込んだ。
「分かった。何もかも忘れてやるから、もう早く帰ろう」
「ああ、そうだな。すっかり暮れてしまった」
 マイクロトフの返事をどこか遠くに感じながら、カミューはいつの間にか胸に棲みつこうとする小さな痛みを追い払おうと、馬の手綱を握りなおした。
「帰ろう」
 早く、とカミューは奥歯を噛んで馬の腹を蹴った。


+ + +


 それきり、カミューは本当に忘れていたのだ。
 ただ胸に残った痛みだけが健在だったらしい。先ほどの狼狽はだからそれゆえだったのかと、唇を噛む。
「なんて勝手な奴なんだ」
 無意識に憮然と呟いた。するとマイクロトフは苦笑してダンスニーを下ろし、ほんの僅か馬身を寄せた。
「思い出したか? カミュー」
 少し不安そうな声に、カミューは軽く頷いて自らも馬身を進めてマイクロトフに近づいた。
「あぁ、はっきりと思い出した。今考えるとなんて身勝手な事をと思うな……弱音を吐くだけ吐いて忘れろだと」
「すまん。怒ったか?」
「別に―――怒れないさ」
 あんな誓いの声を聞いて、こんなにも胸がかき乱されては、怒るどころの話ではない。
 やや火照る頬を自覚しながら、この薄闇ではマイクロトフにさとられるわけも無いのにカミューはつい顔を反らしてしまう。そして思う。
 あれから多くの時を重ね、経験を積んだ。あの時以上の死を垣間見、同時に生もまた目撃した。騎士団を離れ歴史の奔流に身を投じた。
 決戦は近かった。
 そんな今、誓うのか。
 あの頃より更に逞しくなった身体で、威厳に満ちた声で、揺るぎ無い眼差しで。
「マイクロトフ」
 項垂れて、その愛しくてならない名を呼ぶ。
「本当に、全てをわたしに捧げるのか」
「あぁ誓う」
「…そうか」
 顔を上げた。淡い星明りが僅かに滲んで見える。
「分かった」
 吐息に声が震えた。
「カミュー…?」
「ありがとう」
 震える息で吐き出し、そしてマイクロトフの方を見た。薄らと藍色に翳る景色の中、闇に溶け込もうとする黒馬の上に真っ直ぐ跨る姿。何よりも印象的な瞳は宵闇よりも黒く、カミューをひたと見詰めている。
 慕わしいその眼差しを見ていると、星明りと同じように滲んできた。それをこらえながら強気に口を開いた。
「だがその誓い、必ず貫けよ」
「無論だ」
 そしてダンスニーがゆっくりと鞘に戻される。
「さぁ戻るぞ」
 手綱がゆっくりと引かれ、二人の馬が離れる―――その寸前カミューの手が伸びてマイクロトフの馬の手綱を引いた。
「う…わっ」
 馬が首を振って離れかけた距離をまた縮め、馬上のマイクロトフが大きく揺れた。
「カミュー、何を」
 危ないだろう、と驚いたような声が響くが構わずカミューは自分の手綱を手放すともう一方の腕も伸ばす。力任せに引っ張ったのはマイクロトフの肩と襟。
「マイクロトフ…」
 囁いて唇を寄せた。そして抱き寄せ、間近にその確固たる存在を感じながらカミューは、もう夕闇を見ても切なくなる事はないだろうと思った。戻る場所はあの日と違うが、共に有るこの姿は変わらない。この先また、戻る場所が変わってもこの男は傍にいるのだ。
 カミューは深く目を閉じて、きつくマイクロトフの背を抱いた。


END



マイクロトフを格好良くと念じながら書きましたが全然です〜
決戦を前に不安を感じる赤さんと、図らずもそれを払拭する青氏のつもりですが
筆力が足りてません〜〜とほほ
こんなでも受けとって下さいませ有村さん

これは「THE VAMPIRE BLUE」の有村さんにとある記念で贈らせて頂きました。

2000/12/24