不 意 打 ち
思わず、立ち止まる時。
昨日までとは違った風景がそこに展開していた時だ。
誰だって見慣れた景色ががらりと様変わりしていれば驚くと思う。マイクロトフはだから思わず立ち止まって呆然と口を開いていた。
ぼんやりとしていたのだろう。目前に琥珀が迫った時にもまだ気付かなくて、唇に柔らかな感触がして始めて驚いた。
「う、わ……!」
ガタン、と椅子を鳴らして後ろに仰け反る。真正面ではカミューが己の口元を手の甲で拭いながら、怪訝な瞳でじろりと睨み付けていた。
「マイクロトフ。何か気にかかる事があるのか?」
ずっとぼんやりしている。最後だけ、少しばかり気遣うような声音で問われてマイクロトフは慌てて瞬いた。
「あぁ、いや。大した事ではないのだが」
さっきのはカミューの唇だったよな……、と思考の端で考えながらもマイクロトフは向きの傾いた椅子に座りなおす。
「が……?」
カミューも先ほどまで座っていた椅子に座って腕を組む。
どうやらこうして部屋で二人だけでいるにもかかわらず、マイクロトフが気もそぞろでいたのを案じているらしい。怒っているらしい態度ではいるが、根底ではそんな常にない様子に心配してくれている、その裏返しだろう。
本当に大した事ではないから、僅かばかり申し訳なくて。しかしそれでもそんなカミューに愛しさを覚えてつい笑みを滲ませる。
途端に不審そうな眼差しに見詰められて、それが苦笑に切り替わった。それをごまかすように髪を掻き混ぜながら、マイクロトフはどう答えたものかと考えあぐねてハッと思いついた事に立ち上がる。
「そうだな、行った方が早いか」
「マイクロトフ?」
ひょいと首を傾げているカミューの、その腕を取って同じく立ち上がらせると、ふっとその琥珀を間近に見詰めた。
「行くぞ」
「何処へ」
「大したところではないが、うん」
「おい?」
同じような反応を見せるだろうか? と心なしか期待を抱きながらマイクロトフはカミューの手を引いて部屋を出る。同盟軍の城の中、すっかりと覚えてしまった城内の通路を一番の近道を選んで進んでいくと、直ぐに外へと出た。
春の日差しは柔らかく、吹く風はまだ少しだけ冷たさを含んでいる。だが新緑の青が景色の半ばを占めていて目には心地良い。マイクロトフはそして真っ直ぐに正門の方へと歩いていった。カミューはずっと黙って手を引かれるままついて来る。
「カミュー、最近正門の方へと足を運んだか」
「え、いやここ数日はないが」
大きな合戦や、盟主である少年に従って出る以外に正門へ足を向ける機会は無い。大体が部屋と会議室と執務室と道場を順番にぐるぐると回る程度が日常なのだ。多忙にかまけて、それこそ少年に誘ってもらわなければこの湖畔の城の敷地から出ることなど滅多に無い。
最近は戦力の均一化を図っているとかで、元から戦闘能力の高いマイクロトフやカミューはお呼びがかからず、滅多に同行しない面々を選って方々に出掛けているらしい盟主である。
二人とも、この数日城に長居しているのを幸いにと軍師にこき使われていたのだ。マイクロトフもだから珍しく書類束片手に城内を行き交う姿が板についてしまった。
「この城は愉快だな」
「え?」
手を引いて、やや歩調をゆっくりとしたものに変えるとカミューが隣に並んできょとんとする。マイクロトフはそんなカミューの、風にゆらゆらと揺れる前髪が西に傾いた陽射しにキラキラと輝くのに目を細めてまた笑みを浮かべた。
「何処かしら改築や増築をしているだろう」
「うん」
「城の中でも遠征に出掛ける前は無かった通路が戻ってきたら突然に出来ていたりするが、城の外でもそれがある」
「あぁ、そうだな。道場へ続く道など唐突だったね」
思い出してかくすりと笑う。
前に二人して盟主の少年について遠方まで出掛けた際に、戻ってきてみれば図書室の横から延びる道が枝分かれしていて、少年と一緒に首を傾げながら進むと大きな道場が出来ていて驚いた事がある。
「まさか、また似たような事が?」
ふと瞬いてカミューが問うのに、マイクロトフはどうだろうとうなった。そうと言えばそうだし、そうでないといえばそうでない。
「俺は驚いた」
言うとカミューは「ふうん」と頷いて笑みを浮かべた。
それは楽しみだ。
呟く声がウキウキと弾んだものに聞こえたのは気の所為では無いだろう。マイクロトフがぎゅ、と掴んでいた手に力を込めると心なしか握り返す力が強くなった。
「もうそろそろだ、が……あぁ、そうだ」
不意に立ち止まってマイクロトフはカミューの顔を覗き込む。我ながら、思いつきにしては中々良い趣向のはずだ。
「差し障り無ければ、目を閉じていかないか」
「わたしが、かい?」
「うむ、おそらくその方がおまえは気に入るだろう」
「ならマイクロトフ。よろしく頼むよ」
突然の提案に、しかしカミューは手を繋いだまま素直に目を伏せた。それにマイクロトフは一言「任せておけ」と返して慎重に歩を進め始める。
そして辿り着いたその場所で、マイクロトフは数刻前と同じように視界一面を埋め尽くすその色彩に意識を奪われた。
「マイクロトフ?」
立ち止まった気配にカミューが不審に思ったのだろう、薄目を開きかけるのを、マイクロトフは慌ててもう一方の手で塞いだ。
「カミュー、もう少しそのままでいてくれ」
「ん?」
まだ、早い。
先程の借りを返してからだ。
上体を僅かだけ傾けて、陽光に淡く色づく唇に口付けを落とし、離れざま目元を覆っていた掌を退けた。
「もう、良いぞカミュー。目を開けてみろ」
囁くとカミューが眉根を寄せてマイクロトフの気配を追う。そして。
「マイクロトフ、おまえ今……―――」
瞳と共に開いた唇が、それきり半端に止まる。ふっと微かな吐息が漏れたかどうか。しかし今や大きく開かれた琥珀の瞳は、一面に広がる白い幻想に目を奪われて呆然としていた。
それを満足に見守りながら、マイクロトフも再びその風景へと視線を転じた。
桜。
真っ白な。薄赤いそれらは遠く離れてしまえば、白い。
確かに数日前までそこはただの緑生す木立だったはずなのだ。それが今は満開の桜によってまったく違った世界が広がっていた。
なるほど、ここは桜の木立だったのかと、いまさら気付いて驚いたのは数刻前の事。ここ数日の陽気で蕾が慌てて花開いたに違いない。風が吹くたびにひらひらと花びらが舞って、木々の根元までも真白く染め上げている。
そして再びカミューの方へと目をやれば、薄らと口元に笑みを浮かべてそんな景色に見入っていた。
「驚いたろう」
「うん、すごい」
簡潔な感想が返ってきて、笑う。
「昼前にこれを目にしてな。驚いて暫く立ち尽くした」
「そうか、それで」
「あぁ、目に焼きついてなかなか離れん」
それでぼんやりしていたと。
「なるほど、一見にしかずだね。連れて来てくれて良かったよ」
おまえの説明だけではきっと良く分からなかったろうから。
そんな事を言うカミューに、確かに自分は事象の説明は不得手だと頷いてこめかみを指先で掻いた。
と、カミューがくすりと笑ってそんなマイクロトフの腕に触れた。
「しっかり帳尻も合わしてくれたようだしな?」
微笑んで、カミューは人差し指で己の唇にも触れた。
「まったく油断のならない」
「おまえこそ」
囁いて返した声と、合わせるようにカミューが腕を掴む手を引いてマイクロトフを引き寄せる。
風が吹いて花びらが一際多く舞う最中、今度は互いの了解の下、口付けが交わされた。
END
普段滅多に通らない場所が満開の桜並木だったことを知ると同時に圧巻されてしまいました。
見慣れた風景が全面薄桃色に塗り変わっていて吃驚です。
そんな季節にしか書けないお話。
2003/04/03