咽返るような花蕾の香りに、カミューは酒に酔ったようにふらりと迷い出た。素足で青く茂る芝の上を行き、見上げた高い虚空に過ぎ去りし冬の日々に思いを馳せる。
 寒い冬だった。重い雪が幾重にも降り積もり、世界を冷たく閉ざす。だがそれらの寂しく凍えた想い出は雪解けと共に春日の中へと流れて消えた。
 春の芽吹きはどれも淡く、目に優しい。わざわざ顔を寄せて細部まで覗き込まなくとも、微風にハラハラと散る数え切れぬ花弁も手伝って、遠方から目を細くするだけで一枚の点描画のように美しい景色が望める。川辺にしなだれる木々の新緑も風景に色取りを与えていた。
 わざわざ、出て行かなくとも、部屋の窓から望み下ろせば良かったかもしれない。だが、さ迷い出てきてしまったものは舞い戻りようがなく、無粋と知っても春の新床に散った花弁を褥に見たてて身を横たえた。目を瞑れば花咲きの情景が尚鮮やかに瞼の裏に浮き上がった。
 薄らと瞳を開けば目前、ひらひらと舞う蝶が野花と戯れている。その様子があまりに夢のように想えて、目の縁に盛り上がる涙を覚えた。あまりに優しくてふわりと舞う春の化身。かと思えば耳には澄んだ鳥のさえずりが届いた。風に乗り、白い春花にうずもれて、静かに漂う高い調べ。
 頬に触れる冷たい花弁の感触と、そこを伝う温い涙の味わいに、そっと地面に這う指先に力が篭もる。
「一緒に……」
 鳥のさえずりを何処か遠くに囁きを落す。
「一緒にいたい…」
 馳せる想いの先は、いつの間にか遠い遠いかの地へといる男へと移ろっている。唇はそしてただひとつの名を紡いだ。
「マイクロトフ…」
 目を閉じると縁にとどまっていた残りの涙が零れ落ち、花弁を濡らした。
「早く、帰って来い」
 そのままぴたりと瞼を閉じ合わせ、未だ記憶の中では雪景色の中に佇む男の姿を思い描く。
「こっちはもう…こんなに季節が変わってしまった」
 この地よりも南の遥かに暖かい土地に赴いている男へ、聞こえるわけも無いのに語りかける。まるで傍にいるかのように、ごく自然に言葉を紡ぐ。
「こんな薄着でも平気なくらいに、暖かくなった」
 素足が土の湿りを感じて何処かくすぐったい。
「早くおまえに、だらしないと叱って欲しいくらいだ」
 己の言葉に微笑んで、そのまま穏やかに眠りの淵へと引き込まれて行く。陽気はそれほどに心地良く幸福だった。

 そんな花弁の中に横たわるカミューを、遠くから見詰める眼差しがある。黒曜石のように深く煌く瞳は、白い風に舞う花に吹かれながらかの地よりも一足遅く満開を迎えた木々を懐かしく見詰める。かの地はもう初夏の彩りに溢れていた。
「全くだらしのない」
 呟きながらも、滲む優しさは久方ぶりのものでありながら、まるで変わりが無い。
 男はそっと足音を忍ばせながら花の香りに咽返るその淡い褥に歩み寄ると、緩やかに手を伸ばして髪に落ちた何枚かの花弁を取り除いた。
 そして掠れるような囁きを落した。
「ただいま」
 春はただ静かに二人を包んでいた。


END



春。春です。春爛漫。
まだ梅が咲き始めた頃ですが、そろそろ桃が桜が春の花が〜〜!!
満開の梅がぞろっと並んでいるのが大好きです
梅干の産地とか行くと幸せでたまりません

2001/03/12