ひととき
この『ひととき』を君にどう伝えればいい。
この、限りなく幸福で暖かい時間と空間を。
+ + +
さらりとした手触りの髪に指先がそっと触れた。すると俯いていた青年はぴくりとして顎を上げ、燭光を透かして榛色にけぶる瞳を瞬かせながらマイクロトフを見上げてきた。
「マイクロトフ」
「…ん?」
「くすぐったいんだが」
「あ、すまん」
マイクロトフは慌ててカミューの髪から指を解いた。
ソファーの端に背を凭れさせて寛ぐマイクロトフの傍らで、カミューは絨毯の上に座り込んでソファーの縁に凭れかかっている。お互い、それぞれ読書に熱中しているのだが、どうも良い位置にカミューの頭があって、気付けばさっきから何度もその髪に指を絡めてしまうマイクロトフだった。
カミューも暫くは触られるがままじっとしているのだが、やや長く伸びかけた髪の端がちらちらと肌を刺すのがこそばゆいらしい。その度に注意を促してくるがさりとてその位置関係を崩す気は無いらしく、今のでもう片手の指に余るほど、同じやり取りが繰り返されている。
マイクロトフは髪から解いた指先を握り込んで軽く振った。そしてもう二度とその手が遊ばないようにと確り書物の端を握る。
だが、薄くて軽い本は利き手だけで持つのに何の不自由も無く、つい片手は本から解き放たれて身体の脇を滑り落ちる。それでもマイクロトフは意識を僅か傾けて、カミューの髪に触れないように気を付けた。
そうして、どれくらい経っただろう。
読んでいた書物の中ごろの章をもう少しで読み終える頃、不意にその行間が翳った。カミューの身体が燭光を遮ったのだと気付いた時にはもう手から書物は取り上げられてしまっていた。
「カミュー?」
驚いて、読みかけの本を目の前で閉じる青年を見上げた。いつの間にか立ち上がっていたカミューは、どうにも心情の読み難い複雑な表情を浮かべてマイクロトフを見下ろしていた。
その唇が薄く開く。
「気になる」
「なに?」
「おまえがいつ触るかと思うと気になって本の方に気が入らない」
そう気怠げに言うとカミューはマイクロトフの本を脇へと押しやった。
「なのに当のおまえは無心に本を読んでいる」
「カミュー、それは」
機嫌を損ねたかと、慌ててマイクロトフは何事かを言い募ろうとした。だがすかさず伸びたカミューの手がマイクロトフの唇に触れてその先を制した。そしてもう片方の手が、ソファーについていたマイクロトフの手の甲に重ねられ、握り込んで掬い上げた。
その手が、そうして導いたのはカミューの髪。
「カミュー?」
応えは無く、カミューはもう一方の手も取ると、マイクロトフの両手を自らの髪へと触れさせた。自然、マイクロトフの指先は金茶の煌きを絡みとって自発的にそれに触れ始める。するとカミューはゆっくりと目を閉じた。
「……うん」
満足そうに頷くのに、マイクロトフはひたすら疑問符を浮かべて首を傾げた。
これは、髪を触れと言う事なのだろうか。
多分そうなのだろう。
何故ならば、カミューはゆっくりと膝をつくとソファーに座るマイクロトフの膝に上体を被せてきたのだ。今からうたた寝でもはじめるかのように、深く目を閉じて両腕と一緒に頭を凭せ掛けてくる。
「………」
マイクロトフは黙って両手でカミューの髪を撫で、弄び始めた。
相変わらず滑らかな質感の髪だと思う。ひと房摘んで浮かせると、燭台に揺らめく炎の明かりを受けて薄く明るい金色になる。日の光の下で見るとやや茶色がかる、とても微妙な色合いの髪。
いつ、何処で見ても飽きないその髪を撫でるのを、マイクロトフは決して嫌ってはいなかった。
だから、こうして存分に撫で梳き指に絡めていられるのは実に気分が良い。これはもう好きなだけ触れと言う事なのだろうから、マイクロトフはそう意識を切り替えると、小動物を撫でるが如きの優しさでカミューの髪に触れつづけた。
すると、カミューの何処かぼんやりとした声が聞こえてきた。
「マイクロトフ…」
「なんだ?」
「このまま寝てしまいそうだ」
「構わんぞ」
「そうか? なら…少し寝る」
それきり、微かな呼吸音が漏れ聞こえ始めて、マイクロトフはいっそう慎重にカミューの髪に触れるのだった。
青年の寝息と、髪を撫でる小さな音に、蝋に染みた油がジジジと鳴くだけのしんとした気配。
そんなほんの『ひととき』。
言葉にして伝える必要などまるで無いのだと。
そう気付いたのはいつだったか。
ただ、大切に思う。
その『ひととき』を。
END
心あったかくして過ごしましょー
これはrita様の青赤サイト「Nowhere Theatre」開設の
お祝いに書いて進呈させていただきました
2000/12/12