仄 か な 香 り


 仄かな香りは心地良いものだ。
 それに火が灯った時は感じなかったが、時が経過するにつれその香りは室内に満ちてきていたらしい。不規則だった呼吸が漸く整い、全身を覆っていた汗が引いてきた頃、それは不意にカミューの意識を掠めたのだ。
「これは、どうしたんだ?」
 何を、とは言わなくても通じる。くんと鼻を鳴らしてから聞いたのだからマイクロトフにはそれで分かる。
「あぁ、ライラ殿に頂いた」
 あえて何が、とは聞き返さずに簡潔に答えてくるのに、カミューは軽く首を傾げる。するとマイクロトフは補足するように続けた。
「道場の近くで迷って居られたんだ。ご自分の店に戻りたいと仰っておられたからお送りした」
 城内で迷うか。
 内心で呟いてカミューは笑った。
「そのお礼かい?」
「ああ、珍しいからと言ってな。火をつけたら香るからと」
 その視線の先には先ほどつけた蝋燭があり、先端に淡い炎がゆらゆらと揺らめいている。室内は薄暗く、その炎の醸す僅かな明かりだけが頼りだった。そこから、この仄かな香りが漂っているのだ。
 香油を混ぜた蝋燭で、火を灯し蝋が溶ける事によって、香油が気化して空気中に香りが散るのだ。
「なるほど」
 その香りの所為か、情交の後の気だるさがいつにも増して心地良く感じる。
「道理でな」
 呟いてカミューは目を瞑った。それを追うように、閉じた瞼にマイクロトフの手が触れ撫でる。
「カミュー?」
 覗き込んでくるような気配にカミューは薄らと微笑んだ。だが瞼を上げる事も、言葉を返す事もなんだか億劫で、このまま寝てしまいたいとぼんやりと思う。
 そして、寝てしまっても多分許される、とも思った。
 案の定マイクロトフはそれ以上声をかけることもせずに、慰撫するようにカミューの前髪を掻き揚げて、優しく頭を撫で梳き始めた。
 そして背まで降りて暖かく撫ですさる掌に、カミューは一層深く眠りに引きこまれて行った。

 ところが深夜。すっかりと静寂に支配された時刻にカミューは目を覚ました。傍に居たはずのマイクロトフの姿は無く、身を起こし暗い室内を見回し耳を澄ましても誰の気配も感じられなかった。
「マイクロトフ…?」
 自分の部屋に戻ったのだろうか。
 カミューはそして肌に感じた寒さに震えつつ、毛布を引き寄せると窓辺に寄って硝子越しに夜空を見上げた。春先の星座は既に西に傾き、頂点から東にかけて真夏に見られる星々が煌いている。もう、夜明けも近い。
 あと暫くすれば朝の早い者たちが起きだす頃だろう。マイクロトフの朝も早いが、彼が起床するにはまだまだ余裕がある。それなのに、男の姿は無く部屋はすっかり冷え切ってしまっていた。一抹の寂しさを覚え、それからそんな自分に苦笑を浮かべて、カミューは窓辺を離れてベッドへと戻った。
 だが僅かの時間に冷えてしまったシーツは、まるで拒絶を示しているようで、結局カミューは横たわりもせず腰掛けただけで室内をぼんやりと見詰めて居た。
 眠気はあるのに、寝る気にならない。
 微かな苛立ちが背を這い上る。カミューは毛布を蹴って再び立ち上がると、机の上の燭台に寄り火を灯した。
 ―――― 刹那、微香が鼻をくすぐった。
「……あ」
 溜め息が漏れて、肩から力が抜けた。
 眠る前、マイクロトフの掌を感じながら全身を包んでいた香りである。それはまるで傍に男がいるような錯覚をもたらした。目を閉じれば尚更、強く感じる。
 カミューはそのまま炎から立ち上る仄かな香りに身を任せていた。
 と、扉の向こうの廊下が軋む音を聞いた。ふと首を巡らせると、カチャリとノックの音もなく扉が静かに開かれた。そしてそっと顔を覗かせたのはさっきまで香りの中に記憶として佇んでいた男の姿。
「マイクロトフ」
「カミュー…起きていたのか?」
 マイクロトフは手にマグカップを持っていた。湯気の立つその中身は――――。
「あ、お茶なんだが…飲むか?」
 そうして差し出されたそれを、カミューは両手で受け取った。陶器のカップは冷えた掌をじんわりと温める。そして口元に寄せると馴染んだ香りが漂った。
「あれ…?」
「あぁ、それも蝋燭と一緒に頂いたんだ。同じ香りのものだと聞いた」
「良い香りだ」
 目を伏せ、香りを十分に楽しんでからカミューはカップの縁に唇を付け、熱いお茶を少しだけ含んだ。舌の上に広がるそれは爽やかで甘く、ほんの少しだけくせのある味わいだった。だが、嫌いな味ではない。
「美味しい…」
「聞けば、なんだ……女性たちの間で流行っているらしいぞ。癒しの効果があるとか」
「そうなのか。なるほど落ち着く香りと味だ」
 そしてカップの中ほどまで飲んでから、マイクロトフに返した。だが、胸の前でマイクロトフはそれをやんわりと押し返した。
「全部、飲め」
「……?」
「元々、俺が飲むつもりで淹れて来たものではないんだ」
「なら何の為に」
「いや、蝋燭は灯りが眠りを妨げるだろうからな。お茶の香りならば平気だろうと。少しでもお前の疲れが取れると良いと思ってな」
 そしてマイクロトフは、そのまま苦笑すると「俺が言う事ではないかもしれんが」と付け足した。確かに、寝る前に散々カミューを泣かせて疲れさせた男の言う台詞では無いかもしれない。それでも、そんな不器用な気遣いがいかにもこの男らしくてならない。
「ありがとう」
 改めてマグカップを受け取ると、カミューは微笑んだ。そしてゆっくりと残りのお茶を全部味わう。マイクロトフは黙ってそれを見詰めていた。
 しんとした気配が漂う中、カミューの喉が上下する音だけが聞こえる。だが、最後の一口だけをカミューは残した。
「マイクロトフ」
「ん?」
「残り、飲まないか?」
 そして、カミューは最後の一口を口に含んで目で笑う。するとマイクロトフは何が言いたいかを悟ったらしい。目元に笑みを滲ませると深く頷いた。
「いただこう」
 ゆっくりと伸びたカミューの腕がマイクロトフの首に絡んだ。

 朝まだき同盟軍の一室。仄かな香りに彩られた空間は、夜明けを遠くに感じていた。


END



随分以前に途中まで書いて放置していた品です
色気が有るんだか無いんだか、ともかくもらぶらぶ青赤です
しかし下書段階の題名が『微香空間』だったのはどうか(笑)

2001/02/15