いたずら


 最近は、特に忙しかったのだ。

 その夜久しぶりで早くに同盟軍での一日の勤めを終えたカミューは、部屋で静かに本を読み耽っていた。
 マイクロトフが戻ってきたのはそれから随分経った頃、夜も更けて遅くだった。
 お疲れさま、と言葉を交わしてカミューは再び本へと意識を吸い寄せられた。マイクロトフも疲れていたのか、小さく応じたきりでそのまま寝台へどさりと横たわる。
 本から目を離さずにカミューはくすりと笑った。
「マイクロトフ、着替えてから寝ろよ」
 すると一声唸って立ち上がり、マイクロトフはのろのろと服を着替えた。それからまた寝台へと倒れ込む。よほど疲れているらしい。
 気にかかりながらも、しかし波に乗り始めた読書の勢いにいつしかカミューは時間を忘れた。一段落した時には、余裕のあったはずの蝋燭が残り少なく縮んでしまっていた。
 漸く本から顔を上げ、カミューは背伸びをしながらぐるりと室内を見回す。すると熟睡している男の寝顔が目に入った。
 カミューはパタンと本を閉じると、そっと足音を殺して寝台のマイクロトフの方へと歩み寄った。耳を澄ませば本当に小さな寝息が静まり返った室内の中、聞こえる。
 蝋燭の炎を揺らしながら、カミューは寝台の端に腰掛けると、マイクロトフの上に覆いかぶさるように片腕をついて寝顔を覗きこむと暫くじっと見つめた。
 閉ざされた瞼が時折ひくひくと動く。夢でも見ているのか、心なしか寄せられた眉が苦しそうだ。
「………」
 カミューはぴんと立てた人差し指の先を、つとその眉間に押し当てていた。
「………」
 揉み解すように寄せられた眉間をぐりぐりと撫でると、なんとなく寝顔が緩んだような気がする。その変化に僅かだけ口元に笑みを浮かべてカミューはマイクロトフのこめかみへと指を滑らせた。
 そっと押し当てた掌の下から高めの体温が伝わってくる。
 生真面目な厳しい顔は、眠るときだけ少しばかり年相応の雰囲気を漂わせる。それをまじまじと見て知っているのはきっとカミューくらいのものだ。
 早寝が習慣のマイクロトフの寝顔を、宵っ張りのカミューが見るのは当然のことだった。その代わり早起きの男が、寝坊癖のある自分の無防備な寝姿を見るのも当然でもある。ともあれ、互いの気配にだけは無頓着に慣れてしまった二人にとって、そんな事はもう日常の瑣末なことだった。
 だいいち、お互いに許しているのはそんな寝顔だけではないのだから、今更な話である。
 ふと、情交の最中に浮かべるマイクロトフの表情を思い出してカミューは独りで照れた。
「………」
 パタパタと掌で顔を煽ぎつつ、カミューはこめかみに触れていた掌を更に滑らせ、マイクロトフの頬を包む。少しざらつく感触は、朝に剃ったきりの髭だろう。夜更けてもまだつるりとしている自分とは大違いだ。
 だからこれで頬擦りされると、ちょっと痛い。
 嫌いではないけれど。
 なんとなく。
「……好きかな」
 何気無く小さく呟いた事にハッと気付いてカミューは思わず目を瞠る。
 しかしマイクロトフに目覚めた様子がないことにほっとする。疲れて寝てしまっているのだから、そっとしておいた方が良いのだ。しかし、頬に触れたままの掌を離してやろうとは、思えない。
 どちらかと言えば悪戯な気持ちがむくむくと湧いてきてしまって、それを抑える方が大変だった。
 だがやはり、結局カミューは渋々と掌を頬から離した。
「仕方がなかろうよ」
 我ながら、ひとつ年下のこの男にすっかり参ってしまっているのだから。カミューは眉尻を僅かに下げた表情で、灯りに揺れる男の寝顔を見下ろす。我侭もついぐっと堪えてしまうほど、大切にしてしまう相手なのだ。
 こうなれば、自分も大人しく眠るかとカミューは腰掛けていた寝台から音もなく立ち上がると、机の上の蝋燭の火を吹き消した。途端にふっと室内が闇色に染まる。
 しかし元からさして明る過ぎなかった部屋の中、直ぐに闇に目が慣れるとカミューは再び物音を立てないようにそうっと寝台へと乗りあがった。
 マイクロトフが外側に眠っているので、自分は彼を乗り越えて壁側に身を横たえなくてはならないが、良く有る事なのでカミューは慎重に彼の足元を跨ぐ。
 しかし、僅かに腰を浮かせた馬のりのような状態になったところで、抑え込んでいたはずの悪戯心がまたもやむくむくと蘇ってくるではないか。
 薄闇の中で静かに寝入るマイクロトフの顔をそうして凝視するにつけ、それは抑えるのが難しい衝動として指先をむずむずとさせる。
「……少しだけ」
 誰に言い訳するでもなく呟いてカミューはにっと口の端を持ち上げた。
 そして、ぎし、と粗末な寝台を軋ませながらマイクロトフの腕の横に片手を突いて、上から覗きこむような姿勢を取った。
 よりいっそう近く迫った寝顔にカミューは息を殺して含み笑う。それからもう一方の手を頭の横に突くと、上体を伏せるように、本当に吐息が触れるほど近くに顔を寄せた。
「そういえば……朝以来じゃないか?」
 囁いてそっとかさついた唇にくちづけを落とす。ちょん、と触れただけですぐ離れたが、それだけで鼓動が大きく跳ね上がったようなカミューだ。なんだかたまらず笑みが込み上げてじたばたしたい気分になる。
 年頃の恋にもの慣れない乙女でもあるまいに、と自嘲してみても変わらない。このくすぐったいような気持ちは、時が経つほどにカミューの中で大きく育っていくのだから。
 変わらないものはないと確かに思う。
 何しろ、最初にマイクロトフと口付けをかわした、あの時以上にカミューは彼のことが好きになっている。
「………」
 見下ろしてカミューは微笑をこぼすと、もう一度今度はしっとりと染み込むように口付けた。
 それから気が済んだとばかりに、よっと身体を動かして壁際に横たわる。一息つくと、もぞもぞと毛布を手繰り寄せて満足げに目を閉じた。










 そして、二つの寝息が静かに室内を満たす頃。
 不意にマイクロトフの指先がぴくりと動いたかと思うと、次にはその手が持ち上がり、閉じられていた両目を押さえた。
 深い吐息が零れる。
「………」
 指の隙間から黒い瞳が天井を見た。
 最初は夢うつつ。
 カミューが自分の頬に触れている感触に意識を揺さぶられたが、はっきりと目覚めるには至らなかった。
 しかし、不意に瞼の向こうの灯りが消えたかと思うと、慕わしい気配が同じ寝台に乗り上がる動きにまたぼんやりと意識が浮かび上がったのだ。
 けれど、どうやらカミューも眠るようだと思ったから、そのまま再び眠りに落ちようとした。
 したのだが。
「…勘弁してくれ」
 闇の中、独りひっそりと呟いてマイクロトフは傍らで背を向け、健やかに寝息をたてる青年を見た。
 人を起こしておいて自分はあっさり眠ってしまったのだ。
 しかしここでお返しとばかりに起こしてしまうのも忍びない。何しろ寝入りばなを起こされたカミューほど機嫌の悪いものはないし。
「……くそ」
 囁くように吐き捨ててマイクロトフは両目を塞いでいた手を離すと、それをそのままカミューの腰へと絡めた。そしてほんの少しばかり力を込めてその身体を抱き寄せると、彼のうなじに鼻先を埋めて目を閉じた。
「おやすみカミュー」
 吐息まじりに告げたその時、ぴくりとカミューの身体が震えたのは気の所為だろうかと、考えながら再びマイクロトフは眠りに落ちていった。



END



おー久々に青赤SS書きました

2004/03/15